「……よう。女王。本当に助かった」
地面に寝転がったまま、探索者は首だけを動かして彼女を見上げ、心からの感謝を込めて不敵に笑いかけた。
「本当に……無茶苦茶をする。私の、最高の、大馬鹿野郎な主ちゃん……」
女王は呆れたように、けれど誇らしげに微笑み、ステッキを握り直す。
そんな時だった。
『戯言もそこまでにしなさい!!』
辺りのスピーカーから、割れんばかりの怒号が漏れ出る。
(──ッ!?)
ミカを抱きしめていた先生が鋭く顔を上げ、サオリたちアリウスの面々も瞬時にそれぞれの武器へと手を伸ばした。
ブラックロータスの狂気は確かに去った。だが、この最悪の戦場を仕組んだ「舞台裏の悪意」は、未だに息を潜めて彼らを見下ろしていたのだ。
「よぉベアトリーチェ。なんだ?こんなにいいハッピーエンドに茶々入れるのか?」
『私のバシリカで良くもまぁそんな戯言が言えますね…興ざめです』
スピーカーの向こうから響くのは、憎悪と侮蔑、そして思い通りにいかなかった怒りに震える、あの忌々しい女の、ベアトリーチェの声。
『こんなつまらない余興はもう終わりにしましょう。さぁ、今から私の全力を尽くして貴方達を相手して差し上げます』
『儀式を始めましょうか』
そう告げると、バシリカの空間全体が不気味に脈動を始め、天井のステンドグラスからおぞましい紫黒の光が溢れ出した。
「あ、アツコ!」
「そんな…儀式が…」
「ま、まだ日は昇ってないですよ!?」
『私が日が昇るまで待つとでも?遊びは終わりです。ロイヤルブラッドのヘイローはもう間もなく破壊されるでしょう』
『そして……その欠片の神秘を通じ、私は高位な存在になるのです』
狂気の霧が晴れたはずの戦場に、ハウリングを伴ったノイズがうるさく鳴り響く。スピーカーの向こうから降ってくるのは、自らの美しい舞台を汚されたことへの、剥き出しの不快感と傲慢。
アツコの危機。迫るヘイローの破壊。
あまりにも猶予のない宣告に、サオリの表情が焦燥に染まり、ヒヨリが絶望に息を呑む。
「……って言ってますけど……主ちゃん的には?」
ステッキを軽く回しながら、どこか冷ややかな視線を天井の音響設備へと向ける女王。彼女の問いかけに、泥塗れの地面に背中を預けたままの探索者は、鼻で小さく笑った。
「紛い物だな。間違いなく、俺の全財産賭けてもいいぜ」
煙と泥を吐き捨てるように、探索者は冷徹な笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。
「高位な存在?そんなもんがヘイローなんかで理解できてたまるかよ。高位ってのは理解できないから高位なんだよ」
神話の、あの言葉すら届かず、姿を認識しただけで正気を削られるような存在を知っている。
それは力が強いから恐ろしいんじゃない。人間の尺度で測ることすら許されないから、恐ろしいのだ。
だからこそ分かる。
女が語る「高位存在」など、所詮は自分が理解できる範囲に押し込めた神秘の模倣だ。
『…言っていなさい。負け犬の遠吠えです。幕引きとしましょう』
スピーカーから漏れ出るベアトリーチェの声は、余裕を装いきれず、屈辱と焦燥で引き攣っていた。
『さぁ…ユスティナの聖女バルバラ…』
『戯言ばかりのあの馬鹿の口を閉ざしなさい!!』
その言葉に呼応するように、影から這い出たバルバラの巨躯の背後から、さらに無機質な足音が無数に響き渡る。
ユスティナの聖徒たちが、まるで闇そのものが染み出すように、ぞろぞろと通路を、壁際を、探索者たちの周囲を隙間なく埋め尽くしていった。
圧倒的な数の暴力。最悪の盤面。
しかし、その絶望的な光景を前にしてもなお、探索者はただ一つ、深く、重いため息をついただけだった。
「……ただし、倒せるとはひと言も言ってないですけどねぇ……」
探索者は痛む身体をだるそうに揺らしながら、肩をすくめてみせる。
ベアトリーチェの「高位存在」への挑戦が紛い物であることと、今ここで自分たちがその手駒に圧殺されるかどうかは、まったく別の話だ。勝負師らしく状況を冷徹に、そしてどこか自虐的に笑い飛ばす。
よっこいしょ、と場違いなほど緊張感のない独り言を吐きながら、探索者は割れているの地面から這うようにして起き上がる。
「…さーてとぉ、どうしましょうねぇ……」
包囲を狭めてくる青と黒の軍勢を前に、探索者は首の骨をボキボキと鳴らす。
「…主ちゃんの死地っていっつもこんな感じじゃない?」
「ははっ確かに」
「笑ってる場合?」
ミサキの冷たい視線が、緊迫感の欠片もない主従へと突き刺さる。その手はしっかりと、けれど限界の近い力で銃を握り直していた。
「……あれは私が引きつけるよ」
その場に、冷え切った硝煙を切り裂くような声が響いた。
全員の視線が一斉に集まる。そこにいたのは、先生の腕から静かに身を起こした、覚悟の決まったミカの姿だった。
"ミカ……!?"
