おトモダチの味 ―― 暴食の少女と星天の約束   作:丸呑みトカゲ

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ミーティアのSOSを受け取ったでびるん達は、緊急で行った召喚の結果現れた惨状に戦慄する。
召喚士の機転により理性を取り戻したチュリンは、自身の罪を自覚し追い込まれていく。
事情を知ったでびるん達はチュリンに手を差し伸べるが、そこに魔の手が迫っていた。

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本編は下記要素が含まれます。
・ 「でびるコネクショん」エピローグ後の時系列に相当する物語(ネタバレあり)
・ 「魔けモン!」の設定を引用している部分あり
・ オリジナルキャラクターの登場あり
・ エロ要素を含まない丸呑み表現あり(R-15)
・ 一部血生臭い描写あり
・ 本作品はPixivにも投稿しております


使い魔は救済の味

 改めて名乗っておこう。オレサマは、元・怠惰を司る大悪魔ベルフェゴール様改め、でびるん様である。

 ……いや、この名前、響きが愛くるしすぎて、オレサマの持つ深淵なる威厳が微塵も感じられねぇのが玉に瑕だ。

 まぁ、相棒が愛着を持って呼んでくれるから嫌いじゃねぇんだが、外向けに適当な二つ名でも付けてもらおうか。最近ちょっと真剣に悩んでるところだ。

 

 さて、相棒が調合した特製の薬によって復活したオレサマは、今、猛烈に燃えている。

 何にかって? 決まっている。地上の至宝・アブラカタブラーメンへのリベンジだ!

 

 丁度今夜、相棒が開発していたニンニク対策の薬が完成するらしい。それが手に入ればこっちのモンだ。

 寝る前にオレサマ、相棒、居候天使ドエルの三人でこっそり夜食という名の聖戦に繰り出し、あの禁断の味を完全攻略してやる。そう企んでるわけよ。

 

 楽しみすぎて、つい初めてあれを啜った時のことを思い出してしまう。

 これでもかと言わんばかりにぶち込まれた背徳の脂、五臓六腑を刺激する香辛料、そして脳を揺さぶるニンニクの暴力。あの一杯には、この世の悦楽が凝縮されていた。

 我を忘れてがっついた挙句、隣で食べてたブブの分まで「一口よこせ!」と強請っちまったんだが、あやつは笑って分けてくれたっけな。

 

 あの至高の体験を、相棒やドエルとも共有したい。それがオレサマの密かな願いだった。

 薬さえ効いてりゃ、普通盛りくらいペロリだろうよ。そしたら、相棒の分をちょっと……いや、半分くらい強請っちまおうかな。あのお人好しの相棒なら、きっと「しょうがないなぁ」なんて言って、どんぶりを差し出してくれるはずだ。

 ……へへ、想像しただけで涎が出てくるぜ。

 

 おっと、そういえば今はミーティアが例のチュリンとかいうオトモダチの寮に向かってる頃か。あやつ、今頃首尾よく連れ出せてるんだろうな?

 

 昨日の夜中にわざわざ訪れたミーティアに、相棒は薬を渡すだけじゃなく、念には念を入れた保険を施していた。

 

 それがコネクト・リンクだ。

 

 本来は精霊を始めとした魔神と術者の間で結ばれるものだ。本契約による魔術的な繋がりが設けられると、魔力や能力を分かち合える。居場所の把握や簡単な意思疎通……いわば感覚的なホットラインが開通する。

 

 ただ、魔獣同士、しかも契約関係にない者同士でリンクを繋ぐなんて話、魔界広しと言えども聞いたことがねぇ。そもそも魔力が不安定な魔獣には不可能だっていうのが定説だったはずだが……。

 まぁ、相棒の手にかかればそんな理屈は関係ないらしい。あやつ、大天使ミカエルから授かったとかいう例のヤバい指輪の力を活用して、特段問題もなく繋げちまいやがった。

 ……もう全部あやつ一人でいいんじゃねぇかな。

 

「で、でびくん! 大変ですぅ! ミーティアさんからSOSの信号が上がりました!」

 

 平和な空気をぶち壊して、ドエルが部屋に飛び込んできた。

 

「はぁ? SOS? 何でだ?」

 

 確かにミーティアには、いざという時の狼煙代わりに、光魔法を応用した救難信号を、以前相棒が仕込んでいた。障害物をすり抜けて遠くまで届き、夜空で花火のように弾ける、目立ちたがりのあやつにピッタリの合図だ。

 だが、いくらなんでもオトモダチを迎えに行くだけの用事で、そんな大袈裟なモンを出す必要があるのか?

 

「とにかく! 召喚士さんも呼びましたから、今すぐミーティアさんに強制召喚を使いますよ! でびくんも手伝ってください!」

 

 ドエルに急かされ、あれよあれよという間に床に刻まれた魔法陣の前に集まる。既に相棒は配置についていた。

 ……おい、相棒。なんだその顔は。

 

 いつもは眠たげで余裕綽々なあやつの表情が、今は見たこともないほど強張っている。顔からは血の気が失せ、脂汗すら滲んでいるように見えた。

 リンクを通して、ミーティアに起こっている異変を直接感じ取っているのか?

 

 背筋に嫌な汗が流れるのを感じながら、オレサマは相棒の詠唱を傍らで見守るしかなかった。

 

 詠唱の進行に合わせて、魔法陣に濁流のような魔力が流れ込み、呼応するように紫光が溢れ出す。

 垂直に立ち昇った光のヴェールは天井にまで達し、半透明の壁を境に大気が歪み、空間そのものが捻じれていく。

 魔法陣が要求する貪欲なまでの魔力消費に対し、相棒は眉一つ動かさずに応え続け――ここに、召喚魔法が完成した。

 

 白い閃光が爆ぜ、部屋に爆煙が立ち込める。

 徐々に煙が晴れていき、その中心に対象が姿を現した。

 

 そこでオレサマ達が目の当たりにしたのは、到底理解し難い、悍ましい惨状だった。

 

***

 

 煙が晴れた先に佇んでいたのは、ミーティアではない。

 まさしく「化け物」と呼ぶべき代物だった。

 

