禪院直哉成り変わりー禪院家が壊滅しないよう色々頑張ってみるー 作:AKHT‐47
呪力、術式、血筋。そんな時代錯誤の物差しでしか人間を測れない腐った箱庭――それが、日本三代家系の一つ、禪院家だ。そして俺は今、その腐敗の象徴とも言える嫡男「禪院直哉」という肉体に収まっている。
「……はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
肺が焼ける。心臓が、肋骨を内側から叩き割らんばかりに跳ねる。弱冠十二歳。成長期に差し掛かったばかりの未完成な子供の体には、極限まで生得術式を運用する修行はあまりに過酷だった。
俺の術式『投射呪法』は、呪術界においても屈指の使用難易度を誇る。視界を画角として固定し、一秒間を二十四分割して自らの動きをトレースする。一見、超スピードを得るだけの単純な能力に見えるが、その実態は「一秒先の自分」をミリ単位、コンマ秒単位で完璧にデザインし続ける精密作業の連続だ。
集中が途切れれば、二十四分の一秒のラグが「フリーズ」という致命的なペナルティとなって肉体を襲う。激しい速度の急停止に、関節が悲鳴を上げ、内臓が揺れる。だが、休む暇なんてない。
俺はこの家の、そして呪術界の最悪な未来を知っている。原作通りに進めば、俺は禪院真希に殺され、この家は文字通り地図から消える。そんな「壊滅エンド」なんて、死んでも御免だ。だから俺は自分を鍛えると同時に、この腐ったミカンのような家を変えようと考えている。
(まだや。まだ、一秒を正確に刻めてへん……!)
己の視界を、アニメーションでいう画角へと強制的に固定する。世界が静止画の連続へと変貌する。現代の知識を持つ俺にとって、この理屈を「フレームレート」という概念で理解できたのは幸運だった。だが、理解と体得は別物だ。予め作った二十四の動き。それをトレースする際、過度に物理法則を無視した動き――例えば、重力を無視した急旋回や、空中での不自然な加速――を差し込めば、世界は無情にも俺を「ルール違反」として一秒間の檻に閉じ込める。
「直毘人んとこの坊。……遊びは終わりか?」
頭上から降り注ぐのは、心底退屈そうな声だった。俺の眼前に立つ薄汚れた着流しを着ている男――禪院甚爾。一族から「呪力を持たない出来損ない」と蔑まれ、人間以下の扱いを受けている男。
俺は今、そんな男に投射呪法を使った徒手空拳の修行に付き合ってもらっている。彼との交流も先に述べた禪院家を綺麗にする為の大事な一環である。当主の子供、次期当主の座がほぼ確定している嫡男が、なぜ呪力を持たないゴミ溜めの住人と関わるのか。怪訝そうな顔で俺たちを遠巻きに見る門弟は多い。
だが、俺は知っている。この男こそが、この腐りきった呪術師の価値観を根底から覆す「完成された怪物」であることを。 原作の直哉が、唯一その背中に憧れ、執着した、全てを削ぎ落とした真の虚無、至高の肉体を有する天与呪縛。
甚爾君は、俺がさっき渡した小切手を指先で弄んだ。 俺の父親――現当主・禪院直毘人の書斎から、小切手を何枚か「紛失」させるのは、今の俺には造作もないことだった。
彼がタダでガキの修行に付き合ってくれることはない。それを理解しているからこその、金による契約。父親である直毘人は、アニメーションやカメラを原型とする近代的な術式、その歴史の浅さから保守的な考えを持つ家の人間から苦労をかけさせられたからだろうか、甚爾君に対してはある種のシンパシーを覚えているらしく、俺がこの「怪物」を相手に強くなれるのならと、書斎の金庫が少しばかり軽くなるのを黙認してくれている節がある。
だが、今日の甚爾君は、何かが決定的に違っていた。
「この金で、今日は良いもんが食える。……あばよ、坊ちゃん。俺はもう、この掃き溜めには飽きたんだ」
その去り際は、いつものような「また明日」を感じさせるものではなかった。全てが終わってしまうような、冷たく乾いた響き。背筋に、つららを差し込まれたような悪寒が走る。今、ここでこの男の出奔を見逃せば、彼は呪術師を殺す「術師殺し」になり、四年後、俺が高専の一年生になる頃に五条悟の手によって殺される。
