探索者は、まだ完全には戻りきっていない足取りでゆっくりと歩いていた。その後ろを、愛の女王がツインテールを揺らしながら、探索者を支えついて付いていく。
「……良かったの?」
ふと、女王がいつもの軽い調子を半分だけ残した声で尋ねた。
「多分あれが最善手だろ。騎士ならイタズラに理解した気にはならんさ」
探索者は前を向いたまま、ぶっきらぼうに答えた。
「ま、それもそうだね」
女王は納得したように小さく笑うと、すぐにいつもの愉快そうな表情に戻った。
廊下の角を曲がると、もう一人の居候が退屈そうに資料をめくりながら壁に寄りかかっていた。
「お! 主ちゃんじゃん!」
探索者の姿を認めるや否や、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきたのは─王と呼ばれる少女だった。
「おー王、大丈夫か? 怪我は?」
「無論ってとこだな」
探索者の問いかけに、王は不敵に、そして誇らしげに胸を張ってみせる。
「流石」
探索者が短く、けれど全幅の信頼を込めてそう頷くと、王は嬉しそうに口元を綻ばせた。
その、あまりにもテンポの良すぎるやり取りを真横で見ていた女王が、不満そうに頬を膨らませてジト目を向けてくる。
「……なんかさ、私だけ対応違うくない?」
「そんなことないぞ」
「いーや絶対そうだって! 王ちゃんにはそんなに優しいのに、私には『行くぞ女王』だけ!?もうちょっと労ってくれてもいいんじゃないですかー!」
廊下に響き渡る女王の抗議の声に、探索者は足を止め、深く、深く、肩を落とした。
「…はぁ…」
重苦しいため息をひとつつき、探索者はおもむろに向き直ると、女王との距離をゼロにする勢いでその顔をぐっと近づける。
「えっ!? な……なに、何急に!? 顔、近いんだけどっ……!」
さっきまでのふざけた態度が一瞬で消し飛び、女王の端正な顔が驚きで強張る。
からかうつもりが逆に距離を詰められ、完全に形勢逆転を察した彼女がたじろぎ、一歩後ろへ下がろうとした──その瞬間。
探索者は躊躇なく、女王の細い身体を両腕で力強く、正面から抱きしめた。
「……っ!?」
女王の思考が、今度こそ完全にフリーズする。
真横でそれを見ていた王も「お、おお……?」と目を丸くして、そのあまりの急展開に言葉を失っている。
探索者は、彼女の肩口に顔を埋めたまま、いつもの飄々とした仮面をすべて取り払った、ひどく低く、掠れた声で囁いた。
「……いつも迷惑ばっかでごめんな」
「主、ちゃん……?」
「でも、本当に助かってるよ。ありがとう」
耳元で囁かれた、真っ直ぐで不器用な感謝の言葉。
女王の顔が、みるみるうちに耳の裏まで真っ赤に染まっていく。
「あ、う……〜〜〜〜っっ!?」
「ず、ずるい……! なにそれ、そういうの反則だから……っ!」
ジタバタと暴れる女王の頭を、探索者は小さく笑いながら、よしよしと無造作に撫でる。
「……なぁ主ちゃん。有耶無耶にするの楽しい?」
ジタバタと真っ赤になって暴れる女王の背後から、ひどく冷ややかで、けれどどこか楽しげな声が降ってきた。
王が腕を組んだまま、じとーっとした半目で探索者を睨みつけている。
「とっても!」
探索者は女王の頭を撫でる手をピタッと止め、満面の笑みで親指を立ててみせた。
「……はへ?」
そのやり取りを間近で聞いた女王が、真っ赤な顔のまま、完全に間の抜けた声を漏らした。
涙目のまま、きょとんと探索者と王の顔を交互に見つめる。
「ちょっと主ちゃん!! 今の絶対わざとでしょ! 私のピュアな乙女心をなんだと思ってるのさーー!!」
「いやいや、感謝の気持ちは1ミクロンもブレてないって。なぁ、王?」
「私は主ちゃんのそういう悪いところ、嫌いじゃないぞ」
「ちょっと王ちゃんまでそっちに付くの!? もう、信じられない……!」