 羽織っているのはソルシエール魔法学校のローブだ。翠色と白に色分けされた滑らかな肌、頭部や耳、尻尾に備わった艶やかなヒレ。その特徴から、海を生活圏とするイルカ族の魔獣と見て間違いない。

 相棒と比べても小柄で幼さを残す顔立ち。年端もいかない女子生徒のはずだ。

 

 だが、その外見以外の全てが、オレサマが知る「生徒」のイメージとはかけ離れていた。

 

 両腕には噛み付かれ、肉を抉らんばかりの無数の歯形と、滲んでいる血が見える。

 血走った瞳は法悦に濁り、口元はだらしなく歪んで銀色の糸を引いている。理性を持った魔獣とは思えない程に荒い、フシュー、フシューという獣の息づかい。額には血管が浮き出ており、極度の興奮状態にあることが伝わってくる。

 まるでつい先程まで、獰猛な肉食獣と争った後のようだ。いや、もはやこやつ自身が肉食獣そのものだ。

 

 そしてオレサマの視線は、こやつの体格にはおよそ不釣り合いな、異様に膨れ上がった腹に釘付けになった。

 

 それは妊婦の膨らみとは違う。

 自身と同格の質量を持つ「何か」を、強引に、力任せに詰め込んだが故の、今にも破裂しそうな歪な膨張だ。

 皮一枚隔てた内側では、まだ何かが生きているらしい。外の自由を求めて微かに、だが吐き気を催すように蠢く輪郭が見えた。

 ふとオレサマの脳裏に、信じたくない最悪の想像が過る。

 

「お、おみゃー……その腹は、何なんだ?」

 

 オレサマの声に反応したかのように、腹の中の何かの蠢きが強まり、その肉の牢獄を透過する形で一つの光が浮かび上がった。

 その光は星型。オレサマ達が見慣れている、ミーティアの魔法だ。

 

「……ッ、ミーティアに何しやがったおみゃぁぁぁ!!」

 

「――|混じり合う理を分かつべし、境界を定める魔の楔よ!!《スピリトゥ・ディスシャーニド・バリシア》」

 

 オレサマの怒鳴り声とほぼ同時だった。

 隣に立つ相棒の口から、大気を裂くような鋭い詠唱が放たれた。

 

 床の魔方陣が呼応し、禍々しい紫光と、鋭利な白銀の光が交わり爆発する。

 

 召喚魔法とは別の概念を掛け合わせた二色の稲妻が魔方陣を駆け回り、早送りの映像を見ているかのような、異常な速度で編み上げられていく。

 

 視界が強烈な閃光に塗り潰された。

 網膜が焼けるような光の中、ズルり、という、密着した生肉を無理やり引き剥がすような生々しい音が響く。

 

 光が引いた次の瞬間。

 相棒の腕には、ぐったりとしたネコネコ族の少女が抱きかかえられていた。

 

「……ぁ……、ぅ……」

 

 ミーティアだ。

 

 相棒の腕の中で、彼女はかろうじて生を繋いでいた。

 全身から湯気を立て、彼女を包んでいたドロドロとした粘液が床に滴り落ちる。胃液と魔力が混ざった、強烈な酸臭が鼻を突く。

 その身体はぴくぴくと痙攣し、虚ろな瞳は焦点が定まらないまま、ただ弱々しく外の空気を求めて喘いでいた。

 

 オレサマの予感は的中してしまった。

 あの生徒の皮を被った化け物は、ミーティアを呑み込んで腹の内に閉じ込めていたのだ。

 

「ミーティアさん、しっかりしてください! ワタクシ達のことが分かりますか?」

 

 ドエルが駆け寄り、治癒魔法をかけ始める。

 酷く衰弱しているが、相棒とドエルが傍にいれば、最悪の事態は免れるだろう。

 

 であれば、オレサマが相手をすべきは、この惨状を引き起こした実行犯だ。

 魔方陣の上に佇む化け物に向き直る。

 だがそこで目にした光景に、オレサマは思わず虚を突かれた。

 

 さっきまで自分と同格の獲物を腹に収め、捕食の愉悦に酔いしれていたケダモノの相貌は、そこにはなかった。

 魔獣一人を吐き出した直後のその腹は、皮膚が引き伸ばされた後遺症か、無様に波打ちながらも元の痩せた体躯へと萎んでいた。

 肌に浮き出ていた血管の怒張も消え、そこにはただ、潮溜まりに放り出された魚のように力なく震える一人のイルカの少女が立っていた。

 

 何より目立つのは、その瞳だ。

 真っ赤に血走り、周囲の一切を獲物としか見ていなかった狂気の淵に、はっきりと知性の色が戻っていた。

 少女は、相棒の腕で体液に塗れ、虫の息となっているミーティアの姿を凝視している。その顔は、己がしでかした凄惨な結末を今初めて突きつけられたかのように、急速に青褪めていった。

 

「……ぁ……ミー、ティア……?」

 

 掠れた、震える声。

 それは紛れもなく、親友を案じる子供の響きだった。

 ふらふらとおぼつかない足取りで、ミーティアの方へ手を伸ばそうとする。その指先は自身の唾液と、奪い取ろうとした親友の魔力の残滓でベタベタに汚れていた。

 

「嘘……そんな、私……どうして……っ」

 

 予想だにしないその態度に、オレサマの中の困惑が膨れ上がる。

 

 心からの反省か? それとも、くだらない三文芝居か?

 

 いずれにせよ、ミーティアをあんな無惨な目に合わせた事実に変わりはない。

 オレサマは少女の言葉を遮るように、一際低く、刺すような声を叩きつけた。

 

「……白々しい真似はやめろ、この化け物め」

 

 少女の肩がビクリと跳ねた。

 

「おみゃーがやったんだ! その口で、ミーティアを丸呑みにしたんだ。何があったか知らねぇけど、これが現実だ!」

 

 オレサマの罵声は、こやつの心にトドメを刺すには十分すぎたようだ。

 自分の汚れた両手を見つめ、次いで、意識のないミーティアの無防備な身体に視線を戻す。

 激しい自己嫌悪と罪悪感が渦巻き、自分自身に突き刺さっていく様子が見て取れる。

 

 謝罪の言葉さえ出てこないほどの絶望。

 自分が一魔獣としての境界線を踏み越え、親友を獲物として扱ってしまったという、取り返しのつかない事実が、少女の精神を内側から食い破ったのだ。

 

