一同が足を進めた先、静まり返る空間でミサキが静かに口を開いた。
「……ここまではクリア」
その言葉を皮切りに、面々が周囲を見回し、戸惑いの声を漏らす。ベアトリーチェの領域へ近づくにつれ、明らかに「異常」が視覚化され始めていた。
「……な、なんか知らないものがいっぱい増えてます……」
ヒヨリが怯えたように肩をすくめ、古びた壁や見慣れない意匠の建物を指差す。
「……そうだね……違和感は、私もさっきから凄くある。自治区から長く離れていたとは言え、知らない街になってる」
ミサキが同意するように目を細め、サオリもまた、記憶の糸を必死に手繰り寄せるように視線を彷徨わせた。
「……よくよく思い出すと、以前から少しずつ分からないものが増えていたような……」
「それに、あのミメシスもすごく変じゃないですか、なのにわりと受け入れていた気がします」
彼女たちの言葉は、単なる地形の変化に対する戸惑いではない。自分たちの「認識」そのものが、ずっと何者かに歪められていたのではないかという、根源的な恐怖に根ざしていた。
"……探索者"
先生が確信を込めた目で探索者を振り返る。その無言の問いかけに対し、探索者は静かに頷いて見せた。
「……ええ、先生の予想通り『平凡な見せかけ』に近しい物で間違いないと思います」
「平凡な見せかけ?」
サオリが怪訝そうにその単語をなぞる。
「そうであったと思わせる幻術のようなものです。今はそれだけでいい」
探索者はそれ以上の追究を遮るように短く告げると、デザートイーグルのグリップを握り直した。
「…隠れて、誰かいます」
探索者の切羽詰まった囁きに、全員が咄嗟に瓦礫の陰へと身を潜める。
銃口を下段に構えながら静かに視線を向けると、廃墟の薄暗い通路の奥から、足音一つ立てずに歩みを進めてくる異形の集団の姿があった。
青白い肌に、壊れかけのヘイロー。顔をガスマスクで隠す。間違いなく、このアリウスを徘徊する亡霊たち。
「あれは……ユスティナ生徒会!?」
サオリが息を呑み、驚愕に目を見開く。
「……何故だ? あれはエデン条約が取り消された以上、使役は不可能なはずだ」
サオリの言う通りだった。ユスティナ生徒会のミメシスは、古の条約と『ロイヤルブラッド』を触媒にして、初めて完全な形で使役できる存在だ。条約が破綻し、儀式も未完成の今、彼女たちがベアトリーチェの兵隊として動いていること自体が不可思議な状況である。
「……考えてみれば……そもそも私たちがエデン条約を襲撃した理由は、あの『複製能力』を確保するためだった」
ミサキがスナイパーライフルを構えながら、過去の作戦の記憶を引っ張り出し、ぽつりと呟く。
「……話の流れで推論するなら、一度でもパスを繋いでしまえば、あとはその『複製能力』を使って強引に使役できると考えるのが自然ですね」
探索者が、敵の陣容を冷徹に観察しながら推論を口にする。
「あくまで予想ではありますが…恐らくそれさえ出来ていればあとの自治区占領など毛ほども興味がなかったのでしょう」
サオリたちが泥をすすりながら勝ち取ろうとしていた「自治区の奪還」。そんなものは最初から、ただの撒き餌に過ぎなかったのだ。
『ええ、その通りです』
冷え切った自治区の空間に、不気味なほど甘ったるく、尊大な女の声が響き渡った。天井のスピーカーからか、あるいは空間そのものに直接響いているのか。
「…囲まれましたねぇ」
周囲の闇から無機質な足音が幾重にも重なり、包囲網が狭まっていく。探索者はデザートイーグルを構えたまま、冷静にその足音の数を計算していた。
「罠…だね。私たちがここに来るって分かってたんだ」
『勿論ですよ』
「……マダム」
サオリの口から、憎悪と恐怖の入り混じった掠れた声が漏れる。
『ここは私の支配下にある領地。皆さんの位置や目的地、その経緯に至るまで全てを把握しております』
『貴方たちが旧校舎の回廊に行こうとすることも最初からわかりきっていました。愚かな子どもたち…私に隠し事なんて、不可能ですよ』
「ひ、ひいぃ…さ、最初から」
ヒヨリが絶望に顔を青ざめさせ、ガタガタと震え出す。周囲の闇から、金属質な硬い足音が幾重にも重なって聞こえてきた。ユスティナ生徒会の面々が、静かに、しかし確実に一行の逃げ道を塞いでいく。
