ナースコールのボタンを押して数秒、病室の引き戸が静かに開いた。
入ってきたのはトリニティの救護騎士団員、鷲見セリナだった。
探索者はいつも通りの飄々とした態度で彼女を呼び寄せ、自分が眠っている間にキヴォトスがどうひっくり返ったのか、その「現状」をざっくりと聞き出した。
「……先生を逃がすためか…」
「はい。正義実現委員会の皆さんが、重傷者多数という状況の中でも決して引かず、殿を務めて戦闘を継続したそうです。その結果……」
セリナは痛ましげに視線を落とし、点滴のチューブを見つめた。
「あのハスミ先輩や、ツルギ先輩でさえ、深い傷を負って……今も集中治療室で眠ったままです。一命は取り留めましたが、意識が戻るにはまだ時間がかかりそうで……」
あのトリニティ最強の武力が、文字通りボロ雑巾になるまで戦い抜いた。先生を五体満足で逃がすためのコストとしては、あまりにも高すぎる。
「…ま、それと、風紀委員会のおかげで俺とヒナは逃げれたわけだな」
「それと…調印式の会場に向かっていた、万魔殿の飛行船の件ですが……」
「あいつら、大聖堂の爆破には巻き込まれてないだろ?」
「はい。爆発の影響は受けなかったはずなんです……ですが、会場へ向かう途中で、飛行船が『謎の炎上』を起こしてそのまま墜落しました。議長をはじめとする幹部の方々は、今も意識不明の重体で、ここの特設病棟で治療を受けています」
「謎の炎上ねぇ……嫌な予感しかしねぇ…」
「そして、ティーパーティーの桐藤ナギサ様ですが……」
セリナの声が、一段と小さく、深刻なものになる。
「大聖堂の爆破の際、崩れ落ちる瓦礫の完全に下敷きになってしまいました。救出はされましたが、極めて危険な状態です。正直に申し上げて……予断を許さない状況が続いています」
「…でも生きてはいるんだな」
「んじゃあ後2つ聞かせてくれ」
「この事故かテロか事件か…まぁそれはどーでもいいが……死傷者は出たのか」
「……いいえ、今の所はおりません」
「…そうか。それは良かった…本当に」
「んじゃあ後もう一つは──」
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セリナから聞き出した情報をもとに、探索者はまだ軋む身体を無理やり動かしてベッドを抜け出した。背後で「主!?」「主ちゃん!?」と慌てる居候二人を「いいからついてこい」と手招きし、集中治療棟の廊下を音もなく進む。
教えてもらった番号の病室の前に立ち、静かに引き戸を開けた。
──規則的で無機質な機械音だけが室内に響いている。
そこには、人工呼吸器を付けられたままで深く眠っている先生の姿があった。
そしてそのベッドのすぐ横。
パイプ椅子に腰掛け、先生の手を両手で握りしめるようにして、じっと床を見つめている少女がいた。
「……よ」
探索者が小さく声をかけると、空崎ヒナはビクリと肩を揺らし、ゆっくりとこちらを振り向いた。
先ほど探索者の病室で見せた、あの凛とした風紀委員長としての仮面は完全に剥がれ落ちていた。紫の瞳は酷く虚ろで、目の下には濃い隈が浮かんでいる。探索者がここに来るまで、ずっとこうして先生の傍らを離れずにいたのだろう。
「…手術は無事終わって体の中に残っていた弾丸も全部摘出したそうよ。ただ、一向に目を覚まさなくて」
「そうか」
「……ごめんなさい」
「別に謝る必要はないでしょ」
「けどッ!」
「ネガティブに考えすぎだ。この程度、なんて言えるような軽い傷じゃないが…お前がいたからこそ先生を死なせずに連れて帰れた。俺が間に合った」
「……あの子なら」
「…」
「小鳥遊ホシノが居たならこうはならなかった」
「……そうかもな」
「だが、もう起こった事だ。無い物ねだりしても仕方ない」
「小鳥遊ホシノは強い。心も身体も……彼女なら会場の爆破で怪我を負う事は無いしアリウス相手に後れを取る事も無かった。先生に怪我させる事だってなかったはずよ…っ」
ヒナはきつく唇を噛み締め、己の無力を呪うように拳を握りしめる。
キヴォトス最強の一角と謳われる少女が、その重すぎる仮面の裏で、どれほど「完璧な誰か」の幻影に追いつめられ、溺れかけているか。
