正式なエデン条約調印式を見届けた後、探索者はトリニティの華やかな喧騒を離れ、薄暗い裏路地へと足を踏み入れていた。
「さてさてと」
暗く陰鬱とした空気が辺りに充満している。どこからか湿った風が吹き抜け、路地の奥へと誘うように細い影を落としていた。
立ち並ぶ古びた雑居ビルの隙間、看板の文字すら掠れて読めない一軒の扉の前で立ち止まる。探索者がドアノブに手をかけて押し開けると、乾いた鈴の音が静かな空間に響いた。
店内にはカビの生えた古書と妙な薬草、そして微かに焦げた炭の煙が交ざり合った独特の匂いが漂っている。
カウンターの奥から、店主と思われる影が気怠げに視線を向けてくる。
「……いらっしゃい。こんな日に奇特な客だな。条約の式典なら、とっくに終わったろう?」
「ええ、終わりましたよ。何から何まで、綺麗サッパリとね」
探索者は死んだ目をしたままカウンターの椅子へ深々と腰掛け、力なくテーブルに突っ伏した。
「……で、注文は? うちで出せるのはろくなもんじゃないよ」
「まぁとある待ち人を。どーせ今日入ってるんでしょう?」
「ウチは個人情報には注意してるんだ」
店主は愛想の欠片もない声で突っぱねる。しかし探索者は、死んだ魚のような目のまま気怠げに懐へ手を伸ばすと、写真を出した。
「別に、今日来るっていう確証があるわけじゃない。でもなんとなくコイツが来る予感がした。それだけですよ」
「…なるほどねぇ、シャーレがウチみたいなしけた店になんの用かと思ったら、テロ犯を捕らえに来たか」
「残念ながら今日のシャーレは非番でね。今の私はただの娯楽者だよ」
探索者は死んだ魚のような目のまま力なく息を吐き、カウンターに肘をついて頬杖をついた。
「捕まえに来たわけじゃないさ。ただ……話を聞いて選択肢を置くだけさ」
「流石、落ちこぼれのセーフティーネットを作っている聖人様は規模が違うねぇ…」
「ウチで働かせてる子達に正当な報酬を与えているだけだ」
店主は呆れたように小さく肩を揺らした。
「……ハッ、正当な報酬ねぇ。その報酬ってのが、厄介ごとの押し売りじゃなけりゃいいが」
「押し売りには気をつけてるさ、選択肢を押しつければそれは自らの選択じゃない」
そんな時だった。
探索者が店に入ってきた時と同じように、ドアの上に取り付けられた古びた鈴がカランカランと寂しげな音を立てて鳴った。
湿った夜風と共に、薄暗い店内へ足を踏み入れてきた人影。
深く被ったキャップの庇の下から覗く、鋭くもどこか影を帯びた眼光と、使い込まれた銃火器の気配。
錠前サオリ。
エデン条約調印式での混乱、そしてアリウスの呪縛から解き放たれ、全てを失ったまま街を彷徨っていたはずの彼女が、導かれるようにしてこの裏路地の店へと姿を現したのだ。
サオリは店内に漂う鬱屈とした空気と、カウンターに佇む探索者の存在に気がつくと、一瞬だけ身体を強張らせ、警戒するように足を止めた。
「……ッ」
「やあ、指名手配犯」
探索者はゆっくりと振り向いて静かに声をかけた。
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「何を…しに来たんだ」
「別に?君が自分探しの旅してるって聞いて、話を聞きに来た」
サオリは深く被ったキャップの庇をぐっと押し下げ、警戒と疲憊が入り交じった鋭い視線を探索者へ向ける。手元は無意識のうちに腰の銃へ伸びかけていたが、探索者のあまりにも毒気のない、死んだ魚のような眼差しを見て力なくその手を降ろした。
「……ふざけているのか。今の私はトリニティからも、アリウスからも追われる身だ。私と関われば、お前まで——」
「いいから座りなよ。追っ手なら外の裏路地に転がす気力も残ってないし、今の私はただの非番の娯楽者だ…そうだなハニー・モヒートを2つ。勿論ノンアルでね」
店主は何も言わずに古びたグラスをもう一つカウンターに置いた。
サオリは戸惑うように一瞬視線を泳がせたが、やがて諦めたように深く息を吐き、探索者から一つ席を空けたカウンターの椅子へと重い腰を下ろす。
「……話を聞いて、どうするつもりだ。私を連れ戻す気か? それとも……裁きを下しに来たのか」
「いーや?ただ選択を見せに来ただけだよ」
探索者は差し出されたグラスに手を伸ばし、ミントとライムが清涼感を漂わせるハニー・モヒートを一口啜った。甘く爽やかな炭酸が、疲弊しきった喉を静かに潤していく。
もう一つのグラスは、サオリの目の前へと滑らせる。
