ミカの歪んだ瞳の奥に見えたのは、世界への憎悪よりも強い、自分のすべてを終わらせてほしいという悲鳴
だが、彼女の『身体』はそうはいかない。彼女の内に巣食う絶望と、歪んだ執念、そして心より先に身体が覚えている戦闘の使命が、探索者という「目的に対して明らかな邪魔者」の命を、機械的かつ完璧な精度で奪おうと駆動する。
──刹那
空気を爆破するような咆哮とともに、ミカの銃口から容赦のない弾丸の嵐が放たれた。
「っ……!」
探索者は咄嗟に身体を捩った。
直撃すれば一瞬で肉を抉り骨を砕くキヴォトスの火線が、彼の頬を、肩を、かすめていく
直後、息つく暇もなく、視界を焼き尽くすような閃光の突きが襲いかかった。
紙一重で頭部を後ろへ逸らす。だが、それで終わりではない。避けた先を見切っていたかのように、流れるような連撃で、今度は重戦車のごとき拳が顔面へと飛ぶ。
──そのどれもが、生身の「人間の命」など、塵芥のように簡単に吹き飛ばせる代物
探索者が寸前で躱し、直撃を免れたミカの拳がそのまま背後の石柱へと叩き込まれた。
轟音と共にクレーター状に爆砕し、深くめり込んだ地面と瓦礫の山が、その不条理な暴力を何よりも雄弁に物語っていた。
(どうするどうするどうするどうする!?まだ逃げれば時間は稼げる! だが、この身体にはもう時間がねぇ!)
短期間で三度の大怪我による入院。無理な戦闘。そしてそれを動かすために使い続けた数々のアーティファクトの副作用。肉体は、すでに見た目以上に限界へ達していた。
引き延ばせば引き延ばすほど身体は悲鳴を上げ、最後にはこの怪力に文字通り圧殺される。
(……かと言って、勝てるかと言われれば答えはNOだ!)
いや――倒すだけならできる。
神話の深淵を生き抜いてきた探索者には、そのための技術も、呪うべき手段も揃っている。
フィリピン爆竹による飽和爆撃。 六花月による神速の断風。 異世界から持ち帰ったアーティファクト。
それらを組み合わせ、『殺す』ことだけを目的にすれば、聖園ミカという一人の少女を葬ること自体は不可能とは言えない。
だが、使いこなせない
神話の遺物は、人を助けるために都合よく威力を調整してくれる道具ではない
使えば殺す。 加減を誤れば吹き飛ばす。
探索者自身、その力を完全には御し切れていない。
そして、それは決して勝利じゃない
今、この場で探索者に求められているのは、
「ミカを殺さず」 「自分も死なず」 「彼女を止める」
という、神話生物を相手取るより無茶な条件だった。
(殺さず、殺されず……気絶だけさせる?)
「無理ゲーだろ!」
思わず口から飛び出た本音の罵声
じり、と地面を穿つような音を立てて、涙を流すミカが次の一歩を踏み出す。彼女の纏う空気が、世界そのものを押し潰すかのように膨れ上がっていく。
(クソッ!こんなことなら魔法少女連れてくるんだった!)
そう。彼女たちが持つ『
だが、探索者には絶望的に時間がなかった。
元より、先生から急に送られてきたメッセージを受けての緊急行だ。電波による逆探知を恐れた結果、彼女たちに事態の共有も、言伝すらも頼めていない。
それはすなわち、この戦場に彼女たちが駆けつける可能性は、万に一つも残されていないという事実を雄弁に語っていた。
(らしくねぇな、探索者!無い物ねだりかよ!!)
瓦礫を盾にし、文字通り泥を這うような機動でミカの猛攻を回避している探索者。その額から、ダラリと冷や汗が流れ落ちる。
視界の端で激しく点滅する肉体の警告。
呼吸をするたび、肺の奥から強烈な鉄の匂いが競り上がってくる。
探索者には魔力がそこまで残っていない。それは道中で全員に向けて平凡な見せかけを使っていたのもあるが、一番はやはり、最悪の結末を避けるためにあらかじめリソースを割いた、撤退用の『門の創造』の分が大きい。
今の魔力総量的に一度きりだが、ほぼどんな窮地にも役に立つ門の創造。
これは、これだけは取っておかなくては行けない
(これを今ここで、自分の保身のためだけに開いてみろ……)
それはすなわち、この場からの完全な逃走を意味する。自分だけは確実に生き残れる最善手。
だが、そんなことをすれば、ブラックロータスに呑まれたミカをこの戦場に置き去りにすることになる。
となれば全滅は必須。先生も死亡し、この世界の物語は確実に破綻する。
「…」
(選択するしかないのか…?)
