『…相変わらずバカねぇ……貴方は何に恐れているのかしら』
「…っは!!」
探索者が暗い意識から引き戻された瞬間、即座に腕時計を確認する。長針は意識を失う前よりも、わずか一目盛り進んでいた。
(……なんだか懐かしい気持ちだな…)
そう思考を巡らせたのも束の間、先生もまた荒い息を吐きながら意識を覚醒させた。探索者はポケットに手を突っこみ、苦笑いを浮かべる先生へ視線を向ける。
「互いに無茶は辞めましょう。箱舟に行く前にくたばっちまったら元も子もない」
"ははは…君の言う通りだね"
——その時だった。
先ほどまで安定していたはずの本船の航行に、突如として激しい歪みと狂暴な揺れが襲いかかる。
「なっ、何!?」
「多次元解釈システムに、エラー発生……!」
「『ウトナピシュテム』の状態が……箱舟と一致しません!」
悲鳴のようなオペレーターたちの声。揺れの原因は自分たちの船のシステムエラー——誰もがそう疑ったが、真実は違っていた。異常を起こしたのは、こちらではない。
「値が変わったのは『アトラ・ハシースの箱舟』の方よ!」
リオの叫びがブリッジに響く。
「ま、流石にギミック無しで通らせてくれるほどザルじゃないか」
探索者は冷めた目つきのまま、揺れる壁に背を預けた。作戦が予定通りに運ぶことなど、戦場では万に一つもない。いくら入念に手順を組み立てようと、運の気まぐれや敵の想定外の挙動までは制御不能だ。
「『アトラ・ハシースの箱舟』に変化が?……まさか、私達から逃れる為に……!?」
「私達が認知している多次元ではなく……別の新しい軸を作ったのね」
「二次元の存在に対して、三次元を説明出来ないのと同じように……私達には知見出来ない次元へと退避したのでしょう」
「……次元を渡れるのか……俄然、あの仮説が現実味を帯びてきたなぁ……」
探索者が不吉な呟きを漏らすと、激しい揺れの中で先生が視線だけをこちらに向けた。
"仮説って?"
「あのシロコは別世界線から来た存在っていう仮説です。戦闘には要らない情報なので言う必要もないかなと」
"言ってよ!?"
「確証もない仮説はノイズですよ」
軽口を叩き合いながらも、状況の絶望的さは明白だった。箱舟は再び、こちらから手出しのできない未知の領域へと逃げ込んだのだ。対等だと思っていたテクノロジーの格差——相手の技術は、こちらの想定を遥かに超越している。
「戦艦のスピードを落としてちょうだい! このままでは、あの変形した多次元バリアに衝突してしまうわ!」
「連動しなくなってしまった状態で衝突すれば——私達は未知の次元に取り込まれるか、そのまま粉々になるかの二択よ!」
「花火師が現実味を帯びてきましたねぇ……折角ですし5尺玉も使いますか?」
緊迫した空気のなか、探索者の物騒な冗談すら虚空に消える。生徒たちが必死で解決策を模索するが、打つ手は一向に見つからない。相手はもはや概念の域にまで到達した超常の存在。具体的な攻略法など、この世のどこにも存在しないかに思えた。
「何か他に手立ては無いのでしょうか……」
「……無いわ。あれは科学ではなく、一種の概念と化している。あの状態を瓦解させる手段は、現状存在し得ない……」
絶望が覆いかけたた瞬間、リオの凛とした声がブリッジを静まり返らせた。
「——ただ一つの方法を、除いて」
「あれが『アトラ・ハシースの箱舟』という概念をコピーしたものであるのなら、あれに介入出来るのは……」
「……同一存在である、箱舟だけでしょうね」
探索者は目をすこしだけ細め、納得したように首を鳴らした。
「あー……なーるほど、理解」
リオが誰を指しているのか、探索者には即座に理解できた。
その身の内面に潜む存在によって、未遂に終わったとはいえ『アトラ・ハシースの箱舟』をこの世界に顕現させようとした存在。名もなき神々の王女こと——
「……アリスの事ですねぇ……」
「ええ……そうよ」
「……!」
言葉が出た瞬間、ヒマリの瞳が激しい怒りに染まった。自身が車椅子による移動を余儀なくされていなければ、今すぐにでも画面越しのドローンに殴りかからんばかりの剣幕だった。