「あああああぁぁぁッ!!」

 

 少女は突然、耳を塞ぎたくなるような絶叫を上げると、弾かれたように身を翻した。

 オレサマも、相棒も、そして何より愛し、喰らおうとしたミーティアの姿からも逃げ出すように。

 彼女は脇目も振らずに部屋を飛び出し、廊下を駆け抜け、開け放たれたままの玄関から夜の闇へと消えていった。

 

「あれ、どうすんだ? 放っておくか?」

 

「……ダメです! あの子は追いかけないといけません!」

 

 沈黙を突き破るようにドエルが叫び、一目散に外へ飛び出していく。

 ドエルなりに少女に対して思うところがあるのかもしれねぇが、何時化け物に戻るか分からない相手に一人は危険過ぎる。

 

「だーくそっ、一人で突っ走るなって! 相棒、ミーティアのことは任せるぞ!」

 

 頼りになる相棒にミーティアを託し、オレサマはドエルを追って夜の闇に飛び出した。

 

***

 

 真夜中の静寂に包まれ、死んだように眠る街道を、ただ亡霊のように彷徨い歩く。

 

 どこへ行く当てもなかった。

 寮に戻れば、そこには昨日まで確かに存在していた日常の残骸が転がっている。必死に魔法書を読み耽った努力の跡も、ミーティアと笑い合いながらお茶を飲んだ安らかな時間も、全て私の手で壊してしまった。今の私には、あの場所は己の愚行の結果を確認する残酷な檻でしかない。

 

 そして、事態は何も解決していない。

 いくら周りが手を差し伸べても、また理性を失えば私は化け物となり、何もかも喰らい尽くす。誰かを悲しませることも、恨みを買うこともあるだろう。

 

 終わらせるべきなのかもしれない。もう、ここで。

 

 小さな橋の袂に差し掛かったところで、三日月を冷たく反射する水面を見下ろす。

 覗き込むほどに吸い込まれそうなその暗い深淵は、今の私を優しく受け入れてくれる唯一の救いに思える。一歩、欄干へ身を乗り出せば、この悍ましい飢餓からも、汚泥のような罪悪感からも解放される。

 

 しかし、私の心に打ち込まれた楔が、踏み込もうとする足を繋ぎ止める。

 故郷でのあの出来事以降、私は決めたはずだ。立派な魔術師になれば、村の皆を救わなければいけないのだ。

 それが私に残された、最期に私自身を構成する屋台骨だ。

 暴食の悪魔の口の中から、死に物狂いで掴み取ったこの命を、こんな場所で投げ出すことなど許されるはずがなかった。

 

 生きたいわけではない。しかし、死ぬことも許されない。私はどこに向かえばいい?

 行き止まりの夜闇の中で、重い足を踏み出せずに立ち尽くす。

 

 恐れおののく私を動かしたのは、またも忌々しい本能の呼び声であった。

 ――ぐぅ、と。静寂を切り裂くような醜悪な音が、腹の底から鳴り響く。

 

 まだ、かろうじて理性はある。ミーティアの魔力を啜っていたおかげで、完全な暴走には至っていない。

 しかし、確信がある。最高の獲物を途中で奪われた反動は、すぐそこまで来ている。胃袋が内側から自らを食い破ろうとするような、焼き付くような飢餓。それが脳を侵食すれば、今度こそ私の理性は消し炭になるだろう。

 

 やるしかない。どれだけ軽蔑されたとしても、今はこれしかない。

 

 周囲を見渡し、閉まった食品店に狙いを定める。

 落ちていた石を掴み、扉の南京錠へ何度も叩きつける。しかし金属音が響くだけで、頑丈な錠前は嘲笑うように動かない。

 

 苛立ちのあまり、思わず手を翳す。

 

 「ささやかな炎よ、ゆらぎ舞え!(フラクタ・フラーリ)

 

 小さな火球を出して少しずつ鍵を炙るはずが、光線状に収束された極太の噴射となった。一瞬で南京錠を蒸発させ、扉ごと貫通する。

 想定を超える出力に戦慄するも、鍵が開いたので店の中に滑り込み、暗い店内に並ぶ食材へとケダモノのように飛びつく。

 

 パン、果物、乾肉。もはや味など分からない。ただ胃の奥で燃え盛る業火を鎮めるために、なりふり構わず口に詰め込み続けるしかない。

 

「わぅっ!そ、そこに誰かいるのですか……!」

 

 背後から差した光に振り返る。杖先の灯りで周囲を捜索する女性の姿が見える。

 

「で、出てきなさい! こちらは魔法警察です! 不法侵入なのは、もう分かっているのですよっ!」

 

 最悪の事態だ。

 弾かれたように裏口から店を飛び出す。食欲こそ一時的に鎮まったものの、今度は恐怖が心臓を叩く。背後から聞こえる、訓練された規則正しい足音。魔法警察の俊足から逃げ切ることなど、脚に自信がない私では難しい。

 

「止まりなさーい!」

 

 路地を曲がるたびに足音が近づく。万事休す。そう確信した時、闇の中から二つの影が躍り出た。

 

「おいのろま、こっちだ!」

 

「ようやく見つけました! 急いでくださいっ!」

 

 闇の中から、見覚えのある二つの影が躍り出た。召喚士君の使い魔である悪魔と天使の二人組だ。

 状況が理解できない私に導きの手を差し伸べるように、複雑に入り組んだ建物の隙間へと誘い込まれる。

 

「あやつの脚と鼻は厄介だ。オレサマたちの後ろを死ぬ気で走れ!」

 

 悪魔がどこからともなく取り出した大きな器ーー中にはもやしとニンニクが山盛りで詰まっていた。それを地面目がけて盛大にぶちまける。一方で天使は淡い光の粒子を撒く。すると、背後から警官の戸惑いを帯びた声が聞こえてくる。

 

「あれ、急に姿が……う゛っ、何ですこの匂い! ニンニク…!? 鼻が、鼻が曲がりますぅ!」

 

 警官の悶絶する声が徐々に遠ざかっていく。

 二人の鮮やかな妨害工作のおかげで、私はようやく窮地を脱した。駆け抜けた裏通りの先に、冷たい夜風が火照った身体を撫でていった。

 

