ミレニアムでのあの凄惨な激闘から、早いもので2週間という時間が経過していた。
探索者は、未だに病院のベッドの上にいる。
あの、異形との死闘が彼に刻んだ爪痕は、想像を絶するほどに深かく、どれだけ経過が上手く運んだとしても、退院できるのは最短で「2ヶ月後」──それが担当医から下された、極めて現実的で冷徹な診断だった。
左腕の複雑骨折、肋骨3本の粉砕、さらに2本の亀裂。それに伴う、致死量寸前の出血多量。
普通の人間の基準であれば、即死していてもおかしくはない。それを考えれば「2ヶ月で出られる」というの奇跡的なスピードであり、担当医は頭を抱えたが、万能薬がもたらした『肉体の強制修復』の残効が、未だに残っているのだろう
だが
それでも、ベッドの上でただ天井を見つめ続けるだけの「2ヶ月」という空白は、彼にとってあまりにも長すぎた
ましてや、今の探索者にとってそれは単なる肉体の不動を意味しない。
寝たきりであるということは、彼の命綱とも、呼吸とも呼べる「外部の情報」が一切手に入らないということを意味していた。
「……もういいんじゃないですか? さっさと出てきてくださいよ」
病室の白い天井に向かってぽつりと投げかけた問いに、答える者は誰もいない。
(……どういう事だ? 何故バグを殺したのに反応がない。いつもならおどけた調子で帰宅の知らせを出すはず……)
胸の奥を、焦燥とは異なる、じっとりとした冷たい疑問が満たしていく。
世界の綻びを処理した。命を削り、かつての縁を燃やして、その役割を全うした。ならば、この不条理なゲームの「主催者」たるあの神は、いつものように姿を現すはずなのだ。
「……ニャル様? さっさと帰らさせてください」
だが、返ってくるのは規則正しい医療機器の電子音だけ。
(……だめか)
探索者はわずかに動く右手で顔を覆い、思考の海へと深く沈んでいく。
(……駄目だ、本当に意図が読めん。あいつがただ『飽きた』から放置しているのか…それとも──このキヴォトスという世界そのものに、あの這い寄る混沌すらも予想外の『何か』が起き始めているのか……?)
情報が足りない。動けない肉体と、完全に遮断された外部の状況
(…飽きたとしても…こんなことはなかった。『1ヶ月後に迎えに来るから適当に遊んどいて』と言われたことはあったが)
どれだけ気まぐれで、人間の倫理や都合など微塵も持ち合わせていない邪神であっても、自らが盤上に配置した「探索者」という駒への干渉を、ここまで完全に放棄したことは一度もない。
(……いや、違う。あいつが『来ない』んじゃない)
男の思考が、一つの最悪な仮説にたどり着く。
(……この世界が、あのニャルラトホテプすらも『干渉できない』状態にあるのか……?)
(……仮説としてはなくはない。アイツならポカしててもおかしくないし……だが……飛躍しすぎてる)
神話の頂点の一角たる『這い寄る混沌』が、一世界に過ぎないキヴォトスのシステムに弾かれている──その可能性はゼロではないが、神格のスケールを考えればいささか飛躍が過ぎる。
ちょっとしたポカや見落とし、あるいは「想定外の邪魔が入った」と眉をひそめている光景なら容易に想像がつくが、完全なシャットアウトを喰らうなど、流石に考えにくい。
だとしたら、もっと別の、現実的で最悪な「見落とし」があるのではないか
今回の一連のイレギュラー。あの異形の出現。ニャルラトホテプの沈黙。すべての前提をひっくり返す、一つの嫌な仮説が脳裏を過った。
(もっと現実的なのは……アイツがバグではなかった可能性か)
(だが……それだったらアイツはなんだ? 見てくれや能力、住民に対する攻撃反応なんかはバグのそれだ。実際、アリスに牙を剥いている。取り込んで自らを「世界の異物」から「登場人物」にしようとしていたのは事実だ)
思考の糸が絡まり、もつれていく
あの時空の因果を歪めるおぞましい姿。キヴォトスの常識から完全に逸脱した、焦点を狂わせる無数の瞳と真っ赤な唇。あれが世界の正当な住人なわけがない。
何より、あの異形はアリスを明確に狙っていた。
外宇宙のバグが、この世界の特異点たる少女を貪り食うことで、自らの存在強度をキヴォトスに「固定」しようとするムーブ──それは、これまで幾度となく異界の綻びを処理してきたプロの探索者として、見間違えるはずのない『バグの生存戦略』そのものだった。
これ以上はどれだけ脳細胞を回そうが、手持ちのピースが少なすぎてただの不毛な堂々巡りになる。
(アイツ自身が『世界の異物』だったのは間違いない…だが、それだけでは説明できない……なら俺は何を見落としている?)
