ここは……?
薄暗く静まり返った白い世界の中で、俺は意識を取り戻した。
冷たさも温かさも感じない、妙に平坦な床の上に横たわっている。体を起こそうと手をつき、自然と自分の体へ意識を向けた。
……確か、俺はあの少女みたいな形をした怪異にやられて……あぁ、そうだ。完全に脇腹を貫かれてたんだ。
だが、腹に手をやってみても、傷穴はおろか血の痕跡すら残っていない。
「にしても……どこだ、ここ? ぱっと見、5億年ボタンの空間っぽいけど……若干違うな。走馬灯って雰囲気でもねぇし……あるいは幻術の類か?でもリアリティねぇしなぁ…」
無限に続くかのような無の空間を見回し、ひとり思考を巡らせていた、その時だった。
『ここは私の世界ダ』
頭上から、抑揚のない機械的な声が響いた。まるで空間そのものが発声しているかのように、直接脳を揺さぶる奇妙な音。
見上げれば、そこに佇んでいたのは見覚えのある影だ。
……どちら様? いや……お前、あれか。さっき俺を殺しに来た奴
『そうだ。そして出る事は出来ナイ』
感情を削ぎ落としたその瞳が、じっと俺を見下ろしている。隔離された無の領域で、俺と、俺を殺した怪異——二つの異質な存在だけが静かに対峙していた。
出る事が出来ないってことは…お前の領域みたいなもんか。
俺は腹の傷があったはずの場所を軽く撫でながら、ゆっくりと立ち上がった。
今はどことなくふわふわしてて現実味がない感覚がするし、恐らくこの意識の空間自体がお前の支配下なんだろう。
それはさておき
「始めまして、怪異。名前はあるかい?」
『名前などナイ。オマエはただ絶望スレバイイ』
釣れないこというなぁ…古事記にも挨拶は大切だって書かれているのに…
んで?絶望?ってことは…
「何らかの使命受けて心へし折りに来たってところ?」
『使命ナド知らン。私ハただその為に生れタ』
うーん…会話がしんどい…面倒くさい……俺の精神を殺しに来たってこと?
『そうだナ』
そうか…ってかこのモニター何?
俺がそう告げると、ブザーが鳴り、上映が始まる。
その光景に見覚えがあった。
「えぇ…まさかの人生上映?」
真っ白だった無の世界に、突如として浮かび上がった巨大なスクリーン。そこに映し出されたのは、あまりにも見慣れた俺の過去の映像だった。
「まさか、ベタなトラウマの蒸し返しってやつか?勘弁してくれよぉ…スバルじゃないんだからそんなオモロイもんでもないのに…」
呆れ果てた声で呟きながら、俺は画面の隅々に目を走らせる。
写っているのは……どこかの村?
(あぁ、これあれだ。最初期のカニバル村)
吐き気を催すような異臭と、湿った血の匂いが漂ってきそうな映像。人間を家畜のように扱い、解体し、貪り食う狂気の村。俺がまだ駆け出しの探索者だった頃、巻き込まれた最初期の地獄だ。
スクリーンの中では、若かりし日のあいつが泥と血に塗れながら、必死に息を潜めている。
『コレガ、オマエタチノ原罪ダ。この悲惨ナ過去ニ、絶望スレバイイ』
「うわなっつ!久しぶりに見たわ。うわー!東上じゃん!まだ生きてる!久しぶりに見たわ!!」
俺の呑気すぎる大声が、静寂に包まれた無の空間に思いきり響き渡った。
東上の奴、この頃はまだ五体満足で元気に走り回ってやがったんだな。後にあんな悲惨な目に遭うとも知らずに……いやぁ、懐かしいなぁ
『……ナニ?』
俺の予想外すぎるリアクションに、頭上の怪異が心なしか困惑したような間を置く。
「そうそう。このクソ女が俺たちの邪魔しかしねぇんだよなぁ……最後にはチェーンソーでぶった切られるけど」
画面の中では、必死の様相で逃げ惑う女の後ろから巨大なチェーンソーを掲げた村人が迫り、鮮血と悲鳴がスクリーンいっぱいに弾け飛んでいた。俺は腕を組み、映画鑑賞でもしているかのように満足げに頷いてみせる。
