静寂。
針の一本でも落とせば響き渡るほどの沈黙が、広大な議場をすっぽりと包み込んでいた。
誰一人として、言葉を発する者はいない。
観覧席で息を殺す生徒たちも、検事席で顔を伏せる者たちも、そして裁判長席で木槌を握りしめたまま固まっている議長すらも——全員が、車椅子の上の『大人』が放った強烈な言葉の重圧に押し潰されていた。
「……」
検事は突っ張っていた膝の力を抜き、ガタリと大きな音を立てて椅子に倒れ込んだ。もはや異議を唱える気力も、歪んだ自尊心を振りかざす言葉も、何一つ残っていなかった。
探索者は膝の上のパソコンをゆっくりと閉じると、車椅子の背もたれに深く体を預け、静かに息を吐いた。
「さて……申し訳ない。この様な場で、自らのお気持ち表明は無粋でしたね」
「それでは私はこれにて失礼します」
そう言って探索者が車椅子の輪に手をかけると、議長席からコン、と静かな木槌の音が一つ、響いた。
「……待ちなさい、弁護人」
重苦しい沈黙を破ったのは、議長の威厳に満ちた、だがどこか疲弊の混じった声だった。
「……あなたの『お気持ち表明』が無粋であったかどうかは、この場にいる全員がこれから生涯をかけて考えるべき課題でしょう……ですが、あなたが去る前に、裁判長として判決を言い渡さなければなりません」
議長は深々と息を吐き、議場全体を見渡した。観覧席の生徒たちも、検事席の生徒も、誰も声を上げようとはしない。かつて渦巻いていた憎悪と怒号は、探索者の遺した言葉によって綺麗に洗い流され、後には圧倒的な省察だけが残されていた。
「被告人、聖園ミカ」
議長の声が静かに響く。
「アリウス自治区への入域、および監視体制からの離脱行為については……弁護側の主張通り、緊急避難および被害拡大阻止のための正当な行動であり、正当防衛・緊急避難に準ずる行為として違法性を阻却します」
議場に動揺の波は起きなかった。ただ、受け入れるような静けさだけがあった。
「また、クーデターに関する一連の罪責については……真の黒幕による精神的・物理的介入、およびその後の命がけの不法事態収束への貢献を重く酌量し、即時の身柄拘束および退学手続きを停止。本校の指導下における観察処分と決定します」
カツン、と二度目の木槌が鳴らされる。
「……以上をもって、本審理を終了します。また本件に不服がある場合は、本日を含め15日以内に上告申立書を申請してください」
「…そして、この言葉は裁判長ではなく、一人の人間として言わせていただきます」
「この判決は極めて感情的で、法理という観点のみで見れば歪なものに見えるかもしれない」
議長は言葉を切り、木槌から手を離すと、ゆっくりと眼鏡を外して胸ポケットへと収めた。その瞳には裁判長としての厳格さではなく、一人のトリニティの生徒としての、複雑な葛藤と静かな決意が宿っていた。
「正義とは何か。法とは誰のためにあるのか……私たちはこの裁判を通じ、己の抱く『正義』が、時に容易く醜い暴力へと変貌するという恐ろしさを突きつけられました」
議長は観覧席の生徒たち、そして力なく俯く検事席へと視線を巡らせる。
「過ちを犯した者をただ排除し、二度と戻れぬように踏みにじること。それが私たちの掲げてきた『正義』であったなら……そんなものはあまりにも惨めで、救いのない代物です。だからこそ、私たちは彼女の『罪』だけでなく、彼女が示した『贖罪と再生への意志』から目を背けてはならない」
議長は一呼吸置き、静かに車椅子へ向かって深く頭を下げた。
「法と感情の狭間で立ち止まり、過ちに気づき、やり直す機会を与えること。それこそが、私たちがこれから目指すべき本当の正義である。それをもう一度思い出させてくれた」
頭を上げた議長は、凛とした眼差しで探索者を見据えた。
「誇りあるトリニティの生徒として、深く感謝を……本当に、ありがとうございました」
一度言葉を切り、議長は背筋を伸ばし直した。裁判長としての顔を取り戻すように息を整え、厳かな声で議場へと言い渡す。
「……最後に、一人の人間としてではなく。この判決を下した者として、もう一つだけ申し上げます」
静まり返る法廷に、その言葉は重く、そして力強く響き渡った。
「この判決には、私自身の感情が混じっているのかもしれません。法理のみを追求するのであれば、より厳しい判断を求める声があったことも理解しています」
「しかし、それでも私はこの判決を下しました」
議長は一切の迷いを捨て去った瞳で、裁判長席から静かに見渡した。
「もしこの判断が誤りであったというのであれば、その責任は被告人でも、弁護人でもなく……この判決を下した私が全て負います」
その覚悟に満ちた宣言に、もはや異議を唱える者は誰一人としていなかった。
