予想GUY
エデン条約
会場の厳かな空気、きらびやかな装飾、壇上に並ぶ各校の代表。すべてが絵に描いたような「平和の儀式」を演じている。
「……ふぁぁ……」
"ちょっと……一応、格ある式だよ"
「……退屈なもんは仕方ないでしょう。こんなもんどーせ破られますよ」
「……しっかし……エデン条約ねぇ……」
(ま、ろくなもんにはならんだろうな)
だが、探索者の冷めた目には、それが今にも崩れ落ちそうな張り子の虎にしか見えなかった。
何せ、このエデン条約調印式は「破壊」され、その後に「真エデン条約の締結」というイベントが控えていることを、彼はあらかじめ『知っている』
それでも。それがどういった方法で、どのような意図があるのかまでは知らない。
(……でもなぁ……結局どうやって破壊されるんだ? 特に異常な動きは未だ無し……ニャルがそう言ってるなら話の本筋に関わることだ。ここで邪神登場!SANチェック♡なんて無粋なことはないだろ)
もしあの這い寄る混沌が関わっているなら、イベントテロなんてチャチな真似はしないはずだ。
「……どーなるかねぇ」
"どーなるかねぇ、じゃないよ。もうすぐ調印式が始まるんだから、せめてもうちょっとシャキッとして。ほら、ネクタイ曲がってる"
「あー、いいですいいです、どうせ誰もこんな不審な一般人の服なんか見てやしませんって。みんなの視線はあの壇上の、綺麗なお偉いさん方に釘付けなんですから」
"いつもスーツ着てるのに?"
「それとこれとは話が別です」
会場を見渡せば、トリニティの正義実現委員会やゲヘナの風紀委員会が、張り詰めた空気で周囲を警戒している。お互いがお互いを信用していないのが丸わかりの、じっとりとした視線の応酬。これで平和の条約を結ぼうっていうんだから、お笑い草だ。
「しかし、先生。本気で信じてるんですか? この紙切れ一枚で、あの水と油みたいな連中が手を取り合うなんてお伽話を」
"お伽話、か……まぁ、簡単じゃないのは百も承知だよ。でもね、誰かが最初に手を伸ばさなきゃ、ずっと変わらないままだから"
「へーーえ、さすが大人の鑑、言うことが違いますねぇ」
「私なら、こんな調印式に出席すらしたくない。どっちかが足引っ張って共倒れするのがオチですもん」
"買い被りすぎだよ。私はただ、生徒たちが笑って過ごせる学校生活を守りたいだけ"
この男は本気なのだ。この先にどんな泥沼が待っていようとも、生徒のためなら平然と自分の命すらチップにして盤面に飛び込む。
(……ほんと、付き合いきれんわ、このクソボケ先生は)
「しっかし……妙ですね。未だゲヘナのトップどころか万魔殿すらこの会場にいないなんて」
探索者は顎をさすりながら、ゲヘナ側の席を値踏みするように薄目を向けた。
風紀委員会のヒナをはじめとした実動部隊は、会場の端で胃を痛めそうなほどの殺気を放って警戒に当たっている。だが、その背後にいるべき肝心の「お偉いさん方」の姿が、影も形も見当たらない。
"うん……マコトたちからは『定刻通りに向かう』って連絡は来てるんだけど……"
「定刻通り、ねぇ。議長サマが、こんな歴史的大舞台でトリニティを待たせるような真似、普通なら進んでやらかすでしょうに。あまりにも静かすぎる」
お上品に着飾ったトリニティの生徒たちが、ヒソヒソとゲヘナ側の不誠実さを非難するような私語を交わし始めている。不穏な空気は、確実に会場の温度を下げていた。
「馬がゲートに入りもしないレースなんて、八百長ですかねぇ」
(……ニャルが直々に教えてくれたプロットだ。単なる『ゲヘナの遅刻』なんて可愛いハプニングで終わるわけがねぇ)
どこでスイッチが押される?
誰が最初の引き金を引く?
