バットの叫びがスタジオに響いた瞬間、ケンシロウの背筋を氷の刃が撫でた。
照明の熱が肌にまとわりつくはずのステージなのに、彼の周囲だけ温度が数度下がったかのようだ。
「その名も……臭豆腐(チョウドウフ)だぁーッ!!」
客性から起こるどよめき。
舞台の袖から化学防護服を着こんだマミヤが、まるで爆弾処理班のような慎重さで鍋を運び込んだ。
鍋の蓋がわずかに揺れるたび、スタジオの空気が“変質”していく。
照明の光が霞み、空気が重く、粘つくように肺へ入り込んだ。
それは、食べ物の匂いではなかった。
ドリアンなど赤子の拳。
腐敗した排水溝、数週間放置された生ゴミ、硫化水素ガスがごとき臭気が渦を巻き、観客の鼻腔を容赦なく蹂躙する。
「ぶひぃぃぃ……!? こ、この匂いはダメだようー! 牛舎の臭いがしゅりゅーう!!」
ハートが悲鳴を上げた。
肉襦袢の下で脂汗が滝のように流れ、彼の巨体が震える。
腐敗臭が口腔から侵入し、脳天へ突き抜けた瞬間、彼は隣のサウザーの指をさらに奥へと吸い込んでしまった。
「ぬおおお……指が、俺の指が、豚と一体化してゆく!」
サウザーの悲鳴がスタジオに木霊する。
ユダは扇子を必死に振り、シンはテーブルに突っ伏し、肩を震わせていた。
空気そのものが毒となり、スタジオはすでに戦場と化している。
その中で、自称天才アミバだけが、片手で顔を押さえながらも、震える指を臭豆腐へ向けた。
「げふおーっ……だ、だが食の天才である俺が、この臭豆腐の秘密を教えてやろう……」
彼の声は震えていたが、妙な誇らしさが滲んでいた。
アミバは息を止めながら説明を続ける。
「植物と石灰を混ぜた液に、納豆菌や酪酸菌を培養して作った発酵液……そこに豆腐を一晩沈め、さらに蒸して臭気を極限まで高めた“腐”食物。素人が口にすれば即死級の劇薬だぜぇ!」
説明を聞くだけで、観客席から雑魚達の悲鳴が上がる。
ケンシロウの頬の七つの傷が、拒絶反応を示すように疼き始めた。
「くっ……!?」
彼は深く息を吸い、覚悟を決めた。
赤黒い鍋の中で、蒸された臭豆腐が不気味に揺れている。
蓮華を差し込むと、スープがぬるりと絡みつき、まるで生き物のように抵抗した。
「……スープを吸って茶色く染まったこの色は、腐肉のよう……。匂いは……かつてカイオウが放った魔闘気の瘴気そのもの……!」
ケンシロウの脳裏に、かつての死闘の記憶がよぎる。
アヒルの血がレバーのように震え、豚の大腸が赤い麻辣スープの中で妖しく光っていた。
ケンシロウは目を閉じ、一気に口へ運んだ。
「……むうっ! 触感は普通の豆腐と変わらぬツルリとしたもの……だが、鼻に広がるのは悪魔の吐息!! バケツ一杯の汚水を飲み干したかのような衝撃!」
観客席がざわめく。 ケンシロウの喉が上下し、額に汗が滲む。
「だが……その奥からじゅわっと溢れる豆腐本来の旨味……これが『食』に残された最後の希望なのか……!」
サウザーは、ハートと一体化しつつある指を必死に振りほどこうとしつつ、残った手でボタンを押した。
「俺自身は決して食べたいとは思わんが……これを口にした貴様の漢気に免じて〇をやろう。1点だ」
バットが叫ぶ。
「おお、ケンが2点目をゲットだあ! だが審査員達は美食神に何を食べさせようとしているんだあ!」
リンが震える声で呟く。
「みんな自分が食べないとなれば、言いたい放題ですね……」
そのとき、ラオウがゆっくりと立ち上がった。
彼の周囲の空気だけが、悪臭を拒むように澄んでいる。
覇気が臭気を押し返しているのだ。
「ふん。下らぬ。この程度の臭気、我が覇道の前では無力!」
素手で鍋を掴み、湯気が皮膚を焼く音。
しかし彼は眉一つ動かさず、そのまま怒涛の勢いで喉へ流し込んだ。
「ぬうううん!! 外道めがァ!! 我が拳王の舌を愚弄するか!!」
拳王の額に青筋が浮かぶ。 その表情は、誰も見たことのない“怒り”だった。
「味など存在せぬ! あるのは腐敗という名の無秩序のみ! これでは万民を統べられぬ! この世の理を外れた存在など、我が覇拳が滅ぼしてくれるわぁ!!」
ラオウは飲み干した鍋を机に叩きつけ、粉砕した。 破片が飛び散り、観客席から悲鳴が上がる。
「ラオウよ、それでは味など分かるまい。やはり聖帝十字陵の頂点に立つのは、この俺だ」
「全く美しくない食べ方だ。見損なったぞ、それでも覇王を名乗るのか」
「く、首がもげそうですう~! は、早くこの場から逃げたいですぅ~!」
「この臭気を纏ったままでは、ユリアを取り戻しに行けぬな……」
バットが絶叫する。
「おおっと、さすがに誰も点数を入れないぞ! これで二人は同点だあ! さあ、ラストの最臭兵器で決着はつくのか?!」
スタジオは悪夢のような臭気に包まれ、照明が揺らめく。 観客は鼻を押さえ、半ば意識を失いかけている。 その混沌の中心で、二人の漢は静かに、しかし確実に迫りくる“地獄の瞬間”を待ち構えていた。