ふくれっ面でそっぽを向く女王と、それを見てケラケラと笑う王。
そんな賑やかなやり取りの途中で、王はふっと思いついたように、手元にあった数枚の紙を手渡す
「あっ、そうだ。はいこれ、べんりやって人達から貰った資料」
「あー……ありがとう」
探索者はそれを受け取り、ざっと目を通す。
「それで、多分次の動きとしては……あの転入生、アズサだっけ? が、アリウスと合流、もしくは敵対って流れかな」
「……!」
王が何気なく口にしたその一言に、探索者は紙束をめくる手を止め、微かに目を細めた。
「……なんで分かるの?」
「分かるさ。主ちゃんの残した資料にあった、今のトリニティ、ゲヘナの状況と解説。便利屋って人達から聞いた現在の縮図、それにアリウス地区とかいうきな臭すぎる場所があれば、何となくね。チェスの次の手を見るより簡単さ」
王は人懐っこい笑みを浮かべたまま、事も無げに言ってみせる。
「……凄いより怖いが勝つわそれ」
「えぇ!」
探索者が少しだけ身震いする真似をしながら心底呆れたように呟くと、王は心外だと言わんばかりに両手を広げて大げさに頬を膨らませた。
「ひどいなぁ、これでもすっごく頭使って戦力の足しになろうとしてるんだぞ? 褒められてもいいはずなのになぁ…」
「あー……まぁ…いや、助かる。戦術の幅は広い方が良いしな」
探索者は芯火に資料を仕舞い込み、苦笑混じりに王の頭へ手を置いた。よしよし、と無造作にその白を戴く髪を撫でると、王は一瞬で機嫌を直して嬉しそうに目を細める。
「さて…次動くのはどーすっかねぇ…」
「あ…あの!ちょっといいですか!」
廊下の向こうから響いた焦燥の混じる声に、三人の視線が一斉に向く。
そこには、ヒフミが、カバンをぎゅっと抱きしめたまま息を切らせて立っていた。
「ああ、阿慈谷さん、これはどうも」
「ちょっと…相談があって…」
阿慈谷ヒフミ。その瞳は完全に不安に呑まれており、今にも泣き出しそうだった。
「…そんな泣き出しそうなぐらいの相談は先生に!…と言いたいところですが…あのバカは寝てますからねぇ…場所を移しましょうか」
探索者は頭をガリガリと掻きながら、いつも通りの、あえて緊張感のないトーンで応じる。
「は、はい……すみません、お忙しいのに……」
「気にやまないでください。ここで何かを聞きに来たってことはある程度の予測はつきますよ」
探索者がそう言って歩き出すと、ヒフミは小さく「ありがとうございます……」と呟いて、その後に続いた。
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医療棟の隅にある、いまは使われていない小さな談話室。
パイプ椅子を引き、ヒフミが落ち着かない様子で腰を下ろすのを見届けると、探索者は背後の壁に背を預け、王と女王はそれぞれの定位置に収まるようにその傍らに立った。
「……アズサちゃんが、いなくなっちゃったんです」
静まり返った部屋の中で、ヒフミは絞り出すようにして、抱きしめたカバンにさらに力を込めた。
「アズサちゃんは、一人で行ってしまいました……恐らく今もまだ戦っているんだと思います。一人で、ずっと」
「居場所が違うんだって……それで私、何も分からなく……こんな大変な事になってしまって……もう、私みたいな普通の学生に出来る事なんて……」
ヒフミの目から、堪えきれなくなった涙がぽろぽろと零れ落ち、制服のスカートに小さな染みを作っていく。
自身の無力さ。世界の急変。そして、遠くに行ってしまった親友への、どうしようもない断絶感。トリニティの「普通の女の子」である彼女にとって、その現実はあまりにも巨大な壁として立ちはだかっていた。
「……」
壁に背を預けた探索者は、黙ってその涙を見つめ、ただ静かに懐の資料の感触を確かめている。