今日この日まで、俺は必死だった。甚爾君の自尊心が完全に削り取られないよう、彼に付き纏い、その強さを全肯定し、褒め称えてきたのだが、十二歳の直哉の言葉程度では、彼の心にポッカリと空いた暗い穴を埋めることはできなかった。
最近、彼には息子が生まれた。のちに「伏黒恵」となる愛息だ。だが、運命は残酷だった。甚爾君が愛した妻は、出産を機にこの世を去った。数年前、結婚してからの彼は、毒気が抜けて驚くほど丸くなっていたというのに。
その「重し」がなくなった今、彼は再び、あるいは以前よりも酷い絶望の深淵へと滑り落ちようとしている。彼が禪院家を出ていく決意をしたのも、十中八九、その喪失が理由だろう。
「待って……行かんといてッ!」
俺は、縋るように手を伸ばした。甚爾君がいない禪院家に、何の価値がある。そして何より、愛した女との思い出も、残された子供の未来も、全てを投げ打って呪術界を壊す修羅の道へ彼を歩ませたくなかった。
「無理だな。この家はもう……もう、どうでもいいんだ。何もかもな」
甚爾君が初めて、俺を真っ直ぐに見た。 冷たく、何も映さない、濁った瞳。 光を吸い込む黒孔(ブラックホール)のようなその視線に射抜かれただけで、全身の細胞が「死」を想起して震える。生物としての格が、あまりに違いすぎる。
「今は俺の周りをウロチョロしてるお前も、いつか俺をゴミでも見るような目に染まるかもな。……その前に、教えてやるよ。お前が見てる『世界』が、いかに狭い檻かってことを」
瞬間。俺は反射的に、視界を二十四分割(フレーム)に刻んだ。 来る。絶対に来る。本能がそう告げ、脳が回路を焼き切らんばかりに思考を加速させる。 一枚目、甚爾が膝を曲げる。 二枚目、重心が前に移動する。 三枚目、地面を蹴る――。 ――そこまでだった。
「……え?」
消えた。 静止画の連続であるはずの世界。その四枚目から、甚爾という存在だけが、文字通り「消失」したのだ。 投射呪法のルール――一秒に二十四枚、一コマ一コマの連続性を維持するという法(ルール)を、物理的な純粋暴力だけで超越した爆発的加速。脳が処理を追いつかせるより先に、首筋に氷のような冷気を感じた。甚爾君の指先が、俺の頸動脈を軽く掠める。ただの牽制。だが、彼がその気になれば、今この瞬間に俺の頭は床に転がっていただろう。
「――捕まえてみろよ。俺の背中に触れたいなら、今の二十四倍は速くなるんだな」
耳元で囁かれた声。振り向いた時には、もうそこには夜風に揺れる草木と、静まり返った月夜があるだけだった。俺の視覚の中で、分割された静止画がガラス細工のようにバラバラと崩れ落ちる。一秒間のフリーズ。強制的に自由を奪われた静寂の中で、俺の心臓は狂ったように鼓動を刻んでいた。
「……二十四倍……?」
届かない。今の俺じゃ、どれだけフレームを細かく、精密に刻んだとしても、あの人の背中を視界に収めることすら叶わない。圧倒的な力。圧倒的な「個」。だが、絶望よりも先に、熱い何かが胸を焼き焦がした。
ああ、やっぱり。やっぱりあんたは最高や、甚爾君。あんたが世界を呪うなら、俺はその呪いごと、あんたを掬い取ってみせる。
「見ててや……。あんたがどこに行こうと、僕が必ず見つけ出したる。あんたが逃げられんくらい速くなって、追いついたる」
俺は、誰もいない夜に向かって宣言した。
「3000万やそこらの端金で、呪術界を壊すような仕事はさせへん。あんたの価値を一番理解してるのは俺や。……必ず、迎えに行ったる」
この日、禪院家、ひいては呪術界の運命を書き換えるため、狂気的な執着が産声を上げた。目標(ターゲット)は四年後。場所は、星漿体の暗殺現場。
「もっともっと強くなって、ぎょうさん呪いを祓って金稼いで、札束で横面ぶっ叩いて、連れ戻したるわ。……待ってろよ、甚爾君」
これが、のちに呪術界の最速(五条悟を除く)にして最大の「パトロン」と呼ばれる男の、始まりの物語。