おトモダチの味 ―― 暴食の少女と星天の約束   作:丸呑みトカゲ

1 / 7
魔術師を目指すルカルカ族の少女チュリンは、直向きな努力によりソルシエール魔法学校への入学を実現する。
しかし現実は厳しく、魔法の実技に躓く日々を送っていた。
焦りを覚えていたチュリンは、ある日不審な落とし物を見つけたことをきっかけに、召喚魔法を試みるが…

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
本編は下記要素が含まれます。
・ 「でびるコネクショん」エピローグ後の時系列に相当する物語(ネタバレあり)
・ 「魔けモン!」の設定を引用している部分あり
・ オリジナルキャラクターの登場あり
・ エロ要素を含まない丸呑み表現あり(R-18)
・ 一部血生臭い描写あり(R-18G)
・ 本作品はPixivにも投稿しております


暴食はニンニクの香り

 その悪臭は、私の部屋にはあまりにも不釣り合いで、冒涜的なものであった。

 

 そう、あってはならないのだ。

 魔法学校の入学祝いに買ってもらった小さな本棚には、図書室で借りた魔術文献と、仕送りをやりくりして集めた古本が所狭しと詰め込まれている。

 天井から吊り下げられた手作りのランタンは、夜闇に沈む部屋の中で菫色の光を灯し、石造りの床いっぱいに描かれた魔法陣を頼りなさげに照らしている。

 お気に入りのインクの甘い匂いと、調合用に育てているジャスミンの香りが混ざり合い、あたかも図書館のような静謐な空気を醸し出している。

 

 そんなお気に入りの私室は、魔術研究のための聖域であり、私と親友以外の誰にも侵されてはならない場所のはずなのに。

 

「ふむ、取るに足らぬ魔獣の小娘にしては悪くない味だな。仄かに潮の香りを感じる」

 

 モチャモチャと、粘つく飴を舐め転がすかのような音が耳元で響く。

 その度に私の上半身は強烈な圧迫感に襲われ、「ひっ」と短い悲鳴を上げる。けれどその声は外に漏れる前に、分厚い肉壁に吸い込まれて消えていく。

 苦痛から逃れようと身じろげば、より深く上半身が唾液に塗れるだけに終わる。

 

「愚かな小娘よ。このワシに無礼な態度をとっておきながら、逃れられるとは思っておらんな?」

 

 頭上から降ってくるのは、圧倒的な上位者の余裕と、私の抵抗を嘲笑う響き。

 そして何より、鼻孔全体を蹂躙する強烈な臭気――ギトギトのラーメンとニンニクを何日も煮込んで凝縮したかのような、暴力的で下品な悪臭。

 まともに息ができない。窒息の恐怖に怯え、反射的に息を吸う度にその臭いが肺を焼き、何度も咳き込む。生理的な涙が溢れて止まらない。

 

 ああどうして、私は悪魔の邪口に頬張られ、ニンニクの匂いに包まれて死にかけているのだろうか。

 

 私は……必ず立派な魔術師にならなければならないのに。

 

「うぐぅ……うむううう!」

 

***

 

 薄れゆく意識の淵で、懐かしい記憶が浮かび上がる。

 

 魔術師になるため、ソルシエール魔法学校で学びたい。

 そう両親に打ち明けた時、やっぱりね、という表情を向けられたことを覚えている。

 

 豊かな海の底で生まれた私は、物心ついた頃から、友達と海流に乗って泳ぎ回ることよりも、魔法使いが不思議な力で世界を彩る物語が好きであった。

 好きな食べ物を出し、姿を自由に変え、何もない岩場を宝石と珊瑚の宮殿に変える。そんな万能の力への憧れ。

 物語の主人公がかぶる翠色の帽子が、私の肌の色とそっくりだったことも、運命を感じさせるには十分だった。私はねだって買ってもらった帽子をかぶり、細長い石を杖に見立てて、飽きもせず魔法使いごっこに興じていた。

 

 そんな私が、絵空事ではない本物の「魔術」を知ったのは、故郷の村に現れた魔術師との出会いがきっかけだった。

 

 その日、村長に案内されてやってきたのは、大気が詰まった球体の結界を身に纏い、海中を歩く一団だった。紺のローブに、木材と宝石を組み合わせて作った杖。本物の魔法使いだ。

 彼らは町の外れに聳える大岩――長年、潮流を遮り資源採集の邪魔になっていた巨大な障害物の前に立った。

 

 怪しげな詠唱と共に、瞬く間に大岩の周囲に巨大な魔方陣が展開される。

 何かが起きると直感し、目を凝らした次の瞬間。

 大岩に亀裂が走り、まるで泥が溶けるように、巨大な質量が音もなく崩壊し、消滅していったのだ。

 残されたのは、揺らめく魔方陣の残光のみ。

 

 初めて魔法と呼べる現象を目の当たりにした私は、興奮して魔法使い達に喰らい付くように質問攻めし、村長にしこたま叱られたのだった。

 

 後から知ったのだが、彼らはマーメリア海国の要請を受けて、オトヌ地方のソルシエから派遣された魔術師たちだった。

 普段海中で生活する私達の種族は、豊かな資源に恵まれている反面、魔術の発展が遅れている。私があの日見たのは、魔術先進国の叡智による「奇跡」そのものだった。

 