……

 

「大丈夫ですかぁ? ここまで来られたなら、もう追っ手はいないでしょう」

 

 路地裏まで辿り着き、全力疾走の余韻で肩を揺らしている少女に、ドエルがふわふわとした調子で寄り添う。

 その背後で、オレサマは逃走の手助けをしてやった恩を、これ見よがしにふっかけてやることにした。

 

「おみゃー。オレサマがだーいじにとっておいたアブラカタブラーメンを犠牲にしてまで助けてやったんだから、感謝しろよな」

 

「ご、ごめんなさい。……助けてくれて、ありがとう」

 

「いえいえ、お気になさらず。迷える人々を導くのは天使の役目ですからねぇ」

 

 ドエルは相変わらず寝てるんだか起きてるんだか分からん細い目を緩ませて、少女を安心させるよう努めているようだ。

 まあ、こやつの見た目は無害そうだからな。警戒心を解くには丁度いい。

 

「それよりも、チュリンさんですよね? ワタクシはあなたのことが気になって、夜も眠れないのですぅ」

 

「……私の名前を知ってるの?」

 

「はい、昨日ミーティアさんが教えてくれましたぁ。大切なおトモダチのチュリンさんが大変だって、知らせてくれたんですぅ」

 

 あの日のミーティアの慌てようったらなかった。

 いつもはお天道様みたいに能天気な明るさのあやつが、必死に瞳を潤ませて懇願するところを見るに、相当大切なオトモダチなんだろう。

 だからこそ、そんな奴を欲望に任せて呑み込むこやつの異常さが際立つ。

 

 だが、これがもし、ブブの暴食の魔力にあてられた結果だとしたら、話は別だ。

 

 七大悪魔の魔力は言うまでもなく劇薬だ。あんなものが一般人の体内に混ざってしまえば、程なく発狂して、魔獣でも悪魔でもない中途半端な化け物に成り下がる。

 さっき召喚された時のこやつの様相は、まさにその一歩手前だった。

 

 だが、あのブブが本当にそんな下種なことをやらかしたのか?  他に心当たりがある悪魔もいねぇが、正直なところオレサマには信じられん。

 

 ――邪眼発動(じゃがんサーチ)

 

 オレサマは思考の波を介して、少女の記憶の澱を覗き込んだ。

 

 夕日が沈む頃、意を決したミーティアが部屋に入ってくるのが見える。

 相棒から受け取った沈静化の薬を渡そうとする彼女に対し、既に理性の限界を超えていた少女は耐えられない。ついには暴食の魔力に思考を乗っ取られ、親友を極上の獲物として認識し、喰らいついた。

 ……やはり、こやつが自分の意思で魔力を暴走させたわけじゃなさそうだ。

 

 さらに記憶を遡る。

 少女が例の妙なチョークでブブを呼び出した場面だ。

 ……不運が重なったのは見て取れる。

 数日前、相棒がオレサマの恐ろしさを知らしめる活動の一環で七大悪魔の魔力を分散させたせいで、ブブは魔力不足に陥っていた。おまけに、あやつが魔界からこっそり地上に降りていた最悪のタイミングだ。

 

 さらには、ニンニクマシマシラーメンを啜っている最中に呼び出されたんだ。あやつの機嫌を損ねる条件は、これ以上ないほど揃っていた。

 

 だが、それにしてもだ。

 こんなに怒っているブブは、一度も見たことがねぇ。

 

 少女の態度が失礼だったなんてのは些細なことだ。オレサマだってブブに無礼を働いたことは一度や二度じゃねぇが、その度にブブは優しく叱ってくれた。あやつは誰に対しても公平で、種族間の友好を何より重んじる平和主義者だったはずだ。  そんなブブが、たかが無視された程度でこんな厄介な呪いを放っておくとは、到底思えん。

 

 じゃあ、何が原因だ?

 何か見落としている絡繰りがあるのか?

 

 ……ん。

 記憶の隅に映り込んでいる、床の魔方陣。

 円の内側に刻まれた術式に、嫌な違和感がある。普段見慣れている相棒の魔法陣とは、根本的な理屈が違っているような。

 

 だーくそっ!  こんな時、相棒がいれば一秒で解読できるんだがな。魔方陣に疎いオレサマの偉大な脳みそが恨めしいぜ。

 

「ミーティア、ごめんなさい……もう、なんて謝ればいいか……私なんて、いなくなった方がいいよ……」

 

 邪眼を閉じると、少女が地面に膝をついてさめざめと泣き崩れていた。

 今までの騒動が暴食の魔力のせいなら、被害者面して文句の一つでも言えばいいものを、どうやらこやつは無駄に真面目な性格らしい。

 

「待ってください! あなたが纏う魔力、何か普通でないものを感じるんですぅ! きっと先程の出来事は、あなた自身の意志によるものではない……そうですよねぇ?」

 

 ドエルもどうやら、少女に漂う異質さに気付いていたらしい。

 少女は震える声で、ぽつりぽつりとここ数日間の地獄について、吐露し始めた。

 

「……はい、そうなんです。急に食欲が抑えられなくなって、食べても、食べても治まらなくて……。気づいたら周りのものまで食べちゃってて……ミーティアも、美味しそうに見えてどうしようもなくて……っ」

 

「だろうな。邪眼でおみゃーの過去を見たが、それはブブの『暴食の魔力』のせいだ。おみゃーのようなひよっこの見習いじゃ、到底抗えるもんじゃねぇよ」

 

「や、やっぱりそうなんですか!? 本で読んだ特徴に似ていて、もしかしてって……」

 

 ほう、自力で辿り着いていたのか。こやつ、頭だけは悪くないらしい。

 

「だがな、おみゃーが召喚したブブはオレサマの大切な仲間だ。あやつがこんな真似をするとは思えねぇ。だから、おみゃーが使った妙なチョークと魔方陣、それをオレサマの相棒と一緒に見せてもらうぞ」

 

 まだ証拠となるものは、こやつの部屋に残っているはずだ。

 相棒がそれらを見れば、どんな絡繰りがあるかすぐに判明するだろう。

 

 力無く頷く少女に対し、オレサマは悪魔らしい打算をもって問いかける。

 

「で、おみゃー。これからオレサマ達がその食欲を何とかしてやったとして、その後はどうするんだァ?」

 