未だ異常な動きはない。だが、それこそが何よりの異常だ。張り詰めすぎた静寂は、時として爆音よりも雄弁に破滅を告げる。
「流石に遅刻なんて馬鹿な真似はしないでしょう? あんなんでも一応トップですし」
先生は困ったように眉を下げつつも、どこか彼女たちを信じるような、あるいはそうであってほしいと願うような声で言った。
"うーん…なんでだろう"
いくらマコトがハッタリと見栄で動く人間だとしても、このエデン条約はゲヘナにとっても歴史的な大舞台だ。トリニティを煽るためにわざとギリギリに現れる可能性はある。あるが──
(……いや、違ぇな。あの万魔殿が、大人しく『ただの遅刻』で済ませるような可愛いタマかよ)
あるいは、遅刻せざるを得ない「何か」が、もうすでに彼らの見えないところで始まっているのか
この会場にいる全員が、綺麗に整えられた机と椅子に座って、予定通りの未来が来るのを待っている。その無防備な姿が、探索者にはどうにも薄気味悪くて仕方がなかった。
「ま、あの議長サマの頭の中が『トリニティの鼻を明かしてやる』ってことで一杯なのは確実でしょう。ただ、そのための手段が、私たちの想像の範疇に収まってりゃいいんですけどね」
"想像の範疇……?"
「ええ。例えば、会場の入り口でド派手なクラッカーでも鳴らして登場する、とかね……まぁ、それが本物の爆薬じゃなきゃいいんですけど」
"それ……キヴォトスだとそっちのほうが珍しいんじゃ?"
「確かに」
思わず二人して同時に天井を仰ぎそうになった。
日常茶飯事、いつものこと、キヴォトスの常識。普段なら「あー、またゲヘナがやってるわ」で済む話だ。現に、あの万魔殿のメンバーなら、式典のド頭に戦車で突っ込んできて「ハーハッハ!」と笑っていても何ら驚きはない。
だが──
「……どーも落ち着かないですね」
探索者は小さく首を振って、再び低く、硬い声に切り替えた。
「いつもの馬鹿な爆発なら、今頃とっくに遠くから銃声やら悲鳴やらが聞こえてきてるはずなんです。ヒナ委員長がさっきから一歩も動かずにあのツラしてるってことは、身内の動きすら掴めてないって証拠でしょう」
そう、何も起きていないのだ。
狂気も、混沌も、日常の延長線上にある弾丸の雨すらも、今のこの会場には一切届いていない。あまりにも完璧にコントロールされた、不気味なほどの「空白」
"……うん。空気の密度が、少し変だね。なんだか、息が苦しいというか……"
先生も無意識に胸元に手を当て、わずかに眉をひそめる。
「あー……酒飲みたい」
"ちょっと、まだ昼間だし、式典の真っ最中だよ?"
「いや、こういう心臓に悪い待ち時間を素面で過ごすの、体に毒なんですよ。アルコールで脳をちょっとマヒさせておかないと、やってられません」
探索者は頭の後ろで両手を組み、大げさに天井を仰いだ。
この張り詰めた空気、いつどこから爆弾が降ってくるかもわからない不透明さ
探索者として幾度も死線をくぐってきた身からすれば、この「嵐の前の静けさ」こそが最も胃を削る時間であり…いっそ派手に一発ぶっ放してくれた方が、よっぽど割り切って動けるというものだ。
"流石にこの式典の最中は勘弁して?ね?いい子だから"
「あやし方がエケちゃんのそれですね」
探索者はポケットの中のジッポライターを指先で一回転させた。
もうすぐ、定刻が来る
その時だった
「……っ!」
探索者の全身の毛羽が、一斉に逆立つような強烈な悪寒。
脳髄の奥を冷たい針で直に突き刺されたような、あの忌々しい狂気の気配──いや、それとはまた違う、あまりにも濃密で純粋な「殺意」の塊
一瞬で、へらへらとした大人の仮面が剥ぎ取られる。探索者の瞳が、獲物を狙う獣のように鋭く変貌した。
"……っ、え……?"
隣で先生が、胸を押さえて小さく呻く。大人の直感を持つ彼もまた、この空間に混入した決定的な「異常」を肌で察知したのだ。
(どこから? 何がくる……!?)