また、何かを切り捨てる選択を
脳裏をよぎるのは、過去何度も自らを生かすために犠牲を強いてきた者たち。
仕方がなかった。
助かる確率がなかった。
誰かを囮にしなくてはならなかった。
そう言い聞かせて、何人もの命を置いてきた。
彼ら、彼女らの命を…使わせてもらった
だからこそ思う
そうやって冷酷に切り捨てられたなら、どれほど良かっただろう。
あの人たちは、確実に死にたくなかった。
本当は自分だって、もっと生きたかったはずなんだ。
──それでも、彼らは最後には背中を押した。
「生き残れ」と、その願いと命を託して、送り出した。
(頭を回せ探索者!諦めるのは最後でも出来る…!)
探索者はミカの体術を受け流す。一撃一撃が即死になりうる攻撃も、恐れることなく
神話の深淵で死線を潜り抜け、師から叩き込まれ、幾度となく実践してきた歩法。
狂気さえ経験として積み重ねたその身体は、思考よりも先に動き、ミカの圧倒的な質量と速度の拳を、紙一重でいなし、いなし、なおいなし続ける。
(ハハッ…一撃ごとに走馬灯が流れやがる…!)
探索者の頬を掠める風圧だけで、皮膚が裂け、血が滲む。
文字通り「かすっただけで即死」という極限の綱渡り。過去に置いてきた者たちの顔が、そしてこれまでの死線が、スローモーションの視界の中で浮かんでは消えていく。
(珍しくもないだろ……ッ! 死がすぐ隣にあることなんて……いまさらだ!!)
何度も神々に抗い、奈落の底から這い上がってきた。
だからこそ、この心臓を握り潰されるような暴力の前でも、魂は折れない。より一層鋭く、狂気的に研ぎ澄まされていく。
銃が来たなら遮蔽を噛ませる。それが無理なら、射線と指先の微細な動きから軌道を予測する。拳が来たのなら最低限の動きでいなし、相手の力を利用して自らの消耗を徹底的に抑え込む。
リロードはさせない。肉薄した状態を維持し、相手の手札を増やさせない。
自分にとっても最悪の間合い。だが、相手の得意な土俵で戦わない
それだけが、この不条理な戦力差へ人間が抗うための、唯一の戦術だった。
(フェイントがないのが唯一の救いだな!)
狂気に突き動かされるままに暴力を振るう今のミカには、一切の駆け引きがない。ただひたすらに、純粋で圧倒的な質量が直線的に襲いかかってくるだけだ。
殺意はある。だが、読み合いはない。
神話生物の捕食行動と同じ。どれほど超常の速度と威力であろうとも、意思のない「暴力の嵐」であれば、その軌道を読むことは探索者にとって不可能ではない。
(真っ直ぐ来るって分かってんなら、避けようはある……ッ!)
それでも、不可能ではないという、ただそれだけの話だ。
軌道が読めた所で、避け切れるとは、誰も言っていない。
一歩間違えれば即座に肉体が消し飛ぶ現実は何一つ変わらない。
軌道が読めたところで、迫る暴力の絶対的な速度と質量は、生身の人間が回避していい限界を疾うに超えている。
タイミングがほんの数ミリ、数フレームでもズレれば、その瞬間にゲームオーバー
そんな針の穴に蜘蛛の糸を通すような気が遠くなるほどの作業を探索者は寸分違わず行っている
「は、ぁ、つ……っ!」
脳はとっくに処理限界を迎え、肺が焼ける。心臓が早鐘を打ち、全身の毛細血管が限界を超えて悲鳴を上げている。
意識がほんの少しでも、過去の犠牲や未来への恐怖に囚われれば、その瞬間にミカの拳が探索者を肉塊へと変えるだろう。
だが、狂気的なまでの集中力が、肉体を、感覚を、世界そのものを完全にスローモーションへと引き戻していた。
もし、その彼が物語の主人公ならば、英雄と呼ばれる存在ならば、ミカの正気は戻っていたかもしれない。
この圧倒的に不利な状況下でも、ミカを打ち負かすことができたかも知れない。
それでも運命は彼に微笑まない
スローモーションの世界のなか、探索者の「眼」は、最悪の事象が起きるのを確かに捉えていた。
ミカの突進をいなすために踏み込んだ足元。そこにあったのは、先ほどの猛攻で砕け散ったコンクリートの残骸──あまりにも不規則に尖った、細かな瓦礫の山。
グシャリ、と足首が不自然な角度に傾く。
どれほど完璧なステップを刻もうとも、踏み締める大地そのものがすでに崩壊している戦場だ。
生身の肉体で制御し切ることなど不可能だった。
バランスが、ほんの数センチ、外側へと流れる。
絶対的な回避のルーティンに、決定的な『遅れ』が生じた。
(──しまっ──)
そのわずかな隙を、狂気の怪物と化した聖園ミカが逃すはずもない。
視界のすべてを埋め尽くすように、彼女の拳が、探索者の顔面へと向かってまっすぐに振り下ろされた
はずだった。
パンッ
乾いた銃声が、回廊を裂く。
ミカの肩口へ銃弾が突き刺さる。
肉薄する暴力の嵐が、その一撃によってわずかに外側へと弾かれた。
頭部を消し飛ばすはずだったミカの拳が、探索者の耳をかすめ、背後のコンクリートを爆音とともに粉砕する。
(……なんで、ここに……ッ!?)
