「これは……」
鷲見セリナは、大聖堂の凄惨な瓦礫の前に立ち尽くし、驚愕の声を上げた。
エデン条約調印式が未曾有のテロに遭ったという報せを受け、彼女は救護騎士団の一員として、文字通りすべてを投げ打ってここへ駆けつけたのだ。最悪の地獄を覚悟しながら。
しかし、彼女の目に飛び込んできたのは、予想していた「救いようのない混沌」ではなかった。
そこには、驚くべき手際で怪我人に的確な処置を施し、パニックに陥った生徒たちを怒号一つで統率している一人の女の姿があった。
女の足元には、信じられないほどの量の生理食塩水のペットボトルが転がり、設置されたばかりのテントの横には、黄色のトリアージタグをつけられた意識不明の生徒たちが、窒息を防ぐための回復体位で綺麗に並べられている。
(この方は……いえ、今やるべきは推察ではない)
女の服装は、トリニティの救護騎士団のものでも、ゲヘナの救急医学部のものでもない。そもそも、このキヴォトスで銃も持たずにこれだけの医療物資を瞬時に展開できる人間など、彼女の知る限り心当たりが無かった。
けれど、セリナはすぐさまその思考を振り切る。目の前で流れる血と、一人で回している狂気的なまでの救護の戦場が、一秒の遅れも許さないと告げていたからだ。
「救護騎士団、鷲見セリナ! 只今到着しました! ──そこのあなた、指示を!!」
セリナは救護キットを抱え直し、──『医師の大門』の背中に向かって、凛とした、けれど必死の声を張り上げた。
「援軍か! 助かる! そっちは急変の可能性があるテントだ! 時間も経ってるから確認を!」
探索者は、振り返りもせずに背後へ向かって鋭い怒号を飛ばした。その手は、新たに運び込まれてきた生徒の足首へ、機械的な速度で黄色のタグを括り付けている。
「了解しました! すぐに回ります!」
セリナは迷うことなく、指示された仮設テントへと地を蹴った。
キヴォトス人の身体は頑丈だ。ヘイローがある限り、大抵の傷は致命傷にはならない。だが、それゆえに「見た目は派手でも意外と平気な気絶」と、「一刻を争う急変」の境界線を見極めるのは、過酷な戦場において至難の業となる。
ましてや、時間が経過しているのだ。内出血によるショック症状や、遅発性の血気胸──頑丈な彼女たちだからこそ、限界ギリギリまでバイタルが保たれてしまい、ある瞬間を境に一気に崩れ落ちる。そんな最悪の事例を、セリナは教科書で何度も学んでいた。
(この人は、それを最初から分かった上で、この場を回している……! 知識ではなく、実戦として、完璧に体現している……!)
テントに飛び込んだセリナは、並べられた生徒たちの呼吸の深さを一人ずつ迅速にチェックしていく。
無駄のない配置。喉を詰まらせないための回復体位。そしてすぐ手の届く場所に積み上げられた、大量の生理食塩水と抗生物質の山──
ただの不審者ではない。現場の恐ろしさを骨の髄まで理解している、本物のプロフェッショナルの仕事がそこにはあった。
「容体安定しています!トリアージ回ります!あと、救護騎士団の本隊ももう少しで到着する予定です!」
セリナの凛とした声がテントの中に響き、彼女はすぐさま次の患者へと向かって地を蹴った。
その報告を聞いた探索者は、視線を手元の負傷者に落としたまま、医療用マスクの奥で小さく「よし」と呟く。
やはり救護騎士団のトップクラスが一人加わるだけで、現場の回る速度が劇的に跳ね上がる。
その上、本隊がこちらに向かっているのなら、この臨時の救急外来を維持すべき「タイムリミット」も見えた。
「一般生徒! ナースの指示に従って動け! 搬送の動線を塞ぐなよ!」
探索者は近くの生徒たちに短く指示を飛ばしながら、芯火の空間から、さらに追加のトリアージタグと、ガーゼのパック、仮設営の救護テントを引っ張り出した。
(まだまだ来るなこれ…テント2、3個必要か?流石にそこまでは持たねー…ガーゼも食塩水も備蓄はほぼゼロ…流石に厳しくなってきたな)
神話的怪異の蠢く地獄を生き延びるために蓄えてきた彼のリソースは、今やキヴォトスの少女たちの命を繋ぎ止めるために、猛烈な勢いで消費され、摩耗している。
いくら彼女たちのフィジカルが頑丈で、トリアージを『黄色』で回せているとはいえ、出血を止め、傷口を洗い流すための物資が物理的に底をつけば、その頑丈さすら無意味になる。
「……ハッ、何が『医師の大門』だよ」
探索者は自嘲気味に鼻で笑うと、白手袋の嵌まった手で、引きずり出したばかりのガーゼのパックを引き裂く
「…でも、大門名乗ったからには失敗は許されねぇな」
マスクの奥で不敵に、けれどどこか楽しげに口角を上げる。
彼が医術を教わった一人である天才外科医よろしく「私、失敗しないので」と大見得を切れるほどの神業は持っていない。
だが、どれほど手札が絶望的だろうと、リソースがある限り彼が諦めることは無かった。
「セリナ! あと何分で本隊が来る!?」
「えっ、あ、あと7分……いえ、長く見積もっても10分以内にはこちらに!」
次の患者の包帯を巻きながら、セリナが声を張り上げて返す。
(……10分か。普通にやったら4分で在庫切れ、6分でバックヤードがパンクして、10分後には本隊に死体を引き渡す可能性が出てくる)
「生理食塩水はもう直接傷口にぶっかけるな! ガーゼに染み込ませてピンポイントで拭き取れ! 骨折の固定は瓦礫の木片を使え! 綺麗に治すのは後で本物の医者にやらせればいい、今は形を保たせることだけを考えろ!!」
探索者は、自分をよく知っている。
かつて出会ったあの天才たちのように、どんな絶望的な状態からでもメス一本で命を繋ぎ止めるような神業は、自分には逆立ちしてもできない。彼らのような天才ではない。ただの凡夫だ。
だからこそ、必死になる。
天才の真似事ができないなら、凡人にできる最善を、狂気的なまでの精度と速度でやり切るだけだ。
トリアージを正確に行うこと
喉を詰まらせないために、ただ横向きに寝かせること
物資が足りないなら、そこらのゴミを拾ってきて添木にすること
一つ一つは、知識さえあれば誰にでもできる単純な処置。だが、硝煙と悲鳴が渦巻くこの地獄において、その「当たり前」を一切のパニックを起こさずに、徹底し続ける──それこそが、凡人である探索者が修羅場を生き抜くために磨き上げた、唯一の武器だった。
(神話の狂気に比べれば、物理的リソースの枯渇なんて、まだ工夫できるだけマシだ!)