 少し緩んでいた少女の表情が、再び強張る。

 

「でびくん、その話はまだ……」

 

「黙ってろドエル。小手先の解決だけしたところで、どうせこやつはまたオレサマ達に泣きつくのが目に見えてるからな」

 

 口を挟もうとするドエルを遮って、続ける。

 

「いいか、おみゃー。過去のやらかしはバッチリ邪眼で見たぞ。寮の連中には不審な動きを見られてるし、洋菓子店ではお菓子を片っ端から食い散らかしたそうじゃねぇか。そんな有様じゃ、いずれバレて退学は免れねぇだろうな」

 

 冷酷な現実を突きつけられ、少女の肩が小さく震える。

 

「退学になった後、どうするんだ? 魔術師になりたくてこの学校に来たんだろ? さっきも言った通り、タダで他人のオレサマたちを頼り続けるのはナシだからなァ」

 

「それは……ええと……」

 

 言い淀む少女を眺める。

 正直、こやつの身に起きたことは同情に値するほど運が悪かった。学校を追われるなら、故郷に帰るのも一つの手だ。

 だが、それでもここに留まりたいなら、一つだけ面白い手がある。

 

「そこでオレサマの腹案だ。おみゃー……オレサマの部下と契約を結べ! そうすれば主のオレサマを通じて、相棒から魔法の薫陶を齎してやらないでもないぞ?」

 

 最近、オレサマを慕って付いてくる部下が二人ほどできた。口が滑って反感を買うような不器用な奴らだが、そこがまた可愛くもある。

 だが、如何せん下級悪魔ゆえに身体が弱い。吹けば飛ぶような魔力しかねぇもんで、いつ命を落としてもおかしくない。

 そこでこやつと契約を結ばせれば、部下達は安定した魔力の供給源を確保できるし、こやつは魔法学校ナシでも相棒から最高の魔法を学べる。おまけに、ミーティアとの縁を取り戻せる可能性だって出てくる。

 これぞまさしく一石二鳥、オレサマの独壇場だ。

 

 さあ、どんな絶望的な顔で悩むのか、じっくり拝んでやろうじゃね――。

 

「本当ですか!? 是非、お願いします!!」

 

「いや即決だなおみゃー!?」

 

 予想外の即答に、オレサマは思わず素でツッコんでしまった。

 少女はがっついた自分を恥じたのか、顔を赤くして俯く。

 

「ごめんなさい、でも……私、必ず魔術師にならなきゃいけないんです! どんなことをしてでも、絶対に!」

 

 ついさっきまで親とはぐれた雛鳥みたいに震えていた奴の瞳が、今は獲物を狙う肉食獣みたいに爛々と輝いてやがる。

 はっ、面白い。こやつ、ただの食いしん坊じゃねぇようだ。

 

「ほう、余程切羽詰まった理由があるようだなァ。なら、早速契約を……と言いたいところだが。今時そこまでして魔法に固執する奴は珍しい。これから長い付き合いになるんだ、おみゃーがそこまでして学びたがる本当の理由ってやつを、今の内に拝ませてもらおうじゃねぇか」

 

 口先だけ「やる気ありますぅ!」なんて言っておいて、後から泣き言を垂れて投げ出されても困るからな。

 こいつの本気がどれほどの重さなのか、腹の底まで覗いておくに越したことはねぇ。

 

 ――邪眼発動(じゃがんサーチ)

 

 先刻の浅い追想よりさらに深く、オレサマの意識は少女の心の深層、その暗い記憶の深淵へと、音もなく沈み込んでいった。

 

***

 

 暗い、深い、群青の世界。

 私の記憶の底にある故郷は、いつも頼りない発光苔の燐光に包まれていた。

 

 マーメリア海国の辺境。陽の光さえ届きにくい海溝の底にあるその村で、人々は岩肌を削る過酷な採掘労働によって、かろうじてその日暮らしの生計を立てていた。

 

 一年前のあの日。

 私は人生で最大の賭けに出るつもりで、両親の前に座り直した。

 震える手の中には、ボロボロになるまで読み耽った一冊の本――地上から流れてきた、魔法の基礎を説く古い指南書が握りしめられていた。

 

「お父さん、お母さん。……私、地上の『ソルシエール魔法学校』に行きたい」

 

 心臓の鼓動が、深海の水圧に負けないほど激しく耳元で鳴っていた。

 反対される。激しく叱咤される。あるいは、「そんな余裕はない」と泣かれる。覚悟はしていた。

 当然だ。私の家は、一ヶ月分の食事を工面するのにも苦労するような、決して裕福とは言えない貧困家庭だった。

 地上の魔法都市ソルシエまでの旅費、そして目が飛び出るような学費。さらには、この閉鎖的な村では、魔法など海面より上の異界に住む者たちが使う、実態のない怪しい技術だと思われていたのだから。

 

 けれど。

 父は私の言葉を遮ることなく、静かに、深く頷いた。

 

「分かった、チュリン。準備しよう。学費は……何とか工面してある」

 

 呆気ない程、あっさりと受け入れられたその言葉に、私は喜びよりも先に激しい困惑を覚えた。

 そんなはずがない。

 父の、瓦礫に潰されて不自由になった脚と、動かない尻尾を見れば、この家の経済状況が限界ギリギリであることなど、子供の私にだって分かっていた。

 

 数日間、私はその都合の良過ぎる結果が信じられず、こっそりと村の大人たちの間を回り、聞き取りを始めた。

 父の仕事仲間、採石場の親方、果ては隣町の商人に至るまで。

 

 そこで知らされたのは、私が想像していたよりもずっと重く、熱く、そして残酷なほどに温かい真実だった。

 

 私の父は、もともと採石現場のリーダーとして、仲間達から厚い信頼を寄せられる魔獣だった。

 しかし数年前、採石場で起きた大規模な落盤事故が全てを変えてしまった。

 父は崩れ落ちる岩壁から部下たちを突き飛ばして庇い、代わりに自らの脚と尻尾を、逃げ場のない瓦礫の下敷きにしたのだ。

 