先生が制止しようと手を伸ばすが、ミカはそれを遮るように小さく首を振る。その瞳からは、先ほどまでの困惑も、狂気の残滓も完全に消え去っていた。
「……私、何もできなかったし……何より、救われたからね」
泥に汚れたドレスを翻し、ミカはユスティナの聖徒たちの軍勢、そしてバルバラの巨躯を真っ向から見据える。
「……私にそうしてくれたように。今度は私が、みんなの盾になる番。私が惹きつけている間に、アツコを助けて」
「はいはーい!私も残るよー!」
緊迫した空気をパチンと弾くような軽い調子で、ひょっこりと手を挙げたのは女王だった。
「こんないたいけな少女ひとり敵地のど真ん中に残すとか許せないからね!」
ステッキを肩に担ぎ、悪戯っぽくウインクしてみせる女王。その言葉に、ミカは驚いたようにパチクリと丸い目を向けた。
「えぇ!?わ、私結構強いんだけど…」
「大丈夫、私も結構強いし…何より主ちゃんが入れば向こうは安心だしね」
女王はふふっと上品に、けれど絶対的な確信を込めて微笑んだ。その視線の先では、満身創痍のはずの探索者が、すでに当然のように前行きの背中を見せている。
「とてつもない圧で草、あっ!そーだ。美園さん、スマホ貸して」
「えっ?スマホ?」
探索者の唐突な発言に、女王以外の全員に疑問符が浮かぶ。
「ちょーっと時間確認したくて」
「良いけど…」
「あざます。はいありがとうございます」
ミカは少しの違和感を感じながら自分のスマホを探索者に渡す。すると探索者は一瞬何かを操作し、時間を確認したかと思うと、すぐにミカへとスマホを返した。
「えっ!?本当にそれだけ!?」
「ええ、普通にそれだけですよ。んじゃ行きますか」
探索者は振り返りもせず、片手をひらひらと振って呆れたように応じた。
"…ミカ…気をつけて"
「心配しないで、先生。これでも私結構強いんだよ?」
先生が切実な、けれど彼女の選択を尊重するような複雑な眼差しを向けると、ミカはどこか照れくさそうに、けれど最高に頼もしい笑顔を浮かべた。
「じゃあ、はい。おまじない」
そう告げると、女王は探索者の頬に軽いキスを行う。
リップ音が緊迫したバシリカの空気に小さく、けれど鮮烈に弾けた。
触れた場所から、淡い光の粒が零れる。
それは戦場にはあまりにも不釣り合いな、柔らかなハート型の輝きだった。
「…投げキッスじゃなかったか?それ」
探索者はピタリと足を止め、頬を押さえながらジト目で抗議した。
「サービスだよサービス。こんな美少女からキスを貰って嬉しくない男は居ないでしょ?」
女王は悪びれもせず、むしろしてやったりと楽しげにクスクスと笑った。
「物事には全てに例外があることを忘れんじゃねぇよボケ。大体少女なんて年じゃねぇだろ」
「ひどい!淑女に向かって年齢の話をするなんて、主ちゃんは本当にデリカシーが欠席してるよね!」
「すぐヒステリック起こして、施設を破壊し回っているメンヘラのどこが淑女だよ」
女王はわざとらしく眉をひそめてみせるが、その表情には余裕が満ち満ちている。
「さ、とっとと元凶潰して帰りますかぁ…んじゃ任せたわ」
「ちゃんと戻ってきてね、主ちゃん」
「善処するわ」
女王がステッキを優雅に一閃させると、背後から迫っていたユスティナの聖徒たちが、弾かれてまとめて吹き飛ぶ。
「──行くぞ!」
そんなサオリの声でスクワッド、傷だらけのアリウスの少女たち、そして探索者と先生は、その背中に続くように一斉に走り出した。
怒涛の足音が遠ざかり、バシリカの入り口側には、押し寄せる青と黒の軍勢をせき止めるように二人の影だけが残される。
