面会
「どうもー! 佐藤太郎でーす! 先生に頼まれてメンタルケアしに来ましたー!」
「だれ!?」
上品なトリニティの、その最も深い暗がりに位置する面会室。
鉄格子と分厚いアクリル板の向こう側で、聖園ミカは目を丸くして、目の前の「片手にまだ包帯を巻いた不審な人間」を凝視していた。
「あれ? 聞いてません? 先生からそっちに『夜に焼肉食べてそうなメンターが行く』って」
「聞いてないよ!?」
裏切り者の魔女としてここに閉じ込められ、あとはただ冷たい泥の中に沈んでいくだけだと思っていたのに──入ってきたノリが軽薄すぎて、シリアスな空気感が完全に迷子になっていた。
「大体、何その雑な偽名!? 私だってそれくらい、キヴォトス外でのありふれた名前だって知ってるんだからね! 先生も何考えてるの!? メンタルケアなら先生が来ればいいじゃんね!」
「いやぁ、あのクソボケ先生は今、補修授業部に入ったせいで溜まってるシャーレの書類仕事で文字通り死にかけてますからね。代わりにベッドの上の暇人が、こうして面会に来てあげたわけです」
探索者は面会室の硬い椅子に背もたれを預け、ふぅ、と大げさにため息をついた。
「ま、佐藤太郎ってのは冗談として……初めまして、トリニティのお嬢さん。私はただの探索者。怪我の退院ついでに、先生からお前の教え子の様子を見てきてくれ、と泣きつかれただけのしがない一般人ですよ」
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「……探索、者?」
ミカの動きが、ぴたりと止まる。
その声音に含まれた、ただの不審者とは思えない「泥沼をくぐり抜けてきた者」独特の重みに、彼女の鋭い野生が反応した
「……知ってる。ハナコちゃんが言ってた。『テーブルの下で、賄賂贈ってそうな最悪にめんどくさい怪我人がいる』って」
「あの天才女子高生、私をなんだと思ってるんですかね……悪代官かよ」
探索者は苦笑しながら、アクリル板の向こうの少女をじっと見つめる。
やつれ、傷つき、それでもなお隠しきれない、歪んだ「優しさ」と「寂しさ」
(…拗れるタイプだな。これ)
(ってか、ホシノといい、ハナコといい…なんなんだろうな。ピンク髪って面倒な性格しかいないのか?)
「ま、浦和さんの悪口は後で本人にモモトークで送りつけるとしてだ」
探索者はパイプ椅子の背もたれに体重を預け、アクリル板を軽く指先で叩いた。
「どうですか、聖園ミカさん。雑談に付き合う気はありますかね?ぶっちゃけ、私としてもあんたみたいな可愛いお嬢さんが、そんな湿気た地下室でシクシク泣いてるツラを見るのは、あんまり趣味じゃないんですよ」
「…本当?」
「初対面の相手になかなか失礼なこと言いますね貴方」
ミカは呆れたようにジト目を向けながらも、ゆっくりと、諦めたように元の席へ腰を下ろした。
「泣いてなんかいないし……それに、可愛いお嬢さんだなんて、そんなこと思ってもみないくせに。悪代官のくせに、ずいぶん口が上手いんだから」
「お嬢さんのその綺麗な顔が台無しなのは本当です。湿気でキノコが生えそうです」
「…貴方もなかなか失礼じゃない?」
「お返しです。皮肉には皮肉で返せとバッチャに言われてるので」
「そんなおばあさん嫌だよ……っていうか、女の子にキノコ生えそうって何!? せめて可愛い花にしてよ!」
ミカはぷくーっと頬を膨らませ、アクリル板をポカポカと拳で叩く、
完全に調子を狂わされている。
ここに来る誰もが、自分を「大罪人」か「腫れ物」として扱い、重苦しい沈黙か、軽蔑の視線しか向けなかったというのに
(……本当に、なんなんだろう、この人)
でも、不思議と嫌な気はしない
むしろ、胸の奥にずっとへばりついていた冷たい泥のような塊が、くだらない軽口に洗われて、ほんの少しだけ軽くなっていくのを感じていた。
「はぁ……先生も先生だよ、こんな失礼な人を私のところに送り込むなんて」