「いえ、それだけはいけません!! これ以上そんな事をしてしまえば……!」
「ビッグシスター、あなたという人は本当に……!」
激化する糾弾。しかし、どれほど言い争ったところで眼前の衝突という破滅は回避できやしない。無情にも刻一刻と死へのリミットが迫る中——ブリッジの自動ドアが開き、一人の少女が姿を現した。
「——アリス、理解しました」
凛とした声がブリッジの喧噪を静めさせる。アリスは真っ直ぐにスクリーンを見つめた。
「リオ会長、こんな所に居たんですね。もう一度会えて、よかったです」
「アリスちゃん……」
「えっ、会長!? というか、姿を見せないでドローンを送るってどういう事!?」
「……アリス、私は——」
「はい、分かっています」
言いかけるリオを制し、アリスは穏やかに微笑んだ。言われずとも彼女は自身の使命を悟っていた。今、この局面を打破するために『名もなき神々の王女』である自分の力が必要なのだと。
「で、でもアリスちゃん……!」
「だ、ダメだよアリス!!」
「またあんな事に——」
「アリスちゃん……!」
ゲーム開発部の面々が悲痛な声を上げる。その力を使えば、再び部室で起きたあの惨劇が繰り返されてしまうのではないか。その恐怖が彼女たちを苛んでいた。
「不安な気持ちも分かるが、とりあえずは……」
"うん、アリスの言葉を、最後まで聞こう。"
先生の静かな一言に、探索者も軽く肩をすくめて同調する。
「う、うん……」
「アリスちゃん……言いたい事、全部話してほしいな」
モモイとミドリが不安を飲み込み、アリスを見つめ返した。
「はい——モモイ、ミドリ、ユズ」
「そしてユウカ、ヒマリ先輩、リオ会長」
「……先生、探索者」
落ち着きを取り戻したブリッジの仲間たち一人ひとりの顔を見つめ、アリスは堂々と胸を張って口を開いた。
「先生は、たとえ最初がどうだったとしても……今を決めるのは、“アリス自身”だよ、と言いました」
「探索者は、お前は、何者だ?と言いました」
「アリスは『名もなき神々の王女』で、『ゲーム開発部』のメンバーで——『ミレニアムの生徒』で、『シャーレの生徒』です」
「アリスは……『魔王』で『勇者』です」
「…アリスは、アリスが望んでいる『アリス』です」
「だから『名もなき神々の王女』として…」
「『ケイ』にお願いします」
「アリスの中にある『アトラ・ハシースの箱舟』で…今の危機を解決出来るのなら、それで…世界を救えるのなら…」
「『アトラ・ハシースの箱舟』は、世界を滅亡させる兵器ではなく───世界を救う、勇者の武器になれます」
迷いのないその瞳と、紡がれる力強い言葉。
滅びの引き金として生み出された存在が、自らの意志で「世界を救う勇者」になると宣言したのだ。
「アリス、それは……」
「それで世界を救えるのなら、アリスはそれを望みます」
アリスは静かに、けれどしっかりとリオに向き直る。
「そうすれば、ヒマリ先輩はこれ以上リオ会長を恨まなくて良くなります。そしてリオ会長は、自分自身を恨まなくて良くて、隠れる必要もなくなります」
「私、自身を……?」
「……アリス」
「それがアリスの——『勇者』の、使命ですから」
覚悟を決めた表情で断言すると、アリスは徐に目を閉じた。
「アリスちゃん……?」
「……大丈夫です。あのクソガキもアリスの言葉なら承認するでしょう」
探索者が鼻で小さく笑いながら呟く。
"大丈夫だよ。アリスなら、絶対に。"
実際には十数秒程度しか経っていないはずだった。だが、アリスが次に目を開けるまでの時間は、ブリッジにいる全員にとって数分以上にも思えた。
「………起動開始」
目を開けたアリスの瞳は——ケイと同じ赤紫色に輝いていた。だが不思議なことに、そこに恐ろしい狂気や敵意は一切感じられない。
「……コードネーム『AL-1S』起動完了。プロトコルATRAHASISを実行します」
「あ、アリス……」
「だ、大丈夫なのかな……?」
「……」
"大丈夫——アリスを信じよう。"