 一命は取り留めたものの、鉱夫としての誇らしい日々はそこで終わった。

 重い鉱石を運ぶことも、激しい海流に逆らって泳ぐことも出来なくなった父は、一線を退くしかなかった。

 それでも、父は腐らなかった。それどころか、不自由な身体で細々と内職を続けながら、私が隠れて努力を続けているのを、ずっと見守ってくれていたのだ。

 

「あいつ、チュリンが寝静まった後に、一人で古い調合器具を磨いてるお前の姿を思い出して、涙ぐんでたらしいな」

 

 父の仕事仲間だった叔父さんが、安酒をあおりながら教えてくれた。

 

「こんな辺境の村で、小遣いを少しずつ貯めては地上の本を買い集めて……。あいつはな、自分の身体が動かなくなったことより、お前の才能を、こんな暗い海底に埋もれさせてしまうことを何より恐れてたんだ」

 

 父は怪我の補償金さえも自分の治療には使わず、私がいつか「魔法を学びたい」と言い出した時のために、一銭も手をつけずに貯めていた。

 それだけではない。父がかつて命を救った仲間達や、信頼を寄せていた関係者達が、父の熱意に動かされ、少しずつ、されど切実な思いで私のための「奨学金」を募ってくれていたのだ。

 

 しかし、支援の理由はそれだけではなかった。

 村が抱える、さらに深く暗い問題。それが私の「留学」に、村全体の悲願という意味を持たせていた。

 

 私たちの村は、強欲な領主の重税に苦しめられていた。

 いくら命を削って鉱石を掘り出しても、その利益の大半は吸い上げられ、子供たちには未来が見えない。大人たちは皆、今の暮らしがいつまで続くのか、この暗い海底でそのまま朽ちていくのではないかと、絶望の淵に立たされていた。

 

 そんな中、マーメリア海国全体に一つの大きな変化が訪れていた。

 地上から齎され始めた「魔術」という技術の導入だ。

 かつては数十人の人力で数日かかっていた作業が、魔術一つで瞬時に終わる。資源を効率よく抽出し、荒れた海を浄化する。国は今、自国出身の魔術師を喉から手が出る程求めていた。

 

「チュリン。お前がもし、ソルシエで立派な魔術師になれば、この村は変わる」

 

 出発の前日、村長は私の手を握ってそう言った。年老いた手は、祈るように震えていた。

 

「もし、この村から国が認める魔術師が輩出されれば、領地としての格が上がり、国から莫大な補助金が出る。税は減免され、お前を追うように魔術を志す若者が増えれば、この暗い海底にも、いつか自立した経済の光が届くかもしれない」

 

 私が魔法学校へ行くということは、単なる一人の少女の夢物語ではなかった。

 父の犠牲、母の献身、そして、行き止まりの未来に喘ぐ村人たち全員が、なけなしの貯金を出し合って賭けた、最後の希望だったのだ。

 

……

 

 真実を知った夜、私は声を押し殺して泣いた。

 村の取るに足らない子供一人の夢に、どれほど多くの人の汗と涙が流されたのか。その重圧に押し潰されそうになりながら、それでも私は行くしかなかった。

 

 海を出て、ソルシエール魔法学校へ向かう飛行船に乗る日。

 仕事仲間に支えられ、歪んだ尻尾を揺らしながら見送りに来た父の顔を、私は一生忘れない。

 父は笑っていた。自分が失った未来を、私に託せることが嬉しくてたまらないというように。

 

「いいか、チュリン。お前は、お前の信じる道を行け。だが、もし道に迷ったら思い出せ。――お前の背中には、この村の『明日』が乗っているんだ」

 

 その言葉の重みが、今の私を支えている。

 同時に、その言葉が、私の退路を完全に断っていた。

 

 ソルシエでどんなに落ちこぼれだと蔑まれても、どんなに暴食の魔力という悍ましい呪いに蝕まれても、私が足を止めることだけは許されない。

 私がここで挫けるということは、父の犠牲を無に帰し、村の人々の希望を奈落に叩き落とすことと同義だ。

 

 例えどれほど醜い化け物に成り下がろうとも、例えどれほど自分を呪うことになろうとも、私は魔術師にならなければならない。

 この飢餓感さえも、いつか村を救うための力に変えてみせる。

 

 ……そう、決めていたはずなのに。  私は今、その力に喰い殺されようとしている。

 

***

 

 邪眼の視界が閉じ、オレサマの意識は深夜のソルシエの路地裏へと浮上した。

 

 鼻を突くニンニクの異臭。隣で心配そうに少女を見つめるドエルの吐息。

 そして、オレサマの言葉を固唾を呑んで待つ、一人の魔術師を志す少女。

 

 オレサマは、喉の奥に苦いものが込み上げてくるのを感じた。

 

「……へっ、あー。なんだ。……その、なんだ」

 

 気まずい。悪魔が気まずいなんて、笑えねぇ冗談だ。

 だが、あんな記憶を見せられた後じゃ、さっきまでこやつに吐いてきた毒舌が、全部自分に跳ね返ってくる。

 村の命運。不自由な身体で自分を送り出してくれた父親。なけなしの金を出し合った村人達。

 こやつが背負っているのは、ただの夢なんて生易しいもんじゃねぇ。絶望的なまでに重い責任と愛の塊だ。

 

 そんなやつを、オレサマは「化け物」とのたまわったわけだ。

 

「……おみゃー。さっきは、その。……『化け物』なんて言って、悪かったな」

 

 少女がはっとした表情を浮かべる。目元は涙でぐちゃぐちゃだ。

 オレサマはわざとらしく視線を逸らし、ぶっきらぼうに続けた。

 

「おみゃーの過去、邪眼で全部見せてもらったぜ。おみゃーがどれだけのモンを背負ってここにいるのかもな。……いいぜ。おみゃーのその覚悟、オレサマが認めてやる。部下の悪魔との契約、受けて立とうじゃねぇか。これからはおみゃーのことも、オレサマの身内の一人として扱ってやる」

 

「……悪魔、さん……」

 

「でびるん、だ。その代わり、死ぬ気で魔術師になれよ。村の連中を泣かせるような真似は、悪魔のオレサマが許さねぇからな」

 

 ワタクシはクピャドエルですぅと名乗るドエルを無視し、オレサマは懐から、相棒から預かっていた小さな瓶を取り出した。

 