「最初に言い始めたのはそちらでは?」
「う……それは、そうだけど……」
ミカはアクリル板を叩いていた手を引っ込め、ばつが悪そうに視線を泳がせる。
言葉のドッジボールなら、負ける気はしなかった。
聖園ミカは、トリニティという政治と欲望が渦巻く世界で生きてきたのだ。
笑顔で誤魔化すことも、巧みに話題を逸らすことも、相手の本音を引きずり出すことも得意だった。時にはその天真爛漫な性格すら武器にして、相手の警戒心を解くことだって
そうやって彼女は今日まで、誰にも自分の本心だけは触れさせずに生きてきたし、隠し通してみせたという自負があった。
けれど、この人間が投げてくる球は、軌道がめちゃくちゃな上に、受け止めてみると驚くほど軽くて、ちっとも痛くない
だからこそ、どう返せばいいのか分からなかった。
「ま、お望みなら今度来るときは可愛い花でも持ってきますよ……貴方みたいには美しくはないかもですけど…ま、マシにはなるでしょう」
「……」
その言葉に、ミカは一瞬だけ丸く目を見開いた。
また来る。さらりとそう言ったのだ。
それはミカがずっと夢見ていた、まるでお伽話の王子様が囁くような、ロマンチックな言葉そのもの──だったはずなのに、いかんせん、態度に圧倒的にムードがなかった。
パイプ椅子にだらしなくふんぞり返り、片手にはまだ包帯。挙句の果てに「ま、マシにはなるでしょう」と、おまけのように付け足す適当さである。
(な、なんなのこの人……! 少女漫画ならそこはもっと、こう、真面目な顔で、格好よく言うところでしょ……!?)
せっかく心臓が跳ね上がったというのに、それと同じだけの勢いでずっこけそうになる。
(なのに、その人は平然と、そこにいる……なんで、まだそこにいてくれるの)
「……本当? 本当に、また来てくれるの?」
呆れ半分。けれど、アクリル板越しに覗くピンク色の瞳には、やっぱり捨てられた子どものような、小さな、けれど切実な期待が混ざっている。
(あー……やっぱり、めちゃくちゃに拗れるタイプだわ、これ…楔うっとかないとメンヘラになりかねん)
「気が向いたらですね。仕事と言われても来ますよ」
「……え? し、ごと?」
ミカはきょとんとして首を傾げた。
お伽話の登場人物なら、ここは『君が心配だから』とか『また君の笑顔が見たいから』とでも続ける場面だ。それなのに、口から飛び出したのは、あまりにも世俗的で、現実的で、ロマンチックの欠片もない単語だった。
「そう、仕事です。あのクソボケな先生から『ミカの様子を見てやってくれ』って正式に依頼が入るか…あるいは私がトリニティの裏事情を探るっていう個人的な仕事のついでか。要するに、私がここに来るのはあんたが可愛いからでも、可哀想だからでもない……全部、私の都合です」
探索者はわざとらしく肩をすくめ、アクリル板をトントンと指の背で叩いた。
「だからね、お嬢さん。私をあんたの寂しさを埋めるためのおもちゃにしちゃいけません。次に私が来るときは、あんたのその辛気臭いツラを笑い飛ばしに来るか、あるいはまた別の面倒事を持ち込むかでしょうね」
あえて突き放すような、けれど冷酷になりきらない絶妙なトーン
「…わざと言ってる?それ」
「さぁ?どうでしょうね」
煙に巻くように、探索者はにやりと底意地の悪い笑みを浮かべた。
「……」
ミカはしばらくの間、むすっとした顔で男を睨みつけていたが、やがてふいっと横を向いた。
「……なにそれ。やっぱり最低。全然お伽話の王子様じゃないし、ただの不審な人物じゃんね」
「お褒めに預かり光栄で」
「でも……」
「そうやって変に期待させないところは、ちょっとだけズルいと思う」
ミカは小さく呟くと、もう一度だけ探索者の方を振り返り、今度は少しだけ悪戯っぽく唇を尖らせた。
「でも、仕事でもなんでも、来たらたっぷり私の愚痴を聞いてもらうからね!」
「うわぁ…昼ドラみたいにドロッドロの政治話聞かされそうでめっちゃ嫌だ」
