おトモダチの味 ―― 暴食の少女と星天の約束   作:丸呑みトカゲ

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召喚魔法の失敗により悪魔を呼び出したチュリンは、決死の抵抗により九死に一生を得る。
一方で意図せず取り込んだ異形の力は、チュリンの身体と精神を徐々に蝕んでいく。
親友の異常な様子に心を痛めるミーティアは、チュリンが住む寮を訪れるが…

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本編は下記要素が含まれます。
・ 「でびるコネクショん」エピローグ後の時系列に相当する物語(ネタバレあり)
・ 「魔けモン!」の設定を引用している部分あり
・ オリジナルキャラクターの登場あり
・ 多少のエロ要素を含む丸呑み表現あり(R-15)
・ 一部血生臭い描写あり
・ 本作品はPixivにも投稿しております


親友は決別の味

「大分、長引いちゃったね」

 

 水魔法の実技補習の帰り道。同じく居残り組だったミーティアと並んで、夕暮れの街道を歩く。

 秋の陽は気が早いようで、空は既に茜色から群青色へとグラデーションを描き、ちらちらと一等星が顔を覗かせていた。

 

「今日はチュリンが早かったデス! 綺麗な水の玉ができあがってまシタ!」

 

 珍しく、私の方が少しだけ早く課題をクリアできた。海で暮らしていた私にとって、水は空気のようなものだ。その親和性が幸いしたのだろう。

 魔法はイメージが大事なのだと、副校長のミロミラン先生が集会で言っていた言葉を思い出す。

 

 そんなことを考えていると、隣を歩くミーティアがポンと手を打った。

 

「ミャ、チュリンはこのあと予定ありマスか?」

 

「ううん、今日は特にないよ。予習をして明日に備えるくらいかな」

 

「それなら! 今日は家の近くのカフェがお得な日なんデス。一緒に星空パフェ食べまショー!」

 

 言うが早いか、彼女は私の手を掴んで走り出した。

 興奮を抑えきれずに頬を紅潮させ、その瞳はまるで宝物を見つけた子供のように輝いている。

 

「近道しまショー! いつも人気なので、早くしないと売り切れになっちゃうんデース!」

 

「ちょ、ミーティア、早いって! 転んじゃうよ!」

 

 路地裏を突っ切り、入り組んだ裏道を最短ルートで駆け抜けるミーティアは、夜空を駆けるほうき星のように鮮やかだ。私はその引力に引き摺られるように、つんのめりながら必死についていく。

 

 好きなことに一直線な彼女は、いつになく眩しい。

 天文学の授業では誰よりも手を挙げ、分からないことは貪欲に吸収する。星モチーフの小物には目がなく、スイーツとなれば尚更だ。

 その純粋な輝きが、補習続きで曇りがちな私の心を照らしてくれる。

 

 息を切らしてカフェに駆け込んだ結果、私たちはめでたく最後の星空パフェにありつくことができた。

 最後の一個を二人で分け合う。それもまた、特別感があって楽しかった。

 

「ミャ……ンぅ~……!」

 

 最上段に添えられた星形のオレンジアイスを頬張ったミーティアが、とろけるような感嘆の声を漏らす。全力疾走の後にありついた糖分(ごほうび)は、言葉にできない美味しさなのだろう。

 

 私も負けじと、金粉入りチョコソースがかかったブルーベリーアイスを口へ運ぶ。

 冷たい甘さが舌の上で解け、脳髄まで染み渡る。危うく転んで膝を擦りむきそうになった疲れなど、さらさらと溶けて消えていくようだ。

 

 グラスの中に再現された色彩豊かな星空は、夜が本番を迎える前に、二人の甘党の胃袋へと収められていく。

 底に残った漆黒のコーヒーゼリーを掬い上げ、名残惜しそうに味わうミーティアの表情は、どこか切なげで、愛おしい。

 口の端についたチョコソースを指で拭い、ペロリと舐めてはにかむ彼女。その周囲には、幻視できそうなほど柔らかな桃色の花が咲き乱れている。

 

 ああ、このささやかで甘い時間が愛おしい。

 魔術師になる夢も、厳しい現実も忘れて、ずっとこんな穏やかな時間を過ごせたらいいのに。

 

 ――もういっそ、そちらに振り切ってもいいのではないか。

 

「もうなくなっちゃいまシタね。まだまだ食べられるのに残念デース……」

 

「ふふ、あっという間だったよね。私も全然足りないや」

 

「じゃあ他にも頼んでみまショーか? ミーは、このイチゴジャムが載ってるチーズケーキが食べたいデース!」

 

 メニュー表を広げ、次の獲物を探すミーティアが無邪気に尋ねてくる。

 

「チュリンは何が食べたいデスか?」

 

 その問いかけに、私は自然と口を開いていた。

 

「そうだね。じゃあ私は――ミーティアがいいな」

 

 場が、凍り付く音がした。

 

 驚いたのは、メニューに夢中なミーティアではない。

 私自身が、自分の口から飛び出した言葉に戦慄したのだ。

 

 私は、何を言っている?

 

 ドクン。

 

 心臓ではない。胃の奥底、あの青い血を飲み込んだ場所が、焼けた石を飲み込んだように熱く脈打った。

 

「ミーティアはとっても美味しそうだよね。桃のような優しいピンク色の体毛は、舌触りが良くてとろけそうだし」

 

 違う。私はそんなこと思ってない。

 

「柔らかいお肉がたっぷり詰まったミーティアって、二の腕までもちもちで噛みごたえがありそう。ぷにぷにと弾力のある肉球で手を繋いでくれるのが、たまらなく扇情的で、食欲をそそる匂いがして」

 

 やめて。こんなことはおかしい。

 否定の言葉を紡ごうとしても、唇は他人に乗っ取られたように滑らかに動き続ける。熱い何かが喉までせり上がり、思考を甘い毒で塗り潰していく。

 

 一方でミーティアは意に介さない。美味しそうなケーキの写真に釘付けで、呑気に鼻歌を口ずさんでいる。

 

 お願い、早く異変に気付いて。逃げて。

 いや、どうか気付かないで。私の醜い本性から目を逸らして。

 

 相反する感情が入り交じり、脳味噌がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。

 

「あなたの素敵な部分に気付けば気付く程、誰かに奪われるのが怖い。落ちこぼれの私からはすぐに離れて、召喚士君(あいつ)の元にいってしまうのが恐ろしくてたまらない。私を置いていかないで」

 

 何重にも張り巡らされた理性の檻が、内側からの圧力でひしゃげ、弾け飛ぶ。

 飢餓感を表すように冷や汗が頬を伝い、眼は極上の獲物を前に爛々と輝く。口元は法悦に満ちた笑みに引き攣り、止める術もない銀色の糸がこぼれ落ちる。

 フシュー、フシューと、己のものとは思えないケダモノの息づかいが鼓膜を打つ。

 

 

 

「お願い、私と一緒になって(私に食べられて)

 

 

 

 刹那、全てが無音になった。

 

 カフェの喧騒も、暖かな照明も、何もかもが黒く塗りつぶされる。

 

 スポットライトの下、残されたのは俯くミーティアと、私のみ。

 

「――いいデスよ」

 

 ミーティアが、ゆっくりと顔を上げる。

 

 そこには恐怖も軽蔑もなかった。

 微熱に侵されたような瞳が潤みを湛え、上気した頬は夕焼けを映したかのように鮮やかに染まっている。吐息は熱を帯び、差し出された唇は、切なる願いを表すように小さく窄められている。

 

「ミーも、チュリンと一緒がいいデス」

 

 ブチリ。

 

 理性の糸が、無惨に噛み千切られる音がした。

 

 私は大きく口を開け、ミーティアに覆い被さるように、化け物へと堕ちていく。

 

***

 

「いやあああッ!!」

 