「さあ、あと一踏ん張りだ! 誰も死なせずにあのナースたちにバトンを渡すぞ!!」
『大門』の剥き出しの執念が、限界を迎えつつあった救護テントに、最後の、そして最も熱い活力を注ぎ込んでいく
そんな時だった
「ちょ…なんで私がトリニティのヤツを治療しないといけないんだよ!」
瓦礫の木片を両手いっぱいに抱えて戻ってきたゲヘナの一般生徒が、不満と困惑がまぜこぜになった声を上げた。
緊迫した空気と探索者の覇気に流されてここまで動いてしまったが、ここはエデン条約調印式の会場であり、トリニティとゲヘナは本来、反目し合ってきた歴史がある。テロの混乱下とはいえ、敵陣営の生徒の添木を拾わされている現状に、我に返ったのだろう。
「主さん、多分黄色」
「了解、助かる」
そんな少女の反発など、探索者は一瞥すらしない。新たに運び込まれてきた意識不明のトリニティ生徒の足首へ、機械的な動作で黄色のタグを括り付ける。
その隣では希望の従者が探索者に及ばないながらも正確に処置を施している
「…主さん」
「あぁ任せる」
短く交わされる信頼の言葉。物資の限界が近づく過酷な状況下でも、探索者は従者の意図を完全に汲み取り、黙々とその手を進めていた。
主からの確かな言葉を受け取り、希望の従者は隣で佇むゲヘナの少女へと静かに視線を向けた。
「ねぇ、君」
「な……なんだよ」
その声は酷く穏やかで、けれど同時に、硝煙の渦巻く大聖堂の空気をひやりと凍りつかせるような、奇妙なまでの質量を含んでいた。
「……確かに君たちには深い溝があるみたいだね。それは僕が想像するよりもはるかに深いんだろう」
教わった基礎を忠実になぞるような手つきで、トリニティ生徒の傷口を正確に処置しながら、彼女はぽつりと呟く。
「でもね。ここにいるのはゲヘナでもトリニティでもない。ただの負傷者だ」
「……っ」
「……別に助けなきゃいけないわけじゃない。でもね。ちょっぴり信用しない?」
「し、信用って……誰をだよ」
少女の問いに、従者は迷わなかった。かつて友達と呼んだ存在には利用され、裏切られた。けれど、今ここにいる、血に塗れながらがら必死に泥をすすっているこの男は違う。
「…僕の主さん……大門さんをだよ」
「『人が倒れてたら助けなきゃいけない』そんな崇高な理念じゃなくてもいいんだ。ただ、自分が見捨てたら気分が悪い。それだけでいい」
「正しいかどうかじゃなくて、あとで自分を殴らない方を選べばいい。そしたら大門さんがきっと持たせてくれる。そしたらもし駄目だったとしても「私は悪くない」って言い訳が出来るんじゃないかな」
その言葉は、かつて自らの「正義」を信じ、それが裏切られた結果として深い憤りと傷を負った従者だからこそ紡げる、極限の免罪符だった。
崇高なヒーローになる必要はない。「私はやれることをやった、だから悪くない」と自分に言い訳を作るための、ずるくて、けれど酷く人間らしい防衛線。それが今のゲヘナの少女にとって、どれほど腰を上げやすい言葉だったか
正義だとか、敵味方だとか、そんな大きな理由はいらない。ただ、目の前で消えかけている命をそのままにするのは寝覚めが悪い、その程度の、けれど人として捨てきれないエゴだけで十分なのだと。
「大門名乗ってる以上、失敗は許されないからねぇ、なんとか持たせるよ」
マスクの奥で、探索者が不敵に、けれどどこか楽しげに口角を上げる。
その言葉に応じるように、ゲヘナの少女はゴクリと唾を飲み込み、手の中の木片をぎゅっと握りしめると、小さく「……ちぇっ」と吐き捨ててトリニティの負傷者の元へ膝をついた。
「良かった……ちゃんと話せたよ」
「ま、魔法少女としては0点だな」
血に濡れた手袋を動かし、止血のためのガーゼを押し当てながら、探索者は平然とした声で言い放った。
あまりに容赦のない点数に、従者は頬を少し膨らませる。
「ちょっと……分かってるよ」
「でも人間としちゃ80点だ」
「…そこは100点じゃないの?」
「残り20点は俺の取り分だ。大門を名乗って失敗しちまったら貰っていく」
マスクの奥でニヤリと笑う探索者に、従者は「もう、相変わらずなんだから」と呆れたように、けれどどこか嬉しそうに息を吐いた。