決定的な何かが足りない。
自分が今、歴史の裏で正当な防衛を果たしたのか、それとも最悪の因果の引き金を引いてしまったのかすら不透明なまま。
「……手紙もこねぇし、これもうわけわからん…」
わずかに動く右手で顔を覆い、心底うんざりしたように、誰に届くでもない弱音を吐き捨ててしまう。
そんな時だった
コンコンとノックが響く
「……どうぞー」
思考を瞬時に切り替え、いつもの気の抜けた声を喉の奥から絞り出し、平凡な見せかけを起動する。
ガチャリ、と静かにドアが開く。
病室に足を踏み入れてきたのは、黒いコートを羽織り、少し気だるげな雰囲気を纏った少女──ゲヘナ学園、便利屋68の課長、鬼方カヨコだった。
「……体調はどう? 少しは落ち着いた?」
カヨコはドアを閉めると、手元に持っていた小さな紙袋をサイドテーブルに置きながら、ベッドの上の探索者をじっと見つめている。
「いやぁ、見ての通りボロボロ。骨はバキバキ、おまけに退院まで2ヶ月らしいですよ」
わずかに動く右手で大袈裟に頭を掻きながら、へらへらと笑ってみせる。
「そう。2ヶ月……」
カヨコは軽いトーンに調子を合わせる風でもなく、ただその言葉を小さく反芻した。そして、手元に持っていた小さな紙袋から、厳重に封のされた厚みのある封筒を取り出す。
「これ、依頼されてた百鬼夜行とレッドウィンターでの闇市の情報。狙いの曰く付きの品みたいなのはなかったけど」
差し出された封筒。
外部の状況から完全に遮断され、身動きが取れずにいた探索者にとって、それは今最も乾望していた「命綱」そのものだった。
「助かります。色は付けますよ」
へらへらとした笑みを崩さないまま、右手でそれを受け取る。
「…いつも思うんだけど、なんで私たちを頼るの?」
カヨコは組んだ膝の上に肘を置き、少し不思議そうに、けれど探るような視線を男に向けた。
キヴォトスにはもっと大手の情報屋や、動かせる情報の規模が違う組織がいくらでもある。
その中で、あえて吹けば飛ぶような零細の「便利屋」を指名する理由が、彼女にはずっと疑問だった。
「…そうですねぇ…普通に優秀という所もありますが…何より信頼がある」
「信頼?」
カヨコが怪訝そうに片方の眉を上げる。無法者の集まるゲヘナの、それも裏稼業を営む自分たちに向かって、一番似合わない単語が飛び出してきたからだ。
「えぇ、私に情報を隠したり、裏切ったりしない所ですね」
「…カイザーは裏切ってるよ」
カヨコは呆れたように即座に返した。かつて便利屋68がカイザーコーポレーションの傘下に片足を突っ込み、そしてその契約を文字通り叩き壊して盛大に裏切った過去を、彼女は忘れていない。
「あれば待遇が良くなかった。不満を持つのは当然です」
男の口から出たのは、裏社会の倫理ですらない、あまりにも「現実的(ドライ)」なプロの観察眼だった。
「利害が一致しなきゃ離れる。割に合わなきゃ手を切る。それは裏切りじゃなくて、ただの正当なビジネスの損切りですよ。私が言ってるのはね、貴方たちは『自分の都合で、他人の真実を捻じ曲げたりしない』ってこと」
探索者は受け取った封筒の角をトントンと指先で叩く。
「デカい組織は、自分たちの都合で平気で情報の価値を書き換える。隠蔽もする。だけど、便利屋はどんなに泥臭くても、掴んできた『真実の情報』をそのままの形で持ってきてくれる。情報屋を雇う側として、これ以上の『信頼』はないんですよ」
カヨコは男の言葉の重みを測るようにしばらく沈黙し、それからふいっぽく視線を外した。