 泥沼に沈んでいた意識が、自らの悲鳴によって無理やり水面へと押し上げられる。

 反射的に上体を起こすと、窓から無遠慮に注がれる真っ白な陽光が、私の顔を焼き尽くすように照らしていた。

 

「あ……はぁ、はぁ……ッ」

 

 掠れた呼吸音が、静まり返った私室に虚しく響く。

 背中に感じる硬い床の感触。そこでようやく、自分が長く意識を失っていたことを悟った。

 けれど、悪夢の残滓はまだ胸の奥でどろりと渦巻いている。

 口元を拭うと、べっとりと乾いた唾液が張り付いていた。夢の中で、私はどれほど涎を垂れ流していたのだろう。

 親友を「美味しそう」だなんて、縁起でもない。

 

 床に転がっていた全身は芯まで冷え切っている。

 その一方で、体の中心――胃の奥底だけが、火にくべられたように熱い。あの青い血が、まだそこで拍動を続けているようだ。

 

……

 

 鉛のように重い体を引きずり、心配して見に来てくれた寮母さんに「風邪気味です」と嘘を伝えた。

 シャワーで冷や汗と唾液の跡を洗い落とし、清潔なシーツに潜り込む。

 頭は熱で火照り、手足は深海の水圧に潰されたように動かない。視界はあてもなく揺らぎ、思考が水泡のように浮かんでは弾ける。

 

 次に目が覚めた時、太陽は既に中天を過ぎていた。

 今度は悪夢にうなされることなく眠れたらしい。

 

 ふとテーブルを見ると、ラップのかかったパンと卵焼き、ウインナー、それと水が置かれている。寮母さんの差し入れだ。

 心身共に弱り切った今の私には、そのささやかな心遣いが痛いほど沁みる。

 

 黙々と遅い朝食を口に運びながら、ここまでの顛末を振り返る。

 

 道端に落ちていたチョークを拾ってから、何もかもが異常だ。

 何かに取り憑かれたように召喚魔法に走り、魔力不足で失敗し、得体の知れない悪魔に丸呑みにされかけ、あまつさえその血を飲んでしまった。

 普段の私であれば、絶対に選ばない選択肢ばかりを選んできた。まるで、見えないレールの上を走らされていたようだ。

 

 視線を床に走らせる。そこには、使いかけのチョークが転がっていた。

 

 拾った時はただの高級品に見えた白い棒が、今では触れることすら忌々しい呪物に見える。

 一刻も早く処分したい。けれど、うかつに触れてまた何かが起きたら?

 今度こそマルス先生に相談して、必要なら警察にも知らせるべきだろうか。

 

 いや、その前に確認すべきことがある。

 あの悪魔は、一体何者だったのか。

 

 体格だけ見れば、愛らしい幼体の下級悪魔だ。しかし、あの理不尽な怪力と、物理法則を無視して広がる邪口。文献の知識しか持ち合わせていない私でも分かる。あれは明らかに、下級の領域を超えた「怪物」だ。

 

 もしや、強力な悪魔が油断を誘うために、あえて幼い姿を取っていたとしたら?

 

 震える手で本棚から悪魔に関する文献を引っ張り出し、ページを繰る。

 手が止まったのは、七大悪魔について解説された項だった。

 

 ――魔獣の根源的悪徳を司る七大悪魔の一柱。

 ――暴食を司り、その真名を『ベルゼブブ』という。

 ――あらゆるものを喰らい、魔力に変換する邪口を持つ。古来より生け贄、建造物、山林に至るまでを喰らい尽くした記録あり。

 

 あの悪魔は、自らを BBB(・・・) と名乗っていた。

 

 Beelzebub。ベルゼブブ。BBB。

 

 文字面を見た瞬間、直感が警鐘を鳴らした。間違いない。私の元に現れたのは、暴食の大悪魔ベルゼブブだ。

 たまたま魔力不足で幼体の姿をしていたから助かったものの、本来であれば、目が合った瞬間に塵も残さず消滅させられていてもおかしくない相手。

 そして私は、そんな化け物の血を体内に取り込んでしまったのだ。

 

 冷や汗が背中を伝う。

 最後に彼が残した言葉――『ワシの血を取り込んでしまった』『おぬしに扱えるのならば』。

 これは、私の身体に不可逆な変化が起きることを示唆しているのではないか。

 

 誰かに、相談しなければ。

 けれど、誰に?

 

 召喚魔法は、原則として対象が厳しく制限されている。七大悪魔の召喚など、タブー中のタブーだ。

 もし発覚すれば、私は退学どころか、重犯罪者として投獄、最悪の場合は処刑される可能性だってある。

 魔術師になる夢が絶たれるだけではない。私の人生そのものが終わるのだ。

 

 ……言えない。

 誰にも、言えるわけがない。

 悪魔の魔力による異変は不気味だが、塀の中で一生を終えるよりはマシだ。

 

 幸い、昨日の出来事は誰にも見られていない。

 今の体調不良も、ただの一時的なものかもしれない。時間が経てば、悪魔の血も代謝されて消えるはずだ。そうであってほしい。

 

 必死に自分に言い聞かせ、思考を打ち切る。

 ふと手元を見ると、皿の上にあったパンも卵焼きも、綺麗になくなっていた。

 

 ……あれ?

 考え事をしている間に、無意識に食べてしまったらしい。味も覚えていないし、飲み込んだ記憶すらない。

 まあいい。食欲があるのは回復している証拠だ。

 

 その後、念のために寮母さんが手配してくれた医師に診てもらったが、「特に異常なし。疲労でしょう」との診断だった。

 よかった。やはり、私の考えすぎだったのだ。

 昨日の出来事は、記憶の片隅に置かれたまま、徐々に忘れ去られていくだろう。

 

 そう。

 翌日の朝を迎えるまでは、本気でそう思っていたのだ。

 

***

 

 それは、胃の中に底なしの穴が穿たれたようだった。

 

 猛烈なひもじさに襲われて、私は弾かれたように目を覚ました。

 昨日まで何も問題なかったはずの腹から、ギュルルル、と断末魔のような音が響き渡っている。内臓が共食いを始めたのかと錯覚する程に、胃のあたりから焼けるような激痛が走る。

 

 一体何が起きたのか。思考を巡らせる余裕すらない。

 今すぐ食べ物で胃を埋め尽くさなければならない。そうしなければ死ぬ。

 狂気じみた命令だけが、脳内を埋め尽くしている。

 

 私はベッドから転がり落ち、昨夜食べきれず残しておいたパンを掴んだ。咀嚼もそこそこに、喉の奥へ押し込む。

 

 足りない。

 

 小腹が空いた時にと買っておいたクッキーの箱を開け、中身を全てぶちまけ、限界まで頬張る。

 

 まだだ。

 

 苦学生に優しいお徳用の茶葉が入った容器を開け、乾燥した葉をそのまま口の中に流し込む。喉に張り付く不快感も無視して、唾液で無理やり嚥下する。

 棚に仕舞い込まれた調合用の乾燥薬草に齧り付き、本来なら複数日にかけて摂るはずの風邪薬を、理性のない魔物の手つきで胃に流し込む。

 

 しかし、足りない。

 どれほど詰め込んでも、その「穴」は満たされるどころか、より深く、大きく口を広げていく。

 

「お腹、すいた……」

 

 私室を出て、よろよろと寮の食堂へ向かう。

 朝の陽光が差し込む食堂には、焼き立てパンから漂うバターの香りと、野菜をこれでもかと詰め込んで煮込んだスープの香りが満ちている。

 いつもであれば食欲をそそる幸せな芳香が、今の私には理性を焼き焦がす猛毒となる。

 

 席に着くなり、配膳された朝食に食らいついた。

 スープはスプーンで掬い上げる暇も惜しい。皿ごと持ち上げ、熱さも構わず喉へ流し込む。厚切りのパンを野獣のように引き千切り、荒々しく齧り取る。

 数秒前までそこにあった食事が、瞬きの間に消え失せる。

 空になった皿を見て、焦燥に駆られる。食べ物はどこだ。早く腹を埋めないと、私が私でなくなってしまう。

 

 ふと顔を上げると、視界が一点に固定された。

 隣の席。まだ来ていない寮生のために置かれた、湯気を立てるスープとパン。

 

 欲しい。

 

 自然と手が伸びていく。

 泥棒だ。はしたない。そんな理性は、圧倒的な欲望の濁流に踏み潰される。磁石に引かれる鉄屑のように、身体が勝手に引っ張られていく。

 指先が、他人の皿に触れようとしたその瞬間。

 

 ――もうやめて!

