サイドミラーの向こう、必死の形相でこちらへ手を伸ばすイロハの姿が、猛烈な白煙の中に小さく遠ざかっていく。
(フン、何を慌てているのだ、あいつは)
マコトは不敵な笑みを貼り付けたまま、正面だけを見据えていた。
視界の先にあるのは、ただ真っ青な空と、その境界線となる切り立った崖のラインのみ。ガードレールすら存在しないその先は、真っ逆さまの虚無だ。
そしてそのすぐ隣。
並走する薄汚い鉄塊──一昔前のGT-APEXとかいうボロ車の中で、飄々としたツラ崩さずにハンドルを握っている探索者の横顔が、チラリと視界の端に映る。
(私を脅し、ゲヘナの政治に口を出そうなどと、どこまで不遜な女だ)
あの音声データが公になれば、万魔殿の、いや、この羽沼マコトの覇道に泥がつく。それは認められない。だが、それ以上にこの私をただのハッタリで怯えさせ、バックギアを入れさせられると思っているあの舐め腐った態度が、何よりも気に入らなかった。
「引き分けはそっちの勝ち、だと? キキッ、笑わせるな!」
メーターの針はすでに常軌を逸した速度を指している。
崖までの距離は、もう目と鼻の先だ。あと数秒もすれば、嫌でもブレーキペダルを踏まなければ、確実に死のダイブを決めることになる。
マコトは自身の絶対的な感覚に従い、渾身の力でブレーキペダルを踏み抜いた。
──キリュキリュキリュキリュッ!!!
鼓膜を強烈にツンと刺すような、悲鳴めいた摩擦音。ゲヘナの権力の象徴たる黒塗りセダンが、激しい白煙を噴き上げながら車体を大きく前のめりに沈ませる。タイヤが地面を狂ったように削り、凄まじいGがマコトの身体をシートごと前方へと引き剥がそうと襲いかかった。
手足のように馴染んだ愛車の、限界ギリギリの制動性能。
完璧なタイミング。完璧なブレーキング。これ以上ない、神がかったマコトの直感。
しかし
(……な、に!?)
減速していく視界のすぐ真横を、信じられないものが文字通り「ぶっ飛んで」いった。
ガガガガガガガガッ!!!と床底を激しく打ち鳴らす異音。
探索者の乗るGT-APEXは、ブレーキを踏むどころか、さらに一段、ギアを叩き込んだような殺気すら放っていた。
白煙を上げて止まろうとするマコトのセダンを、あざ笑うかのような速度で抜き去っていくボロ車。そのフロントガラスの向こう、探索者はやはり、一ミリもブレーキを踏んでいなかった。
「あいつ……本当に、正真正銘の──ッ!」
マコトのセダンが完全に停止する。
フロントバンパーの先、わずか数十センチ下は、荒れ狂う海へと続く真っ逆さまの断崖絶壁。まさに紙一重の神技的な停止だった。
だが、マコトにその達成感に浸る時間など一瞬も与えられない。
ガガァッ!!!
マコトの視線の先、隣の車線を爆走していったGT-APEXが、一切の躊躇もなく崖の縁をローリング気味に踏み切り──そのまま、真っ青な空間へと、弾丸のように飛び出していった。
──────────────────────────
─ザッバーン!!!