先生の確かな言葉に呼応するように、アリスは再び目を閉じ、そして静かに開いた。その瞳は元の彼女と同じ、鮮やかな水色へと戻っている。
直後、彼女の身体を神聖な光の粒子が包み込み始めた。髪は神秘的な白へと変容し、その背には巨大な羽根のごとき粒子が渦を巻く。
「あ、アリスちゃん……!?」
「……アリスちゃんなんだよね?」
「はい、アリスは大丈夫です」
アリスの穏やかな声を聞き、リオがドローン越しに息を呑んだ。
「……という事は、『名もなき神』のを服従させたのね?」
「……いえ、これは服従ではなく——」
「はい。ケイがアリスのお願いを聞いてくれました」
ヒマリの察する言葉を、アリスは温かい笑みで補強する。
「でも、アリス一人だけでは出来ません。今のアリスには、皆の力が……そして、リオ会長の力が必要です」
「わ、私の……?」
「顔を見せてください、リオ先輩」
「っ……わ、私は……」
暫しの沈黙の後、ドローンからリオのホログラムが空間へと映し出された。露わになったのは、どこか影を落とし、憂いを帯びた彼女の顔だった。アリスはそれを見て、にっこりと微笑む。
「……アリスは、リオ先輩と会いたかったです。なんだか、前よりも痩せたように見えます。ちゃんと寝ていますか?」
「アリス、私は……私は……自らの選択で、貴女を——」
言葉を詰まらせ、歪んだ罪悪感に押し潰されそうになるリオに、アリスは優しく首を振った。
「リオ先輩……アリスに謝らなくても大丈夫です」
「……勿論、貴女は私を許さないでしょうけれど……」
「——許す必要はありません。何故なら……仲間同士は、言葉にしなくても気持ちが伝わるものですから」
「私が……貴女の……『仲間』……?」
「はい。リオ先輩は、アリスの仲間です。リオ先輩はこうして先生やヒマリ先輩……そして、皆を助けているのですから。だから、アリス達はもう『仲間』です」
「で、でも私は……貴女を……」
「大丈夫です。序盤のボスが、後半で仲間になるのはよくある事です。お約束の展開だって聞きました。だから、大丈夫です」
アリスは誇らしげに胸を張り、言葉を紡ぐ。
「リオ先輩は、この世界を守る為に、誰よりも頑張った人です。そんな凄い人に……『アリスの仲間になってくれてありがとう』、と伝えたかったんです」
「……」
涙を堪えるように言葉を失うリオ。
壁に背を預けたままその光景を見ていた探索者は、深く被った帽子の庇を軽く押し上げ、フッと口角を歪めた。
(……流石だな)
自分を殺そうとした相手すらも、まっすぐな物語の配役へと巻き込んで救ってしまう。理屈や確率を超えた少女の眩しさに、彼は胸の中で小さく息を吐いた。
「では……始めます!」
アリスは高らかに宣言し、光の粒子をさらに強く輝かせた。
「ここからはアリスのターンです!!」
「アリスちゃん!! 頑張って!!」
「お願いアリス、魔王城をブッ飛ばして!!」
「アリスちゃん……お願い……!!」
ゲーム開発部の声援がブリッジに響き渡り、止まっていた運命の歯車が再び力強く動き始める。
「んじゃ私達も動きますか?トレーナー」
その唐突で呑気な声に、ブリッジにいた全員が一斉に後ろを振り向いた。
そこには、顔全体をすっぽりと覆い隠すダンボールのような質感の奇妙な仮面を被り、頭上にピコピコと動物の耳と尻尾を覗かせた女の子が、いつの間にか自然な動作で立ち尽くしていた。
「だ…だれ!?」
ユウカが目を丸くして叫び、ゲーム開発部の面々も呆然と固まる。艦隊の警備網や多次元バリアを完全にすり抜けて侵入してきた謎の存在に、ブリッジへ緊張が走る。
「……早くね?一応もうちょい後の予測だったんだけど?」
だが、探索者だけは驚く風もなく、呆れ混じりの溜息をついて首を鳴らした。
その人物は探索者のことを「トレーナー」と親しげに呼び、まるで散歩の途中で合流でもしたかのような軽やかさで仮面の奥からニシシと笑ってみせた。
「だって久しぶりにトレーナーから呼び出しかかったんですよ?そりゃどこまでも駆けていきますよ」
"……知り合い、かい?"