 魔術こそが、私が求めていた魔法そのものだ。

 

 私の人生の目標は定まった。

 少ない小遣いで専門書を買い漁り、独学で詠唱を練習し、中古の調合器具を揃えて薬術を試した。デタラメな呪文は卒業し、実践的な術式を喉が枯れるほど唱え続けた。

 しかし、独学には限界がある。本物の魔術を学ぶには、地上へ行くしかない。

 

 そして数年後。何度目かの誕生日の席で、私はソルシエール魔法学校への進学を願い出た。  その頃にはもう、傍から見た私はすっかり「魔術に取り憑かれた変わり者」として映っていたのだった。

 

……

 

 私の希望をあっさりと聞き届けてくれた両親は、驚くこともなく、いつの間にか蓄えてくれていた学費を渡し、私の背中を押してくれた。周囲も私の普段の振る舞いを見てくれていたのか、特段反対されることもなく、快く地上の世界へと送り出してくれた。

 

 ソルシエール魔法学校は、マジリシア随一の規模を誇るマンモス校である。

 基礎となる魔法を六年かけて習得するこの場所は、魔術師を目指す者にとって最高の登竜門だ。多数の著名な魔術師を輩出し、その中には極少数ながらマーメリア海国出身者も含まれている。

 だからこそ、ここなら安心して学べると信じて疑わなかった。

 

 あれよあれよという間に入学試験の日を迎え、私は複数の受験生が並ぶ面接会場で、自信満々に今までの研究成果を披露した。

 故郷で採れた材料を使い、魔力に反応する石を繋ぎ合わせ、大きなサザエの殻に巻き付けて作ったイルミネーション。

 しかし、面接官の苦笑いを見た瞬間、悟ってしまった。

 それは洗練された魔術具には程遠い、ただの子供の工作に過ぎなかったのだと。自分が井の中の蛙であったことを知り、恥ずかしさで俯いたその時。

 

「わぁー! 凄いデス!」

 

 隣から、心底感激したような声が響いた。

 振り向くと、ネコネコ族の女の子が朗らかな笑顔を向けながら拍手していた。張り詰めた空気など彼女には関係ないようで、それよりも私の拙い作品が気になって仕方ない様子だ。

 

「ミーは、こんな綺麗なもの作れたことないデス! もっとよく見せてくだサイ!」

 

 目をキラキラと輝かせて、一度は引っ込めようとした私の作品を眺める彼女。その瞳を見ていると、まるで小さな星が瞬いているようだった。

 その純粋な光に、私の強張った心が救われていく。

 

「ミャ、自己紹介を忘れてまシタ! ミーはミーティアデース! アナタの名前を教えてくだサイ!」

 

「え……チュリン……です」

 

「チュリン! 可愛くて素敵な名前デスね!」

 

 有無を言わさぬ勢いに押されて名乗ると、何の気なしに褒められてしまった。

 つい先程まで纏わりついていた緊張が、温かな光に照らされて氷解していくのを感じる。

 

「ふむ。殆ど手掛かりがない状態から、自力でこのようなものを作ってみせるとは。素晴らしいですね」

 

 聞き慣れない声がして再度振り向くと、いつの間にか面接官の前に、シルクハットを被った灰色のネコネコ族の男が立っていた。左目にかけたモノクル越しに、独り言のように呟いている。

 

「失礼。マーメリア海国出身の受験生は珍しいので様子を見に来たのですが、やはり地上の魔獣とは異なるセンスがあって興味深いです。是非あなたのような方に学んでいただきたいですね」

 

 言い終わるや、ふっと微笑んだように見えた。

 見えたというのは、次の瞬間には、彼は掻き消えるように目の前から姿を消していたからである。

 

 嵐のような面接を終え、失敗したのか挽回できたのかも分からず混乱していたが、気が付けば私は試験を突破し、魔法学校への入学が決まっていた。

 

 入学式では、面接以来の再会を果たしたミーティアに、胸元目掛けて突進された。

 一度面接で同席しただけにも関わらず、彼女は私のことをはっきりと覚えてくれていた。気が付けば、彼女のペースに巻き込まれる形で、あっという間に打ち解けてしまった。

 

 地上の空気は、私には少し乾きすぎていた。重力は水中に比べて重く、常に肩にのしかかってくるようだ。

 周りの生徒たちが当たり前のように呼吸し、歩いているこの場所で、私だけが陸に上がった魚のように、見えない膜に隔てられているような心細さがあった。

 けれど、ミーティアの太陽のような明るさが、その渇きを癒やしてくれた。

 

 海から地上に出て早々に友達ができるとは思いもよらなかったが、これなら上手くやっていけそうだ。

 

 いや、ミーティアの言葉を借りるなら、「おトモダチ」が正しいか。

 

 ただ、幸先の良いスタートに浮かれる私に対し、現実は容赦してくれなかった。

 

***

 

 その日も授業が終わり、生徒たちが帰り支度を始める中、ミーティアが元気な声で私を呼び止めた。

 彼女は流れ星のような勢いで私の席まで駆けてくると、早口で用件を伝えてきた。

 