数瞬の静寂の後、崖の下から、鼓膜を震わせるような凄まじい水柱の音が鳴り響いた。荒れ狂う海へと真っ逆さまに突っ込んだ鉄塊が、白い飛沫を大きく巻き上げたのだ。
「……あ、うそ……」
マコトは呆然とハンドルを握ったまま、フロントガラスの向こうの、何もなくなった虚無の空間を見つめていた。
完璧なブレーキングだった。崖っぷち一歩手前、これ以上ない位置で愛車を止めてみせた。チキンレースの勝負としては、間違いなく自分の勝ち……いや、相手がブレーキを踏まずにそのまま落ちていったのだから、勝ちというレベルではない。
なのに、心臓のバクバクとした嫌な高鳴りが、どうしても止まらない。
勝ったはずなのに。
この勝負に勝てば、あの社会的な抹殺爆弾である音声データは、自分の手に入るはずだった。
マコトは狂ったようにシートベルトを外すと、セダンのドアを蹴り開けて外に飛び出した。潮風が容赦なく顔を叩く。這いつくばるようにして崖の縁から下を覗き込むと、遥か眼下、激しい波が渦巻く海面に、気泡を上げながらゆっくりと沈んでいくGT-APEXの無惨なルーフが見えた。
「…ころ…した…?」
ぽつりと、マコトの口から擦り切れたような声が漏れ出た。
自分が、アイツを殺したのだろうか。
否、勝負を仕掛けてきたのは向こうだ。おまけにブレーキを踏まなかったのも、自らアクセルを踏みちぎって崖の向こうへカッ飛んでいったのも、すべてあの探索者自身の意志だ。マコトはただ、自らの覇道とプライドに従って、このチキンレースという盤面に正当に応じたに過ぎない。
なのに、指先がガタガタと情けなく震えて止まらない。
キヴォトスにおいて、銃撃戦も爆発も日常茶飯事だ。どんな大怪我を負おうとも、数日入院すればケロリと治る生徒たちが大半のこの世界。
だが、あいつは違う。あの人間は、銃弾一つで容易く風穴が空き、冷たい海の底に沈めばそれだけであっけなく呼吸を止めてしまう、ただの「
「おい、探索者……! 冗談だろう、おい!! おい!!!」
崖っぷちに這いつくばり、狂ったように眼下の海へ向かって叫ぶ。
しかし、ザブザブと白波を立てる青黒い海面は、ただ冷徹に、一人の男の狂気ごとすべてを呑み込んで静まり返るだけだった。
無惨に沈んでいく車のルーフとは、まったく違う位置の海面から、不自然なほど激しい気泡が湧き上がった。
「な、何だ……!?」
マコトが涙目のままガタッと肩を揺らし、駆け寄ってきたイロハもその異様な光景に動きを止める。
次の瞬間、ザッパァァァン!! と豪快に水面を割って、一人の人間が勢いよく飛び出してきた。
「ふぅーー! きーもちー!!」
濡れた前髪を無造作に掻き揚げながら、ぷはぁっと大きく息を吐き出したのは、他でもない探索者だった。
まるで真夏のプールにでも飛び込んだかのような、あまりにも爽快で、あまりにも緊張感のない大声が、静まり返っていた崖っぷちに響き渡る。
「た、探索者ぁぁぁぁぁッ!?!? お前、生きてっ……!?」
「勝手に殺すなやタコ!!」
「お前ッどうやって…!?」
「簡単な話だわ!ここの崖は高さ約10メートル!人が落ちてもギリ死なん!車から脱出してそれを足場にすればなおさらな!」
大真面目にそんな無茶苦茶なロジックをのたまう探索者に、マコトだけでなく、駆けつけたイロハまでもが絶句した。
「……は? 足場、って……」
「着水する直前にフロントガラスに傷をつけといて破ってな、落ちる車体を全力で踏み台にして、衝撃を相殺しつつ斜めに飛び込んだんだよ! アライメント入水ってやつな!」
「さて議長!俺はクソほどキレてる!なぜか分かるか!」
海面から鋭い視線を突きつけてくる探索者に、マコトは一瞬だけ言葉を詰まらせた。先ほどまでの「死なせてしまった」という恐怖はどこへやら、今度は目の前の人間が放つ本物の「怒気」に気圧される。
「な、何だというのだ……! 勝負はそっちの勝ちでいいと言っているだろう! その音声データだって、もうお前の好きに──」
「そこじゃねえよ!!」
探索者は水面をバシャバシャと叩き、容赦ない怒声を崖の上へと響かせた。
「お前がやってたことは当に今のオレの車!これなんだよ!政治だの覇道だの、お前らが上でどんなくだらない泥仕合をしようが俺の知ったこっちゃねえ!だがな!自分の組織巻き込む時は事前に言うべきだろうが!!」
「しかもそれがアリウスとかいうヤバいぐらいに危険な橋なんだぞ!一人で突っ込んで泥舟乗り込んで味方を巻き込むなダボが!!」