 

 頭の片隅に残っていた理性が、悲鳴を上げた。

 体の制御が一瞬だけ揺らぐ。私はその隙を見逃さず、空いた手で銀色に光るフォークを逆手に握りしめた。

 この暴走を止めるには、痛みを与えるしかない。

 

 私は躊躇なく、逆手に持ったフォークを振り上げ、暴走する左手の甲に突き立てた。

 

「いっ……!!」

 

 ザクリ、と肉を穿つ感触。

 鋭い痛みが脳天を突き抜け、翠色の肌から鮮血が滲みだす。

 その激痛により、脳を支配していた飢餓の霧が一瞬だけ晴れた。

 甘美な食べ物の香りに代わり、錆びた鉄のような血の匂いが鼻孔に届く。

 

 はっとして我に返る。

 かろうじて、体に巣食う怪物を肉体の檻の中に繋ぎ止めたのだ。

 

 肩で息をしながら、ふと視線を感じて周囲を見渡す。

 食堂が、静まり返っていた。

 周囲の寮生たちが、あまりにも異様な私の食べ方に手を止め、さらに突如として自傷行動に走った私を見て、ひそひそと囁きあっている。

 朝の穏やかな時間を過ごすはずの場所に紛れ込んだ「異物」。彼らは遠巻きに、私を警戒していた。

 

「あ……」

 

 羞恥の波が押し寄せる。

 血を流す左手を右手で庇い、私は逃げるように俯いた。

 彼らが敬遠するのも当然だ。立場が逆であれば、私も同じことをしただろう。狂っているとしか思えない。

 

 それでも、これは私のせいじゃない。

 私はただ、普通に朝ご飯を食べたかっただけなのに。

 

 そう叫び出したい思いを唇を噛んで堪え、私は床にポタポタと垂れ落ちる、自分の血を見つめていた。

 

……

 

「その手……どうしたんデスか!」

 

 基礎魔法学の教室に着くや否や、包帯が巻かれた私の左手を見たミーティアが、悲鳴に近い声を上げた。

 

「うん。ちょっと……ドジ踏んで切っちゃったんだ。今は大丈夫だよ」

 

 精一杯、気丈に振る舞ったつもりだった。

 けれど、ミーティアの表情がサッと曇る。誤魔化せていない。無理もないだろう。

 あの後、騒ぎを聞きつけた寮母さんに処置してもらい、周囲の戸惑いの視線から逃げるように登校してきた。授業など受けていないのに、魔法学校に辿り着いた時点で、全力疾走した後のように疲弊していた。

 

 何が起こったのか。脳が事実の受け入れを拒否している。

 目を覚ますなり食欲に意識を乗っ取られ、部屋の備蓄を食い尽くし、それでも足りずに他人の食事を強奪しようとした。断じてあってはならない醜態だ。

 咄嗟にフォークを手に突き立てなければ、どこまで悪化していたか分からない。

 

 原因は一つしかない。暴食の悪魔――ベルゼブブの血だ。

 あれだけの量を詰め込んだ腹をさする。破裂しそうな満腹感があるはずなのに、信じられないことに、腹部は空腹を示すように平坦なままだった。

 

 食べた物はどこへ消えた?

 私の身体は、どうなってしまったの?

 

 脂汗が止まらず、心臓は早鐘を打つ。

 解決の糸口などない。七大悪魔の呪いなど、一般の魔術師がおいそれと解けるものではないだろう。

 あの悪魔の置き土産が、次にどんな暴走を引き起こすのか。

 私は、私でいられなくなるのではないか。

 

「チュリン、本当に大丈夫デスか……?」

 

「うん、ごめんね。……まだ具合が戻りきってないみたいでさ」

 

 いつの間にか、眉間に深い皺が寄っていたらしい。

 ミーティアに余計な心配をかけまいと笑顔を作ろうとしたが、頬が引きつって上手く笑えない。

 

「チュリン! ちょっと来てくだサイ!」

 

 業を煮やしたミーティアが立ち上がり、私の手を取って教室の外へと連れ出した。

 廊下の隅まで来ると、彼女はいつになく真剣な眼差しで私に向き直った。

 

「今日のチュリン、何か変デス。何かミーに言えない悩みがありマスか?」

 

「……いや、なんでもないよ。本当に」

 

「嘘デス! チュリンが嘘付く時は、目が右上に泳ぐんデス!」

 

「えっ、そうなの?」

 

 思わず視線を戻し、動揺してしまう。

 その隙を、親友は見逃さなかった。

 

「嘘デスよ。気にしちゃうってことは、やっぱり何か隠してるんデスね?」

 

「……あ」

 

 透き通る水色の瞳に見つめられたまま、簡単なカマかけに釣られてしまった。

 観念して俯く私に、ミーティアは畳み掛けるように、けれど優しく私の手を両手で包み込んだ。

 彼女の手は温かく、私の手は氷のように冷たい。

 

「そうなんデスね。誰でも秘密はあるものだから、内容まで無理には聞かないデス。でも、」

 

「ミーティア……」

 

「悩みについて相談に乗れなくても、辛い気持ちとか、吐き出したいこととか、それだけでもいいからミーを頼って欲しいデス! チュリンは大切なおトモダチだから……せめて一緒に、イタいのを分かち合いたいデス!」

 

「……っ」

 

 その真っ直ぐな訴えは、恐怖で何重にも鍵をかけていた心の殻を突き破るには十分すぎた。

 堰を切ったように、涙が溢れ出す。

 

「私、私ね……どうしたらいいか分からなくて……誰にも言えなくて……っ」

 

 私はミーティアの胸に縋り付き、赤ん坊のように泣きじゃくった。

 彼女は何も言わず、ずっと私の背中を撫でてくれた。「今まで辛かったデスね」と、優しい声で語りかけ続けてくれた。

 

 その温もりに根負けし、私は全てを打ち明けた。

 不審なチョークを拾ってからおかしくなったこと。精霊召喚のつもりが、得体の知れない悪魔を呼んでしまったこと。殺されかけ、必死の抵抗の末に悪魔の血を飲んでしまったこと。

 そして今、制御できない飢餓に襲われていること。

 

 最後に――呼び出した悪魔が、伝説上の『暴食の大悪魔』である可能性が高いこと。

 

 最初は頷きながら聞いていたミーティアだったが、話が進むにつれて表情が強張り、ワナワナと肩を震わせ始めた。

 そして私が全てを吐き出し終えると、彼女は「ウミャーッ!」と叫びながら、私の額に優しいチョップを食らわせた。

 

「とんでもないことになってるじゃないデスか! 危うく死んじゃうところだったんデスよ! もっと早く助けを求めてくだサイ!」

 

「ごめんね……誰にも相談できないって思っちゃって……退学になるのが怖くて」

 

「退学なんてどうでもいいデス! チュリンの命の方が大事デス!」

 

 ミーティアが本気で憤る姿を初めて見た。

 そこまで真剣に私のことを考えてくれている。それが嬉しい反面、彼女を巻き込んでしまった罪悪感が胸を刺す。

 