「裁きなんて大層なもんを下す権利も暇も、今の私にはないよ。それに、君を連れ戻したところで……誰が喜ぶってわけでもないだろう?」
「……」
サオリは目の前に置かれた爽やかな緑のグラスと、探索者の目を交互に見つめる。手袋に包まれた指先が微かに震え、グラスの冷たさに触れようとして、ためらうように空中で止まった。
「逃げ続けるのも自由だ。どこかの街で静かに生き直すのも、誰かのためにその命を使うのも、全部君の自由だ。だけど…今の君にはそれが難しそうに見えたからね」
「…笑いに来たのか?」
「まさか。確かに君の姿は、何も知らない読者から見れば滑稽に思えるのかもしれない。ブラックマーケットで詐欺まがいの契約をつかまされ、報酬は微々たる量」
「でも、それを笑えるほど私は落ちぶれてもない」
サオリの拳が、カチリと音を立てて固く握りしめられた。キャップの庇の下から覗く瞳に、自嘲と僅かな苦悶の色が走る。
「……知っていたのか」
「情報屋に金を握らせれば、そのくらいの噂はいくらでも耳に入るさ。君がアリウスを離れてから、どうにかして食いつなごうと奔走していることもな」
探索者はハニー・モヒートのストローを軽く弄り、氷の触れ合う音を涼やかに響かせた。
「ブラックマーケットの泥を這いずり回り、騙され、叩かれ、それでも必死に生きていこうとしている。それを嘲笑う権利なんて誰にもないよ……少なくとも、私にはね」
サオリは溢れそうになる息を殺すように、固く口を結んだ。出されたグラスへゆっくりと視線を落とす。ミントの青く清涼な香りと蜂蜜の甘さが、鼻腔をくすぐる。
「だから、君に選択させようと思ってね」
「…選択?」
サオリは低く掠れた声で問い返した。その瞳には、未だ深い惑いと警戒の色が固くこびりついている。
「そう、選択だ」
探索者はハニー・モヒートのグラスを傾け、氷をカランと鳴らした。
「一つ目。このまま追っ手から逃げ回り、ブラックマーケットの底で誰にも知られず泥を啜り続け、自分を探す道……今の君なら、それすら『己への罰』として選んでしまいそうだがね」
「……」
「二つ目。どこか誰も君を知らない遠い街へ行き、アリウスもトリニティも全部捨てて、ただの少女として静かに暮らす道……それも立派な生き方だ。『逃げ』だなんて思わないように」
探索者はそこで一度言葉を切り、疲弊しきった目でサオリの顔をじっと見つめた。
「そして三つ目……一度立ち止まって、私やシャーレの『手』を取る道だ。罪を背負ったまま、それでも前を向いて生き直すための手助けを私にさせる……そういう選択肢だ」
サオリの手袋に包まれた指先が、微かに震える。
「……私に、そんなものを選ぶ資格があると?」
「ベアトリーチェとの会話聞いてなかったのか?資格や存在理由なんて玩具以下のゴミみたいな言葉で自分を縛るなよ」
探索者は呆れたように小さく息を吐き、カウンター越しに奥の個室の鍵をポケットから取り出して弄んだ。
「選ぶのに資格はいらない。必要なのは、君自身がどうしたいか……それだけだ。押し売りはしないと決めていてね。 どれを選ぶのも、あるいはどれも選ばずにここを立ち去るのも、全部君の自由だ」
静寂が降り積もる店内で、言葉の余韻だけがゆっくりと霧散していく。
グラスの中で、小さくなった氷がカランと音を立てて傾き、緑のミント葉を滑り落ちて透明な液体の中へと沈んでいった。
カラン——
そのかすかな摩擦音が、あまりにも静かな空間にどこか過剰なほどに響き渡る。氷が溶け出し、琥珀色を帯びた蜜と爽やかなライムのグラデーションが混ざり合っていくように、サオリの胸中で凝り固まっていた凍てつくような緊張が、ゆっくりと、けれど確実に解けていく。
彼女は固く結んだ唇を微かに震わせ、目の前に置かれたグラスへと視線を落とした。
表面に浮かぶ結露の雫が、重力に耐えかねて伝い落ち、木製のカウンターに小さな輪を描く。ミントの青く鋭い香りと、蜂蜜のまろやかで優しい甘香が、冷たい炭酸の泡に乗って弾け、鼻腔をくすぐる。
「……まさか、お前からそんな聖人みたいな言葉が出てくるとはな」
「これのどこが聖人です?」
探索者は心底呆れたように肩をすくめ、グラスに残った炭酸を喉へと流し込んだ。
「自分の意思で選ばせなきゃ、あとで後悔した時に全部私のせいにされるじゃないですか……厄介ごとの責任転嫁を未然に防ぐ、ただの保身ですよ。極めて自己中心的で、計算高い大人のやり口だ」
