降り頻る雨が、焦土と化した大聖堂の残骸を冷たく叩いている。
数時間前までキヴォトスの歴史的な転換点になるはずだった場所は、今や見る影もない。降り始めた雨は、視界を塞いでいた最悪の土煙を洗い流したものの、代わりに焼け焦げた鉄と硝煙の臭いを重く、生々しく周囲に立ち込めさせていた。
避難誘導の声も、負傷者を運ぶ救急車のサイレンも、すでに遠い
瓦礫の山と化した調印式場の一角に残されているのは、不気味なほど静まり返った「戦場」の跡だけ
ガスマスクを被ったアリウスの一般兵たちと、彼らに付き従うように佇む、虚ろなユスティナ聖徒会のミメシスたち。その包囲網の中心に、彼女たちはいた。
「ハァ、ハァ、……ッ……!」
激しい呼吸のたびに、肺が焼けるように痛む。
白洲アズサは、辛うじて握りしめた銃身を杖代わりにし、泥と血に塗れた地面を踏み締めていた。
衣服は爆風と銃撃によってズタズタに引き裂かれ、露出した肌の至る所に生々しい裂傷が刻まれている
流れる血が雨に薄められ、足元に赤い水溜りに、立っていること自体が奇跡に近い、完全な満身創痍。
それに対して──彼女の前に立ちはだかる3人の影
アリウススクワッド。かつて同じ地獄を分け合った、かつての「家族」たち
サオリ、ヒヨリ、ミサキ
彼女たちの衣服もまた、調印式での激闘や探索者の想定外の反撃によって汚れてはいたが、その足取りは未だ確かだった。
数箇所の軽い擦り傷。アズサが文字通り命を削って仕掛けた抵抗のすべてを受け流し、圧倒的な戦力差を見せつけるには十分すぎるほどに、彼女たちは健在である。
その身体が泥に塗れる直前、滑り込んできたヒフミの両腕が、しっかりとアズサの身体を支えた。
「ひ……ふみ……?」
「増員、ですね……数は4、いえ、後ろにそれ以上……」
スクワッドの一人である槌永ヒヨリのお気楽な声が引きつる。彼女の見つめる先──降り頻る雨の向こうから、ヒフミと共に駆け付けた補習授業部の面々と、未だ満身創痍ながらも鋭い眼光を放つ先生の姿。
そして、その後ろからはゲヘナの風紀委員会、トリニティの正義実現委員会、さらにはシスターフッドの精鋭部隊までもが、圧倒的な軍勢となって静かに戦場を包囲しつつあった。
ゲヘナとトリニティの不和を叩き割り、この最悪の戦場に「大人の戦力」を完璧な帳尻で引き連れてきたのだ。
「……お前はなんだ?」
突如現れた少女に、サオリは忌々しげに銃口を向け変えて問う。
アリウスの地獄を知らぬ、あまりにも場違いな温い光。それに対して、ヒフミはほんの一瞬だけ怯みつつも、腕の中のアズサを抱きしめる手に力を込めて答えた。
「普通のトリニティの学生です」
「ヒフミ、駄目だ……どうしてこんなところに……ここはヒフミのような、普通の人が来るべき所じゃ……」
アズサが血を吐くような声で制そうとする。けれど、ヒフミの瞳はもう、さっき談話室で泣いていた時のものではなかった。
「……はい、確かに私は普通で平凡です。先日見せてくれたガスマスクの姿が、本当のアズサちゃんなのだと、その事も理解しました」
「そんなアズサちゃんは本当なら私なんかには手の届かない世界に生きているのだと……そう言いたいのも分かりました」
「ヒフミ……?」
「でも!!! アズサちゃんは一つ、大きな間違いをしています!!!」
「……!?」
「今ここで、私の本当の姿をお見せします!!! 私の正体、それは……」
そう叫びながら、ヒフミは抱きしめていたカバンから、手慣れた動作で「5」の数字が入った、目の部分に穴の空いた茶色い紙袋を取り出し──あろうことか、その場で勢いよく頭から被った。
「【覆面水着団】のリーダー、ファウストです!!」
「……は?」