「……っ、う、うるさいわ! 私だって、あのようなことになるとは…しかもあの程度の連中に遅れを取るはずが──」
マコトは思わず一歩後ずさり、崖の上から声を荒らげ返した。けれど、その声には先ほどまでの覇気はなく、明らかな動揺が混じっている。
「遅れを取ったから今ここでその無様なツラ晒してんだろうが!!」
「自分の器のサイズも見誤って、怪しい儲け話にホイホイ乗っかった挙げ句、身内の全財まで連帯保証人にぶち込んだんだよ、お前は! いいかマコト、上が馬鹿やって自滅するのは勝手だ!!だがな、お前がそのクソお粗末な覇道ごっこで泥舟を引っ繰り返したせいで、その下にいる何も知らない自分の部下が巻き込まれてるんだぞ!!」
「……っ、それは……」
「ヒナがどれだけお前のケツを拭うために奔走して、イロハたちがどれだけ胃を痛めてるか、少しは想像力働かせろタコ!! 王様プレイで勝手に危険な橋を渡る度胸があるなら、最初から全部一人で背負って、一人で崖の底まで落ちやがれ!!」
一歩も引かない探索者の痛烈な言葉が、マコトの胸に容赦なく突き刺さる。
「良いか!組織のトップは常に責任が伴う!!それに応じて、部下たちの命も預かってんだよ!!独りよがりの選択だけで、そいつらの未来まで勝手に崖っぷちへ連れて行くんじゃねえ!!」
「お前がゲヘナの頂点でふんぞり返っていられるのは、お前を『議長』として神輿に担いで、その神輿が倒れないように必死で支えてる部下たちがいるからだ!!トップの特権は、自分勝手に暴走するためのライセンスじゃねえ!!部下が流す血と涙の量を、一滴でも減らすために頭を回すのが、上に立つ者の義務だろうが!!」
「……っ、そんなことは……私が、一番……っ」
マコトの唇が、悔しさとプライドの狭間で小刻みに震える。
言い返したい。この万魔殿の議長、羽沼マコトの覇道を全否定するような人間の説教など、一言の下に切り捨ててやりたい。
だが、できなかった。
目の前の人間は、まさに今、マコトの「独りよがりの選択」がどれほど容易く部下を、そして自分自身を破滅へと追い込むかを、その身を賭したチキンレースで完璧に実証してみせたのだ。
「ハァ…流石に病人にこの冷たさは堪えるな……」
「おーい、イロハ! 説教は以上だ! 悪いがそこからロープがあるだろう!!そいつを垂らしてくれ!!」
イロハはあきれ果てた様子で、最初から崖の脇に用意してあった救命用のロープへと手を伸ばす。
「……用意周到ですね」
最初から自分が車ごと崖から飛び降りることも、マコトがチキってブレーキを踏むことも、その後の脱出経路も、すべてをあらかじめ計算の内に組み込んでいたのだろう。イロハのその半眼の指摘に、海面の探索者はニカッと悪びれもしない笑みを浮かべた。
「そりゃ、この為に何回も練習したからな!!」
「練習してやることですか、こんな狂った自殺志願者ムーブを!!」
イロハの怒声混じりのツッコミと共に、崖の上から一本の太いロープが投げ落とされる。
「こうでもしないと止まらんだろ!お宅の議長は!!」
落ちてきたロープをガシッと掴み、救命浮器に身体を固定しながら、探索者は当然と言わんばかりに吼え返した。
「言葉が通じる相手なら、わざわざ自分の車を海に沈めるような真似するかよ! これくらい頭のネジがブッ飛んだ荒療治じゃなきゃ、あの底抜けの自信過剰には一生ブレーキがかからねえんだよ!!」
崖の下からバシャバシャと水を滴らせながら引き揚げられていく探索者。
そして、その様子をセダンの運転席のバックミラー越しに、マコトはただ黙って見つめていた。
(……この私を止めるため、ただ、それだけのために)
アイツは、文字通り狂気の世界へ片足を突っ込んでみせたのだ。
ゲヘナの権力に怯えるでもなく、アリウスの脅威に屈するでもなく、ただ「上に立つ者の責任」という冷徹な現実をマコトの脳裏に刻みつけるためだけに。
「チッ……」
バックミラーに映る探索者は、崖の上に這い上がった瞬間、犬のように激しく身体を震わせて水を切っていた。そのあまりにも情けない、けれど圧倒的な存在感を放つ背中を、マコトは二度と忘れることはできないだろう。
──────────────────────────
「さて…マコト議長。賭けの清算をしようか」
「…そうだ…!賭けは私の勝ちだ!早くそのスマホを寄越せ!」
「いーや?オレの勝ちだよ」
「……は?」
マコトが呆然と声を漏らした直後、すぐ後ろから冷ややかな声が追撃した。