「でも、チュリンの言う通りデス。もしそんな偉い悪魔サンを召喚してしまったのなら、近くに対応できる先生はいなさそうデスし、うかつに相談すれば大ごとになりマス」

 

 ミーティアは腕を組み、うんうんと唸りながら考え込んだ。

 やがて、急に妙案を思いついたのか、その瞳にパッと一番星が宿る。

 

「そうだ! 召喚士サンなら、何か対処法を知ってるかもしれないデス! 本物の悪魔のでびるんサンもいますし!」

 

 ――召喚士君。

 確かに、天使と悪魔を使役する彼なら、このような状況でも独自の対策を知っているかもしれない。

 ここ最近は嫉妬の対象でしかなかったが、今はそんなくだらない意地を張っている場合ではない。背に腹は代えられないのだ。

 

 ただ、とミーティアが一呼吸置く。

 

「でも、召喚士サンは今日お休みなのデス。でびるんサンが悪いもの食べてお腹下しちゃったのを看病するみたいで……」

 

「う、そうなんだ。じゃあ相談できるのは早くても明日……?」

 

 不安が顔に出たのだろう。ミーティアが慌てて助け舟を出してくれた。

 

「ミャ、でもお家は知ってるから、今日の帰りに直接相談しに行きまセンか? 緊急事態デスし、彼ならきっと話を聞いてくれマス!」

 

「本当……? 助かるよ……! 悪いけど、案内をお願いしていい?」

 

「任せてくだサイ!」

 

 ミーティアが胸を張ってふんぞり返る。

 入学試験の時以来だ。私の可愛くて、誰よりも頼りになる親友に救ってもらったのは。

 暗闇の中に、細いけれど確かな光が見えた気がした。

 

「本当に、ありがとうね」

 

 今はまだ、お礼しか言えない。

 けれど、この一件が無事に片付いたら。いつか必ず、彼女に最高のお返しをしよう。

 胸の奥で、そう固く誓ったのだった。

 

***

 

 一筋の希望が見えた中であっても、身体に巣食う暴食の魔力は、虎視眈々と私に牙を剥く機会を狙っていた。

 

 マルス先生による基礎魔法学の講義中。

 不意に食欲がぶり返し、胃袋を雑巾絞りにされるような激痛が走る。

 ぐっと下腹に力を込めて堪える。しかし、私の五感は既に呪いに汚染されていた。

 黒板に走るチョークの白文字が、揚げたてのポテトフライに見える。カッカッ、という硬質な音が、高温の油で衣が弾ける音に変換され、耳の奥を疼かせる。他の生徒がページをめくる音すら、パイ生地がサクサクと砕ける音にしか聞こえない。

 額を伝う冷や汗を拭いながら、私は握り締めた理性の手綱を、指が千切れかねないほどの力で保持し続けた。

 

「ではこの問題について、どなたかに解いていただきましょうか。えーと……ひっ!」

 

 目が合った途端、マルス先生が森で熊にでも遭遇したかのように、涙目で後ずさった。

 今の私は、それほどまでに酷い形相をしているのか。

 

「先生、ミーが答えマス!」

 

 すかさずミーティアが手を挙げ、流暢に回答して助け舟を出してくれた。

 着席際、彼女がそっと耳打ちしてくる。

 

「チュリン、目が血走ってて怖いデス。獲物を狙う野獣みたいデスよ」

 

 そんなことを言われても、この綱引きを止めるわけにはいかない。

 ここで気を緩めれば、乙女の矜持どころか、魔獣としての尊厳すら吹き飛びかねないのだ。

 ミーティアからこっそり貰った星形のガムを噛みしめ、ミントの刺激で空腹を誤魔化しながら、私は昼休みまで耐えた。耐え続けた。

 

……

 

 昼のチャイムが鳴った頃には、すっかり消耗しきっていた。

 足が痺れて立ち上がることも覚束ない。ミーティアに肩を貸してもらいながら食堂へ入り、待望の食事にありつく。

 

 ただ我慢することに慣れてきたのか、あるいはガムのおかげか。朝食の時のように獣じみた食べ方をせず、スプーンを使って食事を摂ることが出来た。

 ただし、一人前で満足できるはずもない。

 二度、三度とおかわりを繰り返し、周囲の奇異な視線と、財布の中身という大事なものを犠牲にしながら、なんとか午後の授業を乗り越えたのであった。

 

「お疲れ様デス。最後までちゃんと我慢できて偉いデス!」

 

「うん……でも、ミーティアのおかげだよ。助けてくれてありがとう」

 

 放課後。死人のような足取りで帰路につきながら、私は隣を歩く親友に感謝を述べた。

 朝からずっと私を支え、疲れている様子をおくびにも出さずに寄り添ってくれている。

 申し訳なさで胸が痛むが、今は感傷に浸っている場合ではない。最優先すべきは、この呪いの治療だ。

 

 無事解決したら、あのカフェにミーティアを連れて行こう。

 星空パフェと、それからジャムを載せたチーズケーキをご馳走しよう。

 

 ぐう、と腹の底から低い音が鳴った。

 スイーツのことを思い浮かべたせいで、また「穴」が開き始めたようだ。

 召喚士君の家まではまだ距離がある。手土産も兼ねて、少し糖分を補給しておいた方がいいかもしれない。

 

「ミーティア、ごめん。召喚士君の家に行く前に、途中でお菓子を買ってもいいかな」

 

「ハーイ! あそこのお店は美味しそうデス!」

 

 ミーティアが指差した先には、「ショコラーニュ」という看板を掲げた小洒落た洋菓子店が佇んでいた。

 店まではまだ数十メートルある。

 だというのに、風に乗って漂ってきた濃厚なバターと砂糖の香りが、暴力的に鼻腔をくすぐった。

 

 甘い。いい匂い。

 あの店で、いくつかお菓子を買っていこう。

 

 そう思った、刹那。

 

 ブチリ。

 

 耳元で、何かが千切れる音がした。

 

「あ」

 

 声を上げた時には、もう全てが手遅れだった。

 

 ドクン、と心臓が爆ぜるような鼓動。

 喉の奥から、「ギギッ」と飢えたケダモノの喘ぎが漏れる。

 身体の制御権が、指先から一枚ずつ剥がれ落ちていく。私の意志とは無関係に、両足がリミッターを外して地面を蹴り飛ばした。

 

「チュリン!?」

 

 視界が激しく揺れ、景色が線となって後方へ流れる。

 異変に気付いたミーティアの叫び声も、石畳を叩く自分の靴音も、すべてが意識の外へ追いやられる。

 脳内を埋め尽くすのは、狂った甘味への渇望のみ。内臓が食い尽くされるような空腹感が、私という存在を飢えた弾丸へと変えていた。

 

 洋菓子店の扉を、蹴破らんばかりの勢いで押し開ける。

 

「いらっしゃいませ! 是非お菓子をご覧になって……」

 

 ミントのリボンを結んだ店員が朗らかに出迎えようとして――その言葉は、喉元で凍りついた。

 

 そこにいたのは、ソルシエール魔法学校の生徒ではない。

 肩で荒い息を吐き、血走った目を爛々と輝かせ、唇を白くなる程強く噛み締め、並んだ菓子を「獲物」として凝視する、剥き出しの飢餓そのものだった。

 ただならぬ様子の、客かどうかも分からないケダモノに対し、店員は言葉を詰まらせ、カウンターの下で杖を握りしめている。

 

 私は震える手で財布からリシア銀貨を鷲掴みにし、カウンターに叩きつけた。

 悲鳴のような金属音が店内に響く。

 

「ここにあるもの、全部! 早く、く……くクくださいィ!!」

 

 店員の返答など待てない。

 私はお洒落に飾られた焼き菓子のバスケットを鷲づかみにし、包装紙ごと毟り取った。

 