思考をコンマ数秒で加速させる。
足の裏から伝わる振動はない。地中からの奇襲、あるいは地下の爆破ではない。ならば──
(来るとしたら観客からの式典奪取か、あるいは──)
視線を鋭く巡らせる。壇上のナギサ、あるいは周囲の正義実現委員会や風紀委員会。もしこの緊迫した観客席の中に、すでに「敵」が紛れ込んでいて、内側からこの式典を乗っ取る算段だとしたら
だが、その最悪の仮定を組み立てた瞬間、探索者の本能が、そして耳が──捉えた。
大気を切り裂き、この大聖堂へ向かって真っ直ぐに落ちてくる、あまりにも場違いで圧倒的な質量と熱量の風切音。
「伏せろ!! 頭を守れ!!」
考えるより先に、探索者は隣の先生の襟首を掴んで、大聖堂の頑丈な柱の影へと力任せに投げ飛ばしていた。間髪入れず、自らの身体も弾かれたように冷たいコンクリートの影へと滑り込ませる。
日常の延長線上にある銃撃戦でも、内側からのクーデターでもない。
この完璧な静寂を破るために用意されていたのは、対話の余地を一切残さない、上空からの圧倒的な「広域爆撃」という暴力の回答。
(クソったれ!!ミサイルかよ!!)
間に合わない。通常の物理法則に従えば、この直撃で先生の命も、自分の脆い肉体も、一瞬で消し飛ぶ
ならば、やることは一つ
「紡ぐ言葉は無限の知、紡ぐ歪みは、受け流し、我が因果の前で消え失せる。我が肉体に届く理を拒絶し、その軌道を虚無へと逸らせ」
「"被害をそらす"!!」
迫り来る死の光、その圧倒的な質量を持った巡航ミサイルを直視しながら、探索者は上向きに、力強く指を突き出した。
直後
鼓膜を破壊せんばかりの爆音が、すべてを白光の中に飲み込み、大聖堂を粉々に粉砕した。
──────────────────────────
「ぐ…おっ……」
肺の空気を無理やり搾り出されるような衝撃。
視界が火煙と土煙で真白に染まる中、探索者は辛うじて自分がまだ「生きている」ことを自覚した。
五体満足。死の直撃をその指先で、意思の力で捻じ曲げ、降り注ぐ致命の瓦礫の大部分を『被害をそらす』で強引に弾き飛ばした成果だ。
そして、あらゆる邪悪な衝撃を減衰させるヌオーヴォの衣がなければ、今頃手足の数本は容易く消し飛んでいただろう。文字通り、首の皮一枚の奇跡だった。
それでも、肉体に叩き込まれた物理的な衝撃波までは完全に相殺しきれていない。
全身の骨が軋み、内臓が悲鳴を上げている。視界の端がチカチカと明滅し、アドレナリンの過剰分泌でも抑え込めない激痛がじわじわと神経を焼きに来ていた。
「病み…上が…りにはキッツ…いなぁ」
まともに動かない指先をブレザーの内ポケットへ滑り込ませる。
血の滲む唇を歪め、引きずり出したのは──小さな、しかし今の探索者にとっては命綱と同義の劇薬。
医療用合成オピオイド、『フェンタニル』
「……ッ、ハ……!」
躊躇なくそれを口に放り込み、僅かな唾液で飲み込む。
今回彼が用いたのは、一般的な医療用よりもさらに微量──思考や動作に影響が出ないよう調整されている物だ。
だが、その極微量な一粒であっても、効果は劇的
ドクン、と心臓が鋭く脈打つのと同時に、全身を苛んでいた不快な鈍痛と神経のパニックが、どれも遠くで鳴っている警報音のように、優先順位が下がっていく
「……ふぅ。病み上がりを労ってくれるような優しい世界じゃねぇのは知ってたが、いくらなんでも手荒すぎるだろ……」
呼吸だけがまだ乱れている。 視界は静まっているのに、肺だけが追いつかない。
探索者は軽く自分の手を握り、指先の精密な感覚が狂っていないことを確認する。ヌオーヴォ生地のスーツに付いた白い灰をパッパと払い落としながら、ゆっくりと腰を上げた。
爆煙の向こう側で、瓦礫がガラガラと崩れる音が聞こえる。
先ほどまでの形式美はどこへやら、トリニティとゲヘナの生徒たちの悲鳴と絶叫が、幾重にも重なって大聖堂の残骸に木霊していた。