サオリの、これまでの人生で一度も出したことのないような、素っ頓狂な声が雨音に消える。
あまりの怒涛の展開と、トリニティの暗部であるアリウスの思想を真っ向から消し飛ばす怪しい紙袋のビジュアルに、スクワッドの面々は完全に思考を停止させた。
「……ぶっ、くくく……っ!!」
包囲網の少し後ろ、雨に濡れながら戦況を見守っていた探索者が、ついに堪えきれずに吹き出した。
「あーオモロ。どこがトリニティの普通学生だよ。普通にブラックマーケットを震撼させた最凶の銀行強盗だぞー!」
「ちょっと主ちゃん!? あれがヒフミちゃんの『本当の姿』なの!? トリニティの普通って何!?」
「あーあぁ…笑いすぎて腹痛い…分かってはいたけど、黙ってみてな女王」
お腹を抱えてヒィヒィと笑う探索者を、女王は本気で引きつった顔で見つめている。目の前の「ファウスト」と名乗る紙袋の少女は、完全にシリアスな戦場の空気を独自のパッションで塗り替えようとしていた。
「……えっ」
あまりの怒濤の展開に、アズサが呆然と声を漏らす。そんな親友の困惑を置き去りにして、ヒフミはさらに一歩詰め寄った。
「見て下さいよ、この恐ろしさッ! アズサちゃんと並んだって、全然見劣りしない不気味さを醸し出しているでしょう!? 寧ろこっちの方が恐ろしくて震えちゃうって云う人だっている筈です!」
「ひ、ヒフミ……?」
自身の被った紙袋を激しく指差しながら、必死にそんなことを叫ぶヒフミ。ほんの数歩先まで駆けて来た彼女から、緊迫した硝煙の臭いに混じって、心なしか仄かにたい焼きの甘い香りが漂っていた。
「えっと、ヒフミ……」
「だからッ!」
アズサの困惑を遮るように、紙袋の奥から弾かれたような声が響く。
「だから、私達は違う世界に居るなんて事はありませんっ! 同じですっ! 隣にだって居られます! 手だって繋げるし、一緒に机を並べて勉強も出来るし、ご飯だって一緒に食べられるんですッ! ですから──」
一歩、また一歩。雨に濡れる泥を蹴って近付くヒフミは、アズサの隣に、手を伸ばせば届く距離に、すぐ傍らに立つ。
そしてボロボロのアズサの手を、泥と血に彩られたその小さな手を──壊れ物を扱うように、けれど絶対に離さないという強い意志を込めて、確りと握り締めた。
「一緒に居られないなんて悲しい事、云わないで下さいッ!」
「………」
「ありがとう、ヒフミ……私の為に、そんな嘘まで吐いてくれて」
「──誰が嘘だって?」
「いや~、何だか大事なところみたいだね?」
アズサの歓喜の滲んだ、けれど困ったような声。
それに応じたのは、目の前のヒフミではなかった。
ヒフミの背後から、アズサの背後から、音も無く現れる五人の影。
それに気付いた時、アズサは思わず目を見開いた。彼女達はアズサの前に立つと、ヒフミを挟むように素早く並ぶ。影に覆われた姿は、雨雲の切れ間から差し込んだ陽光に照らされ、その全貌を白日の下に晒した。
「目には目を、歯には歯を、無慈悲に、孤高に、我が道の如く魔境を往く──」
「ん、それが私達のモットー」
「あっ、因みに私達は普段アイドルとして活動していますが、夜になると悪人を倒す副業をしているグループなんです♧」
「いや別にそれ私達のモットーじゃないから!? 変な設定付けないで!?」
「と、兎も角、ファウストさんと……悪徳ディーラーのご命令で、全員集合しました!」
全員がそれぞれの数字が書かれた紙袋を被り、堂々と、かつ清々しい声で宣言する覆面水着団。
「え、えっ……?」
「実在したんですね──覆面水着団」
アズサは困惑の余り右往左往し、ハナコは何処か感心した様な声で呟いた。
