「……ここが……バシリカの至聖所……」
そうサオリが呟く。
その視線の先──厳かなステンドグラスから差し込む、血のように赤い光のなかに、彼女たちの探していた姿があった。
十字の構造物と、蠢く黒いツタのような『ナニカ』に縛り付けられた、アツコの姿。
「アツコ……ッ!」
「……気を失っているだけみたい」
ミサキがその容態を素早く見極め、緊迫した声を上げる。辛うじて上下する胸元に、まだ手遅れではないという希望が繋がれる。
「は、早く降ろしましょう!」
焦燥に駆られたアリウスの少女たちが一歩を踏み出そうとした、その時。
至聖所の冷たい空気を震わせるように、ねっとりとした、悍ましい女の声が降ってきた。
「……お待ちしておりました。先生、そして探索者……私の敵対者よ」
影の向こうから姿を現したのは、歪んだ笑みをその仮面に張り付かせた赤い身体に白色のドレスを身に纏った女──ベアトリーチェ
「……ですが遅すぎましたね。儀式はすでに進行中です」
勝ち誇る彼女の背後で、アツコを縛る『ナニカ』の拍動がさらに激しさを増していく。至聖所を満たす悍ましい色彩の魔力は、すでに世界の境界を侵食し始めていた。
「ロイヤルブラッドの神秘を搾取し、キヴォトス外から到来する力を借りて……私は自分の存在をより高位なものへと昇華しています」
それは、ただのキヴォトスの神秘の範疇を超えた、外宇宙の邪悪な意思をも引き摺り込もうとする禁忌の業。ゲマトリアでありながら、その探求のルールさえも踏み外した女の、歪んだ到達点。
「……探索者、そして先生」
ベアトリーチェは奥の瞳をいやらしく細め、二人の大人を──無謀にも神をも恐れぬ盤面へ割り込んできた宿敵たちを、じっと見据えた。
「貴方達はもしかしたら、私を誤解しているのかも知れませんね」
「私たちはこの世界を通じて各自が望むものを追求しています。あなた達だって同じ。何に成る事もできるし、全てを振るうこともできます」
「より高位なものになること……それを通じて救うことが大人の義務なのです」
「大人の義務ねぇ……どうぞ続けて?」
探索者が低く、酷く冷めた声でその言葉をなぞる。その瞳の奥にあるのは、怒りですらない。ただ、目の前の怪物を「決定的な障害」として冷酷に値踏みする、絶対的な拒絶の光だった。
しかし、ベアトリーチェはその視線に気づくこともなく、狂信的な恍惚に身を委ねて大袈裟に両手を天へと掲げる。
「ええ、この儀式はキヴォトス外の力を利用し、私がより高位な存在になるために用意されたのです」
「そして高みに登り、全てを救う!」
ステンドグラスの赤光が彼女の仮面を不気味に照らし出し、バシリカ全体が、その傲慢な宣誓に呼応するように激しく震動する。
「その過程での小さな犠牲など、些細なことです」
「……小さな犠牲……?」
サオリの喉から、押し殺したような、けれど怒りに震える声が漏れる。自分たちがこれまで流してきた血を、アツコが今まさに捧げられようとしている命を、ただの「些細なこと」と切り捨てられたことへの激しい憤怒。
しかし、ベアトリーチェはそんな少女の絶望など一顧だにせず、むしろその怒りすらも自身の正当性を飾るスパイスであるかのように、さらに声を張り上げた。
「そう! 小さな犠牲です! 数多の神話がそうであったように、偉大な奇跡の前には相応の代償が必要不可欠! そしてこれこそが『崇高』へと至る道!!」
狂信的な歓喜にその身を震わせながら、ベアトリーチェは突き刺さるような視線を、先生とその隣に立つ『イレギュラー』へと向けた。
「貴方たちなら、この価値を理解しているでしょう? 一方は未知の理を識り、一方は全ての生徒を審判することも救うこともできる、絶対的な力を有する貴方なら……!!」
同じ「外の世界」の存在として、己の至高なる目的と、そのために手段を選ばない合理性を理解できるはずだと、確信に満ちた笑みで同調を迫る。
至聖所に流れる、張り詰めたような沈黙。
誰もが2人の言葉を待つ中、片方はゆっくりと頭を掻きむしり、心底億劫そうに深くため息をついた。
「……あー悪い。話が長すぎて意識が飛んでた」
「……は?」
