翌日、探索者は宣言通り子ウサギ公園へと足を運んだ。
前日以上の手際で繰り出された豪奢な料理と、寸分の隙もない完璧な論理。逃げ場を完全に塞がれたRABBIT小隊は、惨めな空腹感と「自分たちの正義とは何か」という根底を揺るがす問いを突きつけられ、ただ黙り込むしかなかった。
そして——それが最後だった。
三日目、四日目。いくら待てども、公園に甘く香ばしい炭火の匂いが漂うことはなかった。あの整った、どこか他人を食ったような冷ややかな笑顔の男は、二度と公園に姿を現さなかった。
"……探索者さん、今日は公園に行かないの?"
シャーレの執務室で、書類仕事に追われる彼に先生が尋ねたことがあった。
探索者はペンを止めることなく、どこか申し訳なさそうに苦笑いを浮かべて答えただけだった。
「行きませんよ……私はどうにも、あの子たちには言い過ぎてしまいますから」
それきり、彼はRABBIT小隊の話題を一切口にしなくなった。
彼女たちがその後どうしているのか、何を食べているのか、誰かと接触したのか。探るような真似もしなければ、先生から報告を聞こうともしない。まるで最初から子ウサギ公園など存在しなかったかのように、完璧な無関心を貫いていた。
それが、彼の「スタンス」だった。
彼にとってあの二日間の挑発は、憎しみによるいじめでも、気まぐれな嫌がらせでもない。ただ「首輪を外された野良犬」が直面すべき甘えのない現実を、最短かつ最も効果的な形で叩きつけるための作業に過ぎなかったのだ。
これ以上踏み込めば、自分が彼女たちの「新しい敵」という依存先になってしまう。あるいは、彼女たちが自分で答えを出す機会を奪ってしまう。
だからこそ、嵐のように現れ、正論という名のナイフで彼女たちの脆い理想を切り刻むだけ切り刻み、跡形もなく姿を消した。
引き揚げられた潮のように彼が去った子ウサギ公園には、冷たい静寂だけが残されていた。
共通の敵がいなくなったことで、怒りを向ける対象すら失った少女たち。だが、彼が残していった言葉——「正義の逆は正義だ」「プライドで腹は膨らまない」という生々しい毒は、消えることなく彼女たちの胸に刺さり続けていた。
空腹に耐えながら、沈黙する公園で身を寄せ合うRABBIT小隊。
煽り立てる者はもう誰もいない。それでも彼女たちは嫌でも突きつけられるのだ。自分たちがこれから背負うのは、誰かに与えられたハリボテの誇りなのか、それとも泥を啜ってでも貫く自分たちだけの覚悟なのかを
そんな時だった。
「……これは雨、降りそうですね」
窓の外を眺めながら、探索者がふと手を止めて呟いた。
彼の視線の先には、空の半ばを漆黒に塗り潰すような巨大な積乱雲が、急速に発達しながら街へ覆いかぶさろうとしていた。湿った風が窓をわずかに揺らし、遠くから生暖かい雨の匂いが途切れなく漂ってくる。ただの夕立ではない。土砂降り、あるいは豪雨と呼ぶべきレベルの悪天候が目に見えて迫っていた。
子ウサギ公園には、まともな屋根もない。あるのは彼女たちが持ち込んだペラペラのテントと、劣悪な環境だけだ。あんな場所でこの嵐に飲まれれば、暖を取ることもできず、濡れ鼠になって凍えることになる。
先生は思わず探索者の横顔を見た。
"……見に行かないの?"