混乱する生徒たちを代表するように、先生が探索者へ視線を向ける。
「…まぁ一応、保険として呼び出してたヤツです」
「始めまして! 私は…そうだな…エレジー! エレジーって呼んでください!」
仮面の少女は威勢よく胸を張り、ブリッジの面々に向かって大袈裟にポーズを決めてみせた。
「すぐ帰るだろうけどな」
探索者は冷めた眼差しで速攻のツッコミを入れ、肩をすくめる。
「え、冷たっ!? トレーナー、もうちょっと感動の合流シーンとか演出してくれても良くないですか!?」
「バカ言え。ここは高度7万5千メートルの鉄火場だぞ。観光しに来たわけじゃねぇんだ、仕事が終わったら速やかに退場してもらわねぇと困る」
「ちょっと待ちなさい!」
二人の呑気な掛け合いを割り切るように、ユウカがこめかみを押さえながら声を張り上げた。
「保険って何よ!? そもそも、この高度の戦艦内にどうやって侵入してきたの!? 警備システムも全部スルーして入ってくるなんて、物理的にあり得ないでしょ!?」
「ご尤もですね…ってか、その感じ、私を呼び出すこととか、どうやって呼び出すとか伝えてなかったんですか?」
エレジーが仮面の奥から心底呆れたような声を出すと、探索者はポケットに両手を突っ込んだまま、さも当然といった様子で鼻を鳴らした。
「別に伝えなくても良いだろ。作戦に支障が出るわけでもないし、もしもの保険として使ってただけだ。後、この呼び出しを多数の奴に知られれば死人が呼び出せるって勘違いする輩も出てくる」
「…相変わらずですね…トレーナー…」
深々と溜息をつくエレジーの横で、ユウカは「死人が……?」と絶句し、ブリッジの空気は一瞬にして張り詰める。
あまりにも危険で常識外れな会話の領域に入りかけた雰囲気を察し、先生はおどおどと引きつった笑みを浮かべながら慌てて口を挟んだ。
"え…えっと…それで? エレジーさんは何してくれるのかな?"
「そうですねぇ…私はトレーナーの強化パーツとでも言いましょうか。とにかく今やるべきことはバリアの破壊ですよね?」
仮面の奥から聞こえる呑気な声とは裏腹に、彼女の身から放たれる異質な気配が、僅かに漏れ出る。
「そうだな。だから全力で来い!!!」
探索者の怒号に等しい合図がブリッジに轟いた。
「行きますよ!! トレーナー!!! ゴルゴル星直伝の……ドロップキーーック!!!」
エレジーは叫ぶや否や、狭い艦内であることなど微塵も気にせず勢いよく地面を蹴り上げた。宙を舞う影。次の瞬間、彼女の放った両足が探索者の胸板へと容赦なく叩き込まれた。
「ち…ちょっと!?!?」
ユウカの悲鳴のような叫びが響く中、ドガァンと重い衝撃音がブリッジを揺らす。見事なまでの直撃を受け、探索者の身体は勢いよく後方へ吹き飛び、壁に激しく激突した。
「あー痛え…マジで痛え……加減しろバカタレが」
後頭部をさすりながら、探索者は苦々しい顔でゆっくりと体を起こす。
「えへへ、気合注入です! これで死線前の準備運動はバッチリですね!」
仮面の奥から悪びれもせずに胸を張るエレジーを見上げ、探索者は深く溜息をつくと、不敵な笑みを浮かべて首の骨を鳴らした。
「んじゃありがとよ。じゃーな。あの『天才少女』にもよろしく伝えといてくれ。お前ならトレーナーといてやってけるさ」
「……そういうことですか…やっぱり都合のいい女扱い!!」
「あぁ、そういう事だ。んじゃあな」
「……っ…」
「…はい! またトレセンに来ること待ってますからね!」
言うが早いか、探索者は白い手袋を着けると、容赦なく床へ叩きつけた。
バシィン、と澄んだ音がブリッジに響いた瞬間、エレジーの足元を中心に怪しい光を放つ錬成陣が瞬時に展開される。光が収束すると同時に、彼女の身体は形を失って黒い泥のように崩れ落ち、艦内の床へ溶けて消えていった。
「えっ……!? 泥……!?」
「消えちゃった……!?」
「さ、行きますよ。アリス」
「いやいやいやいや!!」
あまりの脈絡のなさと怪奇現象に、ユウカのツッコミがブリッジに轟いた。額に青筋を浮かべ、残された馬型の段ボールと探索者を交互に指差す。
「どうしました? さっさと行かないと全員仲良死ですけど?」
「仲良死とか物騒な造語作らないで!? 今の何!? 泥になって消えたと思ったら、なんで馬の形にくりぬかれた段ボールが残ってるのよ! 説明しなさいよ!」
「全員死んでもいいなら今してもいいですが?」
「っ……! 今はダメに決まってるでしょ、もう……!」
探索者の容赦のない正論(?)に、ユウカはぐぬぬと口を噤み、悔しそうに拳を握りしめた。
「説明は無事に生きて帰ってから、たっぷり聴かせてもらうからね!」
「どうぞ、生きて帰れたら幾らでもお茶でも飲みながら話してあげますよ」
相変わらずの減らず口で探索者とアリスは下へと降りていくのであった。