その痛々しいほどの弱音を聞きながら、探索者はふう、と小さく息を吐き出した。
「…なぁ、騎士、笑えるなぁ」
「……えっ?」
不意に名前を呼ばれた勇気の騎士が、驚いたように目を丸くする。
「まるで昔のお前を見てるみたいだ」
「…」
騎士はハッと息を呑み、それから言葉を失ったように静かに俯く。
「…その手の話なら俺よりも騎士の方がよく知ってる」
探索者はそれだけ言うと、あっさりとヒナから背を向け、病室のドアへと歩き出した。
「行くぞ、女王」
「はーい。じゃあね、委員長ちゃん。ゆっくり泣くといいよ」
愛の女王はすべてを察したように、いつものおちゃらけた、けれどどこか底の知れない笑みを浮かべて探索者の後に続く。
「あ…主!?」
慌てて引き留めようとする騎士の声を、探索者は振り返りもせずに片手を軽く挙げて遮った。
「後輩を救ってやんな」
パタン、と静かにドアが閉まり、二人の気配が廊下へと消える。
あとに残されたのは、人工呼吸器の無機質な機械音と、呆然と立ち尽くすヒナ。そして、主からあまりにも重く、けれど最高に温かい「信頼」を託された、一人の騎士だけだった。
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静まり返った病室に、規則的な呼吸器の音だけが響く。
先ほどまでの感情の昂ぶりと、探索者が残していった突拍子もない言葉のせいで、ヒナの頭は完全にキャパシティをオーバーしかけている。
「ええと……その……」
先に沈黙を破ったのは、騎士だった。
彼女は先ほどまでの直立不動の姿勢を少しだけ崩し、戸惑ったように、けれどひどく恐縮した様子で自分の指先をいじっている。
「……そうですね。まずは自己紹介からしましょうか」
騎士は小さくコホンと咳払いをすると、スカートの裾を軽く整え、ヒナに向かって真っ直ぐに背筋を伸ばした。その仕草一つ一つには、どれだけ零落しようとも捨てきれぬ、気高き騎士としての美しい所作が染み付いている。
「申し遅れました、ゲヘナの風紀委員長。私は──」
彼女はかつて誇りを失い、人々から忘れ去られた『絶望の騎士』
けれど今、この瞬間に名乗るべき肩書きは、もうそれだけではない。
「今はただ、あの不器用な…私の主──『探索者』の傍らに仕える…勇気の騎士です……空崎ヒナ、あなたと同じように、かつて誰かを護るために戦い、そして己の無力に絶望した者でもあります」
「……己の無力に絶望、ね」
ヒナは自嘲気味にそう呟き、視線をゆっくりと自分の膝の上へと落とした。
「あなたには、そう見えたのかしら」
「違うのですか?」
「……分からないわ」
ぽつり、と。人工呼吸器の音に掻き消されてしまいそうなほど、その声は酷く小さかった。
「私は風紀委員長よ」
自分に言い聞かせるように、彼女は繰り返す。
「誰かを守る側でなければならない。誰よりも強くなければならない。誰よりも冷静でなければならない」
「……」
「……そうしないと、皆が不安になるから」
弱音を吐くことすら許されない場所で、彼女はずっと戦い続けてきたのだ。
そんな彼女の、血を吐くような告白を聞き届け、勇気の騎士は悲しげに、けれどこの上なく愛おしそうに目を細めた。
「……やはり、よく似ていますね」
騎士はそっと、自分の胸に手を当てた。
「……私もかつては、そのような思想でした。誰かを守る側でなければならない。誰よりも強くなければならない。誰よりも冷静でなければならない、と」
語られる言葉は、かつて彼女が背負っていた世界の理。
ヒナは思わず顔を上げ、騎士の横顔を見つめた。その瞳に宿る陰りは、あまりにも深く、あまりにも昏い。
「……それでも戦えていたのは、一緒に守っていた、対等な友人達がいたからでしょう。どれだけ傷ついても、隣を見れば同じように笑ってくれる仲間がいた。だから私は、完璧な騎士であれたのです」
けれど、と騎士の唇から、小さな、凍てつくような吐息が漏れる。
「ですが。ある時、私たちが命を賭して守ろうとしていた人たちから……裏切られました」
「えっ……?」
「…平和がもたらされた時、その護ってきた人々は私を裏切った…それは深い哀しみと絶望で…私からほぼすべてのものを奪い去っりました」