 上品に味わう余裕など、1秒もない。

 芳醇なチョコレートも、繊細なラングドシャも、ただの質量として喉の奥へ、底のない胃袋へと力任せに押し込んでいく。

 口の端から溢れるクリームや食べカスを拭うことさえ忘れ、私はただ必死に、醜く、甘味を貪り続けた。

 

……

 

「チュリン!! お願い、もうやめて!! やめてくだサイ!!」

 

 鼓膜を震わせるミーティアの悲痛な叫びが、脳天から氷水を浴びせられたように、熱狂していた脳を急速に冷却した。

 

 霧が晴れるように、我に返る。

 視界が正常な色を取り戻した時、全身の血液が逆流するような凄惨な現実が目に飛び込んできた。

 手元には、獣が食い散らかしたように無惨に散らばった包み紙の山。

 指先は砂糖と油脂でベタベタに汚れ、口内には吐き気がするほどの過剰な甘みが、粘土のようにこびりついている。

 

 おそるおそる顔を上げる。

 カウンターの奥では、店員が震える手で杖を構え、恐怖に顔を引きつらせていた。

 周囲の客や通行人は足を止め、ひそひそと指をさしている。その目に宿るのは、憐れみと、生理的な嫌悪。

 

 そして、何より耐え難かったのは――。

 

 泣き腫らした目で、見たこともない「化け物」を見るような目で私を見つめる、ミーティアの表情だった。

 

「ちが、違うの。ミーティア、これ、は……」

 

 喉の奥が詰まり、言葉が出ない。

 

 言い訳など、何の意味もない。

 魔術師を目指す者としての誇りが。乙女としての尊厳が。必死に積み上げてきた日常の全てが、今、自分の食い散らかした残骸の中に埋もれて死んでいる。

 もはや、全てが終わったのだ。

 

 だというのに。

 

 私は、どうして。

 

 

 

 

 ――目の前に立つ親友(ミーティア)の姿が、この世で一番の獲物(ごはん)に見えるのだろう。

 

 

 

 

 ドクン。

 

 胃袋が脈打つ。

 昨日の夢で垂れ流した妄想が蘇り、増殖し、より悍ましい形に変異して脳内を侵食していく。

 

 ああ、ミーティアはとっても美味しそうだよね。

 

 桃のような淡いピンク色の体毛は、綿菓子よりも瑞々しくて。

 

 指を沈めれば吸い付きそうな二の腕の肉感は、噛み締めるほどに濃厚な魔力がジュワリと溢れ出しそうで。

 

 ぷにぷにとした肉球で手を繋がれると、その柔らかな感触を口の中に迎え入れる妄想に耽っちゃうんだよ。

 

 ねえ、どうしたらそんなに美味しそうに育つの?

 

 無邪気に私を誘惑し続けることが、もう罪だよね。一秒だって辛抱できない。

 

 今すぐその身のすべてを、一片の無駄もなく丁寧に、私の奥底へと味わい尽くしてしまいたい。

 

 あなたの水晶のように透き通った水色の瞳が、眩い光を散らして影に沈む私を照らしてしまう。

 

 どうしてあなただけがそんなに眩しいの。落ちこぼれの私だって、抱いている夢なら負けないはずなのに。

 

 どうすれば、あなたのような特別な存在になれる?

 

 その身体を優しく解体し、煌めく中身を隅々まで飲み干せば、その秘訣を盗めるのかな?

 

 あなたの素敵さに気付く程、誰かに奪われる恐怖が心臓を握り潰すの。

 

 出来損ないの私を見捨てて、あなたはいつかあの召喚士君(あいつ)の元へ羽ばたいてしまう。

 

 私を一人にしないで。お願い、私のそばにいて。

 

 ……そうだ。邪魔者がいなくなればいい。

 

 いっそ、私たちが「一つ」になれば、誰にも邪魔されない。

 

 私の胃袋の中――とても狭くて暖かい場所で結ばれれば、二度と離れられない。

 

 溢れるほどの愛であなたを蹂躙し尽くしてあげる。そうすれば、あなたはもう、私の腹の中からどこへも行けなくなるのだから。

 

 ねえ、ミーティア。

 

 私と一緒になって(私に食べられて)

 

 

 

 

「いやあああああああッ!!」

 

 

 

 

 自分の思考に、絶叫した。

 本能が、理性が、羞恥心が、嫌悪感が、そのおぞましい結論を拒絶する。

 

 私という汚らわしい存在を、私自身が許せない。

 

 顔を覆うように両手で押さえ、私は弾かれたようにその場から駆け出した。

 

「チュリン!」

 

 背後で、ミーティアが私の名を呼ぶ声がした。

 けれど、振り返ることは二度とできない。

 今の私には、その悲痛な叫び声さえ、甘美な獲物の鳴き声にしか聞こえないのだから。

 

 私は夕暮れの街道を、泥を啜るような惨めな思いで走り抜け、忍び寄る夜の闇へと消えていった。

 

***

 

 走る。

 影が落ち、寒々しくなった街道を、息も絶え絶えに走り続ける。

 冷えた空気が肺に突き刺さり、何度も石畳の突起に躓きながら、それでも足を止めることはできない。

 罪から逃げるために。私の愚行が招いた、取り返しのつかない現実から逃れるために。

 

 どうにか寮に辿り着き、私室に滑り込む。荒い手つきで鍵をかけ、震える体で厚い布団を頭から被って蹲った。

 

 ごめんなさい。許してください。死にたい。何もかも消えてしまいたい。

 謝罪と呪詛の言葉ばかりが浮かんでは、黒く塗り潰されていく。

 

 脳裏にこびりついて離れないのは、無残に散らばった菓子の残骸。

 そして――恐怖に強張る、ミーティアの瞳。

 

「あ……ぅ、ああ……ッ」

 

 あの子を、大切な親友を「獲物」として認識し、食べてしまいたいと願った。

 その事実の穢らわしさに耐えきれず、私は喉を掻きむしった。

 私はもう、魔術師を目指す生徒ではない。ただの、品性下劣な大食漢の化け物だ。

 否定の言葉が呪文のように溢れ出し、真っ暗な布団の中で涙となって頬を伝う。

 

 しかし、そんな自己嫌悪さえ、「暴食」の魔力は無慈悲に踏みにじる。

 

「っ……あ……ぎ、ぃ……ッ!」

 

 内臓を雑巾のように絞り上げるような、空腹の激痛。

 それが、定期的に、波のように押し寄せる。

 ヒビが入りそうな程に歯を食いしばり、必死にケダモノの呻き声を押し殺す。

 

 部屋に残っていたわずかな保存食は、既に食い尽くした。

 食べるものがない。

 私は自分の両腕を抱きかかえ、血が滲むほど肌を噛んだ。ミーティアを求めた口を、疼く欲望を、痛みで上書きして誤魔化すために。

 

 それでも、飢えが頂点に達した瞬間。

 揺れる視界のまま、私は傍らにあった木の椅子に縋り付き、その脚に深く歯を立てた。

 硬い木の感触が歯茎を傷付け、ニスと木屑の不味い味が広がる。けれど、何かを口に入れて咀嚼していなければ、自分の手足を食い千切ってしまいそうだった。

 

 窓の外では夜が深まり、冷たい月光が床を這う。

 やがて、天使が降り立つような美しい朝日が差し込んだ。

 寮母が扉を叩き、心配そうに名前を呼ぶ声がしたが、応える喉はとうの昔に枯れ果てている。

 

 太陽は空を横切り、再び地平線の彼方へ沈んでいく。

 

 もう、この苦痛に耐えられない。逃げ出したい。

 ただそれだけの言葉を反芻するだけの肉塊に成り果てていた。

 あれだけしがみ付いていた「生」が地獄に変わり、「死」だけが唯一の救いへと上書きされていく。

 