もしや彼の中に、少しでも情や心配が芽生えたのではないか。そんな期待を込めた問いかけだったかもしれない。
だが、探索者は窓の外を眺めたまま、ゆっくりと首を振った。その顔には冷酷なまでの平穏と、ほんのわずかな諦哀が混ざり合っていた。
「見に行きませんよ。何度も言ったでしょう、私はあの子たちに関わらないと決めたんです」
"でも、あの雨じゃテントだって耐えられないかもしれない"
「なら、逃げ出せばいい。あるいはヴァルキューレでも、どこでもいいから駆け込んで助けを求めればいいんです。それをするか、あの濡れた公園で意地を張り続けるかは、あの子たちが決めることです」
探索者は視線を窓から外し、机の上の書類へと戻した。万年筆の先が滑らかな音を立てて紙の上を滑る。
「嵐から身を守る術すら持たず、ただ誇りを理由に濡れて体調を崩すなら、それはもはや正義でもなんでもない。ただの自殺志願です。大人がいちいち魚をやればいつまでたっても捕り方を学ばない」
淡々と語るその声に、感情の波風は一切なかった。
言葉の端々に漂うのは、どこまでも突き放した冷たさ。けれど、その冷たさは「自分たちがどれほど無力で脆い存在か」を、天候という絶対的な自然の猛威を通して彼女たちに知らせようとする、残酷なまでに完璧な『放置』だった。
外では、ついにぽつり、ぽつりと大粒の雨がガラスを叩き始めている。
"私、行ってくるよ"
上着を手に立ち上がった先生の背中に、探索者はペンを走らせる手を止めることもなく、ごく自然なトーンで答えた。
「いってらっしゃい。お風呂は沸かしておきますね」
引き止めるような真似は一切しなかった。
先生がそうすることまでを折り込み済みであるかのように、あるいは「先生という甘い大人」が存在することすら、彼女たちが直面する現実のひとつのピースとして数えているかのように。
「それと、先生」
部屋を出ようとする先生の背中に、探索者の落ち着いた声が追いつく。
「温かいココアか何かを持っていくなら、濡れた野ウサギどもに『これは先生個人のポケットマネーによる差入れであり、SRTという組織に対する補給ではない』と、しっかり釘を刺しておいてくださいね」
クスリと小さな苦笑を漏らしたその声には、責めるような色も、ましてや自分の判断を悔いるような気配もなかった。
"……了解。いってくるね"
「はい。風邪をひかないように気をつけて」
開いたドアの隙間から、湿った冷たい風と強まる雨音が吹き込ん風を孕む。
先生が部屋を後にし、静けさが戻った執務室で、探索者は静かに万年筆を置いた。
窓の外では、雷鳴とともに滝のような大雨が子ウサギ公園の打ち捨てられた理想を叩きつけ始めている。
自分が引き直し、先生が差し伸べるその手。
「……どうしようかねぇ」
誰もいなくなった執務室で、探索者はぽつりと呟いた。
窓を打つ雨粒の音が、次第に激しさを増していく。さっきまで完璧に割り切っていたはずの男の顔に、ごくわずかな、だが確かな迷いの色が落ちていた。
万年筆を指先で弄びながら、彼は天井を見上げる。
「……甘いなーホント」
自分の中で導き出した答えは少なくとも間違いではないはずだ。過酷な現実を突きつけ、突き放し、自発的な気づきを待つ。大人が安易に手を差し伸べれば、彼女たちはいつまでも「誰かに保護される正義」から抜け出せない。雨に濡れるのも、寒さに凍えるのも、彼女たちが選んだプライドの対価だ。
それが正論であり、最も効率的な「教育」のはずだった。
(……だが、あの豪雨だ)
頭の中で素早く計算が走る。
あのペラペラのテントでは、最初の十分で浸水する。体温は急速に奪われ、明日にはまともに動くことすらできなくなるだろう。先生が向かったとはいえ、頑固な彼女たちが素直に先生の差し伸べた手を取る保証もない。
「……誇りと引き換えに肺炎で倒れられては、寝覚めが悪いどころの話じゃない」
探索者はハッと小さく息を吐き、自嘲気味に口元を歪めた。
冷酷な現実主義者を気取りながら、土壇場で完璧になりきれない自分の甘さに苦笑する。
「かと言って、手を貸すのは私のポリシーが許さない」
探索者は差し伸ばしかけた手を止め、持ち上げたバッグをゆっくりと机に戻した。
探索者はいつかまた別の世界へ放り出される。
そんな人間が「困ったら私を頼れ」なんて教えたところで、私がいなくなった後には何も残らない。また腹を空かせるだけだ。
だから、探索者にできるのは選択肢を置く、ただそれだけ
食べるか。逃げるか。助けを求めるか。それとも意地を張るか。
(選ぶのは、俺じゃない。彼女たちだ)
「…甘い大人が一人いれば十分だな。私がここで差し伸べれば、ただの二枚舌の偽善者に成り下がる」
