『門』を潜り抜けた先、視界を塞いだのは重く歪んだ空間の奔流だった。
足を踏み降ろした瞬間に広がっていた景色——それは、かつてあの『黒いシロコ』が引き起こした空間の歪みへ飛び込んだ際に目撃した光景と、完全に一致していた。常識の物理法則が破綻し、異質な概念と歪む光線が漂う、果てのない絶対的な虚無の領域。
直感の告げていた違和感の正体が、目の前の空間そのものとなって圧しかかってくる。
「っ……!?」
ふと隣に視線を向ければ、そこには息を呑む先生と、隣に立つ銃を強く握りしめたシロコの姿があった。
"た……探索者? なんでここに……"
「今はそれより向こう!」
戸惑いを露わにする先生の問いかけを速攻で遮り、探索者は正面の闇を鋭く射抜いた。
シロコが中央に鎮座する『それ』に銃を向ける。探索者達よりも遥かに巨大な体躯を持ち、全身に白いローブを纏い、顔には人間の顔を模した無機質な仮面をつけていた。
(……あれが色彩の嚮導者『プレナパテス』か)
「止まれ───!!」
シロコが殺気立った声を張り上げる。
「少しでも動いたら……撃つ!!」
「下手な抵抗はやめた方がいい。ここには……『シャーレの先生』が居る。だからもう、全部終わり」
「大人しく降参して、すぐに……」
しかし、プレナパテスは意にも介さず、ゆっくりと包帯に覆われた右手を動かし始めた。
「う、動くな……! 手を上げろ!」
「さもないと……撃つ!」
制止の警告に、プレナパテスは一切耳を傾けない。巨大な影がただ淡々と、機械的に動作を継続する。
「……と、止まれ!」
それでも、止まらない。
不気味な静寂を破り、プレナパテスがその手に取り出したのは——
"……我々は望む、ジェリコの嘆きを。"
"……我々は覚えている、七つの古則を。"
重なり合う機械的な音声と共に現れたのは、銃弾で所々が割れ、痛々しい亀裂の走った『シッテムの箱』。先生が持つそれと、全く同じ端末だった。
「くっ───────!?」
耐えかねたシロコが、ついに引き金を引く。
激しい銃声が歪んだ領域に轟き、放たれた弾丸の群れが容赦なくプレナパテスを襲う……襲った、はずだった。
「銃弾が……全部、外れた……?」
シロコが呆然と呟く。
周りには遮蔽物など何一つない。ましてや目と鼻の先、必殺の距離で叩き込まれた射撃だ。外れる訳がない。にもかかわらず、巻き起こった硝煙の中から姿を見せたプレナパテスは、傷一つ負わないままそこに佇んでいた。
(チッ……"被害をそらす"かそれに準ずる魔術……いや……そうじゃないな。固有の能力だろうな)
探索者はすさんだ目を限界まで細め、荒い呼吸を整えながら歪んだ領域の全体を冷静に俯瞰する。空間の歪み、立ち込める異世界の粒子、そして散らばる瓦礫——その中で、ふと一つの無機質な「石」に視線が止まった。
何の変哲もない小さな黒い石片だ。だが、常人に認識できない確率のバグや理の揺らぎを察知する彼の野性が、強烈な不協和音を鳴らしている。
(……なんなんだあの石は。理由は分からねぇが、妙に引っかかる……!)
プレナパテスが持つ割れた『シッテムの箱』が不気味な光を放ち、さらなる奇跡の改変を予感させる。ここで躊躇していれば、あっという間にこちらが詰む。
「シロコ! 距離をとりながら攻撃を続けろ!!」
短く、鋭く指示を飛ぶ。
「ん……了解!」
シロコが即座に跳躍し、プレナパテスの牽制のために連続射撃を叩き込み始める。その銃撃の合間を縫うようにして、探索者は手袋を嵌めた手で地を蹴り、目当ての石に向かって一直線に駆け出し、それを掴む。
直感にただ身を任せ、すくい上げたその石ころに全身のタメを乗せて——躊躇なくプレナパテスへと投擲した。
鋭く風を切り、一直線に飛翔した石ころは、いとも易々と防御を突き抜けてプレナパテスの無機質な仮面へと向かう。
コツン、と間抜けた音が響いた。
(当たった……!?)