 いっそ、このまま飢えて力尽きればいい。

 そうすれば、もう誰も傷つけずに済む。

 

 何度も意識を失い、時間の感覚すら溶け出し、ただ飢えの波に弄ばれるだけの存在になっていた、その時。

 

 カチャリ。

 

 静かな解錠の音が、死刑執行の合図のように室内に響いた。

 

……

 

――キミのために、時計の針を、少しだけ巻き戻そう。

 

……

 

 オレサマは、元・怠惰を司る大悪魔ベルフェゴール様改め、でびるん様である。

 なんとも締まらねえ名前だが、オレサマの大切な相棒である召喚士が付けてくれた名前だ。甘んじて受け入れよう。

 

 今のオレサマは、相棒の家の広いベッドで寝転がりながら、敗因と対策を分析しているところだ。

 何に負けたって? それは、オレサマがこよなく愛する地上の至宝、アブラカタブラーメンにだ。

 

 かつて大悪魔ベルフェゴールの座にあった頃は、膨大な魔力で成体を維持していた。その強靭な肉体にかかれば、悪魔の弱点とされるニンニクなど、イカしたスパイス程度の刺激でしかなかった。

 だが、今は訳あって魔力消費を抑えた「幼体」の姿だ。

 この軟弱なボディだと、ニンニクの成分が胃腸に直撃(ダイレクトアタック)し、確実に腹を壊す。

 

 この前、どうにかしてニンニクを克服できねえかと相棒に命令し、ニンニクの刺激を緩和する薬を調合してもらった。

 これで勝てる。そう確信して山盛りの一杯を盗み食いした結果――オレサマは一晩中、トイレの住人となる羽目になった。

 どうやらオレサマの胃腸は、相棒の想定を遥かに超えてデリケートだったらしい。

 効果はバツグンだ! じゃないんだよ。地獄を見たぜ。

 

 そんなわけで、今は相棒に特製の胃腸薬を処方され、さらなる改良薬の完成を待っているところだ。

 トイレ地獄は勘弁だが、あの魅惑的な味は諦められない。あれは、ブブとの思い出の味でもあるしな。

 

「召喚士サン!!」

 

 玄関の扉をぶち壊しかねない轟音と共に、悲痛な叫び声が飛び込んできた。

 ミーティアだ。いつもは礼儀正しくベルを鳴らす彼女が、いつになく取り乱してやがる。

 

「チュリンが、チュリンが大変なんデス!! 助けてくだサィ……」

 

 おいおい、今度は泣き出したぞ。一体何の騒ぎだ。

 

 オレサマが重い腰を上げて寝室を出ると、リビングでは相棒と居候天使のドエルが、ボロボロに泣き崩れるミーティアを慰めているところだった。

 

 鼻水を啜りながら語られた内容は、こうだ。

 彼女の親友であるチュリンとかいう生徒が、怪しげなチョークで誤って悪魔を召喚。あまつさえその血を飲んでしまい、異常な食欲の症状に苦しんでいる、と。

 

 はっ! どこの誰だか知らんが、召喚士の相棒に追いつこうなんて百万年早い。身の丈を超えた領域に手を出した代償だ、自業自得だろう。

 そう吐き捨ててやりたいが、ミーティアが必死に懇願している手前、流石に口には出せねぇ。

 

 ただ、その「症状」はちと気になる。

 底なしの食欲。それは紛れもなく「暴食」の権能そのものだ。

 

 まさか、ブブの仕業か?

 

 一瞬訝しんだが、あいつはそんな回りくどい真似はしない。昔と違って丸くなったし、誤って呼び出したとしても、謝れば許すくらいの度量は持っている。

 それに、補習常連の落ちこぼれごときが、遠い魔界にいる大悪魔のブブを喚び出せるとは思えない。

 まあ、ブブ本人じゃないなら興味は薄いな。

 

 話を聞き終えた相棒は、即座に作業机へ向かった。

 そして、オレサマの「ニンニク対策」のために研究していた調合データを元に、一つの薬瓶を完成させた。

 胃腸の過剰な働きを抑え、魔力による暴走を鎮静化する薬。

 ……おい、オレサマの治療薬を『ついで』に応用してんじゃねえよ。相変わらず規格外な奴だ。

 

 薬を受け取ったミーティアは、そのまま飛び出そうとした。

 「夜も遅いし、明日みんなで行こう」と相棒が止めたが、彼女は首を横に振った。

 

「チュリンを止められなかったのは、ミーの責任なんデス。だから、まずは明日ミーが一人で行って、薬を飲ませてから連れて来マス!」

 

 その瞳には、強い覚悟と、焦燥の色が混じっていた。

 まあ、全部一人で背負い込まない方がいいと思うがな。少し前のオレサマのように。

 

 相棒もそれを感じ取ったのだろう。

 彼はミーティアの肩に手を置き、彼女に対してあれ(・・)を繋げることにした。

 

 処置が終わった後、ミーティアは薬瓶を大事に抱え、夜の闇へと駆け出していった。

 その背中を見送りながら、オレサマは小さく欠伸をした。

 

 さて、吉報を待つとしようか。

 

***

 

 カチャリ。

 

 解錠の音が鼓膜を叩いた途端、私は咄嗟に椅子から口を引き剥がし、逃げるようにベッドへ這い込んだ。

 欲望の重圧に耐えかねてガチガチと鳴る顎を枕に沈め、布地を食い破らんばかりの力で噛み締める。

 

 しかし、その努力を嘲笑うように。

 世界で一番甘美な「獲物」の声が、室内に満ちた。

 

「……チュリン? そこにいマスか?」

 

 ミーティア。

 その名を認識した瞬間、空っぽの胃袋が歓喜に打ち震えた。

 

「寮母サンに聞いたんデス。昨日の夜から何も食べてないし、返事もないっテ。だから……ご飯、持ってきたんデスよ」

 

「来ないで……ッ! 出て行って……!」

 

 枕に顔を埋めたまま、掠れた獣のような声を絞り出す。

 カサリ。床に散らばったお菓子の包装紙を踏みつける音が近づいてくる。

 一歩近づくごとに、ミーティアが纏う柔らかく甘い魔力の芳香が部屋に充満し、喉の奥が焼けるように熱くなる。

 食べ物の匂いだ。最高級の、極上の、生き餌の匂いだ。

 

「……だめデス! チュリンを放っておけナイ! 昨日の夜、召喚士サンの家に行ってお薬もらってきたんデス。これなら一時的に食欲を抑えられマスよ。そしたら一緒に――」

 

「誰もそんなこと頼んでない!!」

 

 叫びとともに、泥に塗れた自己嫌悪が堰を切って溢れ出した。

 

「もう疲れたの! 私はおしまいなんだよ! 私は、ミーティアを……あなたを、最低な目で見ちゃった。化け物になった私は手遅れなの! お願いだから、ここで野垂れ死にさせてよ!」

 

「何も手遅れじゃない!!」

 

 ビリビリと鼓膜を震わせたのは、これまでに聞いたこともない、芯の通ったミーティアの怒鳴り声だった。

 

「まだチュリンは生きてるんデス。不治の病でもナイ! これからいくらでもやり直せるんデス!」

 

「違う、私は……」

 

「一人でやれなんて言いまセン。ミーが、ずっと一緒に苦しんで、悩んで、乗り越えマス! だから、もう死ぬなんて言わないデ!」

 

 一歩、また一歩。

 ミーティアの断固とした足音が、私の逃げ道を塞いでいく。

 近づくたびに、甘い匂いが濃くなる。理性が溶ける音がする。

 

「や……やめて! お願いだから来ないで!」

 

「いやデス!」

 

 至近距離から漂う、抗いがたい魔力の奔流。

 砂の城のように脆くなった理性の防波堤が、波にさらわれて崩れていく。

 