アズサに関しては、ヒフミが自分のために吐いてくれた優しい嘘だと思っていたら、予想を遥かに超えてヤバい面子(水着こそ着ていないが、阿鼻叫喚の銀行強盗を成し遂げた本物たち)が揃ってしまったことに対する、純粋な恐怖と困惑であった。
「……はぁ……」
その光景を少し後ろから見ていた探索者が、これ以上ないほど深い、重苦しいため息を吐き出す。
「ちょっと! 何、私たちの姿見てため息ついてるのよ!」
「うちは清廉潔白なカジノ運営を心がけてますー! なーにが悪徳ディーラーですかボケナス!お前らと違って銀行強盗も誘拐もしてませんー!!」
「ミサキ、あいつらは――」
「……詳細なデータはなし、トリニティの制服を着用しているけれど、中身はどうだろうね、データが一切ないって云うのはちょっと変」
「覆面水着団なんて、噂に過ぎないと思っていましたが――本当に居たんですねぇ」
「うちの人が色々とお世話になったねぇ~、いや、本当にさぁ──」
「ファウストさんは怒ると怖いんですよ? 何せカイザー・コーポレーションの幹部を倒しちゃう位凄いんですから☆」
「ん、ブラックマーケットの銀行だって襲える、朝飯前、五分で一億」
「この間なんて、砲撃でカイザーPMCを纏めて吹っ飛ばしてやったんだから!」
「そうですね、生きて動く災いと云っても過言ではないかもしれません……! 或いは、暗黒街を支配するボスの様な方と云い換えても──」
「うんうん、立ち塞がる全てを薙ぎ払い、粉砕し、支配する、それこそファウスト」
皆が一様にヒフミ──ファウストを褒め称える言葉を発し、拳を突き上げ彼女の名を叫ぶ。その中には無論、ノリノリで拳を突き上げている探索者や女王と王と従者、ましてや頬を赤らめながら手を上げる騎士の姿も含まれていた。
『ファウスト! ファウスト! ファウスト!』
「………」
そのコールの中央、かつてブラックマーケットの帝王と恐れられたファウストは──両腕を組み、直立不動でその歓声を浴びていた。
「──あぅ」
が、あまりにも尾ひれが付きすぎた大悪党のプロファイリングと、身内からの容赦のない盛大なコールに、紙袋の奥から限界を迎えた小さな声が漏れる。耐えかねたヒフミは、ついにその場で紙袋を外し両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。
「あっ、ちょっとリーダー、何やってんのよ!? 折角ノッてあげたのに!」
「そうだそうだー! お前が始めた物語だぞー! RPを辞めるなー!最後までやりきれー!!」
「ありゃ、恥ずかしかったかな?」
「わ、私は別にもう正体をバラしてしまったので良いんです! 皆さんはそのままで居て下さい!」
ヒフミは必死に叫び、アビドス──もとい、即席の覆面水着団に向かって両手をぶんぶんと振った。
「……完全に包囲されてしまいましたね……」
「これはちょっと、厳しいんじゃない? リーダー」
ミサキが冷徹に周囲の連合部隊を見回し、ヒヨリが震える声でサオリの背中に問いかける。
ゲヘナの風紀委員会、トリニティの正義実現委員会、シスターフッド。そして、正体不明の謎の覆面集団
「……知った事か、無限に復活するユスティナ聖徒会の前では等しく無意味――いや、寧ろ好都合か、アズサだけではなく、この場の全員に思い知らせてやる」
「この世界の真実を──殺意と憎悪に満ちたこの世界で、あらゆる努力は無意味なのだと」
──足掻こうと何の意味もない、全ては無駄、虚しいだけだ。
「………」
サオリは静かに手を挙げる。瞬間、スクワッドの面々を囲うように、空間の歪みからユスティナ聖徒会のミメシスが次々と出現した。影の如く、虚空からぬるりと這い出てくるおぞましい異形の大軍。