『……オマエハ、恐怖ヲ感ジナイノカ? 絶望しないのカ?』
一瞬の沈黙の後、怪異の無機質な声にかすかな不協和音が混じる。
「感じねぇよ、そんなもん。終わった過去のビデオ上映会で何を怯えろってんだ」
『無力だとハ、情けナイトは思わないノカ?』
「うーん……情けないとは思うぞ? でもさ、そんな事思ったってその過去が変わるわけないじゃん」
俺はあきれたように肩をすくめ、血の匂いすらしない虚空に向かってあっけらかんと言い放った。
『……無価値ダ。オマエノ足掻キニハ、何ノ意味モナイ』
怪異の無機質な声に、わずかな苛立ちのようなノイズが混じり始める。スクリーンに映し出された凄惨な光景——血飛沫と悲鳴が飛び交う殺戮の場面を背景に、機械的な眼差しが俺を射貫く。
「意味ねぇよなぁ、ホント。俺もそう思うわ」
俺は腕を組んだまま、画面の中でチェーンソーに追われて無様に泥を這い回る過去の自分を冷ややかに眺めた。
「でもさ、意味がねぇから何だってんだ? 惨めで、無様で、反吐が出るほど格好悪ぃ過去だけどよ……俺はこうして今も生きてんだわ」
『……理解不能ダ』
「ま、時間はたっぷりあるんだ。互いに理解深め合ってこうぜ? どーせしばらくは出られないんだろ?」
『暫クナドデはない。永久ダ』
「んなわけないんだよなぁ……これが」
俺は鼻で笑い、スクリーンから目線を切って怪異の気配が存在する虚空を指差した。
「「E=mc²」—それはどの世界でも変わらずにある物だ。どれだけ時間の進みが遅かろうが、現実世界は必ず進む」
どれほど精巧に構築された 世界であろうと、事象が動き、情報が伝達され、俺とこの怪異が存在して思考している以上、そこには必ずエネルギーと質量の不変律が働いている。精神を閉じ込める領域だろうが何だろうが、現実世界の時間経過と物理的干渉から完全に途絶された『絶対の無』など存在し得ない。
「5億年ボタンと一緒だ。あれも0.1秒まで短縮できてるが、それでもそれ以上には出来ない」
俺はあくびを噛み殺しながら、まるで退屈な講義でも始めるかのように言葉を続けた。
「思考や意識の体感時間をどれだけ限界まで引き延ばして体感5億年に仕立て上げようが、現実世界の物理的な限界値……0.1秒なり最小の量子単位なりをゼロにすることは絶対に出来ねぇんだよ。お前が俺の意識をいくら弄くって永遠を演出したところで、外の物理法則まで完全に停止させることなんて出来やしない」
『……』
「ま、それが、何年後か何十年後か何百年後か何千年後かは分からんけどな。こちとら5億年ボタン500週はしてるんだ。その辺は無問題ってわけ」
『……ゴ、ヒャク……シュウ……?』
怪異の無機質だった声に、明確なノイズと混乱が混じり始めた。機械的だった輪郭がわずかに揺らぎ、空間のあちこちで走馬灯のようなノイズが奔走する。
「おうよ。体感5億年×500回。単純計算で2500億年だ。もうな、時間の概念なんてとっくの昔に崩壊してんだよ」
俺は肩をすくめ、自分の手元を所在なさげに眺めた。
『……ナゼ?』
「簡単な話。そうでもしないと生き残れなかったの」
俺は懐かしむように、虚空の向こうへと視線を投げた。
「5億年ボタン。俺が実質的に初めて手に入れたアーティファクト、その能力は至ってシンプル。『五億年過ごせば100万円』ってもの。だけどこの報酬形態が気に食わなかった。だから、改造したの」
「『報酬を無しにするかわりに、一つだけアイテムを持ち込む』って方式にね」
無機質な空間に、俺の淡々とした声だけが響く。
『……ナゼ……改造、ナド……?』
空間の破綻を示すかのように、怪異の声が激しい雑音とともに歪む。