期待に満ちた表情のまま、ベアトリーチェの思考がピキリと凍りつく。
「崇高だの義務だの、中身のねえ怪文書を大声で読み上げんのはやめてくれねえか。耳が腐る……で? 結局お前は何が言いたかったんだ?」
一ミリの共感も、一片の畏怖もない。
ただただ退屈そうに、そして底冷えするような冷徹さを孕んだ探索者の声が、ベアトリーチェの傲慢な盤面を真っ向から踏みにじった。
「大体、人間が崇高?になる? 辞めとけ辞めとけ。どーせろくなことにならん」
数多の神話、狂気、そして人間の身の程を弁えない探求が招いた悲劇を嫌というほど見てきた人間の、それはあまりにも冷酷な現実論だった。
「まずは自分の存在を正しく認知することからしたらどうだ?」
「……なんですって?」
ベアトリーチェの瞳が、怒りと困惑で激しく明滅する。神の領域に手をかけようとしている自分を、まるで足元の泥でも見るかのように見下ろすその態度が、彼女には理解できなかった。
「俺もお前も先生も、絶対者じゃねぇし、審判者でもない。誰かを審判するような…そんな権利はどこにだってありゃしねぇし、絶対の確実たる正解を引き当てれるような化け物でもない」
「……では貴方はなんだというんですか!!」
声を荒らげたのはベアトリーチェだった。完璧だったはずの対話の盤面を、ただの「退屈な怪文書」と切り捨てられ、そのプライドは完全に逆撫でされている。
「貴方の……貴方達の能力は!! 存在価値は何だというのですか!!!」
世界の理を歪め、神話の軍勢すら退ける力を持ちながら、なぜ自らを絶対者と呼ばないのか。なぜ高みを目指そうとしないのか。彼女の歪んだ知性では、二人の大人の在り方がどうしても理解できない。
"…私は生徒たちの先生かな。忘れられ、苦しむ生徒たちの支えになりたい"
隣で、先生がいつものように、けれど何よりも揺るぎない口調で小さく微笑んだ。ただそれだけのシンプルな肩書きが、この場においてどんな神の証明よりも重く至聖所に響く。
「俺はそんな高貴もんはないなぁ。存在価値なんて、終わったあとについてくる食玩以下のおまけみたいなもんだし」
探索者はふんと鼻で笑い、コートのポケットに手を戻した。
「能力がどうだの存在価値がどうだの、そんなくだらねえラベリングに縋ってなきゃ動けねえのかよ。そんなんだと早死にするぜ」
何者でもないからこそ、何に縛られることもない。
世界の理を識り、深淵を覗き込みながらも、この男は自らをただの『人間』の枠から一歩も出そうとはしない。そのあまりにも強固な、あるいはあまりにも冷徹な自己認識。
「俺たちは結局ちっぽけな人間なんだよ。それに上も下もねぇって話だ」
神の如き高みを掲げるベアトリーチェの傲慢さを、男は同じ地平にまで容赦なく引きずり下ろす。
「そんな人間が奇跡を、ましてや神を理解できる? 全く賛同できないね。それだったら聖書は作られてねぇよ」
歴史上、どれほどの人間がそれを理解しようとして狂い、言葉を尽くしてなお届かなかったか。口から出たその極めて現実的で辛辣な皮肉は、ゲマトリアとしての彼女の探求そのものを「人間の分不相応な妄想」と断じるに等しかった。
「……ならばそれを証明してみなさい……!!」
ゴゴゴと地響きが辺に木霊する。
バシリカの至聖所そのものが、彼女の狂気とキヴォトス外の力によって限界まで歪められ、軋んだ悲鳴を上げていた。
「さぁ!! しかとその目に焼き付けなさい!! これが私……高位となった私です!!」
そのベアトリーチェの姿は、もはや元の人型など留めていなかった。
肉体は悍ましい神秘の色彩に染まり、その頭部は、まるで貪欲に獲物を待ち受ける大輪の花のように醜悪に割れ開いている。人間の概念を捨て去り、外宇宙の理を引き摺り下ろした「崇高」の成れの果て。
「うわぁ……悪趣味。マリファナかな? 常時キマってそうで羨ましいわ」
開いた花弁の真ん前で、探索者はこれ以上ないほど露骨に嫌そうな顔をして言い放った。
神聖な儀式の果てに降臨した怪物を前にして、恐怖するでもなく、ただのヤバい植物扱い。そのあまりにも緊張感のない、けれど痛烈すぎる罵倒が至聖所の空気を一瞬で凍りつかせる。
"ちょっと! ふざけてる場合!?"