「チュリン! 天文学でやったラス・アルハゲの方角について教えてくだサイ!」

 

「いいよ。でも、私も基礎魔法学で質問しようと思ってたから、一緒に職員室へ行こうか?」

 

「ハーイ!」

 

 ご機嫌な様子のミーティアを連れて、私たちは職員室へ向かう。

 魔法学校に入学してからというもの、職員室への訪問はもはや私の日課となっていた。

 毎日の授業に備えて予習し、内容を頭に叩き込む。曖昧な部分があれば、すぐさま先生に尋ねて解決する。

 こうでもしないと、魔法に関する基礎知識が乏しい私は、瞬く間に授業についていけなくなってしまうからだ。

 

 とはいえ、同じように質問したい生徒は多く、特に専門性の高い先生は上級生が独占していることが多い。例えば時間干渉魔法のエキスパートであるラピス先生は、その端正な容姿もあり、女子生徒の引っ張りだこだ。

 そうなると、必然的に、私達の相談相手はいつも同じ人物になる。

 

「マルス先生、今日は忙しいですか?」

 

 職員室の隅。積み上がった羊皮紙の山に埋もれるようにして、机に齧り付いているマルス先生に声をかける。

 

「あっ、チュリンさんとミーティアさん? ごごご、ごめんなさい! 今日は他の先生達の書類も手伝っていまして……」

 

「そうでしたか。何か手伝いましょうか?」

 

 先生も忙しいというのに、新任教師という立場と、生来の断れない性格が災いして、雑務を一手に引き受けてしまっているのだろう。

 見るに見かねて手伝いを申し出るが、彼は慌てて首を横に振った。

 

「いやいや、これは大丈夫ですから! それより、授業の質問に来たんですよね? 何でも聞いてくださいね」

 

 手を止めて、穏やかな笑みを向けてくれる。

 マルス先生は、どれほど忙しくても生徒のことを第一に考えてくれる人だ。普段のたどたどしい振る舞いのせいで、他の先生と比べると人気はないのかもしれないが、私にとっては優しくて頼りになる、最高の先生だと思う。

 

「先生ありがとうデス! 頑張ってる先生に、星形の飴あげちゃいマース!」

 

「えっ、ミーティアさん!? お菓子は学校に持ってきたらダメですよ!?」

 

「今なら誰も見てないから大丈夫デース!」

 

「ええええ!」

 

 ふわっと花が咲くような笑顔で強引に飴を押し付けるミーティアと、勢いにたじろぐマルス先生。そのやり取りがおかしくて、つい吹き出してしまう。

 勉強に追われ、気が休まらない日々の中で、職員室でのこのひとときだけが、数少ない安らげる時間だった。

 

 いつもこれくらい、気楽に過ごせたらいいのに。

 ふと、そんな叶わぬ願いが胸をよぎった。

 

……

 

 今日も授業の疑問点はきっちり解決した。先生からコツも教わった。

 これなら、今度こそ上手くいくはずだ。

 

 夕日が窓から優しく差し込む魔法練習室。私は一人居残り、杖を構えて詠唱を始めた。

 

ささやかな炎よ、ゆらぎ舞え(フラクタ・フラーリ)

 

 体内を巡る魔力が杖へと流れ込み、先端に熱が生まれる。

 しかし――熱が炎へと昇華するその直前、ふっと霧散してしまう。

 深呼吸をして、杖先に意識を集中させて再度試みるも、結果は同じだった。

 

 いつもこうなのだ。

 座学は、努力さえ怠らなければ裏切らない。少しずつ世界が開けていく確かな感触がある。薬術や錬金術、魔法器具の取り扱いも、手順を厳守すれば失敗することはない。

 けれど、魔法の実技だけは、何度繰り返しても上手くいかない。本来、標準的な素質さえあれば簡単であるはずの初歩的な炎魔法ですら、私は躓いてしまう。

 

 幼い頃は、あんなにも鮮明に素敵な魔術のイメージが湧いていたのに。

 今は、見えない壁に阻まれているかのように、私の手元で魔法は形を成さずに消え去ってしまう。

 失敗の記憶が脳内を黒く塗りつぶしていく感覚に襲われ、私はあわてて頭を振った。

 魔法はイメージが大事なのだと、授業で口ずっぱく言われているではないか。

 

 それでも、以前は練習を重ねることが苦ではなかった。

 私の他に、実技が苦手な親友(ミーティア)がいたからだ。

 

 毎週のように補習に呼ばれる仲間。お互いに励まし合い、成功するまで杖を振り続けた日々。  ミーティアはどれだけ失敗しても常に前向きで、帰りがけに星空パフェを一緒に食べた時の笑顔に、私はどれほど救われていただろう。そこにマルス先生の親身な指導も加わり、「私でも何とか出来るかもしれない」と勇気付けられていたのだ。

 

 しかし、今この場にミーティアはいない。

 

 ここ暫く、彼女は練習に付き合わず、早めに帰るようになった。

 彼女が「召喚士サン」と呼ぶ、ある男子生徒と共に。

 