そんな沈黙の中、トコトコと軽い足音を立てて、ヒフミの目の前まで歩み出た者がいた。
「ねぇ、阿慈谷ヒフミちゃん」
ふわりと屈み込み、下から覗き込むようにしてヒフミの目線に合わせたのは、黄金の少女──幸福の王だった。
「え……? あ、はい……?」
ヒフミが涙を拭いながらパチクリと瞬きをする。
「君さ、さっきから『自分は普通の学生だから』とか、『こんな大変なことになっちゃったから』とか、周りの言い訳ばっかり探してる」
「えっ……」
「そんなの全部、どうでもいいんだよ」
王は人懐っこい、けれどどこか拒絶を許さない絶対的な「芯」の通った声で、ヒフミの言葉を優しく、綺麗に切り捨てた。
「君が普通かどうかも、アズサちゃんの居場所がどこかも、今世界がどれだけピンチかってことも、君の『欲』には何の関係もないはず……私はね、そういう風に周りに気を遣って、自分の本当にやりたいことを我慢して、最後には迷子になっちゃう子が、だーーい嫌いなの」
王の言葉に、ヒフミは息を呑む。
「だから教えて、お姫様。君は、自分の友達が今も一人で地獄の真ん中で泣いてるかもしれないって時に……『私は普通の学生だから』って、このままここで大人しくお茶でも飲んで、綺麗に諦めて、それで本当に『幸せ』になれるの?」
「……なれるわけ……ないじゃないですか!」
ヒフミは、顔を上げた。
その瞳からはまだボロボロと涙が溢れていたけれど、そこには先ほどまでの、無力感に怯えるだけの弱気な光は消え失せていた。
「私が好きなのは…私が好きな物語は!」
「辛い事は慰めて、友達と慰め合って……!苦しい事があっても……誰もが最後は笑顔になれるような!」
「そんなハッピーエンドが私は好きなんです!!」
それは、トリニティのどこまでも「普通」で、どこまでも強欲な、一人の少女の剥き出しの
世界がどうとか、アリウスがどうとか、自分が無力な学生だとか、そんな客観的な計算をすべて叩き割って、彼女の心の奥底に眠っていた一番の「欲」が、談話室の空気を震わせる。
「あははっ! うん、そうだよね! そうでなくっちゃ!」
王はパッと顔を輝かせ、まるで最高の宝物を見つけたかのように、嬉しそうに両手を叩いて笑った。
「誰もが最後は笑顔になれるハッピーエンド! すっごく強欲で、すっごく素敵な
王は満足そうに胸を張り、背後の壁に寄りかかっている探索者を親指で指し示す。
「主ちゃん、聞いた? このお姫様、全員分の笑顔を全部一人で買い占めたいんだってさ! だったら、私たちの主ちゃんが動かないわけがないよね?」
「…欲は海水だからなぁ…飲めば飲むほど乾いてしまう」
探索者は小さくため息をつきながら、預けていた壁からゆっくりと身体を引き離した。
「一度その味を占めちまったら、次からは普通のハッピーエンドじゃ満足できなくなるぞ、阿慈谷さん。それでもいいんだな?」
「え、あ……はい……!」
ヒフミは涙を拭い、力強く、けれどどこか戸惑いながらも真っ直ぐに頷いた。
「ほな…頑張りますかぁ…面倒くせぇ……」
探索者は首の骨をパキパキと鳴らし、どこか楽しげに、けれど完全に「仕事モード」の冷徹な目を細めてそう呟く
その、最高にシリアスで格好良い空気をぶち破る声が、すぐ真横から上がった。
「…私の出番なかった!ねぇ!ちょっとカッコいいセリフ考えてたのに!!」
女王が両手をバタバタと振り回しながら、ものすごい剣幕で探索者に詰め寄ってきた。
王があれだけ綺麗にヒフミの本音を引き出し、主が格好良く締めた。その間、自分は完璧にただの壁の花でしかなかったのだ。彼女としては、自分なりの最高にエモいな台詞や立ち回りを脳内で組み立てていたに違いない。
「落ち着け、お前の出番は絶対ある。なにせあのメンヘラゴリラがいるからな」
探索者は詰め寄ってくる女王の額を手のひらでピタッと押さえ、極めて冷静に、けれど確信に満ちた声でそう告げた。
