山海経
それはキヴォトスの中でも一、二を争うほどの食の激戦区である。
自治区の入り口から足を踏み入れれば、質の高さも量も申し分のない飲食店がずらりと軒を連ねており、連日多くの観光客や食通の生徒たちで賑わいを見せている。観光業や飲食業の活気は目を見張るものがあるが、一方でその裏には深々とした影も潜んでいた。
旧態依然とした保守的な生徒会組織「玄龍門」と、改革を掲げる商人たちの連合「玄武商会」
この両者による絶え間ない思想の対立など、山海経という街は華やかな賑わいの裏に、いつ弾けてもおかしくない一枚岩とは言えない危うさを常に孕んでいた。
そんな、熱気と緊張感が入り混じる街の真ん中にある玄武商会にて──
「……」ガツガツムシャムシャ
探索者は、テーブルの上に所狭しと並べられた料理を猛烈な勢いで胃袋へと流し込んでいた。
湯気を立てる熱々の炒飯を豪快に口へ運び、間髪入れずに肉汁溢れる餃子を頬張り、濃厚なラーメンのスープで流し込む。
所々に荒々しい所作はあるものの、箸の持ち方から皿を扱う手つき一つに至るまで、その食べ方にはどこか洗練された一つの芸術のような気品さが漂っている。
つい数日前、正式に退院したばかりの病み上がりとは到底思えない、凄まじい食欲と食べっぷりであった。
「すいませーん回鍋肉と青椒肉絲、麻婆をー!」
「はいただいまー!」
威勢の良い店員の返事が店内に響くのとほぼ同時に、探索者は空になったラーメンのどんぶりをカツンとテーブルの端へ積み上げた。すでにそこには、重ねられた小皿や深鉢が小さな塔のように聳え立っている。
「……ふぅ。やっぱりシャバの飯は美味いな。あの病院食ってやつは、味が薄い上に量が鳥のエサレベルで参ったよ…こちとら味覚が食欲売っぱらったせいであんまり感じないのに」
レンゲで残った炒飯のひと粒まで綺麗にすくい取りながら、探索者は満足げに息をつく。
命をかけた激戦を潜り抜け、満身創痍で担ぎ込まれた治療室、そして二月の病院食で探索者には膨大なストレスが溜まっていた。
探索者は縛りにより食欲を半分失っており、それに起因してか味覚にもある程度の鈍さが残っている。食べられないわけではない。何を食べているのかも分かるが、味付けが薄い料理だけは別であり、舌に残る刺激があまりにも少なく、食事というより、砂や粘土の塊を噛んでいるような感覚になる。
美味いものは、まだ美味い。と感じられる舌は残っているからこそ、薄味の料理だけがひどく辛かった。
(ま、慣れてるし訓練はしてるけど…ストレスは溜まるんだよなぁ)
削り削られた心身。その残滓を満たすために今必要なのは、脳を直接殴りつけるような圧倒的な『濃さ』と『油』だった。
(うちの子たちの飯も美味いが…やっぱり薬膳の方が効率いいんだよなぁ)
ガツンと鼻腔をくすぐるニンニクと香辛料の刺激。
痺れるような花椒の香りが、死にかけていた舌の神経を強引に呼び醒ましていく。
「へい、お待ち! 回鍋肉に青椒肉絲、麻婆豆腐ね!」
「ん、ウメェな…」
箸を取り直し、再び猛烈な、けれどどこか優雅ですらある食の宴が再開された。
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「ふー…とりあえず全制覇か」
探索者のテーブルには片付けられたもののなお多くの空いた皿が大量に積み上がっており、その壮観な景色は周りの客や店員たちの目を否応なしに引きつけていた。
麻婆豆腐の深い痺れと炒飯の香ばしさ、回鍋肉の濃密なタレの旨味が、長らく飢えていた脳を確かに満たしていく。半分に削られた食欲と鈍った味覚であっても、山海経が誇る重厚な油とスパイスの暴力はしっかりと探索者の舌を殴りつけ、生の実感を呼び覚ましている。
「いやぁ…ここまで食べ放題で食べる人を見かけたのは久しぶりだよ」
ふと探索者が声のした方向を見ると玄武商会の主であり、この店の店主でもある朱城ルミが、感心したような苦笑いを浮かべて立っていた。
「おお、会長さんがお出ましですか」
探索者は積み上がった皿の塔の隙間からひょっこりと顔を出し、片手を軽く上げて応えた。
「挨拶が遅れてすみませんね。病み上がりでちょっと腹が減りすぎていて……素晴らしい料理でしたよ。重厚な油とスパイスの効き具合が、鈍っていた胃袋にしっかり染み渡った」
「ふふ、料理人としてそこまで綺麗に完食してもらえると本望だよ……まぁ、経営的には来て欲しくないけど」