「……ふぅ、行ったね」
迫り来る圧倒的な数の暴力を前に、女王は相変わらず緊張感のない様子で小さく息を吐いた。
「……良かったの? あの人の隣じゃなくて」
そんな疑問を、ミカは女王へと投げかける。
あれほど深い信頼を寄せ合い、息をするように軽口を叩き合っていた相棒の窮地だ。本当なら自分が一番近くで支えたかったのではないか──傷つき、大切な人たちとの絆に迷い、もがいてきたミカだからこそ、その割り切り方が不思議でならなかった。
「んー? 全然」
女王はステッキの先端をトントンと床に打ち付け、綺麗なハミングでも交じるかのような軽い調子で首を振った。
「だって、主ちゃんの隣は、今あの場所を走っている彼女たちのものだからね。それに──」
女王は不敵に、そしてこの上なく美しく微笑む。
「あの人の背中を任されるっていうのはね、隣にいるのと同じくらい……ううん、それ以上に特別なことなんだよ」
「…そう、なんだ」
ミカは少しだけ目を見張り、それから何かを噛み締めるように小さく呟いた。
「なぁに?もしかして主ちゃんの事気になってるの?」
「い、いやいや!そんな事ないよ!」
ミカは途端に大慌てで両手をぶんぶんと振り回した。
「私はただ、その… あの人はちょっと……なんていうか、破天荒っていうか、距離感が変っていうか! いろいろ雑というか!」
「でも…なんかちょっと気になるというか…」
消え入りそうな声で、けれど素直に胸の内をぽつりと溢す。それを聞いた女王は、怒るでも呆れるでもなく、どこか遠い目をして柔らかく微笑んだ。
「ふふっ、変わらないんだね。主ちゃんは」
「……怒らないの?」
ミカは上目遣いに女王の顔を覗き込む。独占欲の塊のような「女王」を自称する彼女なら、少しは嫉妬の真似事でもするのではないかと思ったのだ。
「怒る訳ないでしょ。だって、主ちゃんの魅力は私だけが知っていればいいものじゃない」
女王はステッキを愛おしそうに撫でながら、誇らしげに胸を張る。
「もっと沢山の人に触れて、救われて、笑ってほしい。あの人は、誰にでも平等に愛を分け与える人だから」
「……となると、余計にかな…」
「えっ? 何が?」
きょとんとするミカに、女王は少しだけ真剣な、どこか警告するような、そして自嘲気味な苦笑いを浮かべながら視線を向けた。
「……一番危険かもね。その半端な気持ちが、だよ」
「え?」
「主ちゃんってね。気になり始めたら最後なの。嫌いになろうとしても、忘れようとしても、結局また目で追っちゃうから」
女王は視線を落とし、ステッキを握る自分の手を見つめる。
「…私も昔はそんな感じだった。自分の絶対的な正義があって、それが間違いだって言われても信じたくなかった……そんな時にあの人が来て言ったの『そんな正義捨てちまえ、他人に存在意義を求めてるんじゃねえよ』ってね」
「その時はね。私『なんだこいつ!』としか思えなくて…沢山あの人を傷つけた」
剥き出しの言葉で、自分の拠り所を粉々に砕いてみせた最悪の男。反発して、拒絶して、それでもあの男は傷だらけになりながら、「自分自身」で立つのを諦めずに見届けてみせた。
「でもそこから、あの人が気になり続けて今や恋しちゃってる」
「…そんな事まで…」
少し自嘲気味に、けれど隠しようのない熱を帯びた愛おしさを込めて、女王ははにかむように笑うその姿に、ミカは息を呑む。
「でもね。あの人はそれを受け取ってはくれない」
「…えっ……」
「どれだけ視線を注いでも、どれだけ想いを募らせても、あの探索者という人間は、真っ直ぐな好意をまともに受け止めようとはしない」