「簡単な話。元々の仕様だと、5億年過ごした記憶は現実に戻った瞬間に消去される仕組みだったからな。どれだけ中で修行しようが試行錯誤しようが、戻ったら全部チャラで、手元に残るのたったの100万。あまりにも効率が悪すぎるだろ?」
俺は白手袋を嵌めた指先を軽やかに鳴らした。
「だから俺は、縛りを使って記憶の消去プロセスを書き換えた。報酬の100万なんぞ捨てて、代わりに『一個だけアイテムを持ち込める』ようにルールを変えたの。足し引きの問題だったから案外簡単にいけたけどね。それだけ5億年ってのは強大な罰だしね」
『……記憶ヲ保持シタママ……五億年ヲ……500回……?』
「勿論最初の1回目は苦痛だったよ?最初は確か…刀を持ち込んだかな。何千回何万回。何兆回…振っても振っても頭がおかしくなりそうだった」
俺は白手袋の感触を確かめるように、ゆっくりと手を握り込み、そして開いた。
「狂気と絶望に叩き落とされ、発狂して、自分の精神を何度もすり潰したさ。だけどな、5億年ってのは狂い果てるのすら飽きるほどに果てしない時間なんだよ。発狂の先にある虚無すら通り越して、ただひたすらに素振りを繰り返す。それしかやることがねぇからな」
スクリーンに映し出されていたカニバル村の悲惨な光景は、もはや背景のチープな背景画のように明滅している。
「その次は確か医学だったかな?人体模型と手術キットセットで持ち込んで10億年。やりまくって腕を磨いた。そういや途中で人体模型とお喋りしてたな」
俺は遠い目をして、どこか愛おしそうに過去を振り返る。
「最初は名前を付けて遊んでたんだが、そのうち本気で返事が聞こえる気がしてきてな。解剖しては縫合して、骨の構造から神経の繋がりに至るまで、完璧に体に叩き込んだ。10億年もあれば、人体模型相手でも普通に医者になれる。ま、どこぞの手術バカには及ばなかったけど、今度は勝つ!!」
『……正気デハ……ナイ……』
正気じゃない…か。
ま、確かにそうだな。人間の思考回路じゃ思いつかないことだし……何より俺でも狂ってるとは思う。
でも……
「そうでもしないと生き残れなかったんだよねぇ……」
俺はぽつりと呟き、あきれたように小さく肩をすくめた。
あの泥と血に塗れたカニバル村から始まり、幾度となく訪れた理不尽な死線。常識や正気のままでいられた奴から順番に、容赦なく肉塊に変えられていった。
「対抗策として考えたのがこれだからねぇ…」
「折角だし俺の武勇伝でも語るかぁ!気になるだろ?ネタにはこの欠かさないぜ?なんせ何十倍も濃い人生語ってるからな!この映像の副音声として語るぜ!」
精神を粉砕するための絶望的なトラウマ上映会のはずが、ただのコメンタリー付き思い出鑑賞会に成り下がろうとしている。
「じゃあまずはこのシーン! ほら、この路地裏で俺が村人に追い詰められてるだろ? これ実はな、パニックになって逃げ回ってるように見えて、裏にいる東上達を逃がそうとしてるんだよ!」
俺はスクリーンの中で必死に泥を跳ね上げながら走る自分を指差し、身乗り出して熱弁を振るう。
「でもな! あのクソ女が『私はあの子犬を助けたい!』とか言い出して東上連れて突っ込むんだよ!」
思い出すだけでも頭が痛くなってくる展開に、俺は大袈裟に額を押さえて天を仰いだ。
「なぁ、正気か? 命懸けの脱出劇の真っ最中に子犬だぞ子犬! おかげで俺が必死に稼いだヘイトも稼ぎ直しだし、逃げ道は塞がるしで一気に詰みかけたんだからな! あの時の俺の絶望感、このチープな映像じゃ伝わらねぇのが本当に惜しいわ!」
『……オマエハ……ナニヲ……』
スクリーンに映し出された悲壮感漂う惨劇は、完全に俺のコメンタリーによって台無しにされていた。怪異の声はもはや恐怖を煽る威厳すら失い、ただただ困惑に満ちている。
そんなこんなで探索者の人生上映は喧しい副音声と共に進んでいった。