牙を失った猟犬
先生からの連絡があった街は、完全に寂れていて人の気配もない。
灰色の空から、冷たい雨が静かに、けれど容赦なく降り注いでいた。
(バカか!? なんで一人で向かってんだよ!お前は銃弾で死ぬだろ!)
泥水を跳ね上げながら、探索者は一心不乱に走る。ほぼ完治している体が悲鳴を上げ、荒い息が白く弾けるが、足を止める選択肢なんて最初からなかった。
キヴォトスという世界において、生徒たちの放つ銃弾は挨拶代わりにすぎない。だが、それは彼女たちが超人的な頑強さを持っているからだ。
先生は銃弾一つで容易く風穴が空く。そんな人間がたった一人でこんな危険なゴーストタウンに飛び込むなど、正気の沙汰ではない。
「クソっ…詰めが甘かった…!」
雨の冷たさが、じわじわと体温を奪っていく。
探索者は走りながら、己の不覚に歯噛みした。マコトの説教で発生したゲヘナの事後処理であまりにも時間を食われすぎていた。そのせいで、先生からの緊急の連絡に気づくのが遅れてしまったのだ。
もし、自分がもっと早くスマホを確認していれば
もし、あの先生が一人で動く前に首根っこを掴んでいれば
そんな後悔がぐるぐると頭の中を巡る。
だが──それはそれ、これはこれ、である
起こってしまったことは仕方がない。過去を悔やんで足を止める暇があるなら、今できることを最大限にやるだけ
荒い呼吸で肺を焼きながら、探索者は角を曲がる。
雨音の向こう、寂れたコンクリートの広場の中心に、ついに求めていた「影」が視界に飛び込んできた。
──だが、その光景は、探索者の予想を遥かに超えて異様なものだった。
そこにいたのは、傷ついた先生だけではない。
かつてエデン条約を、キヴォトスを未曾有の混沌に陥れ、自分たちをあそこまで執拗に追い詰めた張本人。
アリウススクワッドのリーダー、錠前サオリ
あの冷徹で苛烈な暗殺者が、プライドも、威厳も、何もかもをすべて泥の中に投げ捨て、先生の足元で、ただ必死に土下座をしていたのだ
(…どういう事だ?いや、まずやるべきは)
ふぅー、と長く熱い息を吐き出し、ブレそうになる思考を無理やりクリアな状態へと叩き戻す。
探索者は腰の後ろから冷たい金属の感触を引き抜く
愛用のデザートイーグル
雨に濡れたコンクリートを蹴り、足音を消したまま、一気にその異様な光景のド真ん中へと躍り出る。
プライドも何もかもをすべて泥の中に投げ捨て、先生の足元で必死に頭を擦り付けている錠前サオリ。その無防備な脳天に向けて、探索者は容赦なく銃口を突きつけた。
"待って!!"
「…一応です先生。私はどんな状況か知らない。だから、一応です」
冷たい雨に打たれながら、探索者は低く、感情を削ぎ落とした声でそう告げた。視線はサオリのうなじに固定したまま、微塵も動かさない。
異様な光景だった。
かつてあれほど冷酷に、合理的に、躊躇なく世界を破滅へと導こうとしたアリウスのリーダーが、今は水溜りに顔を浸さんばかりに泥塗れで平伏している。その体はかすかに震えており、探索者が突きつけた死の鉄塊に対して、防衛の挙動すら見せない。
「……何がどうなって、このテロリストがアンタの足元で這いつくばってんのかは知らないですが」
探索者は銃を構えたまま、チラリと先生の方へ冷徹な一瞥をくれた。
「私が知ってる事実は二つだけ。一つ、この女は先生を殺そうとした前科がある。二つ、そんなヤバい奴の前に、アンタがたった一人でノコノコ現れた……状況を説明してもらいましょうか」
「た…ん…索者…」
サオリの口から、掠れた声が漏れる。
彼女はゆっくりと、泥と雨水に濡れた顔を上げた。その瞳には、かつて向けられた執念や敵意はカケラも残っていない。ただ、一縷の望みにすがるような、悲痛な光だけが揺れていた。
「私は……どうなってもいい。命を奪うなら、好きにしろ……だが、先生、頼む……アツコを……助けてください……!」
「……事情があるみたいですね。いったん離れましょう。雨は体温を奪う」
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「…なるほど、そう繋がるのか」
探索者は廃ビルのコンクリート床にどさりと腰を下ろすと、回収したばかりのサオリのアサルトライフルを検分し、手際よく弾倉を抜いて遠くへ放り投げた。
雨漏りの音が静かに響く薄暗い廃墟の中で、サオリから聞き出した「事情」は、あまりにも最悪の一言に尽きた。
アリウス自治区はベアトリーチェという女が事実上の王として君臨していること。
『姫』と呼ばれるアツコは、エデン条約の任務失敗を理由に、明日の朝には儀式の生贄として処刑されること。
スクワッドの面々は任務失敗の烙印を押され、かつての同胞であるアリウス生徒たちからも命を狙われる身となり、今はバラバラに散って消息すら不明であること。
「……ベアトリーチェかぁ……ここで出てくるのか」
"何か知ってるの?"