「ま、でしょうね。簡単な予想ですし、これぐらい出来てなきゃ統治者名乗ってませんよ」
場違いなほど平然とした、そして酷く冷めた声が、重苦しい空気をあっさりと切り裂いた
彼はデザートイーグルを低く構えたまま、まるで大したことのない事務連絡でも聞かされたかのように、肩をすくめて見せる。
『……ほう?』
スピーカーの向こうの、空間そのものの温度が、ピキリと一瞬で変わる。
すべてを掌握し、絶対的な絶望を与えて愉悦に浸るはずだったベアトリーチェの声に、明確な不快感と、値踏みするような不気味なノイズが混じった。
「目的地なんて、盤面を見ればガキでもわかる一本道だ。それをさも『神の視点』みたいに語るなよ、恥ずかしい。中二病ですか?そういうお年頃なんですねぇ?」
「ってか、まず初対面の人が現れたらアイサツでしょう。忍殺やってる奴らだってアイサツ大事だといってますよ。古事記にもそう書かれている」
極限の緊迫感に包まれていたはずの戦場に、探索者の徹底的にふてぶてしい煽りが響き渡る。
あまりの場違いなテンションに、絶望していたヒヨリの涙がピタッと止まり、サオリとミサキも思わず「こいつ今この状況で何を言っているんだ?」とでも言いたげな目で探索者の背中を凝視した。
『…始めまして、先生、そして探索者。私はベアトリーチェと申します。すでにご存じかもしれませんが、「ゲマトリア」の一員です。通信越しでの挨拶となることをお許しください』
あからさまな挑発に対し、ベアトリーチェは即座に激昂するのをやめ、むしろ極めて慇懃無礼で、ぞっとするほど理性的かつ尊大な「大人」の声音を取り戻して応じた。自分が格上の統治者であることを誇示するかのような、余裕に満ちた挨拶。
だが、探索者はそんな「大人の仮面」を、さらに容赦のない速度で踏み荒らしにいく。
「はい、始めまして、こちら名乗りは不要の探索者。ムショの暮らしはどうですか?手足もがれて心臓をもがれてもまだ動く人魚たちとは元気ですか? ベアトリーチェ」
『……何の話を、しているのですか?』
スピーカーの向こうのベアトリーチェの、完全に困惑しきった声が響く
「あー……悪い。人違いだ気にするな。ただ、
探索者はまったく悪びれる様子もなく、デザートイーグルを片手で器用に回しながら肩をすくめた。
『…下らぬ戯言を』
「そのくだらない戯言にムキになって反応しちゃってるくせによく言いますわ」
どこまでも相手を煽り倒す探索者の不敵な物言いに、スピーカーの向こうから「……ッ」と息を詰まらせるような、明確な苛立ちのノイズが漏れ聞こえた。
「あれあれ?聴いちゃってます?私淑女ですよアピールはどこ行きました?カルシウム足りてないんじゃないですか?」
どこまでもねちっこく、容赦のない速度で畳み掛けられる煽りの言葉。
『永遠の淑女』を気取り、神聖な儀式を執り行っている最中のベアトリーチェにとって、これほどプライドをズタズタに引き裂かれる屈辱はない。
一触即発、スピーカーが怒声で割れるかと思われたその時。
──静寂が、落ちた。
スピーカーの向こうから、フゥ、と冷ややかで重苦しい、一つの長いため息が漏れ聞こえる。
怒りに任せて叫ぶことすら己の価値を下げると気づいたのか、彼女は無理やり激情を抑え込み、再びねっとりとした大人の余裕を演じるように声音を整えた。
『…黒服やマエストロ、ゴルコンダから、貴方達について色々お話を聞いていております』
"貴方がアリウス自治区を統治している…"
すかさず先生が、探索者への追及を逸らすように、かつ毅然とした態度で言葉を挟む。
『はい。そして、ゲマトリアにおける現在唯一の成功者です』
『…私のことが気になりますか?どうやってアリウスを手中に収めたか…必要とあらば貴方の持っている情報と交換することも出来ますよ』
謎に包まれたゲマトリアの、その最高機密とも言える「成果」の内実。世界の秘密を貪る者たちであれば、這いつくばってでも乞うであろう甘い誘惑。
だが、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、探索者の吐き捨てるような声が爆音で響いた。
「馬鹿も休み休み言えよベアトリーチェ。そんなチリ紙よりも薄い情報になんの価値があるんだ?」
『……何ですって?』
あまりの切り捨てぶりに、ベアトリーチェの声に再び不快なノイズが混じる。
