激しい風切り音が鼓膜を叩きつける。
探索者が立っているのは、『ウトナピシュテム』の船首——大気圏の最果て、宇宙の闇が迫る完全なる「外」だった。超絶的な速度で突き進む船体の上で、狂暴な風圧が容赦なく襲いかかってくる。
「うーん!いい向かい風!メキシコからほどではないが……助けてくれそうだ!」
体幹に優れた勇者たるアリスは微動だにせず立っていたが、探索者は頑丈なカラビナとパラコードで強引に全身を固定していなければ、一瞬で虚空へ吹き飛ばされて星の屑になっていただろう。
死線のただ中で、アリスが風圧を突いて声を張り上げた。
「探索者!」
「ん! どしたぁ!!」
風に体を飛ばされそうになりながら、探索者が叫び返す。
「もし……このバリアが破壊できて無事に帰れたら……あのエレジーさんとお友達になりたいです!!」
一瞬目を見開いた探索者は、吹雪くような粒子の中で腹の底から笑い声を上げた。
「……ははっ! そりゃいいな! アイツ年中ボッチだからな!! こっちからもお願いするわ!!」
「はいっ!」
アリスが眩しいほどの笑みを咲かせる。探索者はすさんだ目を限界まで細め、荒い息を整えた。
「……アリス、準備はいいか?」
「はい。探索者との協力プレイの準備は既に出来ています!」
そう言い放つと、探索者は芯火から一つの鉄球を取り出した。それは黄金の輝きを放ちながらも、異様な密度の重圧を纏っている。
同時に、アリスの体内から解き放たれた膨大な概念データが空間を塗り替えていく。
「リソース領域の拡大」
「リソース名、『ウトナピシュテム』の全体リソース——9999万エクサバイトのデータを確認」
「……現時刻をもって、プロトコルATRAHASIS稼働」
「コード名『アトラ・ハシースの箱舟』起動プロセスを開始します」
アリスの声と同調するように、探索者は黄金の鉄球を強く握り締め、独特の呼吸法へと切り替えた。吐き出される息が白く揺れ、彼の周囲に目に見えぬ幾重もの黄金長方形——美しい螺旋の軌跡が描かれる。
「『Lesson:1 妙な期待はするな』」
「『Lesson:2 筋肉に悟られるな』」
「『Lesson:3 回転を信じろ』」
「『Lesson:4 敬意を払え』」
「『Lesson:5 遠回りこそが最短の道である』」
一言一言を刻み込むたびに、無限の回転エネルギーが鉄球へと収束していく。
「王女は鍵を手に入れ、箱舟は用意された」
アリスの背から溢れ出す『ケイ』を表す赤紫の光と、『アリス』を表す水色の光。二つの相反する概念が混ざり合い、美しく澄んだ螺旋の粒子となって天へと突き抜けていく。
「名もなき神々の王女、AL-1Sが承認します───ここに、新たな聖域サンクトゥムが舞い降りん───!」
アリスの澄んだ宣言が、高度7万5千メートルの漆黒の虚空に響き渡る。
その瞬間、弾けるような眩い光を放ちながら、一筋の光の剣が宙へと浮かび上がった。ウトナピシュテムの膨大なデータ——9999万エクサバイトの概念リソースを過剰なまでに取り込んだ光の剣は、アリスの小さな体を遥かに凌駕する超巨大な構造体へと再構築されていく。
立ち昇る神秘の粒子を纏い、威容を誇るその姿は——正真正銘の超大型『レールガン』へと変貌を遂げていた。
「『Lesson:6 過去と未来に囚われるな』」
「――回せ。前へ進むためにな」
同時に、隣に立つ探索者の手の中で、黄金の鉄球が狂おしいほどの無限律動を刻み始める。全身の細胞、骨格、そして爪の先までを行き渡る完全な自然の力学。螺旋の回転は空間の歪みさえも置き去りにし、次元の壁をも穿つ概念的な絶対破壊力へと高まっていく。
「炸裂しろ!! 完全なる!! 黄金の回転エネルギー!!」
放たれる無限の回転が、アリスの構えるレールガンの砲頭へと集束し、赤紫と水色の光の粒子と完全に融合した。
……準備は、整った。
理不尽な多次元の退避も、概念と化された絶対防御も関係ない。目の前を阻むすべての障害を、二つの規格外が粉砕せんとする。
極限の緊張と高揚のなか、探索者は歪んだ口角で笑った。
「折角だし合わせるかぁ!」
アリスもまた、勇者としての眩い笑みを全開にして叫び返す。