「ほら、これを持ってけ。相棒が作った鎮静薬の予備だ。付け焼き刃だが、それで一時的に暴食の衝動を抑え込める。一息ついたら、相棒の家に戻るぞ。あやつなら、おみゃーの身体の魔力をなんとかする算段を立ててくれるはずだ」

 

 少女ーーいや、チュリンの手が、震えながら瓶を受け取った。

 絶望の底に、ようやく小さな、けれど確かな希望の光が差し込んだ瞬間だった。彼女の瞳に、ほんの少しだけ生気が戻る。

 

 だが、その希望は、あまりに無慈悲な形で、一瞬にして踏みにじられることになった。

 

「あー。ダメよ、そんなことされたらぁ。折角の仕込みが台無しじゃない?」

 

……

 

 不意に訪れた、背筋を凍りつかせるような悪寒。

 オレサマが異変に気づいた時には、既に足元から禍々しい術式が展開していた。

 

「な、なんだぁっ!? 身体が動かねぇ!」

 

 シュルシュルと黒い霧のような鎖が蛇のように這い出し、オレサマとドエルの全身をがんじがらめに縛り上げる。

 ドエルもまたきつく縛り上げられ、苦しげに声を漏らした。

 

「ああっ……ワタクシ、縛られるのは趣味ではないですぅ……っ」

 

「……ふふ、いいシーンを邪魔しちゃったかな?」

 

 闇の中から、ゆっくりと姿を現した影。

 土色の柔らかな毛並みに、朱が差した蛇の尻尾。一見すれば、流行りの魔法少女のような可愛らしい装いだ。

 だが、その顔の中央に鎮座するオレンジ色の瞳は、爬虫類のように冷たく、狂気に満ちた光を放っていた。

 

「……ラミア?」

 

 オレサマの脳内に、かつて相棒と共に邁進した日々が蘇った。

 大量の魔力回収のため、何日間もかけて召喚を繰り返した。その対象に含まれていた、特級の危険人物。

 

「きゃはっ、正解。会った覚えがないけど、手配書でも見たかな?……ねえ、アンタ達、邪魔だよ。せっかくアタシが用意した『最高傑作』が、ボツになるところだったじゃない」

 

 ラミアは不敵な笑みを浮かべながら、震えるチュリンへとゆっくり歩み寄る。

 

「……あなた、まさかあのチョークを……?」

 

 チュリンの声が震える。ラミアはかっと目を見開き、宝石でも愛でるように、彼女の頬を指でなぞった。

 

「そうよ。アンタが炎魔法の練習をしてた時、嫉妬の匂いがぷんぷんしてた。自分より輝いてる友達を見て、赤黒く濁ったいい色がね。だから、プレゼントしてあげたの」

 

 ラミアの告白。それは、この悲劇の全てが偶然ではなかったことを如実に物語っていた。

 こやつは偵察中にチュリンの心の隙を見つけ、わざとあの呪いのチョークを拾わせたのだ。

 おそらく、負の感情を増幅させるあの呪いが仕込まれていた。さらには術式にも呪いを組み込むよう誘導し、呼び出された存在にも伝播させる。

 ブブもまた、こやつの呪いに唆されていた。

 

「始めはちょっとした騒ぎを引き起こせればと思っていたけれど、大悪魔ベルゼブブが召喚されるなんて、想定外のボーナスだったわ。そのおかげで、アンタには『暴食』の呪いが刻み込まれた。……これから、未曾有の化け物として生まれ変わるアンタを見るのが、楽しみで仕方なかったんだから」

 

 オレサマは必死に拘束を解こうと魔力を練るが、鎖はびくともしねぇ。

 

「お、おみゃー……! 何を企んでやがる!」

 

「企む? 違うよ。私はただ、壊したいの。この欺瞞に満ちた街も、魔法学校も……全部ね」

 

 やばい、こやつはあの時から何も変わってねぇ。

 

 ラミア。元ソルシエール魔法学校の一生徒。

 こやつは生まれつき「魔力体質」と呼ばれる、周囲から無意識に魔力を吸い取ってしまう呪われた性質を持っていた。周囲の者は傍にいるだけで不快感を覚え、必然的にこやつは孤独を強要された。

 

 追い討ちをかけたのは、こやつの家柄だ。西洋の龍を封印したとされる呪術師の名家。

 両親は名門の誇りとして異常なプレッシャーをかけ続け、完璧であることを強いた。

 体質による疎外感と、家庭内での窒息するような重圧がこやつを歪ませた。

 

 ある日、こやつの理性は弾けた。

 自分を陰湿に虐めていた学友達を、得意の炎魔法で、それもこの世のものとは思えないほど残虐な火力で、一人残らず燃やし尽くしたのだ。

 家の権力によって事件は闇に葬られたが、こやつはそのまま学校を中退し、姿を消した。

 

 こやつが抱いているのは、この世界そのものへの底知れない恨みだ。

 全世界を混乱に陥れ、すべてを破壊し尽くすこと。それが、こやつの歪んだ夢だった。

 

「……さあ、続きを始めましょうか。アンタを助けようとしたこのお邪魔虫達への絶望を、最高のスパイスにしてね」

 

 ラミアが宝玉を備えた杖を掲げる。体格に見合わぬ巨大な宝玉が淡く光り、空間が膨大な魔力でぐにゃりと歪む。

 

「あ……ぎぃ……っ!?」

 

 チュリンが悲鳴を上げ、その場にのけぞった。

 チョークに仕込まれていたものと同じ、負の感情を増幅させる呪いが発動する。

 それは彼女の心の中にある罪悪感、嫉妬、寂しさ、そして暴食の衝動を破滅的に昂ぶらせていく。

 

 暴食の魔力と呪いが混ざり合い、彼女の理性をズタズタに引き裂いていく。

 さっきまで戻りかけていた知性の光が消え、瞳は再び、獲物を求めるだけのケダモノの色に染まった。

 静まり返っていた腹部が、再びゴボリと不気味な音を立てて蠕動を再開する。

 

「……いいわ。その調子。さあ、まずはこの街を地獄に変えてきなさい」

 

 ラミアが楽しげに嘲笑ったその時、路地の向こう側から強い光が差した。

 

「そ、そこまでです! あなた達を逮捕します!」

 