重い扉が開かれ、車椅子の車輪が静かに床を滑る音だけが、祝福のように法廷へ優しく響き渡っていた。
──────────────────────────
重い扉が静かに閉まり、怒号と緊張に満ちていた法廷の喧騒が、嘘のように遠のく。
「…ふー…疲れた」
膝の上に置かれたパソコンの画面をパタンと閉じ、疲弊を隠そうともせずに大きな溜息を吐き出す。
「…お疲れ様です」
いつの間にか傍らに立っていた少女…セリナが、どこか恐縮したような、けれど心の底からの安堵と温もりの混じった声で静かに言葉をかけた。
「鷲見さん、ありがとうございました。本当に」
深く頭を下げる探索者に向け、彼女はいつもより少し意地悪で冷ややかな笑みを口元に浮かべた。
「ええ、本当に感謝してくださいよ。本来であればこんなことはしないので」
「だから感謝してるじゃないですか…それじゃ鬼が出る前に帰りますかねぇ」
そんな言葉を虚空に吐いた
そんな時だった
「…アルジチャン?」
その声とともに探索者の背中に冷たいものが走る。
探索者は急いで車輪を回し、その場を離れようとするが一瞬で背後を取られる。
「あー…その……なんだ?おはよう。女王」
探索者は恐る恐る背後に視線を向ける。するとそこには般若を宿らせた女王の姿があった
「…オハヨウアルジチャン。デモナンデココニイルノカナ?」
「あー…いや…その……昨日目覚めてさ……弁護しなきゃなぁ…って……」
あまりにも苦しい言い訳。だが探索者はそれを押し通そうとゴリ押す。
「ワタシミテタヨ。アルジチャンガベンゴスルノ。トッテモカッコヨカッタヨ」
「あ、あぁ、ありがとう。それじゃ俺病室に帰るから…」
「ワタシネ。キョウノアサ、アルジチャンノビョウシツニイッタノ。マダメザメナイクッテ。フアンデイッパイダッタノ」
「……はい」
「ミンナマッテルヨ」
「……………」
笑顔のまま一切の光を宿していない瞳で見下ろしてくる愛の女王と、背後で静かに溜息をつくセリナ。
先ほどまで法廷を支配し、圧倒的な言葉で議場を圧迫していた弁護人の威厳はどこへやら、探索者はただ静かに、これから訪れる「お説教」の時間を覚悟するしかなかった。
──────────────────────────
「……はい。本当に申し訳ございませんでした」
病室に、力ない謝罪の声が虚しく響き渡る。
トリニティの広大な法廷で、裁判長や検事、そして無数の生徒たちを相手に一歩も引かなかった男は今、ベッドの上で正座に近い姿勢で小さく縮こまり、これ以上ないほど深く頭を下げていた。
取り囲むのは、冷や汗を誘うほどのプレッシャーを放つ魔法少女達。
その中心で彼を見下ろしている『愛の女王』は、腕を組み、ニコニコと完璧な笑顔を浮かべているものの、その瞳の奥には零下を思わせる冷気が渦巻いていた。
「…オワカリイタダケタカシラ、アルジチャン?」
「はい……重々承知いたしました。目覚めた直後に黙って病室を抜け出したこと、さらには無理を押して法廷に立ったこと、全て私の不徳の致すところであります……」
探索者は一切の反論を放棄し、完全降伏の意思を示すように頭をさらに低くした。先ほどの弁論で見せた舌鋒の鋭さなど、見る影もない。
「…全く。変わらないというか…なんというか…」
「主よ…」
「まぁ自分の欲に素直なのは…良いのかなぁ」
その姿を見て魔法少女達はそれぞれの呆れを表すようにため息をつく
「…ってか、女王。ちょいと疑問があるんだが…どうやって俺を見つけたんだ?位置知らせてなかっただろ?」
「そこは愛の力で!…と言いたいけど、実際は主ちゃんのかけた平凡な見せかけのおかげだね」
女王はくすりと悪戯っぽく微笑み、指先を顎に当てて言葉を続けた。
「主ちゃんの魔術の効力が切れる要因は『時間切れ』と『術者が近くにいないこと』の二つ。平凡な見せかけは私たち自体に掛けてくれているんだろうけど、距離で威力が減衰するんでしょ?」
「…まぁそうだな。でも……まさか」
「そう。私は主ちゃんが居たこの病室から大体3キロを走った。そうすれば一番効力が出た方向に主ちゃんが居る事が分かるからね」
「……魔力密度を三角測量……?」
あきれ返った声を漏らす探索者に、周りの魔法少女たちも思わず引きつった笑いを浮かべた。いくら物理的な走破力と直感が飛び抜けているとはいえ、理詰めの追跡方法があまりにも力技すぎる。
「愛の力っていうより、ただの執念と脳筋のハイブリッドじゃねーか……しかもようそれで見つけたな…机上の空論だろ」
「失礼だよ! 主ちゃんの居場所を突き止めるためなら、3キロでも30キロでも走るに決まってるじゃん!」
「…それはそう」
「当たり前ですね」
「確かにね」