自分で引いたラインを、自分の気まぐれで越えるわけにはいかない。一度提示した残酷なまでの現実を撤回すれば、彼女たちが直面している極限状態の価値そのものがブレてしまう。
彼がやるべきは、救済ではない。
だが、見捨てることでもない。
土砂降りの雨音が窓を激しく叩く中、探索者は静かにスマートフォンの通話ボタンを押した。
「……もしもし。ちょっとぶりだな。元気にやってるか?」
『オーナー。お久しぶりです。皆元気ですよ。特にオーナーが最近入れた子たちなんかは頑張って仕事覚えてます』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、少し上機嫌そうで、どこか聞き覚えのある声——探索者が最初期に立ち上げ、今や裏社会でも一目置かれる巨大カジノの支配人だった。
「それは重宝。支配人、不躾だが一つ仕事を頼みたい」
『おや、オーナー直々のご指名ですか? うちのディーラーの引き抜き以外なら、何でも承りますよ』
弾むような支配人の声に対し、探索者は静かに、そして淡々と本題を切り出した。
「子ウサギ公園という場所を知っているな。今、そこに身寄りのないSRTの落ちこぼれどもが不法占拠で野宿している」
『ああ……噂のRABBIT小隊ですか。連邦生徒会の失脚で行き場を失ったという』
「そうそう。んで、子ウサギ公園は排水の機構がどうも土壌的に難しいらしい」
『……へえ?』
支配人の声に、露骨な興味が混じり始める。
「あのエリアの地質と古い暗渠の構造上、このレベルの豪雨になれば一時間も経たずに膝下まで冠水する。表面の泥が滑りやすくなり、低地であるあの子たちのキャンプ地は、一瞬で泥水の底だ」
『なるほど……単に雨に濡れるどころの騒ぎではありませんね。装備も、食事も、身を寄せる場所すら完全に水没する』
「そうだ。そうなれば、もう『プライド』なんて生ぬるいことを言っている余裕はなくなる。意地を張って留まれば溺れかねないし、逃げ出せば文字通り全てを失って路頭に迷う……文字通りの『決断』を迫られるわけだ」
『んで? 私の仕事はそれの救出ですか?』
支配人の声には、探索者の真意をすべて見透かしたような、悪戯っぽい響きが混ざっていた。
「眼光紙背に徹す。俺が言えるのはそこまでだ」
探索者はそれだけ言い捨てると、あえて短く鼻を鳴らした。
言葉の表面だけをなぞれば、ただの冷淡な観測者。だが、「裏の支配人」として彼の意図を察した受話器の向こうの相手は、深く、可笑しそうに息を漏らした。
『…つまり、私は何も聞いていない。余計な手出しはせず見守り、彼女たちが答えを見つけたのなら手伝えですね』
「余計な解釈をするなと言っている」
冷ややかに吐き捨てる探索者に対し、スピーカー越しの支配人は「ふふっ」と楽しげな含み笑いを漏らす。
『失礼いたしました、オーナー。言葉通りに受け取っておきますよ。“限界を超えた時の通報”と、あとは……そうですね、彼女たちが自分の足で動き出した時に、見守っておく程度にしておきます』
「……好きにしろ。私にいちいち報告するな」
『素直じゃないですねぇ…いつも以上に』
「あぁ?言うようになったじゃねぇか、こっちにも色々あるんだよ」
『それいつも言ってません?』
「黙ってろ」
『はいはい…あぁそう言えば、最近カイザーがまた動き始めたみたいですね』
「そうだな。色々やってるみたいだ」
『…また脅しかけに行きますか?前のあの時みたいに』
「黙って仕事しろ」
半ば苛立ちを紛らわせるように吐き捨て、探索者は一方的に通話終了のボタンをタップした。
「……色々と、ね」
自分の中に芽生えたわずかな迷い。冷徹な観察者であり続けようとする理性と、ほんの少しだけ残ってしまっていた「甘さ」。そして何より、あの真っ直ぐで不器用なウサギどもに、自分自身がどこか固執してしまっているという事実。
大人が子供に現実を教える。そこまではいい。だが、追い詰め、揺さぶり、挙句の果てに嵐の中で立ち尽くす姿をこうして遠巻きに見守っている。
(我ながら、本当に反吐が出るほど器用で……嫌な大人だ)
「こんな腐った大人にだけはなりたくなかったんだけどなぁ…」
思い描いていた理想の大人像なんて、とうの昔に捨てるか壊すかしてきたはずだった。効率と論理を優先し、法や損得を盤面の上で弄び、欲しい成果を最も最短で引き寄せる。それが自分の選んだ生き方であり、探索者として生き残るための術だった。
なのに、どうだ。
泥沼の中で足掻いている子供たちを前にして、冷酷になりきれず、かと言って善人にもなりきれず、暗闇の中から泥舟の逃げ道を用意して様子を伺っている。
「まぁ…らしいな。探索者としては」
探索者はポツリと呟いた。
「探索者」——その職業的宿命を自笑するように。