お礼参り
ゲヘナ学園、風紀委員会本部のエントランス。
重厚な扉の前に立つ探索者は、手元の紙袋の中身を軽く揺らし、深く溜息をつく。
(……ったく、先生に『あんな無茶苦茶をしたんだから、ちゃんと謝ってきなさい』なんて言われなきゃ、一生近寄りたくない場所なんだがなぁ……まぁでもあの『空崎ヒナ』と仲良くなるのは悪くない)
彼が受付で「シャーレの事務員です」と(一応の真実を)告げると、応接室に通されたのは数分後のことだった。扉が開いた瞬間、そこにいた面々の反応は劇的だった。
「ッ! 貴様、よくもノコノコと……!」
反射的に愛銃を抜き放ち、銃口を突きつけてきたのはイオリだ。その脚は、あの日刻まれた「罪」の重圧を思い出したのか、わずかに震えている。
「ちょ、ちょっとイオリ! 銃を下ろしなさい、一応シャーレの使いだと言っているでしょう……うぅ、胃が……」
アコが青い顔で胃を押さえながら制止し、その背後ではチナツが「ヒッ……!」と短く悲鳴を上げて、資料の山に隠れるように身を縮めた
彼女たちにとって、その「死んだ魚のような目」は、もはや生理的な恐怖に近かった。
そして、部屋の主
「……貴女、あの時の『探索者』ね」
ゲヘナ最強の抑止力、空崎ヒナが、デスクに山積みの書類から顔を上げた。その双眸には冷徹な警戒心と、それ以上に「厄介な客が来た」という隠しきれない呆れの色が混じっている。
「ええ。本日は、先日の……その、一方的な重圧について、一言お詫びをと思いまして」
探索者はイオリの銃口を、まるで邪魔な枝でも払うような無造作な動作で指先で、ほんのわずかに軌道を逸らし、持参した缶をテーブルに置いた。
「先生からの伝言です。『皆さんの健康が心配だ。無理をしないでほしい』……とのことですよ。あの方は、自分に銃口を向けた相手まで心配する、お人好しの極みですから」
「……相変わらずね、あの人は」
ヒナがわずかに毒気を抜かれたように息を吐き、視線を卓上の缶へと落とした。
「……それ、何かしら」
短い問い。しかしその一言で、室内の空気が再び張り詰めた。イオリの指が引き金にかかる力を強める。
「その缶……中身を確認させてもらうぞ…規制品の可能性もある」
「ええ、当然の対応ですね」
探索者はあっさり頷き、缶の蓋に指をかけた
「ご安心を。危険物の類ではありませんよ?」
軽い音を立てて蓋が開く。中から現れたのは、粉砂糖をまとった三日月型の焼き菓子。
「キプフェルです……まあ、簡単に言えばクッキーの類ですね」
「……お菓子?」
チナツが小さく呟く。
「……誰が作った」
「私ですよ」
「は?」
探索者はあっけらかんとした表情で当然のように答える。
「……毒見は済ませてあるのか?」
「元料理人として、毒を混ぜるなんて卑怯なことはしませんよ」
「「…………」」
「……おい、今『元』って言ったな」
「言いましたね」
「なんで辞めた」
「さあ?」
あっけらかんと返す探索者。その態度に、チナツが小さく震えながら口を開く。
「……そ、それ……安心していい情報…?」
「どうでしょうね。私を信じるか、空腹に負けるか。選ぶのは皆さんです」
探索者はくすりと笑った。
「……貴様。自分で焼いたものを他人に持ち込む神経、私には理解できん。謝罪の品なら、普通はどこか有名な店の詰め合わせでも買ってくるものだろう」
「失礼ですね。謝罪の品くらい、手間をかける主義なんですよ」
その答えに沈黙が走る
「……随分と、場違いなものを持ってきたわね」
張り詰めた沈黙を破ったのは、ヒナの極めて自然な動作
山積みの書類から視線を外すと、彼女は躊躇なく、真っ白な粉糖を纏った三日月型のクッキーへと手を伸ばした。
「ちょ、委員長!? 毒見が済んでいないと言ったばかりですよ!」
「そうよ! 委員長、こんな胡散臭い女が焼いたものなんて……!」
アコとイオリが、悲鳴に近い声で制止するが、ヒナの指先は止まらない。まるで日常の事務作業の一環であるかのように、極めて淡々と、その欠片を口へと運んだ。
「…………」
サクッ、と、繊細な生地が砕ける音が静かな室内に響く
「……委員長?」
アコが固唾を呑んで、ヒナの顔色を窺い、毒、麻痺、あるいは精神操作……最悪の事態を想定して、チナツが救急キットを握りしめる。
しかし、数秒の咀嚼のあと、ヒナの口から漏れたのは、長い長い溜息
「……アコ。イオリ。騒ぎすぎ」
「えっ」
「……美味しいわ。これ」
ヒナの表情は相変わらず崩れない、その瞳の奥にあった鋭い刺が、雪が溶けるようにわずかに和らいでいた。アーモンドの香ばしさとバニラの甘みが、張り詰めていた彼女の神経を、物理的に解きほぐす。
「……バターの質も、焼き加減も完璧……」
ヒナが淡々と評価を口にする。その一言に、チナツがはっと息を呑んだ。
「……ほ、本当ですか?」
「ええ、チナツ。貴方も食べてみて」
「……じゃ、じゃあ……い、いただきます……」
サクッ
「……あ」
一瞬、目を見開き…そのまま表情がふっと緩む。
「……おいしい……です」
「なっ……!? チナツ、お前……!」
イオリが思わず声を荒げるが、当のチナツはクッキーを見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……なんていうか、その……安心する味、です……」
「安心?」
「はい……なんかこう……ちゃんとした材料で、ちゃんと作られてるっていうか……」
「……今までの人生で何を食べてきたのか問い詰めたくなる感想ですね」
探索者が死んだ魚のような目で冷静に突っ込むと、チナツは「そ、そんなことないです!」と耳まで赤くして否定した。その光景を横目で見ていたアコが、腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔で唸る。
「……っ委員長とチナツがそこまで言うなら、一応、私も確認だけは……」
「おい、アコちゃんまで……」
「これは風紀委員として当然の『精密検査』です!」
「それを言うなら私が先にやるべきだろうが!」
「さっきまで撃とうとしてた人間の言葉とは思えませんね!