 召喚士君(便宜上そう呼ぶ)は、魔法学校の中でも一際有名な生徒だった。

 入学して一年も経っていないにも関わらず、既に高度な魔法を自在に使いこなす神童。

 彼のエピソードは枚挙にいとまがない。薬術の授業中に未知の新薬を開発し、血眼になった先生や先輩たちに詰め寄られても、「何をそんなに騒いでいるんだ」と言わんばかりに困惑していた姿は、今も語り草になっている。

 

 私も一度だけ、中庭で彼を見かけたことがある。

 彼は本を読む片手間に、周囲に舞う蝶へ向けて指先を動かしていた。それだけで、蝶の軌道に合わせて風が生まれ、小さな光の粒子が舞い踊った。

 詠唱も、杖すらも使わずに。呼吸をするように魔法を行使するその姿は、私が必死に積み上げた努力が、脆い砂の城であることを嘲笑うかのように美しかった。

 

 スタートラインの時点で、私とは何もかもが違う。

 あまりにも規格外過ぎて、自分自身がちっぽけに感じてしまうほどに、彼は天から二物も三物も与えられた存在だった。

 

 そんな彼はある時、突然学校に来なくなった。

 誰も理由が分からず、ミーティアと「どうしたんだろうね」と心配していた矢先。

 ある日、ふらっと彼は戻ってきたのだ。

 

 ――「天使」と「悪魔」を、使い魔として従えて。

 

 改めて、彼が住む世界の次元の違いを思い知らされた。

 本来、信仰の対象である天使と、魔力の搾取を目的とする危険な悪魔。水と油のように決して相容れないはずの二体を召喚し、同時に従えるなど、歴史を紐解いても前例がない。

 

 一体何をすればそうなるのか、想像すら及ばない領域だ。

 そもそも、高難度である召喚魔法を一年生が使いこなしている時点で異常なのだ。彼が「召喚士」という異名で呼ばれる所以である。

 

 私はあとどれだけ努力すれば、彼の足元まで辿り着けるのだろうか。

 少しでも早く立派な魔術師になりたいのに、私の歩みは海藻に絡まれた脚のように重く、遅い。

 彼我の距離に、気が遠くなる。

 

 召喚士君が復学してから、ミーティアは彼と一緒に過ごす時間が増えた。

 

 「おトモダチになれた」と、彼女は嬉しそうに語る。

 この前星空パフェを一緒に食べて、召喚士サンが美味しそうな顔をしていたこと。

 使い魔のでびるんサンが、天使のクピャドエルサンにパフェを食べさせられて恥ずかしそうにしていたこと。

 そして――最近彼に実技を見てもらい、星をより遠くに浮かべることが出来るようになったこと。

 

 相手は、魔法学校始まって以来の天才だ。ミーティアの目には、さぞや眩しく映っているに違いない。

 彼女の話を聞くたび、私の胸は軋む。

 

 寂しい。

 ささやかな楽しい出来事を聞いているだけのはずなのに、ミーティアが急に遠くへ行ってしまうような胸騒ぎがする。彼女が無邪気に私を信頼して、召喚士君との時間を楽しげに話してくれるのが、ただ辛い。

 

 正直に気持ちを伝えようか。

 

 『私を置いていかないで』と。

 

 でも、そんなことを言えば、優しい彼女を傷付けてしまうのではないか。

 

 思考が空回りし、頭が熱を帯びていく。

 行き場を失った感情に呼応するように、体内で魔力が激しく循環し始めた。

 

ささやかな炎よ、ゆらぎ舞え!(フラクタ・フラーリ)

 

 ドォンッ!!

 

 杖の先端から、詰まっていたものが一気に弾け飛んだかのように、爆発的な炎が噴き上がった。

 練習室全体を震わせる轟音。

 

 驚きと共に、体を巡っていた熱が急速に冷めていく。炎は一瞬で霧散したが、その残滓は不完全燃焼したかのように、赤黒く淀んだ色をしていたように見えた。

 

「チュリンさん! どうしましたか!?」

 

 爆発音を聞きつけたのか、血相を変えたマルス先生が駆け込んでくるのが見えた。

 強烈な目眩が襲う。私は尻餅をつき、そのまま意識が遠のいていく。

 閉じていく視界の端に、マルス先生の足と、先端が黒く焦げ付いた杖。

 

 そして――何か、長い「蛇の尻尾」のような影が映った気がした。

 

***

 

 その後、マルス先生によって保健室へ運ばれた私は、暫くベッドで横になった後に目を覚ました。

 私が目を開けた瞬間、マルス先生の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 保健医の先生は呆れたように、「急激な魔力消費によるガス欠ね」と告げた。どうやら、加減を誤ってしまったらしい。

 

「大事に至らなくて良かったですぅ! 本当に、本当に心配したんですからね!」

 

 普段は温厚なマルス先生から、珍しくきついお説教をいただいた。

 意気消沈しながら帰路につく。

 感情を制御できず、魔力不足で倒れ、あまつさえ先生に心配までかけてしまった。これでは召喚士君に追いつくどころか、魔術師失格ではないか。

 

 頭の中で一人反省会を繰り広げながら、行き慣れた街道を歩く。

 沈みかけた夕日が背中を照らし、私の影をひょろ長く道に伸ばしている。その頼りないシルエットは、今の私の心細さをそのまま映し出しているようだった。

 