「まぁそうですよね。こんなバカみたいに食べ放題で食う客は来ないほうがいいですよね」
探索者が自嘲気味に肩をすくめると、ルミは「冗談だよ」とカラカラと笑い声を上げた。
「ハハッ!別に嫌がらせで言ったわけじゃないさ! 食事を本当に楽しんでくれるお客さんなら、どれだけ食べたって大歓迎さ」
「いやぁ…経営的には来ないほうが良いでしょこんな客。原価率だの回転率だのを考えたら、私は完全に店側の天敵ですからね。出禁にされても文句は言えませんよ」
「ははっ、それを自分で言っちゃうかい!」
ルミは腰に手を当て、可笑しそうに肩を揺らした。
「まあ、確かに普通の客の三人分……いや、五人分は軽く平らげてくれたからね。普通の店なら青ざめるところさ。でも、うちの料理をそれだけ愛して、残さず綺麗に食べてくれるんだ。料理人として、これ以上の喜びはないよ」
ルミはエプロンで軽く手を拭うと、ニッと悪戯っぽく口角を上げた。
「流石玄武商会の主。懐もデカいですねぇ」
「ま、そうでもなきゃやってないよ」
ルミは誇らしげに胸を張り、それからふと疑問に思ったというように、積み上げられた完璧に綺麗な皿へと視線を落とした。
「それと……よくあんな綺麗に食べられるねぇ。こちらとしては嬉しいことこの上ないけど……」
米粒ひとつ、ソースの一滴すら残さず綺麗に平らげられた皿の数々。豪快かつ猛烈な勢いで食らいついていたとは思えないほどの美しい完璧な完食ぶりに、ルミは純粋な感心を寄せる。
「あぁ、異質ではありますよね。まぁ…色々と感謝の心を忘れないようにしてましてね」
「へぇ…感謝ねぇ」
「ええ、『食へ感謝と敬意を忘れずに食に没頭する』それが私の流儀です。そうすれば食材も食べてくれた者にありったけの栄養を注いでくれる…まぁこれは持論ですけど」
探索者はそう言って、お茶の入った湯呑みを愛おしそうに両手で包み込んだ。
「命を奪っている以上、骨の髄まで、タレの一滴まで味わい尽くすのが筋ってモンでしょう……まあ、病院のベッドの上で無味乾燥な飯を突いていた反動も大いにありますけどね」
「ふふっ、なるほどねぇ。流儀、か」
ルミは感心したように頷き、どこか誇らしげに目を細めた。
「荒っぽい食べ方の割に皿が綺麗なのは、そういう筋が通ってるからなんだね。料理人として、その流儀は心から買いたいね。感謝を込めてそこまで美味そうに喰われたら、作った甲斐があったってもんさ」
ルミはポンと満足げに自分の胸を叩くと、ニッと悪戯っぽい笑みを浮かべて探索者の顔を覗き込んだ。
「全く…玄龍門の連中にも見せてやりたいものですね」
そう語りながら探索者の席へ歩み寄ってきたのは、真っ赤なチャイナドレスの上にジャージを羽織った少女だった。
その佇まいには、どこか凛とした空気と整ったお辞儀の所作がと同居している。
「ちょっとレイジョ…お客さんの前でそういう事言わないの」
「ですが…」
「えっと…そちらの方は?」
探索者が湯呑みを置いて問いかけると、少女はすっと背筋を伸ばし、丁寧にあいさつを交わした。
「玄武商会の会長…朱城ルミ会長の護衛兼マネージャーをしております、鹿山レイジョと言います。…以後お見知りおきを」
「こっちは見ての通り、ただの腹を空かせた病み上がりですよ」
探索者がひらひらと手を振ると、レイジョは積まれた皿の山と完璧に平らげられた料理の痕跡に一瞬だけ目を丸くし、それから感心したように頷いた。
「それにしても…見事な食べっぷりですね。これだけの量を残さず綺麗に召し上がる方は、山海経広しといえどもなかなかお目にかかれません。ルミ会長がわざわざ厨房から出てこられた理由がよく分かりました」
「だろ? レイジョもそう思うよねぇ!」
ルミは誇らしげに腕を組み、レイジョの言葉に大きく同意した。
「流儀を持って美味そうに食う奴には、美味い料理で応えるのが料理人の責任さ……まあ、次からは少し加減してもらえると助かるけどね」
「そう言えば…やっぱり玄武商会と玄龍門は仲があまりよろしくないご様子で」
探索者がお茶をひとくち飲みながら何気なく尋ねると、ルミの表情から先ほどまでの軽やかな冗談めかした色がすっと引いた。
「……まあ、隠すようなことでもないけどさ」
ルミは腕を組んだまま、少しだけ険を帯びた溜息を吐き出す。隣に立つレイジョもまた、静かな佇まいのまま軽く眉をひそめた。