」
ギャーギャーと言い合いながらも、結局アコが一枚つまむ。
サクッ
「…………」
「……どう、アコちゃん?」
イオリが怪訝な顔で覗き込む。だがアコはそれを無視し、無言のまま二枚目に手を伸ばした。
「…………別に、普通です」
「二枚目いったな、今。しかも一瞬で」
「確認です。サンプル数は多い方が精度が上がるんです。……むぐっ」
「どんな確認だよ……」
探索者が呆れるのを余所に、イオリも舌打ちしながら缶へ手を伸ばした。
「……チッ。だったら私も確認してやる。毒がないかどうか!」
サクッ
「…………」
「……どうです?」
今度はアコがニヤニヤしながら問いかける。イオリは数秒ほど噛みしめるように黙り込み
「……まあ、食えなくはないな」
そう言いながら、吸い込まれるように三枚目を手に取った。
「お前も三枚目いってるじゃねえか!」
「……安全確認だ。不測の事態に備えてるんだよ!」
「お前もかよ!」
探索者の突っ込みと共に、室内にはあの日とは正反対の、奇妙に穏やかで甘い空気が広る
その中心で探索者は、自分でも一つ摘まみ、口に運んだ。
サクッ
舌の上でほどける食感、広がる甘み。
「…………駄目ですね」
ぽつり、と呟く。
「え?」
「味は成立している。技術的にも問題はない……でも、足りない」
探索者はクッキーを見つめたまま、わずかに眉を寄せる。
「前なら、もう少し“記憶に残る味”を出せていたはずなんですが…………腕が訛りましたねぇ…悲しい…」
「……これで?」
「ええ、これで、です」
探索者の即答に、アコとイオリは「十分すぎるだろうが!」「これ以上どうするのよ……」と同時に戦慄する。
「……うーん…バターの温度管理か。あるいは粉の配合……いっそ、例の禁忌スパイスでも……」
「ちょ、ちょっと待ってください!こ、これ以上美味しくなったら、その……仕事にならなくなる人が出ると思います!」
「……確かに」
「え?」
「甘味は集中力を奪うわ。これ以上の完成度は、風紀委員会の業務遂行に支障が出る恐れがある。……今のチナツの発言を、あなたの技術向上に対する『却下理由』として正式に採用するわ」
「……ちょっと待ってください」
探索者は死んだ魚のような目をさらに細め、心底呆れたように肩をすくめた。
「今の言い草だと、私のお菓子がいつの間にか風紀委員会の『備品』か何かに登録されてるみたいなんですが。いつの間に商品化……いえ、制式採用されたんですか、これ?」
「…………まだ予算編成には組み込んでいないけれど。検討の余地はあるわね」
「マジで言ってます?」
ヒナが至極真面目な顔で返すので、探索者は思わず天を仰いだ。隣ではアコが「備品名は『対ストレス用高効率エネルギー』……予算案の項目は……」と、本当にタブレットを叩き始めている。
「…………そもそもこれ、非売品なんですけど」
「なら、専属契約はどうかしら。シャーレの事務員を辞めて、ゲヘナの「丁重にお断りします。私はあのお人好しのコーヒーを淹れるので手一杯ですから」…」
探索者は食い気味に拒絶した。その迷いのない断り方に、ヒナは少しだけ意外そうに目を瞬かせ、それから……ほんのわずかだけ、口角を上げた。
「……そう。残念だわ」
そのやり取りの間にも、缶の中身は着実に減っていく…ふと気づけばーー
「……あれ?」
「もう……中身がほとんど無いです……」
「……」
「……」
「……」
探索者以外の全員の視線が、同時に逸れた。
「……アコちゃん! さっきから分析とか言って、食べすぎ!」
「イオリこそ私よりも三枚多く食べたでしょう!? 」
「私は安全確認だと言っているだろう!」
「私もです! むしろ私のほうがより精密に味わって……」
「……私は普通に食べました……美味しかったので、つい……」
再び始まった、どこか平和な小競り合い。
その様子を見て、探索者は小さく溜息をつき、右手の指に嵌められた指輪に軽く触れた。
次の瞬間。掌の上に、重厚な包みと小さな茶缶が現れた。
「……仕切り直しましょうか」
「……ッ!? い、今、何をしたの!?」
アコが鋭く叫び、身を乗り出した。イオリに至っては、今度こそ物理的に目を剥いている。
「貴様……! 今、何もないところから……空間を弄ったのか!? どこの学園の技術だ!」