「お前がどうやってこの自治区を騙し討ちにして、子供たちの心をへし折って支配したかだろ? そんな胸糞悪いだけの三流の悪辣、わざわざ高い対価を払って聞く価値がどこにある?」
『……ほう、そうですか』
ベアトリーチェの声色には、先ほどまでの余裕を必死に取り繕おうとする、明らかな苛立ちが混ざっている。自らの至高の業績を「三流」と切り捨てられた怒りが、通信越しでも空気の重さとして伝わってきた。
『私の名誉のために言っておきますが、私は特殊な能力など使っていませんよ』
『洗脳や超能力……くくっ、そんな便利な力があればよかったのですが、残念ながらそれは「大人」のやり方ではないので』
思わせぶりに、そして自らの手腕を誇示するようにクスクスと笑う女の独白。
「あぁ、そうだろうな。薄汚い詐欺師みたいにでっち上げの憎悪を吹き込んだだけだろ」
吐き捨てられた極めて「現実的」な指摘に、スピーカーの向こうの笑い声がピタ、と止まる。
「超能力? 洗脳? そんな大層なもんじゃねぇよな。ただ、絶望してるガキどもの前に救い主のツラして現れて、偽物の居場所と、外の奴らへの憎しみを都合よく植え付けただけだ」
「能力を使わなかったんじゃなくて、使えなかっただけだろ。そんなありふれたペテンでしか人を動かせないお前のどこが『成功者』だ?」
『成功者については反論したい所ではありますが……ええ、そうですね。ですがそんなものはありふれた光景じゃないですか?』
図星を指されたはずのベアトリーチェの声は、驚くほど滑らかに、そして心底愉快そうに弾んだ。探索者の辛辣な言葉すら、自らの正当性を証明するパーツであるかのように、彼女はねっとりと語りかける。
『歴史を紐解けば、人間はいつだってそうやって動かされてきた。不満を持つ民に仮想敵を与え、憎悪を扇動し、大義名分という名のペテンで戦わせる。これこそが、世界で最も手垢のついた、しかし最も洗練された「大人」の統治技術ですよ』
『楽園とは永遠に届かないからこそ楽園たり得る。その地獄で「大人」は「子供」を搾取し、捕食します』
『誰かにとっては地獄かもしれませんが…それこそが「大人」の安らかなる楽園でしょう』
これ以上ないほどに歪みきった、ゲマトリアとしての、そして「悪しき大人」としての開き直り。子供たちの血と涙で築かれた地獄を、自分たちの「楽園」と呼んで憚らないその傲慢さに、空間の空気が凍りつく。
「……なるほど、完璧な自己紹介だ。吐き気がするほど分かりやすい。だが、分からんでもない。苦痛は連鎖する。誰かが幸せになるのなら、その分の負債が押し付けられるという思想は十二分に理解できる」
探索者の口から漏れたのは、ベアトリーチェの言葉を肯定するかのような、酷く冷徹な現実主義の響きだった。一瞬、サオリたちが息を呑む。しかし、彼の言葉はそこで終わりではなかった。
「……だからこそだろうな。お前らはこの問いに対して決して証明を行うことが出来ない」
「…「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか」だったか?」
その言葉が紡がれた瞬間、スピーカーの向こうの空気が、まるで物理的な衝撃を受けたかのように凍りついた。
『……貴方、それをどこで──』
ベアトリーチェの声から、ねっとりとした余裕が完全に消え失せる。動揺を隠しきれないその反応を、探索者は鼻で笑い飛ばした。
「それは今の話に関係あるのか? ないなら引っ込めてもらおう。自分の感情がそのままツラに出てくるとか、ポーカー向いてねぇぜ、マダム」
探索者はデザートイーグルを構えたまま、片手で軽く肩をすくめて見せる。その態度は、ベアトリーチェがどれほど世界の深淵を気取ろうとも、自分にとってはただの「手札の読みやすい凡俗」に過ぎないと言わんばかりだった。
「ま、俺の思想だがな。誰かの幸福は、誰かの犠牲の上に成り立つ。事を為すためには、誰かの何かの犠牲が必要になる。それは事実だ」
「だが、それが楽園となれば話は別だ」
探索者の声のトーンが、一段と低く、冷徹なものへと変わる。
「犠牲の上に成り立つそれは、ただの『利益の分配』だ。そんな泥水をすするような等価交換のシステムを、さも高尚な『楽園』なんて名前で呼ぶんしゃねぇ。反吐が出る」