ヒナは言葉を失い、ただ目の前の少女の横顔を凝視することしかできなかった。完璧でなければならないと自分を追い詰めていた己の重圧が、一瞬で吹き飛んでしまうほどの、あまりにも昏く救いのない絶望の物語。
しかし、騎士はそこでふっと、自嘲するような、けれどどこか温かい笑みをその唇に浮かべた。
「…主の言葉を借りるなら『くろれきし』と言うやつです」
「……は?」
あまりにもシリアスな告白から一転して飛び出した、あまりにも場違いで脱力するような単語に、ヒナの思考が完全にフリーズした。
「くろ……え? 何?」
「私がかつて絶望に溺れ、ただ『誰かを護らなければここにいてはいけない』という妄執だけで生きていた時──『絶望の騎士』になって彷徨っていた時期のことを、主はそう呼ぶのです」
騎士は困ったように眉をひそめ、けれどその表情には、確かな愛おしさが滲んでいた。
「私は、誰かを護れなかった自分を許せませんでした」
再びヒナに向き直った騎士の声から、笑みが消える。代わりに宿ったのは、同じ地獄を通ってきた者だけが持つ、剥き出しの真実味だった。
「もっと強ければ」
「もっと賢ければ」
「もっと早く気付いていれば」
「そんな『もしも』ばかりを考えていました。……でも」
騎士は一歩、ヒナとの距離を詰める。その瞳が、鏡写しの絶望を映す。
「主は言ったのです……『それで?』と」
「え……?」
「『その反省で、次に誰か救えるのか?』」
「『救いたいのならやれ。救いたくないのなら、別に救わなくていい』」
あの不器用な探索者の、突き放すようでいて、これ以上なく現実的な言葉の数々。それが今、騎士の唇を通して、迷えるゲヘナの委員長へと突き刺さる。
「『目の前の人間は、悩む内に死んでいく。それなら後悔のない方を選んだほうが、振り返った時にマシにはなるんじゃないか』……と」
機械音だけが響く病室。ヒナは息を呑んだまま、動けない。
「だから、空崎ヒナ。あなたも私と同じです」
騎士はそっと、ヒナの震える小さな肩に手を置いた。
「今のあなたは、先生を助けられなかった自分を責めている。完璧でなかった自分を呪い、ここにはいない誰かの影に縋って、自分の『勇気』を無価値だと切り捨てようとしている……違いますか?」
「…でも本当は違う」
騎士は置いた手にそっと熱を込めるように、ヒナの肩を優しく、けれど強く包み込んだ。
「あなたは先生を助けたのです」
「……っ」
ヒナの身体が、弾かれたように小さく震えた。
「小鳥遊ホシノならこうはならなかった……それはただの、不確かな仮定の話です。今、現実にこのベッドの上で、不完全ながらも確かに心臓を動かし、息をしているこの方がいる」
「完璧でなければ、誰かを守ってはいけないなんてことはありません。もっと強ければ、もっと賢ければと、そんな終わった事に囚われてご自身を責めないでください」
「あなたのその傷だらけの手が、確かに一つの命を繋ぎ止めた。その結果だけは、誰にも否定できない、あなただけの『勇気』の証明です」
騎士はそこで一度言葉を区切り、かつて自分が絶望から引き揚げられた時のように、誇らしげに胸を張って微笑んだ。
「だから…自らを誇りなさい。貴方は何も失ってない。守りきったのだと」
──守りきった。
その言葉が、ヒナの耳の奥で何度も優しく反響する。
完璧じゃなかった。小鳥遊ホシノのようには立ち回れなかった。大聖堂は崩れ落ち、先生は人工呼吸器を付けらている。風紀委員長として、これ以上ないほどの失態だと、ずっと自分を責め続けていた。
けれど、この外側から来た騎士は、それを「守りきった」のだと、肯定してくれた。
生きて繋がっているこの命こそが、何よりも重い、自分が戦い抜いた証なのだと。
「……あ、う……っ」
ヒナの小さな唇から、抑えきれない感情の塊が零れ落ちる。
握りしめていた拳の力が完全に抜け、彼女は先生のベッドの脇に崩れ落ちるようにして、その場に崩れ落ちた。
「…よく頑張りましたね、空崎ヒナ」
騎士は静かに膝をつき、今度は涙を流すヒナの小さな頭を、まるで実の姉妹をあやすかのように、優しく、優しく抱きしめた