その圧倒的な「神秘」の物量を前に、対峙するアズサ、そしてヒフミとアビドスの面々は強張った表情で身構えた。
「ヒフミ……!」
「アズサちゃん、私は今凄く怒っています……すっごくッ、です!」
「………」
その、普段の彼女が見せることのない明確な怒り。瞳の奥に覗く烈火のような光を前に、アズサは悲しげに目を伏せる。それが、身勝手な単独行動で皆を巻き込んでしまった自分に向けられたものだと思ったのだろう。
「けれどそれは、アズサちゃんのせいではありません。私が本当に、心の底から怒っているのは──あの方々に対してです……っ!」
そう言って、ヒフミがまっすぐに指差した先──そこにいるのは、アリウス・スクワッドの面々
「さっきから、何ですか……! 殺意ですとか、憎しみですとか、それが世界の真実ですとか──! 一体何なんですか、それを強要して、全ては虚しいとあなたは云い続けていますが……ッ!」
「私はそもそも、そんな憂鬱なお話なんてっ、大っ嫌いなんですよッ!」
(……あぁ……そうか)
ふと、戦場を覆っていた重苦しい雨雲が微かに割れる。その隙間から差し込んだ、文字通り一筋の陽光が、泥にまみれながらも胸を張るヒフミの姿を白く照らし出す。
探索者は急いで芯火に手を伸ばした。掴み出したのは、どこか古びていながらも奇妙な存在感を放つ、一台の「キーボード」だった。
彼は迷うことなくそのキーボードを瓦礫の上に叩きつけると、そこから伸びる太い有線コードを引っ掴み、大聖堂の床に走る亀裂へと、力任せにブスリと差し込む。
「それが真実だって──この世界の本質だって云われても、私は好きじゃないんですよッ! 好きじゃない事を延々押し付けられたって、私はっ、ちっとも楽しく何てありませんし、幸せな気持ちになんてなれませんッ!」
「──私にはッ! 好きなものがありますッ!」
突き出された掌、その一本の指が天を指した。
薄暗い曇天に支配されていた空が、徐々に──徐々に明るさを取り戻し始める。
それに呼応して、探索者のタイピング速度が速まっていく。
カタカタカタカタ、と、探索者の周りに響く打鍵音
「なにしてるの……?」
尋常ではない速度で鍵盤を叩き続ける姿に、女王が怪訝そうな疑問の声を投げかけた。探索者はその手の手を一切留めないまま、ニヤリと狂気的な笑みを浮かべて答える。
「馬鹿げた魔術さ。だが、この時ぐらい、お父様と…あのブタの王様も許してくれるだろ」
──陽が、昇り始めた。
「平凡で、大した個性もない私ですが、自分の好きなものについては絶対に譲れません!」
「友情で苦難を乗り越えて、努力がきちんと報われて、辛い事は慰めて、友達と励ましあって──どんな困難も、苦痛だって乗り越えて! 最後は、誰もが笑顔になれる様な……っ!」
「そんな……っ!!」
そんな
(……そんな)
「──そんなハッピーエンドが、私は大好きなんですッ!」
「……あぁ、よく知ってるよ。お嬢様」
タンッ──! と、一際高く、大聖堂の残骸にエンターキーの音が鳴り響いた。
顔を上げ、天を仰ぎ、彼女は吼える。心の底から。
その叫びが、心からの訴えが、空に響き渡り肌を刺す。ヒフミの瞳が、アリウスの三人の視界に映った。
どこまでも澄んだ瞳だった。何かを心底信じている瞳だった。サオリには理解出来ない、陽の当たる場所に居る生徒の持つ瞳
「誰が何と言おうとも、何度だって言い続けて見せます!」
「私達の描くお話は、私達が決めるんです!」
「終わりになんてさせません、まだまだ続けていくんです!」
完全に雲が晴れ渡り、どこまでも青く広がったキヴォトスの空に向けて、ヒフミは真っ直ぐに指を差す。
「私達の物語……」
「私達の、
その指の先には、虹がかかっていた。