「……? 何の話です? ずっと隠し持っていただけですよ。探索者たるもの、予備の予備まで持ち歩くのは常識でしょう……相当お疲れのようですね、幻覚まで見えるとは」
探索者は表情一つ変えず、さも当然のように「たった今現れた」茶缶の埃を払ってみせた。その徹底したしらばっくれに、ヒナの瞳が疑念で細められる。
「……それで、次は何?」
「ショートブレッドですよ。バターと砂糖と小麦だけの、ただの焼き菓子です……もっとも、シンプルだからこそ誤魔化しが効かない。こういうのが一番、腕が出るんですよ」
探索者は淀みのない手つきで包みを解いた。中から現れたのは、無骨なまでに四角く、しかし完璧な焼き色を纏ったスティック状の菓子だ。
「保存用に少し硬めに焼いてあります。崩れにくいし、日持ちもする」
「保存用?」
「ええ。水分が極限まで少ないですし、味も安定している。持ち運びにはちょうどいいんですよ……これで数日、光の届かない場所を彷徨いながら飢えを凌いだこともありますし」
さらりと言ってのける探索者の言葉に、三人の視線がわずかに引きつった。キヴォトスの生徒たちの中でも修羅場には慣れている方だと自覚している風紀委員会であるが、彼の語る「飢え」や「彷徨」には、どこの学園の常識とも異なる、どす黒い実戦の気配が混じっていた。
「……それ、常備してるの?」
「してますよ。いざという時の備えです……口の中がパサついているでしょう? 良いダージリンの茶葉もあります。淹れて差し上げますよ」
「……あんた、ほんとに何者なのよ。事務員が聞いて呆れるわ」
イオリが戦慄混じりに吐き捨てると、探索者は「死んだ魚のような目」のまま、感情を削ぎ落とした声で返した。
「ただの事務員ですよ?ま、『探索者』ともいいますけどね」
「……ああ、その前に一つ」
「?」
「給湯室、どちらです?」
「……は?」
「流石にこれをそのまま食べさせるほど、性格は悪くないので。ダージリンを淹れます。口の中が砂漠になりますよ、それ」
アコが一瞬ぽかんとした顔をしたあと、慌てて口を開く。
「きゅ、給湯室なら廊下を出て右ですけど……って、ちょっと待ちなさい! なんで当然のように使う流れになってるんですか!」
「使わせない理由でも?」
「ありますよ普通に! 部外者でしょうあなた!」
「今さらですね」
「銃口向けた相手を応接室に通してる時点で、線引きなんてあってないようなものでしょう」
「ぐっ……!」
アコが言葉に詰まり、チナツがおずおずと手を上げた。
「あ、あの……私、案内します……」
「助かります」
探索者は一拍置いてから、静かに、釘を刺すように付け加えた。
「……ああ、それと。これ、食い切らないでくださいね?」
「「は?」」
「いや、普通に困るので。私が食べる分が無くなるのは死活問題です」
「普通って何ですか!? 謝罪に来たんじゃないんですか!?」
「さっきのキプフェルで謝罪分は完済しました。これは私の私物です……そもそも、今すぐに一缶まるごと『確認』する必要、ありました?」
「うっ……」
イオリが気まずそうに目を逸らす。チナツも小さく肩をすくめた。
「……まあ、今回は量も出していますし。多少は目を瞑りますが……」
「多少って?」
「半分までです。それ以上手を付けたら、指を詰めるとまでは言いませんが……相応の『重圧』を覚悟していただきますよ?」
探索者の即答に、ヒナがふっと小さく息を吐いた。
「……随分と分かりやすい線引きね。気に入ったわ」
「当然です。これは献上品ではなく、私の生存に必要な『嗜好品』ですから」
ヒナは納得したように頷くと、迷いのない動作で菓子へと手を伸ばした。
その回答を聞いた探索者は
(多分ちゃんと半分食べられるんだろうなぁ……もう一缶用意しといて良かった)
と内心で呟きながら、給湯室へ向かっていった。
案の定、探索者が戻ってくると、缶の中身はきっちり半分──それはもう、測ったように消えていた。
「……律儀ですねぇ」
誰にともなく呟き、そしてそのまま、無言でもう一缶を取り出した。
──結果として、その日
探索者は、非常食用として作っていた菓子をさらに二缶と
そして、少し良いダージリンを一缶開ける羽目になった。