カラン、と
硬質な音が屋上に響いた
その瞬間
「――ッ!?」
ネルの視界の端で、四方に配置された札から鮮烈な“赤”が噴き上がった。
それは壁となり、天井となり、瞬く間にネルの周囲数メートルを立方体に切り取る。
反応するよりも早く。踏み込むよりも先に。
ビル屋上の輝く青空は、赤黒い膜の向こう側へと切り離され――結界は完全に“閉じた”
「……は?」
そこは、屋上に突如として現れた「赤い小部屋」だった。
視界のすべてを塗り潰す、どろりとした深紅の光。
音が不自然に反響し、空気は肺を圧迫するほどに薄く、重い。
「チッ……!」
即座に状況を理解し、ネルは最短距離で赤い壁へと拳を叩きつける。凄まじい衝撃波が結界内を震わせた。だが
「……ッ、硬ぇな」
手応えはある。だが“壊れる感触”が一切ない。
最強の一撃をもってしても、その赤い壁は波紋を立てるだけで、ビクともしなかった。
「正面から、とは言いましたが……『準備をしていない』とは言っていませんので」
壁の向こう側――結界の外から、探索者の淡々とした声が響く。
足元に貼り付けられた数枚の札が、脈動するように赤く発光していた。
「その結界は、この結界札を使うことで、私以外の出入りを制限する……もっとも、私は未熟ですから維持できるのは10分という短い時間だけですがね」
そう言いながら、探索者はスッと赤い膜を透過し、ネルの待つ「部屋」の中へと足を踏み入れた。
「本来であれば怪異やトラウマから身を守ったり、あるいはそれらを閉じ込めるための物ではありますがね」
自ら逃げ場のない密室へと入り、最強の猛獣と対峙する。その姿は、狂気と合理性が同居した、不気味な静謐さを湛えていた。
「……あぁ、一応忠告しておきますが。私を殺すと、この結界は出口を失い、永遠に崩れなくなります。ご注意を」
「貴方は外に出られず、私もここで死ぬ……お互いにとって、最悪な『詰み』だ。合理的でしょう?」
「……ハッ。死なば諸共ってか。テメェ、本当に狂ってやがるな」
ネルの口角が吊り上がる。だが、その瞳の奥には拭いきれない疑問が浮かんでいた。
「だがよ……だったら、なんでテメェはこの中に入ってきたんだ? 外で見物してりゃ、私に殺されるリスクもねぇだろうが」
当然の問いだ。この赤い箱は永久に開かない檻にもなるが、それには術者である彼が死亡することが条件、ならば外にいるのが最も安全で、合理的だ。
探索者はその問いに答えず、無造作にコートのポケットから「それ」を取り出した。
ネルが身構える。
だが、現れたのは凶悪な武器でも、不気味な魔導書でもなかった。
「貴方が10分間、暇をしないようにと思いましてね……一緒にゲームでもしようかと思いまして」
探索者の手に握られていたのは、見覚えのあるタブレットとコントローラーだった。
「…………はあぁ!?」
──────────────────────────
「テッ...... テメェ..... 本気で言ってん のか!?」
「ええ、本気とかいてマジです。せ っかくの密室ですし、有効活用しな いと」
賭けも、条件も、取引もない。 探索者の瞳にあるのは、冷徹な策略 家としての光ではなく、純粋に「10 分間の空白」という苦痛を回避しよ うとする、極めて個人的な退屈への 忌避だった。
そのあまりの「普通さ」に、ネルの 殺気が毒気を抜かれたように霧散し ていく。
「よく考えてください、カップ麺の 3分間ですら長く感じるのに、10分 間もここでただ見つめ合っているというのは、結構つらいですよ」
探索者は、手にしたゲーム機を軽く掲げる。
「……一つ、お聞きしても?」
ネルが眉をひそめる。
「は?」
「何か、好きなジャンルはありますか」
あまりにも場違いな問い。だが、探索者の声音は至って真剣だった。
「……あぁ?」
「……格ゲーだな」
「…ほう」
探索者の目が、わずかに細まる。
「いいですよね、格闘ゲーム。私も一時期、嗜んでいたことがあります」
その不遜な言葉に、ネルの口元が獰猛に歪んだ。
「……へぇ?だったら――」
ゲーム機をひったくるように受け取り、
「話は早ぇな」
獰猛に笑う。
「やってやるよ。その“嗜み”、試してやる」
──────────────────────────
は?速ぇなオイ!
反応速度が高いですね
――ッ、そこ通すかよ!
通りますね
クソが!
……一戦目、私ですね
チッ……!
テメェさっきから――インパクト使いすぎだろ!
そうでしょうか
読みやすいんだよ!
ええ、理解しています
ですが――九を失って十を取れるのであれば…選ばない理由はありません
……は?
通れば勝ちますので
外せば負けるだろうが!
ですので、“通る場面”でしか振っていません
ッ……!
今のは――!
取ったぞ!
……おや
甘ぇんだよ!
……一本、取られましたね
次だ次!
……その飛びは…読んでるっての!
――ッ
二本目もらった!
……お見事
ハッ!どうしたよその理屈!
ええ。ですので――ここから、戻します
チッ……来やがれ!
……四戦目、私ですね
チッ……来やがれ!