「え、めんへら……ごりら……?」
部屋の隅で、その不穏すぎるワードを聞いたヒフミが、涙目のまま「はへ?」と間抜けた声を漏らす。
「あー…あの娘ね…確かに聞いた話では…女王と相性バツグンだ」
王がニヤニヤと笑いながら、女王の肩をポンと叩いた。
「ま、頑張れよ。下手したら顔面にクレーター出来そうだけど」
「ねぇ!?王ちゃんそんな事いわないでよ!!?」
およそ加勢の言葉とは思えない不吉な脅し文句に、女王の顔が引きつる。
「ま、お前ならどうとにでもなるでしょ」
「……嫌だなぁ…その信頼のされ方…」
女王は頬をひきつらせ、深いため息をつきながら肩を落とした。
「あはは! がんばれ女王! 私は後ろから応援してあげるからね!」
「ちょっと王ちゃん、他人事だと思って……!」
二人の漫才のようなやり取りを、ヒフミは呆気に取られたように見つめていた。
先生の周りにいる、この不思議で、どこか恐ろしくて、けれど信じられないほどに頼もしい人。そして、その人に呼び出された騒がしくて賑やかに場の空気を明るくしていく魔法少女のような人たち
その賑やかさに引っ張られるように、ヒフミの胸の奥にあった重苦しい塊が、少しだけ軽くなっていく。
「ちなみに、最後の説得は全部任せますからね」
「えっ!?」
「当たり前でしょう? 私たちが出来るのはあくまで露払いだーけ」
女王が当然と言わんばかりに、人差し指をチッチッと左右に振ってみせる。
「…さっきまでビクビクとしてたのに、こういう時だけは妙に偉そうだな」
「うるさーい!」
「まぁ…それはともかく、主ちゃんの言う通りだよ。アズサちゃんをここへ連れ戻したいって欲張ったのは、他でもないヒフミちゃんなんだから。私たちは、君がその手を伸ばせるように障害物をどけてあげるだけ。最後にその手をつなぎ留めるのは、君の役割だよ」
王も優しく笑いながら、けれど大人の、そしてかつて人を率いた者としての「道理」を諭すように頷いた。
「私、が……アズサちゃんを……で…出来ますかね…」
ヒフミは自分の両手を見つめ、それから、ぎゅっと拳を握りしめた。
「ま、そんな気を病む必要はないですよ。今の話をそのまま貴方が語りたい通りに話せば何とかなります」
探索者は、それこそ今日の晩飯のメニューでも決めるかのような軽いトーンで、あっさりと請け合った。
「よし、それじゃあ──」
「とっとと片付けて祝杯と行くかぁ!ってかこれ以上のシリアルは私の胃が死ぬからな!!もう十分シリアル食っただろ!!」
これまでのどこか気だるげな雰囲気を一変させ、探索者は両腕を大きく伸ばしながら、本音をこれでもかと吐き出した。
「台無しだよ!」
「まぁ…主ちゃんらしいというか…何というか…」
「あはは…いつもこんな感じなんですね」
ヒフミは呆れを通り越して、どこか安心したように小さく笑い声を漏らした。
重苦しかった談話室の空気が、探索者のくだらない愚痴一つで一気に「いつもの」日常の温度へと引き戻されていく。
「いつもこんな感じだし、いつもこれ以上に締まらないよ。でも、こういう時だけは絶対に外さないんだから、そこだけは信じてあげて」
王が誇らしげに胸を張り、自分のことのようにニカッと笑う。
「ちょっと王ちゃん、甘やかしすぎ! たまにはもっと格好良く『ここは私に任せて先に行け!』とか言ってほしいわけ、お姉さんとしては!」
「お前を置いていったら、あのメンヘラゴリラの地雷ぶち抜いて男女平等パンチ食らうぞ。人道的な配慮だよ」
「だからその信頼の仕方やめてって言ってるでしょ!?ってかメンヘラゴリラってホントに誰!?」
ギャーギャーと騒がしい居候たちを完全にスルーしながら、探索者はニヤリと不敵に笑い、今度こそ迷いのない足取りで談話室の扉を勢いよく開け放った。