連邦捜索局の書類、各学園からの陳情書、そしてシャーレの備品申請。デスクの上に山高く積み上げられた紙の塔を前に、探索者は死んだような目で指を動かしていた。
シャーレは年中人手不足だ。
探索者がいくら事務処理の効率化を進め、業務の自動化システムを組み上げようとも、現場で発生する問題の絶対数が多すぎる。いくら有能な人材が一人増えたところで、文字通りのマンパワー不足を根本から解決することなど不可能。
その上、だ。
「……ファックだろマジで」
探索者はピキリとこめかみに青筋を立て、ペンを置いた。
本来なら二人がかりで片付けるべきこの膨大な仕事量を放置して、先生は今日も今日とて「子ウサギ公園」へと通い詰めている。嵐の夜以来、警戒心を少しだけ解いた小隊の様子を見に行くのだと言って、温かい差し入れを両手に抱えてオフィスを飛び出していったのだ。
先生が現場で「甘い大人」として奔走すればするほど、そのしわ寄せ——代行業務、スケジュールの調整、未処理の決済書類。その全てが、居残った探索者の肩へと重くズシリと圧しかかってくる。
被害を被っているのは、間違いなく自分だった。
「……こんなんだからリンちゃんに詰められるんだよ」
大きなため息をつき、探索者は書類を捌いていく途中で「俺いなかったら死んでるでしょこの量」と毒づくことも忘れたことはない。
カタカタと音を立てるキーボード、シュッと紙が擦れる音。
シャーレの執務室には、ワンマンオペレーションの音だけが空虚に響いている。
「……さてさて、そろそろ理解した頃かねぇ……」
あの子ウサギ公園が再開発される動き、そしてヴァルキューレの装備の更新、それに付随するカイザーの動き、そして同じように裏で動き始めた防衛室。
一つ一つだけでは、疑問とも思えない代物。どこにでもある行政の手続き、よくある企業と警察の癒着、ただの防衛省のルーティンワーク。
「……でもね」
暗い執務室の中、PCのモニターから放たれる青白い光が、酷く冷めた横顔を浮かび上がらせていた。
その中でも、最悪の可能性を一つ置いてみる。
もし、これらが全て同じ目的のために動いているとしたら
もし、単なる行政手続きや企業の利権争いではなく、その裏にもっと大きな意図があるとしたら
そんな眉唾の可能性。だが
その仮定に立った瞬間、これまで集めた断片が一つの嫌な道筋を描き始める。
それは、防衛室の裏切り。
クーデター
「……あーあ、笑えない冗談だ」
探索者は喉の奥から、低く濁った息を吐き捨てた。
連邦生徒会の絶対的な権力者であった、総生徒会長の不在。その空虚を埋めるどころか、内部から乗っ取ろうとする動き。防衛室がカイザーコーポレーションと裏で手を握り、ヴァルキューレ警察学校を私物化して、連邦生徒会そのものを乗っ取ろうとする。
そう考えれば、あの子ウサギ公園の不自然な再開発計画も納得がいった。何しろ人目につきにくい。大型の重火器や裏の物資を隠すには、条件が良すぎる。
「まあ……可能性でしかないが……少なくとも可能性はある」
トントン、と無機質な指音がキーボードを叩く。
少なくとも、全てが当たっているとは考えられない。いくら防衛室やカイザーが肥大化した野心を持っていたとしても、すべてが自分の描いたシナリオ通りに寸分の狂いもなく動いていると過信するほど、探索者は自惚れてはいなかった。
だが、頓珍漢な答えだとも思えない。
これまで収集した断片的な情報、資金の流れ、異常な物流の痕跡。それらをつなぎ合わせたときに浮かび上がる巨大な陰影は、どうしてもその不穏な「最悪の可能性」へと収束していく。
「あくまで仮説……なんの確証もない空論だ」
探索者は自分自身に言い聞かせるように、低く呟いた。
「探索者」たるもの、確実な事実と妄想の境界を誤ってはならない。仮説に囚われ、事実を歪めて解釈することは死に直結する。防衛室の真意も、カイザーの真の狙いも、現時点では「辻褄が合ってしまうだけのシナリオ」の一つに過ぎないのだ。
(……だが、外れてくれた方が都合がいいなんてのは、甘い甘い平和ボケの思考だ)
最悪のシナリオを想定し、その裏をかく。
たとえそれが杞憂に終わろうとも、備えておくことに損はない。
「何より…自分の勘が反応してるんだよなぁ…」
数々の不条理な修羅場をくぐり抜けてきた「探索者」としての野生。理屈やデータが追いつくより先に、何かがおかしいと告げる感覚だけは、どうしても拭えなかった。
もちろん、勘なんてものを証拠にするつもりはない。
だが
「昔から嫌な勘ほどよく当たる……マジ、クソ食らえだな」
「ま、ピンチはチャンスだな。色々工作仕込めそうだ」
支配人
キヴォトスに来て最初に雇った古株の一人で、妙に勘のいい子であり、表向きの数字や言葉に騙されず、隙間に落ちた違和感を拾うのが上手い。探索者が何も言わなくても、こういう時には大抵もう動いている。
「……言わなくても、もう動き始めてるだろうなぁ…可愛げのない奴め」
ふっと息を漏らし、探索者は椅子に深く背をもたれさせた。
「……まあ、だから支配人に推薦したんだけどさ」