「ええ!! そうしましょう!!」
直後、二人の叫びがひとつ重なり、世界を爆発的な白光が塗りつぶした。
「「光─────── ───────よ!!!!!」」
解き放たれた極大の光束と無限の回転波は、絶対の閃光となって『アトラ・ハシースの箱舟』の多次元バリアへとまっすぐに突き刺さった。
「直撃です! 多次元バリア、粉砕!!!」
ブリッジに響き渡るリンの叫び。概念化し、絶対の領域に逃げ込んだはずの箱舟の外郭が、眩い光芒と無限の回転に耐えかねてガラスのように脆く砕け散っていく。
出来るに決まっている——最初から、そう信じて疑わなかった。
「……っと……大丈夫かアリ——」
過酷な風圧の中で探索者が息を整え、アリスの方へ視線を向けた、その瞬間だった。
彼女の頭上に浮かんでいたヘイローが弱々しく点滅し、光を失うように薄れていく。限界を超えた演算と高密度のエネルギー行使により、アリスの小さな身体は糸が切れた人形のようにふらりと倒れかけた。
「おっと……!」
探索者は咄嗟にカラビナの固定を解除し、倒れ込むアリスの身体をしっかりと抱き止めた。光の粒子は収束し、白く変容していた髪と水色の瞳は、いつもの愛らしいアリスの姿へと戻っていく。
強烈な加速Gと風圧を破り、探索者は抱え上げたアリスを連れてすぐさま船内へと退避した。ブリッジのハッチが開くと同時に、待ち構えていたゲーム開発部の面々が悲痛な表情で駆け寄ってくる。
「あ、アリス!?」
「アリスちゃん!! しっかりして……!」
モモイとミドリが青ざめた顔で駆け寄り、ユズも不安に押し潰されそうな瞳でその華奢な肩を揺すった。
「大事はねぇよ。ただ疲れ切ってるだけだ……はぁ……流石に身体にくるな……」
肩を上下させ、荒い息を吐き捨てながら探索者が呟いた、まさにその直後だった。
「約5秒後、こちらに衝撃波が来ます! 皆さん衝撃に備えてください!」
リンの切迫した叫びがコンソールからブリッジ全体に轟く。
「ウッソだろ!? こちとら一仕事終えた後やぞ!!」
絶叫する探索者を他所に、モモカの素早いキーボード打鍵音が鳴り渡る。
「多次元バリアの『状態の共存』が消失! 最終機能の停止を確認したよ!」
途端、絶大なるエネルギーの爆散に伴う衝撃波が『ウトナピシュテム』を直撃した。ミシミシと船体が悲鳴を上げ、凄まじい横揺れが襲いかかる。探索者は壁のハンドレールと固定カラビナにしがみつき、歯を食いしばる。
(ヤッベ!! マジ死ぬぞ!!)
脳内で死線アラートが乱打される中、メインモニターに映るリンの瞳には退路を断った者の猛烈な意志が宿っていた。
「このチャンスを、逃してはなりません……!!」
「ウトナピシュテム、最大速力で突進します!!」
(突進? マジで突進って言ったのか?)
一瞬耳を疑った探索者だったが、リンの表情は至って真剣そのものだった。科学も概念も削り落とした最後の土壇場、そこにあるのはただひたすらの力押し。やる以外の選択肢など、最初から存在しない。
「はぁ……なーんかいつもこうだなぁ……」
己の不運を呪うように深々と溜息をつく。
「バ、バリア衝突まで約3秒……!!」
「うあああ……だ、大丈夫なんだよね!?」
「今は多次元バリアが無力化された状態ですから、きっと大丈夫です……!」
「はい。バリアを突破し、このまま箱舟内部に侵入します!!」
悲鳴と覚悟が交錯し、ブリッジのテンションが沸点へと達する。
「……しょ、衝撃来るよ!! しっかり掴まって!!」
モモカの金切り声と同時に、船首が破砕されたバリアの領域へと激突した。これまでの揺れとは根底から次元の違う、星の衝突にも似た巨大な衝撃が船体全体を容赦なく打ち据えた。
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「ぐ……ぉ……ぁ?」
身体中を襲う重苦しい鈍痛を逃がすように、探索者はかすれた声を漏らした。ゆっくりと瞼を開ければ、視界に飛び込んできたのは激しく明滅するブリッジの赤色灯と、立ち込める焦げ臭い煙だった。
(……生きてはいるみたいだ)
手足の感覚を確かめ、骨が砕けていないことを確認しながら身を起こす。