 いつか、この道を繰り返し通っていけば、私の願いは叶うのだろうか。

 

 誰に問いかけても、答えは返ってこない。

 通り沿いの店からは、夜の営業に向けた賑やかな声が聞こえてくる。街の活気と、私の胸に広がる冷たい空虚さ。その温度差に、心が風邪を引きそうだった。

 

 ああ、嫌だ。こんな弱気なことばかり考えていてはダメだ。

 不安を押し殺し、足を早める。寮に帰ったら、唯一手応えのある座学の予習をしなければ。私にはもう、それしか残されていないのだから。

 

 その時、足先にコツンと何かが当たる感触があった。

 

 視線を落とすと、細長い箱が転がっていた。

 拾い上げて確認する。高級感のある装丁に、有名な魔術具ブランドのロゴ。そして、召喚魔法用のチョークを示すイラスト。

 封の切られていない新品だ。誰かが買い物の帰りに落としたのだろうか。

 

 息を呑む。これは、ただのチョークではない。

 召喚魔法陣を描くためのチョークは、魔力伝導率が命だ。未熟な学生が使うような安物ではなく、製造工程で高濃度の魔力が練り込まれた「特別品」。

 貧乏学生の私には、ショーケース越しに眺めることしかできない高嶺の花だ。

 

 箱の中の白い棒きれは、まるで生き物のように私の指先に吸い付いた。

 触れた瞬間、ドクン、と心臓が跳ねる。

 冷たいはずの石筆から、熱を持った魔力が流れ込んでくるような錯覚。それは私の内側にある「焦り」という枯れ木に火を点け、瞬く間に理性を焼き尽くそうとしていた。

 

 ――使ってごらん。これがあれば、君は変われる。

 無機質なチョークが、蠱惑的にそう囁いた気がした。

 

 落とした人は、さぞ困っているだろう。

 交番に届けなければ。

 

 そう考えた刹那。

 ズキリ、と頭の芯に鈍い痛みが走った。魔力不足の後遺症かと思ったが、違う。

 痛みに呼応するように、身体の奥底から熱いものが込み上げ、脳内に切ないほどの渇望が溢れ出した。

 

 ――手放したくない。

 

 どういうわけか、私はこの箱を強く握りしめていた。

 思考よりも先に足が動く。私は交番とは逆方向へ、寮へ向かって駆け出していた。

 

 自室に飛び込み、鍵をかける。背中でドアを押さえながら、荒い息を吐く。

 

 やってしまった。

 生まれて初めての、盗み。

 

 罪悪感で心臓が破裂しそうだ。手足が震える。今からでも遅くない、戻って届けるべきだ。良心がそう叫んでいる。

 だが、再び頭痛が走り、こめかみを焼くような熱が思考を塗り替えていく。

 

 先程よりも強く、甘美な激情。

 誰かに囁かれているのか、それとも私自身の本音なのか。誘惑の言葉が脳髄に染み込んでくる。

 

 『折角拾ったんだから、試してみようよ』

 

 『この前、召喚魔法の本を読んだばかりだろ? 知識はあるはずさ』

 

 『これがあれば、あの召喚士君に少しでも近付けるかもしれない』

 

 『ミーティアに、置いていかれたくないんだろう?』

 

 ――お父さん、お母さん。村のみんな。

 みんなの期待に応えるために、勇気を出して。

 

 私は震える手で箱を開け、チョークを取り出した。

 床に這いつくばり、切っ先を石畳に当てる。

 初めてのはずなのに。手は初めから正解を知っていたかのように滑らかに動き、完璧な円と紋様を描き上げていく。

 意識は朦朧としているのに、見えない何かに手を取られているかのように、複雑な術式が刻まれていく。

 

 何を召喚しようか。

 魔獣は迷惑がかかる。天使や悪魔なんてもってのほかだ。なら、精霊が妥当だろう。求める魔力が少ない下級の精霊であれば、私でも契約できるかもしれない。

 そう、これは練習だ。ほんの少し、自分の可能性を試すだけの。

 

 気がつけば、床一面に美しい魔方陣が完成していた。

 寸分の狂いもない幾何学模様。自分一人で描いた実感が湧かない。けれど、その完成度は私に「才能があるかもしれない」という甘い錯覚を与えた。

 

 あとは、回路を繋げて魔力を流し込むだけ。

 日が暮れて闇に沈む部屋の中、私は魔術書を開き、震える声で詠唱を紡いだ。

 

「いでよ精霊、描く魔方陣の元に。 天理を司る魔の神々よ、(スピリトゥ・)我が魂の慟哭を聞き届けよ!(シルピリーヴァリムス)

 

 詠唱に反応し、杖から魔方陣へと魔力が吸い込まれていく。

 紋様が怪しげな紫色に発光し、垂直に立ち上がった光のヴェールが半透明の壁を形成する。壁の内側は貪欲に魔力を求めて脈動し、輝きを増していく。

 

 成功だ。

 これで私も、召喚士君のように――。

 

 そう思った瞬間、世界がぐらりと揺らいだ。

 