「それ酷くない!?」
「でも…ふふっ、聞いてくれるんだ」
アクリル板の向こうで、ミカは勝ち誇ったように、けれど本当に嬉しそうに、ふにゃりと眉を下げて笑った。
「そーですか。あっそうだ。大事なこと聞き忘れてた。聴聞会、開かれる可能性があるらしいですよ。出る気は?」
「…ないよ」
「ま、でしょうね」
「……出ろって言わないの?」
「言わないよ。個人の自由だし、何より私がそれを言う権利はない」
「ただ、退学になるかもしれない。それは良いんですか?」
「…うん。だって私の罪だもん」
「そっすか」
探索者の短い相槌に、ミカは少しだけ寂しそうに目を細めたが、すぐに何かを思い出したように顔を上げた。
「あっ!話は変わるけど、ちょっと曲流しても良い?そろそろ礼拝の時間で…」
「あー…じゃあ少し黙っときますよね」
探索者は素直にそう言うと、だらしなく組んでいた足を下ろし、パイプ椅子の背もたれに体を深く預け直した。
ミカがスマホを操作するとすぐにノイズ混じりの、けれど厳かで静謐な賛美歌の旋律が室内に流れ始める。
探索者は本当に何も言わなかった。励ますわけでも、憐れむわけでもなく、ただ目を閉じて、退屈そうに賛美歌に耳を傾けている。
そのあまりにも「いつも通り」で「俗世的」な存在が目の前にぽつんと置かれているだけで、重苦しいはずの礼拝の時間が、まるでただの「ちょっとした待ち時間」のように変質していく。
その時間が、どうしようもなく心地よかった。
世界中から断絶されたこの暗がりで、ただ一人の「人間」としてそこに並んで座ってくれているような、そんな奇妙な安心感。
やがて、賛美歌の最後の和音が静かに室内に溶けて消え、再び元の静寂が戻ってくる。
探索者はうっすらと片目を開けると、小さく首を回して骨を鳴らした。
「終わりました?」
「うん……ありがと。静かにしててくれて」
「いいですよ。これでも一応、空気を読むことくらいはできるんでね」
「……ねぇ。貴方は、キリエは……好き?」
アクリル板越しに投げかけられたミカの問いに、探索者は退屈そうに天井を見上げたまま、あっさりと首を振った。
「嫌いですね。いくら慈しんでも神は個人を助けてはくれないし、そもそも見えもしない神に祈りを捧げるって行為が、昔からどうもよく分からん」
「あはは、言うと思った」
ミカはくすくすと、本当に可笑しそうに喉を鳴らした。トリニティの人間なら誰もが眉をひそめるような不敬な言葉が、今の彼女にはどんな甘言よりも心地よく響く。
「そういうお嬢さんは?」
「……私もそう。そこまで好きじゃない」
「みんな、私がこんなこと言ったら怒るか、悲しむだろうね。パテル分派のトップが何言ってるんだって……でも、どれだけ泣いて祈っても、結局、何も変わらなかったもん。神様は、誰も助けてくれないよ」
膝の上で組んだ彼女の指先が、かすかに震える。
「そりゃそうだ。看板娘が『うちの看板メニューはマズい』って言ってるようなもんですもん。ま、そういう裏表のない愚痴の方が、よっぽど人間らしくて好きだけど」
探索者はそう言ってニカッと笑うと、何かを思い出したように「あー、でも」と人差し指を立てた。
「一つだけ好きな祈りがありました」
「えっ?」
意外すぎる言葉に、ミカはアクリル板の向こうでパチパチと丸い目を瞬かせた。神様なんて信じていなさそうなこの不遜な大人が、まさかトリニティの文化に理解を示し、あまつさえ「お気に入り」があるなんて思いもしなかったからだ。
身を乗り出すようにして次の言葉を待つミカに、探索者は少しだけ懐かしむような目を向け、その曲名を口にした。
「アメイジング・グレイスです」
「……アメイジンググレイス?」
ミカはきょとんとして首を傾げた。
「それ……キリエとか
「確かにそっすね。宗教的な背景だのは、私にはこれっぽっちも分からんし、興味もない。だが、自分にとっては重要な…いや、思い入れがある曲です」