「いいえ、少なくとも外道であることしか知りません。ただ……今の事情を聴く限り、あくまでもエデン条約爆破によるゲヘナ、トリニティ自治区の奪取はほぼサブプランって所ですね」
「どっちかって言うと、我々の命を奪うほうがメインっぽいです」
「我々の、命……?」
サオリが泥に汚れた顔を上げ、怪訝そうに探索者を凝視した。
自分たちが「絶対の命令」として信じ、命を賭して遂行したあの作戦が、ただの付け足しに過ぎないと言われたのだ。動揺しないはずがなかった。
「ええ、ほぼ失敗することを前提とした依頼ですね。分かりやすく言うなら『騙して悪いが仕事なんでな』ってやつです」
「…やは…り…」
「ま、そういう反応ですよね。薄々ではあっても気づいてたみたいですし、どっちに転んでも得しかない」
「作戦が成功すりゃ儲けもの。失敗しても、邪魔なシャーレを巻き込んでアリウススクワッドを合法的にトカゲの尻尾切りにできる。ベアトリーチェにしてみりゃ、最初からノーリスクの賭けだったわけだ」
"…"
先生はただ静かに、床に落ちる雨水の波紋を見つめたまま唇を噛んだ。その横顔には、生徒を都合のいい道具として扱い、切り捨てようとしたベアトリーチェへの、静かだが苛烈な怒りが宿っている。
「さて、先生。どうします。この女が裏切らない可能性はなくはないですよ」
サオリの肩が、びくりと跳ねる。
かつて自分が仕掛けた銃撃、そして数々の謀略。それらを考えれば、今ここでどんなに涙を流そうが、すべては「アツコを救うために再び大人を騙す罠」だと疑われても文句は言えない。
「今は殊勝に頭を下げてますがね、いざアリウス自治区に乗り込んだ途端、手のひらを返して後ろから俺たちをズドンとしない保証はない……信じるには、こいつのこれまでの行いは少々ブラックが過ぎる…それでも信じるんですか」
その探索者の慈悲ない言葉に自嘲気味に、あるいは諦めたように、サオリの口から息が漏れ出た。
自分が「先生」を撃ったのだ。その事実も、裏切りの前科も消えはしない。どんなに綺麗事を並べたって、一度向けた銃口の重さを、サオリ自身が誰よりも理解していた。
"生徒のことを信じない教師がどこにいるんだい?"
だが、先生は探索者の質問を嘲笑うようにそう答えた。
サオリは弾かれたように顔を上げ、驚愕に目を見開いた。自分を撃ち抜いたテロリストを、エデン条約を地獄に変えた張本人を、それでもなお「生徒」と呼び、信じると断言したのだ。
「ま、でしょうね」
探索者は驚きもせず、最初からその答えが返ってくるのを知っていたかのように、呆れた様子で肩をすくめた
「ですが、策もなく敵地へと侵入するのはただの自殺行為です。それに、アリウス地区にはカタコンベ以外の不正でも入れますがなかなかにしんどい」
「アンタ、なぜそれを……」
「仕事柄、その手の裏道にはちょっとしたツテがありましてね。まあ、そっちのルートは文字通り這うような泥臭い真似を強いられる上に、時間がかかりすぎる。明日の朝というタイムリミットを考えれば、今回はサブプランですね」
「…となると…
探索者は顎に手を当て、頭の中で秒読みを開始する。
「単身でベアトリーチェの喉元に忍び込むにしても、現地の地理と警備を熟知してる手駒は一人でも多い方がいい。バラバラになったスクワッドの奴らの居場所に、少しでも心当たりは?」
「……心当たり、なら……ある」
サオリは微かに震える声で、だが確かな意志を宿した目で応えた。
「ミサキ……いや、ヒヨリなら、おそらくまだこの先の旧市街の廃墟に潜伏しているはずだ。アリウスの追っ手から逃れるために」
「よし上々。とりあえずほれ、これ食って身体を休めなさい」
探索者は芯火を懐に隠し、そこから掌の上に、重厚な包みと缶詰をいくつか、そしてペットボトルの水を出した
「どーせ何日も飯食べてないでしょう?」
目の前に差し出された、確かな重量感のある食料と水。それも見たこともないような菓子まで付いている
サオリは泥にまみれた手を震わせ、信じられないものを見るかのようにそれらを見つめた。
「……これを、私に……? 毒でも、入っているのか……?」
「入れるわけねぇだろ。ただでさえ時間がないってのに、アンタを介抱する手間を増やすほど私は暇じゃない。そいつは普通の高カロリー食ですよ」
探索者は呆れたように肩をすくめ、缶詰のプルタブをパキリと小気味よい音を立てて開けてやった。
「食料はまだある。4人前ぐらいならな。だから好きに食え」
「……ありがとう」
蚊の鳴くような、酷く掠れた声だった。
サオリは、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、慎重に、けれど飢えた獣のような切実さで缶詰と包みを受け取る
泥と雨水で汚れた指先が、中身を口へと運ぶ。何日もまともな食事を口にしていなかった胃袋に、濃密な脂質と糖分がじわりと染み渡っていく。その瞬間、彼女の張り詰めていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けていく
「……さて」
サオリが必死に咀嚼する音を雨音で遮りながら、探索者は腕時計の文字盤に目を落とした。秒針は冷酷に、けれど確実にタイムリミットへと向かって刻み続けている。
「食ったらすぐに出発だ。旧市街の廃墟、アリウスの追っ手に見つかる前にヒヨリって子を『回収』する。出来ればミサキも、お嬢さん、ルートの先導は頼んだぞ」