 激しい目眩。魔力不足だ。

 高性能なチョークの補助があっても、私の器はとっくに空に近い。これ以上は命を削るしかない。

 

 魔力供給が途絶え、魔方陣が悲鳴を上げる。

 光のヴェールが陽炎のように揺らぎ、制御を失った稲妻が奔る。紫、青、赤、緑、黄。色が狂ったように明滅し、どろりとしたグラデーションを描きながら崩壊していく。

 

 素人目にも分かる。暴走だ。

 一刻も早く術式を解かなければ。けれど、目眩で視界が歪み、魔術書の文字が読めない。

 そうこうしている間に、魔方陣の均衡は限界を超えた。

 

 カッ、と部屋全体が白く弾けた。

 強烈な閃光が視界を奪い、私の意識もまた、白の中に塗り潰されていった。

 

***

 

ああ……

 

禁忌の扉を 叩いてしまったんだね

 

小さな嫉妬 ほんの少しの出来心

 

それが 地獄を招く 鍵になってしまった

 

ここから先は 引き返すことのできない 茨の道

 

キミを襲うのは 底なしの飢餓

 

そして キミ自身の内に潜む 本能という名の 醜いケダモノ

 

試練は あまりにも過酷で 理不尽だろう

 

それでも キミにはまだ 理性が残されている

 

どうか その心まで 飲み込まれないで

 

誘惑に 困難に 勇気を持って 抗ってほしい

 

そうでなければ

 

キミは その顎で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

か け が え の な い も の を こ わ す こ と に な る よ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 失った意識が、鈍い痛みを伴って覚醒する。

 

 頭の奥がジクジクと脈打ち、私がまだ生きていることを告げていた。

 閃光に包まれてから、どれだけの時間が経ったのか。

 召喚は失敗したのか。私の部屋は無事なのか。

 

「おい、そこの寝転がっている小娘よ」

 

 不意に、聞き慣れない声が鼓膜を打った。

 寮母さんのような生活感のある声ではない。腹の底に響くような、重厚で厳かな響き。

 

「ワシを呼び出すとは、一体何用だ?」

 

 明らかに機嫌を損ねている声色。私は弾かれたように上半身を起こし、目を開けた。

 視界に飛び込んできたのは――信じられない存在だった。

 

「このBBBを、食事中に召喚するとは。良い度胸ではないか」

 

 部屋の中央に浮いていたのは、二等身ほどの背丈しかない小さな悪魔。

 クリーム色の毛並み、頭には金の二本角、首には髑髏とリングの首飾り。

 装飾だけを見れば高貴だが、その愛らしいフォルムはまるでぬいぐるみのようだ。

 

 脳内が混乱で埋め尽くされる。

 BBBと名乗ったこの悪魔。真名を隠すということは、相応の格を持つ存在である証だ。

 しかし、文献にあるような七大悪魔の威容とは程遠い。まさか、召喚陣の暴走で下級の悪魔が紛れ込んだのか?

 

「おい、聞いているのか」

 

「ん……」

 

 思考がまとまらない。

 そもそも、精霊ではなく悪魔が現れた時点で、契約など論外だ。迂闊に答えれば言質を取られる。

 警戒し、口を噤んだその時だった。

 

「無視するでないわ」

 

 ヒュッ、と風切音と共に距離が詰められた。

 

 頭のヒレをガシリと掴まれ、小さな体からは想像もつかない怪力で顔を引き寄せられる。

 抵抗しようにも、身体が金縛りにあったように動かない。

 間近でカッと見開かれた青と赤のオッドアイ。そこには、背筋が凍るような憤怒の炎が宿っていた。

 

 本能が、全力で警鐘を鳴らす。

 見た目に騙されるな。これは「本物」だ。関わってはいけない、上位の捕食者だ。

 

「つい最近数千年ぶりに召されたばかりで、召喚の心地にも慣れてきたところだ。誠心誠意謝るのであれば、練習の失敗程度(・・・・・・・)は許してやらんでもなかったが」

 

「ひっ……ごめんなさ……」

 

「遅い。マジリシアにて不足した魔力を補給しがてら、待望のニンニクマシマシラーメンを堪能しておったが、貴様のせいでそれも台無しだ。――せめてその貧相な体と魔力をいただいて、憂さ晴らしとしよう」

 

 悪魔が手を翳すと、私の体がふわりと浮き上がった。

 見えない力に拘束され、徐々に悪魔の腹――そこにぱっくりと開いた「口」の前へと引き寄せられていく。

 

 邪口。悪魔が持つ、万物を喰らい魔力へと変換する捕食器官。

 私という獲物を認識したその口は、舌舐めずりをするように醜悪に歪み、開かれた。

 

 メリメリ、と皮膚が裂けるような音を立て、小さな悪魔の腹が、胴体ごと引き延ばされるように大穴へと変貌する。

 私一人どころか、魔獣の大人すら余裕で呑み込めるサイズ。

 ランタンの薄明かりの中、ぬらぬらとした唾液でコーティングされた口腔内が、底なしの暗闇へと続いていた。

 

「恨むのであれば、己の迂闊さを恨むのだな」

 

「い、いやああああっ!!」

 