肺に溜まった鉄の匂いを吐き出しながら、探索者は泥に塗れた顔を上げる。
視界の先、煙が立ち込める崩落した境界の向こう側に、確かにその影は立っていた。
錠前サオリ。
彼女だけではない。
その背後には、銃身を構え直す戒野ミサキに、怯えながらも武器を握り締める槌永ヒヨリの姿。
そして……
"──すまない、遅くなった!"
肩で息を荒くしながら、泥塗れの戦場にそぐわないスーツ姿で立っている、あの「先生」がいた。
「何やってんだ!?正気じゃない!!」
「…私は止めたよ。だけど止めきれなかった」
「いや…それは分かるが!」
ミサキの、どこか諦めたような、それでいて呆れ果てたような声が飛んでくる。
「あはは……先生が『行く』って凄い力でいって…もう誰も止められなかったんですよぅ……」
ヒヨリが泣きそうな顔でスナイパーライフルを抱え直し、震える声で同意する。
「馬鹿か!?馬鹿なのか!?馬鹿なんだろうな!!このままじゃ全員共倒れだ!!今すぐに──」
叫びが途切れる。その瞬間、探索者の耳に、この絶望的な硝煙のなかで最も場違いな、しかしこれ以上なく聞き覚えのある文言が届いた。
サランガ チョンイウィ イルムロ!!
確かに運命は誰にも平等じゃない。
万に一つも、駆けつける可能性など残されていないはずだった。
運命は待つ者には微笑まない。
事態の共有も、言伝すらも頼めていなかったはずだ。
だが
最後まで足掻き、踊り続けた道化だけが──
偶然目の前に現れた一瞬の可能性に、手を伸ばす資格を得る。
「おおおおおおおああああああッ!!」
その瞬間、探索者は躊躇いなく、狂気の怪物と化したミカの懐へと、文字通り心臓を投げ出すように抱きつきに行った。
崩れた足首が千切れんばかりの悲鳴を上げ、全身の肉が超至近距離の衝撃で軋む。それでも、その細腕が放つ暴風を、自らの五体すべてを使ってガチガチにロックする。
「全員武器を取り上げろ!! 行動をさせるな!!」
肺に残ったすべての空気を絞り出し、戦場へ向けて怒号をぶち撒けた。
その刹那の隙。それだけが、探索者が掴み取った「万に一つ」の勝機だった
サオリたちには理解は及んでいない。探索者の意図など聞いてないし、先ほどの言葉の意図も彼女たちには知る由もない。
だが──
「──理屈は知らん! だが、お前が作った隙なら、絶対に無駄にはしない……ッ!」
サオリの身体が、本能的な信頼だけで限界を超えて加速する。
理解など必要なかった。地獄のようなアリウスで、そしてこのキヴォトスで、死線を共にしてきた探索者が命を懸けて叫んでいる。動く理由は、それだけで十分すぎた。
「ヒヨリ、ミサキ! 抑え込めッ!!」
「う、うあああああ! ごめんなさい、ごめんなさいぃぃ!!」
「チッ……本当に、無茶苦茶だよ……!」
ヒヨリが泣き叫びながらミカの得物を落とすためにへ決死のタックルを敢行し、ミサキとサオリはそれぞれ腕と足を抑える。
──だが、ブラックロータスの狂気に侵された聖園ミカの怪力は、人間の、いやキヴォトスの生徒の常識すらも遥かに超越していた。
「が、あ、ああああああッ!!」
探索者がその身を挺して身体を拘束している間も、ミカがそれを振りほどこうと身悶えするだけで、周囲の床が轟音と共にクモの巣状に割れていく。
「くっ、そ……ッ!!」
あまりの衝撃波と質量に、サオリの身体が強引に吹き飛ばされそうになる。だが、彼女は歯がへし折れんばかりに噛み締め、爪が剥がれ落ちるほどの力でその足に食らいつき続けた。