どんな銃頭も滑り落ちたはずの防衛能力をあっさりと貫通した手応え。だが、安堵する隙など一瞬たりとも与えられなかった。
『駄目じゃない。そんな事しちゃあ』
頭上でも、正面でもない。
すぐ耳元——冷や汗が噴き出すほどの至近距離、探索者の背後から、直接鼓膜へと滑り込んでくる歪んだ声。
「っ——!?」
ハッと気がついた瞬間には、世界がぐにゃりと反転していた。
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虚無の空間は掻き消え、眼前に広がっていたのは無数のビルが乱立する荒廃した街並み。強烈な衝撃とともに吹き飛ばされた探索者の身体は、硬いアスファルトの上を激しく転がっていた。
アスファルトに背中を打ち付け、吐き気と痛みをこらえながら身を起こす。帽子を深く被り直し、すさんだ眼光を前方に向けた探索者の息が止まった。
倒壊したビルの影からゆっくりと歩み出てくる人影。
それは——自分自身だった。
服装も、体格も、佇まいすらも完全に一致した、もう一人の自分。
(平行世界……?)
一瞬、脳裏を掠めた疑念。だが、何千何万という理不尽な確率や世界の歪み、死線を観察してきた探索者の本能が、すぐさまそれを冷徹に否定した。
(いや……あれは私ではない)
目の前に立つ「自分」の輪郭をどれほど正確に模倣していようと、内側から醸し出される気配の質があまりにも違いすぎている
人間の形をしている。自分と同じ顔をしている。だが、あれは人間じゃない。
これまで何度も神格存在を見てきたからこそ分かる。
あれは神だ
かつて数々の狂気と怪異に対峙し、這い上がってきた探索者の経験が、その存在の異常性を一瞬で見抜いていた。人の形を模しただけの、圧倒的で絶対的な何か。
「……お喋りに付き合ってくれるのか? 折角だ。殺し合う前に互いの自己紹介でもしねぇか?」
探索者はいつも通り減らず口を叩き、すさんだ瞳の奥で冷たく計算を巡らせながら、極限の緊張感の中で情報を取りに行く。
『ん? いいよ』
「自分」の顔をした怪異は、あっけらかんとした軽い調子で応じた。その声には何の抑揚もなく、ただ空間そのものを震わせるような不気味な響きだけが漂っている。
「そりゃ助かる。じゃあ言い出しっぺの俺から行くか……しがないただの詐欺師でね。わけあってそっちのデカブツの邪魔をしに来た」
探索者はポケットに片手を突っ込んだまま、相手のわずかな挙動も見逃すまいと視線を固定する。
「で? あんたはどこのどちら様だ? 俺の顔を断りもなく無断使用してる泥棒神様」
『…そうだねぇ…僕は君でもあり…この世界の意思でもある』
「…そうか、そうかぁ…じゃあやっぱり俺を殺しに来たって感じか?」
『そうなるね。そういう君はなぜ僕がここにいるのかが分かっているみたいだ』
「まあね」
荒廃したビル街の風が、探索者の煤けた上着を揺らす。彼はすさんだ目を極限まで細め、自分と同じ顔をした神を見据えたまま、ポケットの中で白い手袋を嵌めた手をゆっくりと握り込んだ。
「ここまで来て気づかないほど鈍感系主人公やってないんだわ」
探索者は肩をすくめ、鼻で嘲笑うように息を吐き捨てた。
『…不可解だ。君は君の理由に気づいているんだろう? ならばなぜ僕に、君を陥れた神に恨みを吐露しないんだ?』
「自分」の形をした神は、機械のように完璧で無機質な首の傾げ方を見せる。
「……お前は災害に対して恨みを言うのか? 厄災に対して返せと暴言を吐くのか? んなことしたって失ったものは返ってこないし、厄災達が反省するわけがない」
探索者の冷徹で乾いた声が、荒廃したビル街の静寂に響く。
『…では、君は僕をどうするつもりなんだ?』
神は無感情な瞳で問いかけてくる。世界の理そのものが持つ、圧倒的なまでの冷酷さ。
「簡単な話さ」
探索者は短く、一つだけ息を吐き捨てた。
己の存在意義も、課せられた理不尽な運命の重みも、すべてを削ぎ落として心臓の奥底へと押し込め、ただ眼前の敵を見つめる。
「お前は俺を殺したいからその為に動く。俺は殺されたくないから抵抗する。それだけ……いつものことじゃないか」
すさんだ目の奥に、ぎらりとした野生の光が宿る。
神だろうが、世界の意思だろうが関係ない。これまでもずっと、死線という死線を執念だけで生き延びてきた。
「さあ、始めますか。調律の神様」
探索者はポケットの中から手袋を嵌めた手を引き抜き、静かに指を弾いた。