「えぇ、マコト先輩。このチキンレースの勝者はマコト先輩ではないです」
「な……なぜだ!? 私は完璧なタイミングでブレーキを踏み、崖の手前でこの車を止めてみせた! 勝負から逃げずに、崖の下へ勝手に落っこちていったのはそっちだろうが!!」
マコトはシートから身を乗り出して叫んだ。チキンレースの定義としても、生き残って車を完全に静止させた自分が勝者以外の何物でもないはずだ。
しかし、崖の上に這い上がり、ベショベショになった上着を絞っている探索者は、心底おかしそうに口元を歪めた。
「あのなぁ、マコト議長。お前、さっきの俺のルール説明をちゃーんと聞いてたか?」
「何……?」
「俺は言ったはずだぜ。『より車体を崖際に寄せれた方の勝ち』ってな」
探索者はニヤニヤしながら、親指で遥か眼下の海を指差した。
「俺のハチロクはな、崖の縁どころか、崖を越えてその先の空中まで車体を『寄せた』んだよ。お前がチキって手前数十センチで止まってる間に、車は崖の境界線を100%超えて前進した──つまり、これ以上ないほど崖際に寄せきったこっちの勝ちだ」
「…そんな滅茶苦茶な屁理屈があるかァァァ!!! それはただの飛び降りだ!! 勝負になってないだろうが!!」
「いいえ、マコト先輩……ルール上は、確かに探索者の勝ちです」
マコトの怒声に被せるように、ロープを片付けていたイロハが極めて冷淡な声を添えた。
「な、イロハ!? お前まで何を血迷ったことを!」
「先輩、落ち着いてよく思い出してください。あの人が提示した条件は『引き分けは私の勝ち』ですが……『崖から落ちたら負け』というルールは、最初から一言も設定されていません」
「……あ」
「つまり、このゲームは『車を止めること』を前提にしていない、最初から破綻したゲームだったんですよ。それをあの人は、自分だけが物理的に『生還する手段』を用意した上で、先輩に仕掛けたんです」
イロハは最大級のため息をつきながら、憐れみの目をマコトに向ける。
「崖の手前で止まった先輩は、あの人の記録を越えられなかった……このイカれたルールを丸呑みして勝負に乗った時点で、先輩の負けは決まっていたんです」
探索者は、首から下げていた防水ケースからスマホを取り出し、それを指先で器用にクルクルと回してみせた。
「そういうこと。ハメ手をナメるなよ、議長殿。つーわけで、賭けの清算だ……約束通り、ゲヘナの政治にきっちり口を挟ませてもらうからな?」
「……ぐっ…いいだろう……!だが、万魔殿の連中には手出しはさせん……!私の首一つで勘弁してくれないか…!」
「…ほう?」
その言葉を聞いた瞬間、スマホをクルクルと回していた探索者の手がピタリと止まった。
隣でロープをまとめていたイロハも、驚きのあまり目を見開いたまま完全にフリーズしている。
夕暮れの冷たい潮風が、三人の間を吹き抜けていく。
「マコト先輩……今、なんて……?」
イロハが恐る恐る声をかけるが、マコトはバックミラー越しに探索者を睨みつけたまま、固く握った拳を震わせていた。その表情には、いつもの尊大な傲慢さは欠片もない。
「万魔殿の議長たるこの私が、お前のような不遜なヤツにハメられたのだ。その責任はすべて、トップであるこの私にある」
マコトは自嘲気味に鼻で笑うと、セダンのシートに深く背中を預けた。
「アリウスとの件も、この賭けの敗北も、すべては私の独りよがりが招いた結果だ……ゲヘナの政治を毟り取るというなら好きにしろ。だが、イロハやイブキ、万魔殿の部下たちにはこれ以上、指一本触れさせん……私の議長の座か、それともこの首か。お前が満足する方を、今すぐ持って行くがいい……!」
堂々と、しかしどこか投げやりな覚悟を口にするマコト。
崖っぷちの沈黙は、数秒の間、重苦しく続いた。
──そして
「ぶふっ……あーーはっはっはっは!!! おいイロハ、聞いたか今!? 『私の首一つで』だってよ! 」
張り詰めた空気を盛大にぶち破ったのは、お腹を抱えて爆笑し始めた探索者の笑い声だった。
「な……っ、何を笑っているのだ!? 私は至極大真面目に──」
「ひーっ……お腹いてぇ!! なんだよ、ちゃんとトップの自覚あるじゃねぇかよ!」
探索者は涙を拭いながら、呆れたように、けれどどこか嬉しそうに息を吐き出した。先ほどまで放っていた冷徹な「大人の怒気」はすっかり消え去っている。
「そんな席いらんわ! 誰がゲヘナの議長の座なんか欲しがるかよ、ただでさえ面倒事の押し付け合いばっかりの書類地獄だってのに!」