「ひぃ、あ、あああ……! うああああああん!!」
ヒヨリは恐怖で涙と鼻水に顔をグシャグシャに濡らし、今にも心臓が止まりそうなほどに震えながらも、絶対に、頑なに、その得物を掴んだ手を離さない。
ゴキ、と探索者のどこかの骨が鈍い音を立てた。
その時だった。
正義よりも碧き者よ、愛よりも紅き者よ。
運命に見放され、それでもなお抗い続けた者よ。
幾度倒れようとも、誰かのために立ち上がったその背中を、私は確かに見た。
幾度拒絶されようとも、それでもなお自らの愛を分け与え続ける姿を、私は確かに見た。
故に我はここに誓う。
この手を伸ばしてくれた者の願いを、この命を懸けて繋ぐことを。
我が眼前に立ちはだかる、絶望に囚われし者たちよ。
今こそ示さん。
奪うためではなく、救うための力を。
絶望を越え、未来を掴むための光を!
偉大な愛の力を見せしめん事を!
耳を打つ、凛烈たる詠唱。
狂気の暴風のただ中で、それは世界を塗り替える絶対の福音として鳴り響いた。
「来い!!女王!!!」
アルカナ・スレイブ!!
その叫びと共に、通路の後ろから放たれた光が、この世の物理法則を無視した巨大な奔流となって探索者たちを飲み込み、顕現する。
だが決してそれは苦痛ではなかった。むしろ心地良いような感覚
全身の細胞を苛んでいた激痛や、肺を焼くような疲弊が、その温かな光に触れた瞬間から、嘘のように和らいでいく。
世界を呑み込もうとしていたブラックロータスの漆黒が、その圧倒的な「愛」の輝きの前で、悲鳴を上げるようにして急速に瓦解していく。それは悪意を滅ぼすための力ではない。狂気に囚われた少女を、元の「聖園ミカ」へと手繰り寄せるための、絶対的な救済の光。
「あ、が、……ぁ、あ……ッ!!」
探索者の腕の中で、ミカの身体が激しく震える。
狂気が外れていく衝撃。彼女の肉体から黒いモヤが引き剥がされ、光の粒子へと昇華していく。
"みんな、そのまま抑え込んで……!!"
先生の指示が飛ぶ。
サオリは、ミサキは、ヒヨリは、吹き荒れる光の暴風のなか、吹き飛ばされそうになりながらも、最後の力を振り絞ってミカの四肢をガチガチに固定し続けた。
「……ぁ……、……ぇ……?」
暴虐に満ちていたミカの叫び声が、次第に、困惑したような少女本来の細い声へと変わっていく。
「ふーっ…」
「…おはようさん。お姫様。最悪の目覚めを体験した気分はどうだ?」
ボロボロの身体のまま、探索者は皮肉げに、けれどひどく安堵した笑みを浮かべて声をかけた。
「ご…めん……なさい…」
ミカの瞳から大粒の涙が溢れ、泥と硝煙に汚れた頬を濡らしていく。その細い肩が、罪悪感と恐怖で小さく震えていた。
「謝るな……いや、後で先生にたっぷり怒られてから、俺の愚痴にも付き合ってもらうがね」
探索者は無理に口元を吊り上げ、彼女の頭を無骨に、けれど優しくポンと叩いた。
"ミカ"
横から滑り込んできた先生が、探索者と代わるようにしてミカの身体を強く抱きしめる。
"謝らなくていい。君が無事で、こうして戻ってきてくれた。それだけで十分なんだ"
「セ、ンセ……う、うあああああん……っ!」
先生のスーツの胸元に顔をうずめ、堰を切ったように泣きじゃくり始めるミカ。その泣き声が響く戦場に、コツ、コツと、どこか気品を崩さない足音が近づいてきた。
「ハァ……ハァ……流石に……しんどい」
息を乱し、肩を上下させながら、自らのステッキを杖のようにして泥の地面につく人影。
光の奔流を放ち、この絶望的な盤面をひっくり返した立役者──愛の女王の姿がそこにあった。