思わず先生が声を裏返して突っ込む。さすがにこの状況でその軽口は命取りだと誰もが冷や汗を流した、その時だった。
「そんな焦らなくても、別に大丈夫ですよ。もう人質は居ないですし」
呆れたような、いつも通りの飄々とした声が、まったく別の方向から響いた。
声の主へ全員の視線が一斉に集まる。そこには、いつの間にかベアトリーチェの真ん前から消え、至聖所の安全圏にまで下がっていた探索者の姿があった。
そして、そう言った探索者の腕には、抱きかかえている人物が居た。
それは、たった今さっきまで十字の構造物に磔にされていたはずの、アツコであった。
「い……いつの間に!?」
「さ…さっきまで同じ所に居ましたよね!?」
サオリたちが、まるで狐につまれたかのように目を丸くする。つい数秒前までベアトリーチェの目の前で軽口を叩いていた人間が、残像すら残さず人質を奪取しているなど、考えられなかったからだ
"…使ったの?……平凡な見せかけだっけ"
「ええ、何か問題でも?ってか救出用に取っといたんですよ。そのおかげでどこぞのメンヘラ問題児からの愛の鞭(物量)を食らいそうになりましたけど」
"……君らしいというか…なんというか……"
「な……ッ!? 私の、私の生贄が……ッ!?」
頭部を割ったベアトリーチェが、自分の手元が空っぽになっていることにようやく気づき、狂乱の叫びを上げる。
「さてと、ベアトリーチェ。私としては君に聞きたいことがある。だからさっさと投降してくれないか?そしたら痛みなく屠れる」
アツコを部屋の隅に置いた探索者は、コートのゴミを払うようにパパッと手を叩きながら、極めて事務的なトーンで告げた。「屠る」という物騒な言葉を、まるで明日の天気を語るかのような軽さで吐き出す。
「な、何を……何をふざけたことを……ッ!!」
異形と化したベアトリーチェの花弁のような頭部が、屈辱と怒りで激しく波打つ。
超越者となったはずの自分が、命乞いどころか「尋問のための投降」を迫られている。その事実が、彼女の肥大化したプライドをこれ以上ないほどにズタズタに引き裂いていた。
「私はゲマトリアのベアトリーチェ! キヴォトス外の力を得て、世界の理を超える高位の存在となったのだ!! 貴様らのような凡俗に、この私が、屈するわけが──」
「あー、対話のシャッター下ろすの早すぎ。だからお前は交渉事が下手クソなんだよ」
探索者はやれやれと首を振り、その冷徹な視線を異形の怪物へと固定した。
人質という最大の盾を失い、ただの「的」となったベアトリーチェに向け、先生が静かに、けれど明確な決意を込めて大人のカードを指に挟む。
探索者は一瞬驚愕するように目を見開くが、先生と目線を合わせゆっくりと頷いた。
"大人のカードを使用する"
先生の指先で、青く澄んだ光を放つカードが静かに、けれど圧倒的な存在感を持って顕現する。
「さぁエキシビションマッチだ。日々の恨み込めて叩き潰そうぜ、スクワッド」
探索者が酷薄な笑みを浮かべ、サオリたちアリウススクワッドへと視線を送る。
「おのれ……おのれぇぇぇッ!! 先生! 探索者……!!」
ベアトリーチェの花弁のような頭部が狂ったように蠢き、キヴォトス外の力を暴走させながら、無数の触手と呪いの波動を全方位へと解き放つ。空間そのものが悲鳴を上げるような一撃。
「──アリウススクワッド、各員、戦闘態勢」
サオリの鋭い号令が響く。アツコを安全な場所へと預け、銃を構える彼女たちの瞳には、もう絶望も迷いもなかった。あるのは、自分たちを縛り付けた元凶を文字通り「叩き潰す」という、かつてないほどに苛烈で純粋な意志だけ。
「Vanitas vanitatum, et omnia vanitas……」
サオリが引き金に指をかける。
「──だが、今の私たちの銃弾には、確かな意味がある……ッ!!」
ドォン──ッ!!
先生のカードから溢れる神秘の光がスクワッドの身体を包み込み、その火力が何倍にも跳ね上がる。探索者が冷徹に弱点を指し示すと同時に、アリウスの少女たちの憎悪と決別の銃弾が、異形の怪物へと一斉に突き刺さった。
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そこからはほぼ一方的な蹂躙だった
確かにベアトリーチェの放つ狂気の波動や、次々に湧き出るユスティナ聖徒の幻影、そしてバルバラの苛烈な援護は厄介極まりなかった。本来であれば、少女たちが精神的にも肉体的にも限界を迎えていてもおかしくない、地獄のような波状攻撃。
だが──戦場の天秤は、最初から完全にこちらへと傾いていた。
先生が掲げる『大人のカード』から溢れ出す、圧倒的な神秘の光。それがスクワッドの銃弾に文字通り一撃必殺の威力を与え、ベアトリーチェの強固な障壁を容易く容赦なく撃ち砕いていく。
そして何より狂っていたのは、前線を単身で支える探索者の、あまりにも精密なコントロールだった。
計算され尽くした位置取り。ベアトリーチェが激昂して放つ悍ましい触手すべてが、まるで吸い寄せられるように探索者へと集中する。しかし、そのすべてが、異常なまでの回避術の前にただの空振りに終わっていく。
ほんの紙一重、積み重ねた経験だけが可能にする最小限の動きで、その猛攻を受け流していく
どうしても避けきれない余波すらも、手近な瓦礫やナイフ、焼夷グレネードといった投擲物を投げつけ、ベアトリーチェが怯んだ一瞬の隙を利用し、文字通り影のように避けていく。
「あり得ない……あり得ない!! なぜ当たらない!? なぜ私の超越した力が、そんな凡俗に……ッ!?」
「こっちが凡俗だからだよ。もっとパターン学習して不可視の刃か拳でももってこい。攻撃ってのは予備動作だけで読める」
大人のカードの光が一段と輝きを増し、戦場全体の指揮権が完全に掌握される。探索者が作り出した決定的な隙を見逃すほど、地獄を生き抜いてきたアリウスの少女たちは甘くない。
「……これで、本当に、おさらばだ……ッ!!」
サオリの咆哮と共に、容赦のない銃弾の嵐が、怯みきったベアトリーチェへと吸い込まれるように殺到した。