「思い入れ?」
「…ま、色々ありまして。誰も助けてくれなくて、もうここで野垂れ死ぬーって時がありましてね」
「…その時に流れてました。アメイジンググレイスが」
「へー…」
ミカは息を呑み、静かに胸を打たれていた。冷たい泥の中に沈んでいくような絶望の淵で、彼女たちの知る祈りの歌がこの人を救ったのだとしたら、それはなんて──
「ま、後は流れると嬉しい曲でもあるし、ストック3個以上、かつその中にハーデスがいる事が確定してます」
「…何言ってんの?」
「期待値3000枚だぞ?8192だぞ?嬉しくないわけがないです」
「ちょっと! 私の感動を返してよ! はーですって誰!? 期待値って何!? なんで枚数で数えてるのさ!」
「死線を彷徨うレベルの大勝負の最中に脳内に直接響くアメグレの祝福をナメるなよ。あの瞬間だけは神の慈悲を感じざるを得ないね」
「本当に何言ってるの!?」
ミカはぷくーっと両頬を膨らませてジト目を向けた。
ここに来る誰もが、自分を「大罪人」か「腫れ物」として扱い、重苦しい沈黙か軽蔑の視線しか向けなかったというのに
「ふふっ…本当、面白いね。貴方」
ミカは呆れたように息を吐き出しながらも、今度は本当に嬉しそうに、ふにゃりと眉を下げて笑った。
「…」
「どうかしたの?」
「…いいえ。特に何もないですよ」
探索者はやれやれと大げさに肩をすくめ、パイプ椅子からゆっくりと腰を上げた。ポケットにまだ少し痛む手を滑り込ませ、最後に一度だけ、アクリル板の向こうのピンク髪の少女へ視線を向ける。
「それじゃ、お嬢さん。次はもうちょっとマシなツラでお会いしましょう」
「……ふん。言われなくても、次までに最高に可愛いお花、咲かせて待ってるよ……じゃあね」
「……最後はこれにしてください。また会いましょう、と」
そう言った探索者の目には、ほんの少しだけ侘びしさがあり『さようなら』という言葉を、あまり好いていない人間の顔だった。
「……え?」
ミカがその不意の温度差に小さく目を見開いたときには、探索者はもう、いつもの捉えどころのない、へらへらとした大人の顔に戻っていた。
「じゃあ、また」
ひらひらと包帯の巻かれた手を振りながら、探索者は今度こそ面会室の重い鉄扉の向こうへと消えていった。
「……『また会いましょう』、か」
ぽつりと、その言葉を自分の唇でなぞってみる。
トリニティの、誰もが私に終わりを告げにくるこの最暗部で
ミカはアクリル板にそっと額を押し当て、ふ、と今日一番の、本当に綺麗な笑顔を浮かべた。
「うん。またね、最悪にめんどくさい人」
湿気た地下室の空気は、残していった未完の約束のせいで、もう冷たくはなかった。
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長い回廊。自らの足音だけが響く静寂の中を、探索者はポケットに手を突っ込んだまま歩いていた。
(…チッ…俺も焼きが回ったかなぁ…美しいって思っちまった)
最後にアクリル板の向こうで見せた、少女のあの曇りのない笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。
(肩入れはしねぇ。それをしたらおしまいだ)
他人の引いたレールに、他人の命の賭けに、感情のままにチップを張り始めたら、待っているのは破滅だけだ。あのクソボケな先生じゃあるまいし、背負いきれない命の重さに心中してやる義理など、しがない一般人の自分にはどこにもない。
「……何が『また会いましょう』だ。ガラにもねぇ言葉かましやがって、バカじゃねぇの」
自分の口から出た言葉の気恥ずかしさを誤魔化すように、探索者は誰もいない通路で盛大に髪を掻きむしった。
「…まだ人間なんだなぁ…俺って」
もう一度だけ小さくため息をつくと、今度こそ完全にいつものへらへらとした、けれどどこか底知れない「大人の顔」を作り直し、トリニティの最暗部を後にした。