異口同音に即答した魔法少女たちに、探索者はぐうの音も出ず口をつぐむしかなかった。誰一人として女王の突飛な行動を咎めないどころか、全幅の信頼と納得を寄せている。
「いや『確かにね』じゃないんだよ……頼むからそこは引き止めてくれ……」
「引き止める理由がありませんから。主が黙って抜け出すからいけないのです」
「体調も万全じゃないのに勝手に出歩く主さんが一番悪いね」
「ふふ、満場一致だね。観念して大人しくお説教を受け入れなよ、主ちゃん」
「…なるほどなぁ…確かに脳筋だけど一理はあるのが腹立つわ」
膝の上でぽりぽりと頭をかき、探索者は心底くやしそうに苦み走った顔を作ってみせる。
「…でも、なんで一人だったんだ?もし俺を本当に助けたいんだったら、成功率を少しでも上げるために……あぁいやそんな時間もなかったか。そうだな」
「……うんそうだね」
「……おい。こっち向けや、女王」
あからさまに目をそらし、口笛でも吹き出しそうな素振りの女王に、探索者の眉根がピクピクと跳ね上がる。
「やだなぁ、主ちゃん! 私、窓の外のきれいなお空を見てただけだよ? トリニティの空って本当に澄んでて綺麗だよねー!」
「白々しすぎて俺見てるみたい♡ちゃんと話せや」
探索者が背後に視線を向けると、一瞬言葉を濁したものの、探索者のジト目に耐えかねたように、はぁと小さく息を吐いた。
「…いやぁ…ね?ちょっと……盲目になってたというか……」
「……もしかしてメンヘラ再発か?」
「そ、そんなのじゃないもん!!ただ、主ちゃんのことが気になって気になってしょうがなかっただけだもん!!」
「……実際は?」
「…暴走だと思うよ」
「ええ、十中八九そうでしょうね。女王が我々に知らせない理由がありませんから」
騎士と従者たちから間髪容れずに容赦ない追撃が飛び、女王は「みんなひどい!」と頭を抱えてベッドの端に突っ伏した。
「暴走って……おいおい。せっかく克服してんのにヒス起こしてどうすんだよ…」
「だって! 目覚めたら病室にいないし、どこに行ったかもわからないし……! もしまた私に黙ってどこか遠くに行っちゃったらどうしようって思ったら、居ても立ってもいられなくなっちゃって……!」
必死に感情を溢れさせる彼女の姿に、探索者は思わず毒気を抜かれ、かいていた頭の手を止めた。
「あーはいはい。すまんかったな。そして、ありがとうな。本当に、あれがなかったら死んでたし」
そしてその手を女王の頭の上に乗せゆっくりと花を愛でるように優しく撫でる。
「……っ」
頭上に伝わる温もりと、あまりにも不意打ちで優しい手つきに、ただただ探索者の顔を見つめ返している。
さっきまでの勢いはどこへやら、彼女は、まるで甘えるように小さく頭を擦り寄せてきた。
「…本当に心配したんだから…」
ポツリと漏れ出た絞り出すような声には、強がりも怒りもなく、ただ彼女の素直な本心が込められていた。
探索者はその頭を撫で続けながら、小さく苦笑いを浮かべた。
「でも!僕の物って言ってくれたから良しとします!」
「…は?そんな事言ったか?」
探索者は撫でていた手をピタリと止め、胡散臭いものを見るような目で彼女を見下ろした。記憶をいくらひっくり返しても、そんな気障で恥ずかしい彼女に宛てた台詞を発した覚えはない。
「言ったもん! 『僕の者』って……ううん、『僕の女王』って!」
「言ってねぇよ、捏造も大概にしろや」
「本当ですー!ちゃんと言ってましたー!」
言い張りながらぷくっと頬を膨らませる女王に、探索者は額に青筋を浮かべながら深々と溜息をついた。
「…俺がそんな事言うと思うか?」
「……少なくとも、言うイメージはありませんね」
「…確かにね」
「ちゃんと答えてほしいけどねー?」
「ほら見ろ、全員『言うわけない』って満場一致じゃねぇか」
鬼の首を取ったようにドヤす探索者だったが、女王は全く堪えた様子もなく、ふんっと鼻を鳴らした。
「ふーんだ! 周りがどう言おうと、私にはそう聞こえたんだからいいの! 主ちゃんのツンデレ!」
「これのどこにデレがあるんだよ。ってか男のツンデレとかどこに需要あんだよ」
呆れ果てて吐き捨てる探索者に、女王は間髪を容れずにニッコリと、しかし確信に満ちた笑顔を向けた。
「ここ! ここに大アリだよ! 私っていう最大の需要がね!」
「自分で堂々と言うな。もっと恥ずかしがれよ」
「……まあ、主さんのは男のツンデレというよりは……ただの『素直になれない人』だけどね」
「従者。黙ってろ」
「でもさ〜そこが主ちゃんの可愛いところじゃん?」
「…女王getOUT」
「対応の差!!」
天を仰ぐ探索者と、彼を囲んで楽しそうに笑う少女たち。
賑やかで、少し騒がしくて、けれど何よりも愛おしい日常の1ページが、病室の中に広げられていた。