「玄龍門はこの山海経の伝統と格式を守りたい保守派。対してウチら玄武商会は、商人として新しい風を取り入れて街を賑やかにしたい改革派だ……目指すものは山海経の発展って点じゃ同じはずなんだがね。やり方と思想が違いすぎて、顔を合わせりゃいがみ合いさ」
「伝統を重んじるあまり固執するあちらと、市場の活力のために柔軟でありたい私どもとでは、どうしても折り合いがつかない局面が多く……頭の痛い問題です」
レイジョが淡々と補足すると、ルミは苦笑いを浮かべながら探索者を見つめた。
「まあ、商売やってる以上は避けて通れない摩擦だけどね」
「ま、そんなもんですよねぇ…正直人間は新しい事を始める時にはどうしても否定から始まりますし」
探索者がどこか達観した様子でそう呟くと、ルミは意外そうに目を丸くし、それから面白そうに口角を上げた。
「へぇ……随分と深みのあることを言うじゃん」
「伊達に何度も面倒事に首を突っ込んでないんですよ私。保守派からすれば『今までの平和を脅す余計な改変』に見えるし、改革派からすれば『時代遅れの頭の固い枷』に見える。どちらも自分なりの正義や責任を抱えてるからこそ、なおさらタチが悪い」
探索者は冷めかけたお茶を飲み干し、ふっと息を吐き出す。
「まあ、外から来た余計者としては、美味い飯屋が立ち並ぶこの賑やかな街がそのまま残ってくれりゃ、それで十分なんですけどね…政治はそうもいかない」
「正義の逆は正義とはよく言ったもんですよ本当に」
探索者がしみじみと呟くと、ルミは腕を組んだまま深々と息を吐き出し、それから小さく笑った。
「……耳が痛いねぇ。自分たちの正義を疑わないってのは、一番タチが悪いのは百も承知なんだけどね」
「でもまあ、互いに譲れないプライドがあるからこそ面白い商品や料理が生まれるって一面もあるのさ。衝突を恐れて大人しくなってちゃ、山海経の発展もありゃしないからね」
「どちらの正義も街を想うが故……だからこそ、落としどころを見つけるのが私どもの役割でもあるのですが……貴方のような視点を持った方がこの街の料理を愛してくださるのは、私どもにとっても非常に心強いことです」
「はは、買い被りすぎですよ。ただの食い意地が張った病み上がりの世間話です」
探索者は伝票を指先でつまみ上げると、椅子を軽く引いて立ち上がった。
「さて、そろそろ行きますかね。ごちそうさまでした、本当に美味かった」
「次来るときはもう少し加減して食べるか、ちゃんとお金をガッツリ落としていってくれると助かるな〜!」
ルミの威勢の良い見送りの声と、レイジョの丁寧なお辞儀に見送られながら、探索者は賑やかな山海経の喧騒の中へと足を踏み出した。
と思ったのも束の間、支払いを終えた探索者は店を出て直ぐに店へと戻ってきた
「あれ?何か忘れ物かい?」
「いいえ?お客さんとしてまた来ました」
「……は?」
ルミは呆然とした声を漏らし、そのまま固まった。隣に立つレイジョも珍しく目を見開き、探索者と、先ほどまで積み上がっていた皿の山が片付けられつつあるテーブルを二度見している。
「ち…ちょっと待ちなよ! さっきまで普通の大人数人分の量を平らげてたでしょ!? 退院直後なんだよね……?な…のに…お客……?」
「ええ、ですから言ったじゃないですか。『全制覇』って。アレはあくまで『下味と量のチェック』ですよ。都合よく食べ放題があったのでメニューを一通り試して、この店の味付けと自分の今の胃袋の加減を確かめたんです」
探索者は事もなげに言い放ち、先ほどまで座っていた席へ何食わぬ顔で再び腰を下ろした。
「前に別の店でいきなり本気出して注文したら、想像以上の味付けの濃さと味で痛い目見ましたからね…ギリギリ食べ切りましたが」
「……つまり、お客様。これからが『本番』のご注文、ということでしょうか」
レイジョが引きつり気味の笑みを浮かべつつ、冷静に、けれど若干の戦慄を込めて尋ねる。
「まぁそういうことですね。というわけでルミ会長、仕込みの味は十分に堪能させてもらいました。次はグランドメニュー注文させていただきますよ。もちろん、正規のお代はちゃんとお支払いしますから」
探索者は懐から厚みのある財布を取り出し、机の上にトンと置いた。
「ま、ちゃんとお金は落としていけって言われたばかりですからね。店の期待に応えるのも、私の流儀です」
「…イカれては居ないみたいだね」
「お客様に言う言葉じゃないですね」
山海経の喧騒に包まれた大衆食堂は、一人の常軌を逸した大喰らいの帰還によって、再び予測不能な熱気と笑いに包まれていくのだった。