「……」
彼女は慎重に、まるで割れ物を扱うかのように指先に力を込め、グラスを持ち上げた。
「……私は」
氷が再びカランと揺れ、甘い炭酸の泡がぷつぷつと表面で弾けた。
「……私は、まだ……自分がどうしたいのかすら、分かっていない」
絞り出すような告白。それは、過酷な運命の中で「自分」という存在を徹底的に殺し続けてきた彼女が、生まれて初めて吐き出した、本当の弱音だった。
「なら、それを探せば良い。だけど帰る巣は用意しておけという話だ。金がなきゃこの世は生きられん」
「……なぜ、そこまで気に掛けるんだ?」
サオリはグラスを固く握りしめたまま、どこか胸の奥を突き刺されたような瞳で探索者を見つめた。
自分は先生を撃ち、トリニティを混乱に陥れ、アリウスの仲間たちをも歪んだ運命に巻き込んだ罪人だ。世界中から憎まれ、蔑まれ、闇の中に消えていくのが当然の存在であるはずだった。それなのに、なぜ目の前の人間は、こうも当たり前に「生きていくための現実」を突きつけてくるのか。
探索者は死んだ魚のような目のまま、疲れ切った溜息を一つ吐き出した。
「気に掛ける? まさか……ただの現実論だよ。腹が減れば人は冷たくなるし、金が尽きれば選択肢はどんどん狭まって、またろくでもない『大人』の言葉に縋るしかなくなる」
そこまで言って、探索者は静かにサオリの直近の惨状——ブラックマーケットで騙され、不当な労働を強いられていた事実に目を向けた。
「…私はね。『縁』を大切にしているんだ。良い縁も……クソったれの悪い縁も…私にとっては大切な記憶だ」
「…これがもし、面識のない赤の他人なら私は動いてないと思う。特出した能力があれば別だがね」
サオリは言葉を失い、喉の奥を詰まらせたように視線を泳がせる。
『縁』その一言が、彼女の胸の奥深く、これまでずっと殺し続けてきた感情の澱を優しく叩く。
「…私と貴方は面識がある。共闘経験がある。でもね。一度つながった縁を見捨てるほど私は人間として出来ていないわけじゃない」
探索者はハニー・モヒートのストローを指先で弄り、氷を微かに揺らしながら、独り言のように静かに言葉を重ねた。
「善人ぶるつもりも、救世主気取りの説教をするつもりもないさ。ただ、私という人間は……一度でも顔を突き合わせ、同じ空気を吸った奴が路地裏の泥の中で野良犬みたいに使い潰されるのを、黙って見過ごせるほど冷淡にもなりきれん。それだけのことだ」
サオリの喉が、くっと小さく鳴った。
手袋に包まれた拳が微かに震え、カウンターに落ちる己の影を見つめる。
「……お前は」
サオリの声はかすれ、掠れていた。キャップの庇を固く握りしめ、必死に感情を押し殺す。
「どこまでも……身勝手で、お人好しな奴だな。私のような人間と縁を繋ぐことが、どれほど厄介なことか分かっているくせに……」
「身勝手なのは認めるよ。私の自己満足に君を巻き込んでいるだけだからね」
探索者は残っていたモヒートを最後の一滴まで飲み干すと、氷の残るグラスをコトンと音を立てて置いた。そして、ポケットから取り出した名刺を、サオリのハニー・モヒートの横へと静かに滑らせる。
「だから、これは命令でも頼みでもない。ただの『選択肢』だ。使うも捨てるも、あるいは持ったまま途方に暮れるのも……全部、君が自分で決めな」
立ち上がった探索者は、疲弊しきった体で軽く肩を回し、あくびを噛み殺しながら奥の廊下へと足を向けた。
「じゃあ、サオリ……良い旅を、あるいは良い休息を」
ギシギシと軋む廊下の闇の中へと探索者の背中が消えていく。
指先で拾い上げた硬質紙の名刺には、シックな金箔押しでこう刻まれていた。
『Loaded Oasis オーナー推薦』
「……カジノ、か」
サオリはその文字を指腹でそっと撫でる。
サオリは名刺を丁寧に胸ポケットへ仕舞うと、残されたハニー・モヒートへと視線を落とした。
氷は溶け切り、甘い蜂蜜と爽やかなミントの香りが冷たい液体の中にしっかりと溶け込んでいる。
グラスを持ち上げ、静かに口をつける。
青く鋭い清涼感と、やさしく喉を撫でる甘み。過酷な逃亡生活と自責の念で麻痺していた感覚が、じわじわと体へ戻ってくるようだった。
最後の一滴まで飲み干し、グラスをカウンターへコトンと置く。
「……ごちそうさま」
誰に聴かせるでもなく呟くと、サオリは深く被ったキャップの庇を一度だけ直した。
店主へ静かに一礼し、彼女は重い扉を押し開けて店を出た。