 悲鳴を上げきる前に、邪口が私の上半身に食らいついた。

 

 視界が暗闇に塗り潰される。

 同時に襲ってきたのは、五感を蹂躙する圧倒的な不快感。

 海底火山に飛び込んだかのような湿った熱気。顔全体に押し付けられる分厚い肉の圧迫感。グチャグチャと唾液がかき混ぜられる粘着質な音。

 そして何より――ギトギトの脂とニンニクを極限まで煮詰めたような、強烈な悪臭。

 

「んぶぅあ゛あ゛ああッ!! むぁあああッ!!」

 

 地獄だ。

 

 私は半狂乱で手足を振り回した。

 息ができない。頭を振り、両腕を突っ張って肉壁を剥がそうとするが、ゴムのような弾力を持つ肉は私の抵抗を嘲笑うように沈み込み、指先を吸い込んでいく。

 腕を限界まで伸ばしても、壁の底に届かない。

 外見はあんなに小さかったのに。私は今、巨大な化け物の胃袋に繋がる異界にいるのだ。

 

「ふむ、取るに足らぬ魔獣の小娘にしては悪くない味だな。仄かに潮の香りを感じる」

 

 頭上から、呑気な感想が降ってくる。

 モチャモチャ、と飴玉でも転がすような咀嚼音。そのたびに強烈な圧力がかかり、私の体は奥へ奥へとずり落ちていく。

 口を塞がれ、漏れ出した悲鳴は分厚い脂肪に吸われて誰にも届かない。

 

「愚かな小娘よ。このワシに無礼な態度をとっておきながら、逃れられるとは思っておらんな?」

 

 圧倒的な上位者の余裕。

 彼はその気になれば、私を一瞬で噛み砕くこともできるのだろう。あえて生かしたまま、恐怖の味を楽しんでいるのだ。

 

 肺が焼ける。

 酸素を求めて息を吸えば、濃厚なニンニクの悪臭が肺胞まで侵入し、激しく咳き込む。生理的な涙が溢れて止まらない。

 

「うぐぅ……うぶぅうううッ!」

 

 生きたい。まだ死にたくない。

 私は必死に身をよじり、わずかでも外へ出ようと藻掻き続けた。

 

「ふむ、この身体は軽過ぎるか。小娘程度の獲物でも制御が難しいな」

 

 悪魔の呟き。上手く食べられないのなら、脱出の隙があるかもしれない。

 淡い希望を抱いた、その瞬間。

 

「では、丸呑みにして丹念に味わうとしよう」

 

 死の宣告。

 

 咀嚼の動きが止まり、代わりに強力な吸引が始まった。

 唇が器用に動き、バタつかせていた下半身を引きずり込む。同時に、巨大な舌が上半身に巻き付き、極太の先端が私の口内へと強引に侵入してきた。

 

「や゛めっ……やめでッ! ……んぐぅっ! むう゛うぅ!! ぶぅあ゛あ゛あぁ!! むぐあ゛ぁあ゛ああああッ!!」

 

 舌に絡め取られ、内側と外側から同時に犯される屈辱と恐怖。

 絡め取られなかった片腕を必死に伸ばし、肉壁に爪を立てようとするが、ヌメリに滑って何も掴めない。

 ズルズルと、光の届かない肉の牢獄へ連行されていく。

 

 私が、何をしたと言うの。

 ただ、少しでも皆に追いつきたかっただけなのに。

 

 腰が呑まれ、脚が呑まれ、足先が呑まれ。

 最後に残った尾びれも、名残惜しむように丁寧に、チュルリと吸い込まれていった。

 

 ――やっぱり、私では駄目だったのだろうか。

 

 全身が邪口の中に収まり、体躯を無理やり折り畳まれる。

 外から見れば、小柄な悪魔の腹は不恰好なほどに膨れ上がり、私の貧弱な抵抗に合わせてごもごと蠢いていることだろう。

 酸素が尽きる。手足の感覚が遠のいていく。

 

 魔術に無知だった私。

 

 学ぶ環境がなかった私。

 

 才能なんて、欠片もなかった私。

 

 辺境の海の魔獣が魔術師を夢見るなんて、滑稽な思い上がりだったのだ。

 

 薄れゆく意識の中、残酷な幻覚が脳裏に浮かぶ。

 泣いて感激するマルス先生。つられて涙ぐむミーティア。

 二人の視線の先にいるのは、私ではない。

 

 召喚士君だ。

 

 彼と、その使い魔である天使と悪魔が、光の中で微笑んでいる。

 

 やがて涙を拭い、みんなで記念写真を撮る光景。

 校門の前、四人が浮かべる楽しそうな笑顔。

 そこに、私の居場所はない。最初から、私は蚊帳の外だったのだ。

 

 情景が、遠ざかっていく。

 

 誰か。

 

 私を見てくれる人はいないの。

 

 助けて。お願いだから、誰か。

 

***

 

 いや、助けてくれる者などいない。

 

 いるはずがない。

 

 分かっていたはずだ。

 故郷の海を捨て、知り合いが誰もいない異郷の地で、挑戦すると決めたのは私自身だ。

 どれほど孤独でも耐えてみせると。どんなに厳しい壁が立ちはだかっても、壊して乗り越えると誓ったのだ。

 あの日、憧れの魔術師達が、邪魔な大岩を跡形もなく崩壊させたように。

 

 全ては己の夢のため。

 いや、もはや自分だけのものではなくなった、皆の願いを叶えるため。

 

 こんなところで、悪魔の餌になって終わるわけにはいかない。

 どんな手を使ってでも、私は立派な魔術師になるんだ。

 

 酸素が尽き、霞んでいく意識を無理やり繋ぎ止める。

 あと少しだけ。力を貸して欲しい。

 このふざけた状況を、絶望の肉壁を打ち破るための力を、あと一押しだけ――!