「ダメッ!」

 

 本能が爆発した。

 身体が意に反して布団を跳ね飛ばし、獲物へ向かって跳躍する。

 空中で辛うじて顎を固く閉じた結果、それは強烈な体当たりのような抱擁となった。勢いのまま二人で床に倒れ込む。

 私の指先は、ミーティアの二の腕に深く食い込み、獲物を逃がすまいと固定していた。

 

「っ……お願い、今すぐ離れて。突き飛ばして! もう、無理なの……!」

 

 拒絶する言葉とは裏腹に、腕はミーティアの細い身体を、軋むほど強く引き寄せる。

 目の前に、無防備な首筋がある。脈打つ血管がある。甘い香りの源泉がある。

 

「大丈夫デスよ」

 

 ミーティアは抵抗しなかった。

 震える私の背中に腕を回し、聖母のような慈愛を湛えて囁く。

 

「ミーは、チュリンのこと大好きデス。全部、受け止めマスから」

 

 ――全部、受け止める。

 

 その一言が、決定的なトリガーとなった。

 あの悪夢の記憶と現実が重なり、溶け合い、歪んでいく。

 

 ミーティアの献身が、暴食の脳によって、悍ましき至上の誘いへと誤変換されていく。

 

『ミーも、チュリンと一緒がいいデス』

 

『全部受け止めマス』

 

『私の全てを、食べていいんデスよ』

 

 ああ、そうか。

 

 ミーティアも、私と「一緒」になることを望んでたんだ。

 私の胃袋の中で、一つになることを。

 

 それなら、もう、いいよね。

 我慢しなくて、いいんだよね?

 

 頭の奥で、あの悪魔が高らかに嘲笑う声が聞こえた気がした。

 

……

 

「ありがとう。……私も、ミーティアが大好きだよ」

 

 箍は外れた。

 もはや、それを拒むべき罪だとは認識できない。

 

 私は縋り付くような抱擁のまま、ミーティアの柔らかな唇を、私自身の飢餓で塞いだ。

 

 魔法漬けだった私に、キスの経験などあるはずもない。

 しかし、血管を駆け巡る「暴食」の魔力が、獲物をいかにして味わい、己の領分に収めるべきか、その手順を本能に直接書き込んでいく。

 水を得た魚のように、私の舌は逃げ道を塞ぐべく、ミーティアの口内へと深く侵入した。戸惑いに震える熱い粘膜をなぞり、抵抗しようとする舌を執拗に絡め取っていく。

 

「ミャ、ん……っ、んぅ……!?」

 

 予期せぬ侵略に、ミーティアの身体が大きく跳ねた。

 慈愛に満ちていた瞳が驚愕に見開かれ、細い指先が私の肩を押し返そうと足掻く。

 ところが、悪魔の魔力に強化された私の腕は、万力のように獲物を固定して離さない。

 

「……ん、ぁ……っ。ちゅ、りん……だめ、むぅ……っ!」

 

 普段の快活な彼女からは想像もつかない、ひどく幼く、甘い喘ぎが漏れ出す。

 理解の範疇を超えた衝撃に、彼女の思考がショートしているのが分かる。私の舌が口内の隅々までを蹂躙し、唾液と魔力が混ざり合うたびに、彼女の背中がビクンと小さく跳ねる。

 

 抵抗していた手は、いつしか力なく私の胸元を握りしめていた。

 衝動のままに、さらに深く、丁寧に味わい尽くす。

 クチュ、ジュル……という生々しい水音と、ミーティアの苦しげな鼻音。

 親友としての境界線が、その湿った音とともにドロドロに溶け出していく。絡み合う舌の隙間から、彼女が育んできた清純な魔力が、雫となって私の喉へ流れ込んでくる。

 

「……っ、ぁ……」

 

 全身の細胞が、歓喜の悲鳴を上げた。

 甘い。あまりに甘く、芳醇。これまで味わったどのお菓子よりも、どの海産物よりも、魂を芯から震わせる絶頂感。

 それは食事であり、同時に魂を直接犯すような、背徳的な幸福感だった。

 

「……んちゅ、ミ……チュリ……ンぅ……ッ! や……ちゅ……んぅ……」

 

 深い接吻が繰り返され、ミーティアから抵抗の力が抜けていく。

 彼女の意識が、私の舌が刻み込む未知の快楽と酸欠によって白濁し、虚脱していく。

 

 その時、脳内に奇妙な「確信」が降りてきた。

 私もまた夢うつつになりながら、胃袋の奥底に潜む暴食の怪物が、虎視眈々と進めていた準備を完了させたことを悟ったのだ。

 

 ――今なら、喰らえる。

 ――ミーティアを、私のものにできる。

 

 頬を朱く染め、虚ろな目をして呼吸を乱すミーティアの相貌。それはもはや、最も美味に熟した果実でしかなかった。

 唾液に混ざる甘美な魔力を最後まで味わうために、絡めていた舌をゆっくりと引き抜き、糸を引く唇を離す。

 そして、焦点の定まらない瞳で私を見つめるミーティアの顔を、その頭部全体を、舐め回すように捉えた。

 

 口を開ける。

 目一杯、大きく。

 人間の骨格なら限界に達するはずの位置を過ぎても、まだ開く。

 

 ガゴッ。

 

 乾いた音がして、顎が外れた。

 痛みはない。限界などない。もっと、いくらでも開けられる。

 私の顎は人ならざる角度で割れ、捕食者としての悍ましい正体を剥き出しにする。

 あの日、暴食の悪魔が見せた「理不尽な摂食」の光景が、今、私の身体で再現される。

 

 私は、微睡む獲物の意識を刈り取るように、その頭部めがけて一息でむしゃぶりついた。

 可愛らしい美貌は視界から消え、熱く粘つく私の口内へと収まった。

 

「……ッ、!? むぐぅ、んんんっ!?」

 

 突如として視界を奪われ、暗闇と湿気に閉ざされた獲物が、夢から覚めたように激しく暴れ始める。

 親友としての情愛は死の恐怖に塗り潰され、その短い腕が私の肩や喉を執拗に叩く。

 なりふり構わぬ抵抗に一瞬手放しかけるが、血管を巡る悪魔の血がそれを許さない。

 全身の骨格、内臓、筋肉が、瞬時に作り替えられていく。

 魔獣一人の質量を、ありのままの形で、自らの肉の檻へと引き摺り込むための「器」へと。

 

「んむぅ! むうあ゛あぁ!!」

 

 獲物はまだ呑まれていない腕を振り回し、自身の頭がすっぽりと収まった私の顔めがけて拳を叩きつける。

 けれど、所詮は子供の力。大事な獲物を手放す理由にはならない。

 私は出鱈目に暴れる獲物の身体を抱き上げた。その体重は、朝食の載ったトレイよりも軽く感じた。

 こんなことなら、もっと早くこうすれば良かったのだ。

 重力に身を任せるよう垂直の体勢にして、自身の喉の奥へと沈め始める。

 

 ゴボリ、と重苦しい嚥下音が鳴る。

 翠色の喉が、獲物の頭部の形に合わせて異様に膨れ上がる。

 皮一枚を隔てた内側で、獲物が必死に顎を開こうとし、壁を叩くたびに、喉から胸にかけてのラインが鋭い突起となって突き出される。

 胸部は内側から強引に押し広げられ、獲物の肩幅が通過する際には、ミチミチと骨の軋むような振動が全身を震わせた。

 

 半身が体内に呑み込まれた今、もはや優勢は決定的だ。

 外気に晒された獲物の脚は、ただ生を求めて四方八方に空を蹴る。その度に私の身体がぐらぐらと揺れるが、倒れはしない。

 沈み込む脚は徐々に可動域を狭めていき、最後の一蹴りを残して、獲物の足先がズルリと唇の端から消えた。

 