「良かった……生きてるみたいだね」
「……カヨコさん、状況は?」
探索者は帽子を深く被り直すと、立ち昇る煙を片手で払いのけ、倒れたコンソールにしがみついているカヨコへ視線を向けた。
「無事……ではないけど侵入出来たよ……でも……衝突の影響で中枢システムがダメージを受けたみたいで……」
カヨコは歪んだパネルから火花が散るのを手で遮りながら、掠れた声で答えた。
「いくつかの機器が逝ったって感じですかね。多次元解釈システムは?」
「それは無事。で、先生達は一足先に掌握するために奔走してる……」
「なるほど、」
探索者は短く頷き、煤で汚れた手袋をポンポンと叩いて埃を落とした。足元に転がる断線したケーブルを踏み越え、散らかったブリッジを見渡す。
「エンジンが生きてて多次元解釈が維持できてるなら、上出来ですね」
「さてと…私はどう動きましょうね」
探索者は首を鳴らし、散らかった足元に視線を落としながら独りごちた。
「…ん?」
その瞬間、彼の背筋を氷の刃で撫で上げられたかのような鋭い悪寒が走り抜けた。探索者の動作がピタリと止まる。
それは、本当に「直感」としか言いようのないものだった。
戦場において、数え切れないほどの死線と理不尽な確率を潜り抜けてきた者にしか宿らない、細胞レベルの危機察知。
五感で認識するよりも速く、脳の最も原始的な領域が鳴らした警鐘。
理論的に説明しろと言われれば、間違いなく「ただの勘」あるいは「嫌な予感」と吐き捨てるしかない代物だ。
気圧の微少な変動か、空気中のイオン密度の偏りか、あるいは網膜の端を掠めた影の錯覚か——どれほど高度な解析機器を持ち込もうと、ノイズとして切り捨てられるレベルの微細な違和感。
だが、探索者はこの泥臭く抽象的な『嫌な感じ』という感覚に、他の何よりも全幅の信頼を置いていた。
膨大な理論も、完璧な計算も、土壇場ではあっけなく裏切る。幾度となく世界そのものがバグり、確率が歪む狂気の世界線を生き残ってきた彼にとって、窮地で自らの命を繋ぎ止めてきたのは常にこの理屈を超えた野性の直感。
生存本能が叫ぶ警報の精度は、どんなミレニアムの最新技術よりも、いかなる神聖な奇跡よりも遥かに正しく、そして容赦がない。
脳裏でけたたましく鳴り響くアラート。
理屈を超えた死線の予感に、探索者の肉体が即座に反応する。身体を苛む激痛も疲労も、すべてを思考の裏側へと強引に押し込めた。
「…行かなきゃ"門の創造"」
ボソリと呟き、彼が魔術を使おうとした瞬間——立ち上がろうとするその足取りの危うさを見逃さなかったカヨコが、咄嗟に声を張り上げた。
「ちょ…ちょっと!?大丈夫なの!?体は!!」
衝撃で負った全身の擦り傷と打撲。直前まで高度7万5千メートルの風圧に晒され、今なお荒い息を吐くその姿は、到底まともに戦える状態ではない。カヨコが引き留めるのも当然だった。
「……恐らく大丈夫ではないです。でも行かなきゃ負ける…そんな気がするんです」
探索者は振り返ることなく、すさんだ瞳を鋭く細めたまま静かに言い切った。
根拠も理論もない。ただ、胸の奥で渦巻く致命的なまでの違和感と嫌な予感。ここで足を止めれば、自分たちの勝利すらもあっけなく覆される——直感がそう告げていた。
「っ……じゃあ約束して!!!」
珍しく感情を剥き出しにし、叫ぶような声を荒らげたカヨコに、探索者は思わず足を止めた。
いつもなら冷徹で、どんな異常事態にも冷静さを崩さない彼女が、前髪の隙間からすがるような、けれど強い拒絶を秘めた瞳でこちらを射抜いている。
「無茶して、勝手に死なないって!! 絶対に生きてここまで戻ってくるって!!私と約束しなさいよ……!社長が…!!ムツキが…!!ハルカが…!!皆が悲しむ……!!」
喉を震わせ、拳を強く握りしめるカヨコ。
探索者は一瞬だけ呆然と目を丸くしたが、すぐにいつもの擦れた、けれどどこか苦笑いの混じった不敵な笑みを口角に浮かべた。
「……言われなくても死ぬつもりなんて毛頭ねぇよ。ありがとな」
背中でそう短く言い残すと、彼は『門の創造』によって切り開かれた空間の歪みの中へと、一切の迷いなくその身を投じた。