最初に出会った時のことが脳裏をよぎる。どこか臆病で、怒られないことと居場所を失わないことにしか目が向いていないような女だったが、その裏に潜む観察眼と、状況の違和感を瞬時に嗅ぎ分ける直感は本物だった。
「…まぁ社会での動き方を叩き込んだ甲斐があったかな」
探索者が経営するカジノでは、基本的に学校から弾き飛ばされた『落ちこぼれ』と呼ばれる人間が雇用されることが多い。行くあてのない彼女らに、探索者はまず社会での生き残り方と、裏方としての動き方を徹底的に叩き込んできた。
理不尽な世界で食い物にされないための、狡猾さと目ざとさ。
恐怖を警戒心に変え、先手を取るための観察眼。
全てはカジノじゃなくても生きれるように
使い捨ての駒として消費されるだけの人生から抜け出させ、どこへ行っても自分の足で立ち、悪意をいなして生き延びられるだけの力を身につけさせる。
『落ちこぼれ』と蔑まれた彼女たちに「選択肢」を与えるための場所。それが、あのカジノの本当の姿だ。
「……ま、今じゃすっかり立派な悪党の顔つきになっちゃってくれちゃって」
無論、打算がなかったわけではない。あのカジノというスポットがなければ、大人同士として「先生」と対等な距離感で接する口実すら作れなかったはずだ。
何より、表の社会では到底回ってこないような膨大な情報と莫大な資金を、探索者はあの場所でしっかりと稼がせてもらっている。
情もある。打算もある。
善意もある。悪意もある。
どれも嘘じゃない。
だからこそ、時々分からなくなる。
「……大人ってなんだろうな」
誰もいない執務室で、ポツリと漏らした問いかけが虚空に消えていく。
探索者は大人だ。それは間違いない。
でも、時間が経てば勝手に歳を取る。社会に出れば嫌でも責任を負わされる。そこで失敗して、恥をかいて、損をして、人に利用されて、それでも生きていくうちに覚えてしまったことがある。
——理不尽な悪意へのいなし方。
——誰も守ってくれない暗闇での、泥臭い生き残り方。
——そして、本当に大事なものを守るために、いくらでも手を汚せる図々しさ。
子供たちが叫ぶ純粋な正義やプライドは、大人の過酷な現実の前ではあまりにも脆い。
だからこそ、それを守りたいのなら、まず踏みにじられても立ち上がれるだけの力を身につけなければならない。
「…あの子たちから見れば俺のほうがよっぽど子供に見えるだろうな」
ぽつりと漏れたその言葉には、どこか呆れたような自嘲が混じっていた。
「……やっぱ世の中ってクソしかねぇなぁー。地獄と言っても大差ねぇだろこれ」
「……やっぱ自殺が最適解かぁ、これ? RTA狙ったほうがまだマシかもしれんなぁ」
天井の不規則な模様を見上げながら、軽々しい冗談のように軽薄な軽口を叩く。だが、その声の底に沈む疲弊は、本物だった。
どんな世界も決まって理不尽と悪意が渦巻く。まともな倫理観を持った人間から順に壊れていき、図々しい悪党だけがのさばる。こんなクソみたいな世の中、早々に降りてしまった方がどれだけ楽か
それでも、探索者は死なない。死ねない。
託されたものを無駄にはしない。出来ない。
(んなことしたら地獄でバカどもに殺されるだろうしなぁ)
何より、世界の為に、自分の為に死んでいった者たちからのクレームがあまりにも目に見えている
だからこそ探索者は今日も、このクソみたいな世の中で、泥を啜りながら精一杯に足掻き、藻擦くのだ。
「……はぁーあ。死ぬのも面倒くさくなったら終わりだな、本当に」
背もたれに預けていた体をゆっくりと起こしながら、口から洩れ出たのは酷く投げやりで、けれど本質を突いた呟きだった。
「……今ならニャル達の気持ちがちょびっと分かるなぁ……」
理不尽な世界の
ふと、脳裏に掠めたのは、かつて己を導いた「最高の師」の姿。そして、最後に遺された、あまりにも苦く、あまりにも現実的なあの言葉だった。
『強大な世の中の流れに邪魔をされて、望んだ結果が出せない事が必ずあります。その時、社会に対して原因を求めてはいけません。社会を否定してはいけません。それは率直に言って時間の無駄です。そういう時は、「世の中そんなもんだ」と悔しい気持ちをなんとかやり過ごしてください。やり過ごした後で考えるんです。社会の激流が自分を翻弄するならば、その中で自分はどうやって泳いでいくべきかを』
「……ほんと、クソみたいな金言だよ。ぐうの根しかでねぇ」
探索者は自嘲気味に鼻で笑い、キーボードを叩く指を止めた。
「殺る気を持って焦らず腐らず試行錯誤を繰り返せば……いつか必ず結果がついて来る……そんな妄言が吐けたら良かったなぁ……」
努力は報われるだの、正義は勝つだの、そんな甘ったるいお伽話を本気で信じられるほど、探索者は青くない。どれほど焦らず試行錯誤を重ねたところで、巨大な社会の激流は一瞬にして個人の都合など飲み込み、磨り潰していく。
「だからといって
吐き捨てるように呟き、探索者は冷え切った缶コーヒーを最後の一滴まで飲み干す。
「…さぁ、走れるか、Rabbit小隊。終わりのないマラソンを」
空になった缶をゴミ箱へ放り投げると、乾いた金属音が静かな執務室に響いた。