 ドスン。

 

 胃袋へとずっしりと落ちていく、親友だったはずの重み。

 私の貧相な身体は、その腹部だけが異形なほどに大きく、丸く突き出していた。

 

 完全に、一人分。

 その輪郭を確かに内包したという全能感が、脳髄を強烈に痺れさせる。

 

「は……っ、んうぅぅ……ッ!!」

 

 塞がれていた喉が解放され、私は完遂を宣言するように大きく息を吐き出した。

 

「んぐぅ、むうぁああああッ!! いあ゛あ゛あぁああッ!!」

 

 しかし、沈んだ獲物はまだ死んではいない。

 暗黒の胃壁に閉じ込められた活きの良い「それ」は、なおも諦めずに内部から激しい抵抗を繰り出す。

 かつて平坦だった腹部は、内側からの拳や膝の打撃を受けるたび、生き物のように歪な形に波打ち、激しく変形する。

 せり上がってくる胃液と吐き気に顔をしかめるが、我慢できない程ではない。むしろ、心地よい。

 

 ああ、ここにミーティア(獲物)がいる。

 

 私の中で、ミーティアが必死に泣きわめきながら、暴れている。

 

「むヴッ!! はぶっ、だすけ……たすけてぇ!! ヂュリ……むぐあ゛あ゛あああ!!」

 

 内臓を直接愛撫されるような、悍ましくも甘美な刺激。

 腹の内から抵抗が激しくなる程、獲物の命の拍動が自身の肉体と混じり合う快楽へと変質していく。わずかに残された理性は、背中より沸き立つ愉悦の興奮に溶けて消え去ろうとしていた。

 

 波打つ腹部にそっと手を添える。

 皮一枚隔てたすぐそこに、親友であった獲物の確かな体温、鼓動、そして必死に生を求める蠢きがある。

 

 私が求めていたものはこれだったのだ。

 全てが噛み合う全能感に、涙が出そうになる。

 

 胃袋という名の暗黒の檻に、あの眩しい光を閉じ込めた。

 もう召喚士君のもとへ行くことも、私を置いて羽ばたくこともさせない。

 永遠に私のもの。どれほど暴れても、もう私の肉壁の外へは出られない。

 もがくたびに獲物の魔力が胃壁から吸い上げられ、私の一部となっていく。

 その幸福感は、かつて感じていた劣等感を跡形もなく焼き尽くした。

 

 その時。

 

 ふと、腹の表面に「灯り」が点り、忙しなく動いている様子に気付いた。

 その形には見覚えがある。星型の灯り。ミーティアが唯一得意としている、星の魔法。

 

「が、はっ……あ、げほっ……!?」

 

 突如、猛烈な吐き気に襲われて蹲る。

 獲物は殆ど光の届かない肉の牢獄を照らし出し、自分が滑り落ちてきた食道の入り口を見つけると、死に物狂いでその狭い管に腕を突き立ててきたのだ。

 胃袋を逆流してくる獲物の圧力に、喉が限界を超えて膨張する。

 内側から食道を無理やりこじ開けて競り上がってくる頭部。肺を圧迫される不快感と、喉を裂かれるような激痛に、視界がチカチカと明滅する。

 

 意識が遠のきかける中、ふと備え付けのドレッサーの鏡が目に入った。

 

 ――そこに映っていたのは、もはや私ではなかった。

 

 人ならざる角度で大口を開け、その中から粘液と唾液に塗れたミーティアの顔が這い出し、醜く喉を膨らませている異形の怪物。

 ミーティアの顔は唾液まみれで、瞳は恐怖に揺れていた。酸欠に喘ぎながら、パクパクと唇を震わせている。

 命乞いか、あるいは私を正気に戻そうとする呼びかけか。

 

 どちらであったとしても、今の私の耳には届かない。

 

 ――私が行っているのは「食事」だ。「会話」ではない。

 皿から逃げ出す獲物の悪あがきに付き合っている余裕などないのだ。

 至高の幸福を邪魔されれば、次に待つのは報復のみ。

 

 獲物が何かを言いかけるよりも早く、私はわざと力任せに、その大口を閉じた。

 

「んむヴヴぅっ!!」

 

 ガプンッ!

 

 溢れ出す唾液の奔流が、再び獲物の視界と声を奪う。

 喉の筋肉を波打たせ、抗う獲物の頭部を、強引に、無慈悲に、喉の奥へと押し戻す。

 ドプン、と重苦しい嚥下音が室内に響き、せり出した喉の膨らみが、再び胸から腹へと滑り落ちていく。

 

 言葉を拒絶し、ただ命をいただく。

 その決別とともに、二度目の沈没を完遂させた。

 

 だが、二度目の抵抗はもう許さない。

 再び叫び声を上げて縦へ横へと揺れ動く腹を、私は両腕で愛おしそうに、そして潰さんばかりにきつく抱きしめた。

 

「うぐッ! むあ゛あ゛!! やぶええ!! お゛、ご……ッ」

 

 私はベッドの上に倒れ込み、内側から突き上げる獲物を封じ込めるように、うつ伏せになってのしかかった。

 膨らんだ腹がベッドのマットに押し付けられ、逃げ場を失った獲物が苦悶し、身悶える様子が肌を通じて直接伝わってくる。

 その度に聞こえるくぐもった悲鳴に、私は昂ぶり、恍惚の吐息を漏らし続けた。

 

……

 

 何度も、何度もベッドに身体を押し付けるうちに、徐々に獲物の動きが鈍くなってきた。

 あれほど激しかった抵抗は、弱々しい痙攣へと変わり、表面に浮き上がる突起も手応えを失いつつある。

 酸素が尽きたのか、それとも諦めたのか。

 

 ふと、薄暗い部屋の中で、腹の表面に淡い灯りが点っていることに気付いた。

 それは、私の膨らんだ皮膚や肉を透過し、ゆっくりと浮かび上がっていく。

 

 星型の光。

 

 幾つもの小さな星が、私の腹から湧き出し、天井に向かって昇っていく。そして天井に触れるたび、儚く明滅しては、溶けるように消えていく。

 

 あたかもそれは、私の胃の中で消えゆく獲物の命が放つ、最期の輝きのようだった。

 

 ああ、もう終わりか。

 

 少しだけ物寂しさを感じる。長く楽しませてもらったのだから、せめて最期は見届けてあげよう。

 

 

 

 

 ところで。

 

 ――この獲物は、何て名前だったっけ?

 

 まあ、いいか。

 

 随分と美味しく味わえたし、極上の満腹感をくれたのだ。今更、些細なことを気にする必要はないだろう。

 

 

 

 

 最期に放たれた星の光は一際強く輝き、そして静かに天井の闇へ吸い込まれて消えた。

 

 そういえば。

 

 あの光を、一緒に見に行こうと言われた気がする。

 誰に言われたのか。どんな約束だったのか。

 それらは全て、脳を溶かすような幸福な満腹感にかき消され、もう思い出せない。

 

「げぷっ」

 

 意図せず、大きなげっぷが漏れた。

 口の中に、甘酸っぱいイチゴジャムのような、あるいは鉄のような、濃厚な後味が広がる。

 

 ごちそうさまでした。

 私が、幸福な溜息をつこうとした、その直後。

 

 真下の床から、禍々しい紫色の光を放つ魔法陣が、音もなく展開された。

 

「……え?」

 

 思考する間もなかった。

 異変に気づいた時には、もう手遅れだった。

 私は異様に膨らんだ腹を抱えたまま、収穫したばかりの獲物もろとも、底のない深淵へと吸い込まれていった。

 

 意識が暗転する直前、最後に聞こえたのは。

 お腹の中で小さく鳴った、何かが崩れ落ちるような音だけだった。

 

 続く

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