「楽園というのは誰も犠牲にならない状態で、全員が等しく幸福である状態であり、その“完全性”が保証された世界だ。だがそんなものは構造的に成立しない」
「だから“楽園が存在するかどうか”なんて問い自体がズレてる。楽園を楽園足らしめるのは…」
「そこへ辿り着いた奴らが、胸を張って『ここは楽園だ』と言えるかどうかだ」
──その言葉は、暗く冷たい空気に、驚くほど真っ直ぐに響き渡った。
「それを神でもないお前が、さも知り尽くしたように語る……些か傲慢が過ぎるな。ベアトリーチェ」
「旧き神でも、外なる神でもそんな物を知ったようには語れない」
「もし、それに名前をつけることが出来るのであれば、それはこの世でただ一柱。万物の父にして全ての祖だけだろうな」
『な……何、を……貴方は、何を口にしているのです……!?』
ベアトリーチェの声は完全に震えていた。
数秘術。記号。神秘。崇高
彼女がアリウスを弄び、ゲマトリアとして積み上げてきた理念とプライドに、初めて明確な亀裂が走る。
無限の混沌の深淵を覗き込んできた探索者だからこそ放てる、概念そのものを圧殺する絶対的な自信と言葉。
ベアトリーチェの認識が揺らいだ、その瞬間――
周囲のユスティナ生徒会の亡霊たちが、ガタガタと不気味な音を立て、その輪郭を激しく揺らがせる。
そして……霧散した。
「お前が自惚れてる『大人の特権』も、ガキを弄ぶシステムも……その御方の見る、ほんの一瞬の泡沫の夢に過ぎねぇってこった」
「プライドにヒビが入ったか? 結構なことだ。その隙間から、せいぜい己のちっぽけさを自覚しな」
その言葉を最後に、スピーカーは何も語らなくなった。
ただ、通信が切れる直前、世界の理だと信じて疑わなかったものを、根底から揺さぶられたベアトリーチェの、ひどく浅く、絶望に満ちた呼吸だけが静かに響いていた。
「……ふぅ、疲れた」
"…色々と聞きたいことがあるんだけど…"
「おーっと!今の私はシリアスをギャグパートにしようと思ったら何故かまたシリアスに戻ってしまい、それを処理するために力を使い果たした人間なので、一つだけで頼みますよ!」
デザートイーグルを器用に指で回してホルスターに収めながら、探索者は大袈裟に両手を挙げてみせた。先ほどまで世界を圧殺せんばかりの深淵を背負っていた人間とは到底思えない、あまりにも軽い、いつもの調子だ。
その急激な温度差に、深刻な表情で行く末を見守っていたサオリたちスクワッドの面々は、ガクッと肩の力を抜いて文字通り呆然と立ち尽くしている。
「……は?」
「な、何言ってるんですかこの人……? ギャ、ギャグって何……?」
ヒヨリが涙目で混乱する中、先生は額を押さえ、深いため息をつきながらも、その口元にどこか苦笑いを浮かべた。
"…分かったよ。じゃあ一つだけ"
先生は真剣な、しかしどこか温かみのある目を探索者に向けた。
"君がさっき言った『辿り着いた奴らが胸を張って楽園だと言えるかどうか』……アリウスの彼女たちも、いつかそんな風に胸を張れる日が来ると思うかい?"
「…そーですねぇ」
「そんな未来は来てみないと分からない。が答えですかね」
探索者は頭の後ろで両手を組み、実に締まらない格好で天井を見上げた。あまりにも素っ気ない、夢のない現実主義者としての回答。
だが、その横顔には先ほどベアトリーチェに向けたような冷酷さは微塵もなく、更に言葉を紡ごうとした
その時だった
「っ!」
バァン──ッ!!
静寂を切り裂く、デザートイーグルの爆音。
言葉の途中で、探索者の身体は完全に戦闘のそれへと切り替わっていた。流れるような動作でホルスターから引き抜かれた銃口から、容赦のない鉄槌が物陰へと叩き込まれる。
(クソッタレ……ここでかよ)
煙を吹く銃口の先、弾丸が抉った石柱の影から、ひらひらと舞う白い翼と、場違いなほどに可憐な声が響いた。
「ひどーい。急に撃つなんてさ」
"み、ミカ……!?"
先生が驚愕に目を見開く。
サオリは一瞬で全身の血が凍りついたかのように硬直戦慄し、その場に縫い付けられた。
「まさか……警備を倒し、ここまで来たのか……」
「久しぶりだね。サオリ。また会えて嬉しいよ」
闇の中から姿を現したのは、聖園ミカ。
優雅に、しかし圧倒的な「個」の暴力そのものを身にまとったトリニティの最高戦力が、そこに佇んでいた。