 

……

 

「……?」

 

 獲物の抵抗が弱まった。窒息して諦めたか。

 興醒めだと悪魔が思考を巡らせ、油断したその瞬間だった。

 

「んぐっ……!!」

 

 私は暗闇の中、目の前に迫っていた巨大な肉塊――私を弄ぶ舌に、渾身の力で食らいついた。  顎が外れるほど大きく口を開け、ゴムのような弾力のある肉に歯を突き立てる。

 生きるために。あがくために。

 

 ブチリッ!!

 

「ぐあっ!?」

 

 外で悪魔の悲鳴が聞こえた。

 直後、胃袋が痙攣し、強烈な吐き気が悪魔を襲う。

 視界が反転する。私は胃液と唾液の奔流と共に、勢いよく外へと吐き出された。

 

 ベチャリッ、という湿った音を立てて床に転がる。

 全身が粘液まみれだ。けれど、肺に飛び込んできたのは、むせ返るような生温かい空気だった。

 

「き、貴様……邪口の中で何をした?」

 

 悪魔が腹を庇って蹲っている。

 口元に手をやると、そこから青い血がポタポタと垂れていた。

 異常なのは、彼の口からだらしなく垂れ下がり、苦痛にのたうち回っている舌だ。

 先端が無惨に噛み千切られ、壊れた水道管のように血が噴き出している。

 

 私は激しく咳き込みながら、涙目で悪魔を睨みつけた。

 口の中に残る異物感。

 私は、噛み千切った舌の先端――青い肉塊を、ペッと床に吐き出した。

 それでも口内には濃厚な鉄の味が残り、鼻に抜ける強烈なニンニク臭と混ざり合って、最悪の味がした。

 

「このじゃじゃ馬め。最後の力で舌を噛み切るとは……」

 

 悪魔のオッドアイが、暗闇の中で激しく燃え上がる。

 先程までの余裕は消え失せ、空間ごと圧し潰すような本物の「殺気」が肌を刺す。

 

 殺される。

 

 本能がそう告げている。けれど、悪魔の腹の中で覚悟を決めた私は、もう逃げない。

 震える体で顔を上げ、最後まで睨み返した。

 

「……」

 

 数秒の静寂。

 

 ふっと、悪魔の殺気が霧散した。

 

「まあ、ワシが丁度魔力不足であることが原因か。油断しておったわ」

 

 表情から怒りが消え、呆れたような、あるいは感心したような色が浮かぶ。

 気が付けば、傷ついた舌は既に再生し、血も止まっていた。化け物だ。

 

「おぬし、よくぞ非力な身でありながら抗ったな。その往生際の悪さは褒めてやろう」

 

 予想外の賞賛に、目が点になる。

 彼は腹の口元の血を拭うと、ニヤリと不敵に笑った。

 

「しかしな。おぬしは今後苦労するぞ。ワシの血を、取り込んでしまったのだからな」

 

「あなたの……血が……なんなの……?」

 

 喉が焼けるように熱い。

 さっき飲み込んでしまった青い血が、胃の中で熱を持ち、全身へ巡っていく感覚がある。

 

「それは程なく分かることよ。おぬしに扱えるのならば、褒美として受け取れ。ワシの知己に、おぬしと同じ学校に通う者がおる。どうしようもなく困ったことがあれば、相談すればよかろう」

 

 悪魔は不穏な言葉を言い残すと、「また噛み付かれてはたまらん」と呟きながら手を翳した。  空間がねじれ、おどろおどろしい渦を巻く穴が発生する。

 

 そのまま悪魔は穴へと吸い込まれ、煙のように消え失せた。

 

 部屋には、元の静寂が戻った。

 残されたのは、粘液に塗れた私と、床に散らばる青い血痕。そして、強烈なニンニクの残り香だけ。

 

 あれは瞬間移動魔法の類だろうか。

 魔方陣なしで、あんなにも簡単に空間を渡るとは。改めて、途方もない格の悪魔だったのだと思い知らされる。

 

 命の危機が去ったと分かった瞬間、張り詰めていた糸が切れ、体が鉛のように重くなった。  指一本動かせない。

 あの悪魔は何者だったのか。私の身に何が起こるのか。そして私は何故、衝動的にあんな真似をしてしまったのか。

 

 胃の奥が、まだ熱い。

 飲み込んだ「悪魔の血」が、私の運命を書き換えていくような予感がした。

 

 浮かび上がる疑問を何一つ解決できないまま、私は泥のような眠りへと落ちていった。

 

 続く

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。