「……買い被りすぎ。私たちはただ、社長が社長だから、そんな器用な真似ができないだけ」
「それも信用できる一つの要素ですかね?」
そう言って悪戯っぽく笑うと、カヨコはあからさまに「敵わない」といった様子で、深いため息を吐きながら肩の力を抜いた。
「……本当、調子が狂う。これじゃどっちが裏稼業の人間か分からない」
「いやぁ、私はただの無力な怪我人ですよ。あと2ヶ月もベッドの上で天井のシミを数えるだけのね」
「そう言えば……あなたって、割と損な役回り多いじゃないですか」
ふいにカヨコが、少しだけ真面目なトーンで言葉を紡ぐ。その視線は、男の全身を包む痛々しい包帯に向けられていた。
「依頼の話?」
「いや、性格の話」
「なにそれ」
「いや、苦労人ポジションというか……」
「……まぁ否定できないね」
「なのでちゃんとしてる人ほど、ちゃんとした仕事押し付けられる。だから、大丈夫かなと」
「……それ、褒めてるの?」
「かなり」
探索者は視線を逸らさず、大真面目に頷いてみせる。
「じゃあ今のあなたは、ちゃんとしてない側?」
「動けないので、今は完全に無職です」
ベッドの上で胸を張る男に、カヨコは心底呆れ果てたように吐き捨てる。
「最悪」
「ひどい!」
息の合ったドタバタ劇のような応酬に、病室の空気が完全に和らぐ。
「……全く。心配して損した」
カヨコはフイと顔を背けると、パイプ椅子から立ち上がり、黒いコートの襟を直した。
「……ねぇ、カヨコさん。今空いてますか」
ベッドの上から投げかけられた探索者の言葉に、カヨコはドアへ向けかけていた足をピタリと止めた。
「…どうしたの、急に…ナンパってわけではないでしょ」
振り返った彼女の表情には、明確な戸惑いと、ほんの少しの……本当にほんの少しの、期待のようなものが混じっている。いつもなら「また」と飄々と煙に巻くはずの探索者が、引き留めてきたのだ。
「いや…なんかね。今日はちょっと語りたい気分なんです。思い出話をね」
「…なにそれ」
カヨコは怪訝そうに目を細めたが、部屋を出て行こうとはしなかった。ただ、掴んでいたドアノブからそっと手を離す。
「笑ってもらって結構。私だって人間です。語りたい時ぐらいありますよ」
少し自嘲気味に、けれどどこか甘えるような響きを混ぜて笑った。
カヨコはしばらく顔をじっと見つめていた。
いつもなら「バカバカしい」と切り捨てることもできたはずだ。けれど、包帯だらけで動けないくせに、子供みたいに引き留めてくる探索者の姿が、どうしても放っておけない。
「……呆れた。重傷人の癖に、ずいぶんと寂しがり屋なんだね」
「…そうですね。何故かは分からないんですが、貴方に甘えたい」
「な、ん……っ」
カヨコはわざとらしく大きなため息を吐いて動揺を隠すと、一度直したコートの襟を緩め、今しがた立ち上がったばかりのパイプ椅子に、もう一度腰を下ろした。
「いいよ。お得意様の要望には応えたいし……付き合ってあげる。あんたのその、長くなりそうな思い出話に」
頬杖をつき、少し視線を外しながらも、彼女はもう完全にここから動く気はなかった
「で? 何から話してくれるの……あんたのその、いつも隠してばかりの『昔の話』」
少し意地悪に、けれど弾むようなトーンでカヨコが促す。
今だけはカヨコのその少し不器用で温かい温度が、男の傷だらけの心を確かに満たしていた。
評価と感想。そしてお気に入り登録ありがとうございます!!
一気に伸びててちょっと笑っちゃいましたw
後は…推薦も、この作品が求めているの方に合っていそうならば…よろしくお願いします。