五戦目もいただきました
テメェ……見かけによらず、“暴れ”通してきやがるな
通る場面ですので
……チッ、そういう“通す暴れ”かよ
結果として…
今は、勝っていますよ
──────────────────────────
「……時間、ですかね」
探索者が小さく呟く
その瞬間――ビキリ、と。
赤い空間に、取り返しのつかない亀裂が走った。
壁が、天井が、床が。
深紅の光を湛えていた全てが、硝子が割れるような音を立てて崩れ、本来の現実――ミレニアムの黒い夜空へと剥がれ落ちていく。
「チッ……もう終わりかよ」
ネルが舌打ちしながら、凝り固まった肩を回す。
その瞳には、ゲーム画面に釘付けにされていた苛立ちと、それを上回る「本番」への飢えが同居していた。
「ええ。名残惜しいですが」
探索者の耳元で、微かな電子音が響く。
――ピッ。
「……」
「どうした? 接続が悪ぃのか、それとも『言い残すこと』でも思いついたか?」
ネルが訝しげに眉を寄せる。
探索者は一瞬だけ視線を落とし、通信の内容――ゲーム開発部による鏡の奪還成功、そして全ユニットへの撤退指示を確認した。
「……なるほど。目的は達成されたようです」
短く、息を吐く。
肺に流れ込んできたのは、異界の赤に染まっていない、清浄で、どこか無機質なミレニアムの空気。
「こちらの役目も、これで終わりです……撤退指示が出ました――ここからは、本当に“戦う必要”がなくなりました」
一拍。
探索者はわずかに目を細め、目の前に立つミレニアム最強の少女を見据える。
「ですが……貴方は、そういうタイプではないでしょう?」
「ハッ……」
ネルの口角が、獰猛に吊り上がる。
彼女にとって、作戦の成否など、今この瞬間の「ケリ」に比べれば些末な問題でしかない。
「当たり前だろ。テメェとは、まだ“ケリ”つけてねぇ」
パキパキと拳を鳴らし、ネルが一歩踏み出す。
結界という「ルール」が消えた今、そこに立っているのは、ゲームで一本取られた悔しさを抱えたままの、剥き出しの怪物だ。
「……でしょうね。残業かぁ……先生に言えば残業代つくかな」
「出るわけねぇだろ。代わりに“殴り合い”だ」
「私が欲しいのは休暇なんですけどねぇ」
探索者は溜息混じりに零す。
その視線は、もはやネルの顔を見てはいない。肩、膝、視線の揺らぎ――「最強」が放つ、死の予兆だけを捉えていた。
そして、無造作にコートのポケットへと手を入れる。
指先に挟まれたのは、一枚のコイン。
「――さて」
軽く、弾く。
カン、と乾いた音を立てて、銀色の円盤が宙を舞う。
パンッ!!
乾いた銃声が夜の静寂を切り裂いた。
宙を舞うコインが、次の回転に入るよりも早く、ネルの放った弾丸がその中心を正確に穿つ。
火花と共に弾け、金属片が火の粉となって夜空へ散った。
カラン……カラン……
地面に落ちたのは、もはや原形を留めない破片だけだった。
「……」
探索者の目が、わずかに細まる。
視線の先、ネルは構えた銃を、踊るようにゆっくりと下ろした。
「悪いな」
煙を引く銃口を軽く振りながら、鼻で笑う。
「アタシに2度、同じ手は通用しねぇんだわ」
彼女は一歩も動いていない。ただ、それだけで――“届く”
「……なるほど、空中の硬貨を、あの回転で、初動で撃ち落とす……」
探索者が小さく、感嘆の息を吐く。
「……やはり、“最強”ですね」
ネルの口角が、獰猛に吊り上がる。
「今更かよ」
静寂。だが、空気は完全に変わっていた。
ネルの重心が、僅かに沈む。
踏み込みの“予備動作”。
次の瞬間には距離が消し飛ぶ。
神秘を宿した一撃が、ただの人間である自分の頭蓋を粉砕する。
――そう判断した瞬間。
探索者の手は、すでに懐へと滑り込んでいた。
取り出したのは、金属光沢を放つ小型の円筒。
ネルが地面を蹴り、その身体が弾丸と化す、まさにその刹那――
――叩きつける。
パンッ!!
乾いた破裂音と共に、濃密な白煙が爆ぜた。
「――ッ、目くらましかよ!」
踏み込みの勢いのまま、ネルが白煙へと突っ込む。
だが、その煙はただの煙幕ではない。不自然なほどに重く、粘りつき、動きを阻害する。
最強の勘が、一瞬だけ“座標”を見失う。
「チッ……どこだ!」
スカジャンを翻し、ネルが煙を振り払う。
――いない
そこにはもう、あの飄々とした事務員の姿はなかった。
代わりに
彼女が立っていた場所に、一枚の紙切れが残されていた。
ネルは舌打ちしながら、それをひったくる。
サビ残なんてやってらんねーので、お先に失礼します
「……ふざけやがって」
真剣勝負を、あまつさえ自分との対峙を「残業」と抜かした彼へ怒りがこみ上げる。だが、紙の端に宿る僅かな違和感に、ネルの指が止まる。
ネルはそれを、弾くように裏返した。
そこには――
GG
たったそれだけ
整いすぎた、どこまでも無機質で事務的な筆致
「…………」
数秒の沈黙。
やがて――
「……ハッ」
ネルの口元が、獰猛に吊り上がる。
「どこまで人を食ってやがる……」
その声に混じるのは、もはや怒りだけではない。
自分を翻弄し、煙に巻き、あまつさえ「良い試合だった」と告げて消えた「異物」への、抑えきれない高揚。
「いいじゃねぇか」
くしゃり、と紙を握り潰す。
「次は“任務”じゃ済まさねぇ」
夜風が吹き抜ける。
その場に残るのは、主を失って点滅し続けるゲーム機の淡い光と
「……絶対、逃がさねぇ」
静かに、しかし最高純度の熱量で燃え上がる、“再戦”の意思だけだった。
はい。お久しぶりでございます。最近私生活が忙しすぎて執筆に身が入らない現状でございます。
…本当にしんどい……仕事したくない…