「だから、中途半端が一番苦しいんだ」
女王は少しだけ寂しそうに、けれどその瞳の奥にある熱を消さないまま、ミカを真っ直ぐに見つめた。
「…だからどっちかに振り切れたほうが良いよ」
「軽くいなされ続けても、それでも愛を伝え続けるか、それとも、自分の気持ちに蓋をして、そのまま終わらせるか」
バシリカの重苦しい空気を切り裂くように、女王はふっと悪戯っぽく、そしてこの上なく誇らしげに唇を吊り上げる。ステッキを軽く回し、胸元に引き寄せた。
「もちろん私は前者。だって、愛の女王だよ?自分の愛を止めるなんて、一番似合わないじゃない」
その言葉は、どこまでも傲慢で、どこまでも純粋だった。女王は満開のひまわりのような眩しい笑みをミカへと向ける。
「私はね、あのちょっと口が悪くて、態度も横柄で、女の子への接し方なんて全然分かってなくて……でも、とっても優しくて、誰よりも気遣ってくれて、傷ついた時には一番欲しい言葉をくれる……そんなあの人が、大好きなの」
一文字一文字に、これまでの長い旅路で積み重ねてきた愛おしさを詰め込むように、彼女は自らの恋を語る。
返事なんてなくてもいい。
あの人が今日も誰かを救って笑っている。
それだけで、彼女の恋は報われていた。
「だからね、ミカちゃん──」
女王はステッキの先端をトントン、と軽く床に打ち付け、その優しい微笑みを、今度はどこか厳格な『先輩』のそれに変えてみせる。
「あの人を好きになるのなら、覚悟を決めなさい」
生半可な気持ちでは、隣はおろか、その背中を追いかけ続けることすらできない。振り回され、いなされ、それでもなお想いを伝える。
そんな在り方こそ、彼女の言う覚悟だった。
「……あはは、やっぱりあの人は罪人だね」
そうミカが、どこか楽しげに、けれどひどく愛おしそうに呟く
「本当にねぇ。いつか特大の罰を与えてあげなきゃ。ま、その時は、ちゃんと責任取って私たちの気持ちも受け取ってもらわなきゃね!」
女王はステッキを胸元に抱き寄せ、いたずらが大成功した子供のように、この上なく不敵で愛らしい笑みを浮かべた。
「ふふ、確かにそれがいいね。あの人今頃どこかで背筋が凍りついてるんじゃない?」
ミカもまた、その企みに乗っかるようにクスクスと肩を揺らす。
「なんてったって、私はあの人が私達の中で一番初めに救ってくれたんだから! ちゃーんと言ってやらないと!」
女王はこれまでに重ねてきた会話のすべてを誇るように、きっぱりと、胸を張って言い切ってみせた。たとえ今の彼がどれだけ軽くいなそうとも、その魂の根底に刻まれた最初の絆だけは誰にも譲れないという、傲慢なまでの絶対の自信。
「……うん。やっぱりお姉さんには敵わないや」
その清々しいほどの独占欲と覚悟に気圧され、ミカは呆れたように、けれどどこか救われたような笑顔を浮かべた。
「でも、不思議と勇気が出ちゃった──ありがと、お姉さん」
彼女はもう、迷わない。
ドォン──ッ!!
バルバラの巨躯が、そして血の匂いをまとった無数のユスティナの聖徒たちが、ついに二人の間近へと肉薄し、その凶刃を一斉に振り下ろした。
「──さぁ、それじゃあお喋りはここまで!」
女王がステッキを優雅に掲げ、神話の鮮烈な輝きを闇の軍勢へと解き放つ。
「主ちゃんたちが元凶をブチのめすまで……ここは一歩も通さないよ!」
「うん! 私たちの邪魔をする奴らは──みんなまとめて、ぶっ飛ばしちゃおう!」
ドン、とパシリカの床が爆ぜるほどの踏み込み。
二人の異なる最強が、それぞれの歪で真っ直ぐな想いを乗せて、迫り来る絶望の軍勢へと正面から躍り出た。