探索者は一歩、運転席へと近づくと、開いたドアのフレームに肘を乗せ、海水で濡れた顔のままニカッと笑った。
「俺が言うのはただ一つ。風紀委員会の予算を元に戻して、ヒナをもっと休ませられるようにしろ」
「なっ……」
マコトは言葉を失い、目を見開いたまま固まった。
「良いか? お前が空崎ヒナを憎く思っているのは知っている。だが、それを政治に持ち込んだらいかんだろ。自分の手足を苦しめる奴がどこにいるんだ?」
探索者はドアフレームに預けた腕に顎を乗せ、呆れたように、けれど諭すような声音でマコトを見つめる。
「お前がどれだけヒナを煙たがろうが、あいつはゲヘナの治安を一人で支えてる最大最強の『防壁』だ。その防壁の予算を私怨で削って、あいつを過労でぶっ倒れさせて、得をする奴がゲヘナのどこにいるよ? 防壁が壊れたら、真っ先に直撃を食らうのは最前線にいるお前らだろうが」
「それは……しかし、あやつはいつも私をないがしろに……!」
「ないがしろにされて悔しいなら、私怨の嫌がらせじゃなくて、あいつが口を挟む隙もないくらい完璧なトップとしての仕事で見返してやれ。分権して雷帝の件を再発させないようにしているのは分かるが流石にやり過ぎだ」
ニカッと白い歯を見せて笑う探索者の言葉は、先ほどの苛烈な説教とは違い、不思議とマコトの硬直した心へ、すんなりと染み込んでいくようだった。
「……はぁ」
そこへ、すべての片付けを終えたイロハが、これ以上ないほど深い、けれどどこか救われたようなため息をつきながら歩み寄ってきた。
「全くです。これ以上、あの頭の痛くなるような書類仕事の山を押し付けられたら、風紀委員会が機能停止する前に私が万魔殿をボイコットするところでした……聞いての通りです、マコト先輩。すぐに風紀委員会の予算復旧、および特別手当の承認書類にサインを」
「イ、イロハ……お前まで……」
マコトはぐぬぬ、と唸りながら、完全に包囲されたことを悟ってシートに沈み込んだ。プライドはズタズタだが、不思議と胸の奥の、あの嫌なバクバクとした高鳴りは、いつの間にかすっかり消え去っていた。
「……助かりました。このままではサボれなくなるところでしたので」
マコトがシートの中でぐぬぬと頭を抱えている隙に、イロハが足元に歩み寄り、探索者にだけ聞こえるような小さな声でボソリと呟いた。その表情はいつもの気だるげなものに戻っていたが、声音には確かな安堵が混じっている。
「いーってことよ。こっちもシャーレの仕事できてるだけだし」
「…それでも、マコト先輩の暴走は止めれませんでしたから」
イロハの、少しだけお荷物を背負い込みかけた横顔を見て、探索者はふっと笑った。
「気にするな。あいつのあの底抜けの自信過剰と暴走を、お前一人だけで支え切れるわけねえだろ」
探索者は濡れた前髪から滴る水を手の甲で払い、静かに海を見つめる。
「今回はアリウスとかいう、ちょっとばかりゲヘナだけの手に負えねえヤバい連中が絡んでた。情報が足りなきゃ、どれだけ優秀な参謀でも盤面はひっくり返せない。だから、そういう時こそ周囲の人間を頼りな」
そう言って、探索者は自分の胸をポンと叩いてみせる。
「…今度お話しませんか?貴方になら存分に愚痴れそうです」
「おっ、嬉しいねぇ可愛い子からの誘いは大歓迎だよ」
探索者がニカッと歯を見せて笑うと、イロハはそれまでの神妙な表情から一転、いつもの気だるげな半眼に戻って小さくため息をついた。
「……セクハラで訴えますよ。そういう評価は結構です」
「酷い…全部本音なのに……まぁ、愚痴ならいつでも聞いてやれるよ。マコト議長の奇行録なら、いくらでもスイーツの肴になるだろうしな」
二人がそんな密談を交わしているとも知らず、マコトは未だにハンドルに額を押し当ててブツブツと呟いている。
「風紀委員会の予算を元に戻す……いや、しかし、ただ戻すだけでは私の覇道が……いや、しかしアイツの言うことも一理……ぐぬぬぬ……」
すっかり毒気を抜かれ、自分の内面と大格闘しているゲヘナの議長。
夕闇が本格的にDU地区の海岸線を包み込み、冷たい潮風が吹きすさぶ中、探索者は首のスマホをポケットに収めた。今回のエデン条約を巡る大荒れの試合、その裏始末の一幕は、ひとまずこれにて幕引きのようだった。
余談だが探索者は先生にバチボコに怒られたし、なんなら魔法少女達にしばらくの間説教を食らっていたのはまた別のお話