 あれは、先程撒いたはずの警官だ。確か、コニーとか言う名前だったか。執念深く匂いを追って、ようやく追いついたらしい。

 ラミアはチッと舌打ちをすると、興味を失ったように身を翻した。

 

「あーあ、警察か。相手にするのは面倒ね。……でも、大丈夫。今のアンタなら、警察なんて『ただの軽食』よね?」

 

 ラミアはそう言い残すと、夜霧に溶けるようにその姿を消した。

 

 後に残されたのは、拘束されたままのオレサマとドエル。勤勉に職務を全うする警官。

 ……そして、完全に理性を失い、ヨダレを垂らしながら咆哮を上げる「化け物」――チュリン。

 

「お、おみゃー……逃げろ! 早く逃げろ巡査ァ!」

 

 オレサマの叫びも虚しく、チュリンの血走った視線がコニーへと向けられた。

 いや、それだけじゃねぇ。

 彼女は、動けないオレサマとドエルの方も、じろりと眺め回した。

 その瞳には、さっきまでの恩義も謝罪の色もない。

 

 そこにあるのは、空腹を満たしたいという、剥き出しの食欲だけだった。

 

「……ア、アァ……アアアアァァッ!!」

 

 理性を焼き尽くされた少女の叫びが、真夜中の路地に響き渡った。

 

***

 

 最悪だ。

 オレサマの悪魔人生の中でも、いや、あの繰り返しの日々で経験した地獄を除けばだが――これほど「最悪」の二文字が似合う状況はねぇ。

 

 目の前で、理性を焼き切られた少女――いや、もはや魔物と化したチュリンが、ケダモノの咆哮を上げて地を蹴った。

 標的は、間の抜けたタイミングで現れた警官のコニーだ。

 

「な、何なのですか、その姿はっ!」

 

 コニーの声が震えている。そりゃそうだ。さっきまでひ弱な学生だったはずのガキが、今は全身から禍々しい魔力を噴き出し、自分を喰らおうと顎を開いて突っ込んでくるんだからな。

 だが、さすがは魔法警察だ。恐怖で腰が抜けそうなはずなのに、訓練で叩き込まれた動きが身体に染み付いてやがる。

 

紫電の鎖よ、賊を穿て(カテナフラ・スタグン)!」

 

 彼女が杖を突き出すと、バチバチと火花を散らす微弱な電撃が放たれた。暴徒を無力化するための魔法だ。

 チュリンの身体に青白い雷光が走り、一瞬、その動きが止まった。

 続けてコニーは間髪入れずに、腰から魔法の縄を射出する。

 

捕縛の銀縄(アルジ・カプトゥラ)! これでおとなしく……ッ」

 

 銀色に輝く縄が、チュリンの上半身をぐるぐる巻きに縛り上げる。

 勝負あったか? ……いや、甘いぜ巡査。今のチュリンは、ただの魔獣じゃねぇんだ。

 

「……ア、アァ……アァアア……ッ!」

 

 チュリンの口から、おぞましい吸引音が響いた。

 驚いたことに、彼女は自分に流し込まれたはずの電撃を喰らい始めたのだ。紫電の魔力そのものを栄養として胃袋に収め、体内の糧へと変換しやがった。

 魔力を奪われた無力化魔法は、霧が晴れるように散逸する。

 

「う、嘘……私の魔法を、食べた……?」

 

 絶望に染まるコニーの顔。

 チュリンは上半身を縄で縛り上げられた不自由な格好のまま、強靭な脚力で地を爆ぜさせた。弾丸のような頭突きがコニーの腹部を見舞い、彼女は地面に激しく転倒する。

 

「きゃっ! ――あ、メガネ、メガネが……ッ!」

 

 最悪の不運ってのは重なるもんだ。

 転んだ衝撃で、コニーの眼鏡が石畳を滑り、闇の中へ消えていった。視力を奪われた彼女は、パニックを起こして地面を手探りで這い回る。

 

 それが、彼女の命取りになった。

 

「アァ……アアアアァァッ!」

 

 チュリンが、のしかかるようにコニーを押し倒した。

 眼鏡を探していた腕を強引に押さえ込み、獲物の頭部を、その広がりきった顎で、一息に。

 

「いやっ、やめて! 離して、離し――んんんっ! む、んぐぅ……っ!!」

 

 悲鳴が、肉の壁に遮られて湿った籠もり音に変わる。

 オレサマとドエルは、拘束魔法に縛られたまま、その光景を特等席で見せつけられる羽目になった。

 

 ずるり、ずるり。

 

 蛇が大型の獲物を呑み込む時のような、不気味で湿った音が夜の路地に響く。

 チュリンの喉が異常な太さに膨れ上がり、コニーの頭部、肩、そして少々スリムな胸元が、ゆっくりと、だが確実に少女の喉奥へと消えていく。

 

「ド、ドエル……! 早くしろ! このままじゃオレサマたちもデザートにされちまうぞ!」

 

「わ、わかっていますぅ! でもこの拘束、魔力を吸い取られて……ッ」

 

 ドエルも必死だが、目の前の光景が恐怖を加速させる。

 コニーの足が、空を蹴って必死に抵抗していた。だが、チュリンの喉はまるで底なしの沼だ。

 やがてコニーの腰が、そして太腿が、チュリンの口内へと飲み込まれていく。

 

「あ、ああ……うあぁ……っ!」

 

 チュリンの腹部が、急速に……そして不自然に膨張を始めた。

 今回はミーティアの時とは違う。チュリンの上半身は、コニー自身が放った拘束魔法によって、今なおパンパンに縛り上げられたままだ。

 逃げ場を失った胃袋の中は、普段よりもさらに狭く、過酷な閉鎖空間となっているはずだ。

 

 ずるりと、コニーの靴先までがチュリンの口に吸い込まれた。

 チュリンがごくんと大きく喉を鳴らす。

 

 完了だ。

 

 チュリンの腹は、今や破裂しそうなほど大きく、無様に突き出していた。

 銀縄が腹部の皮を締め付けているせいで、中に入れられたコニーの形が、薄い皮越しにくっきりと浮き出ている。

 腕を曲げ、身体を丸め、狭い胃袋の中で必死に酸素を求めて蠢く巡査の影が嫌でも見えてしまう。

 

「んんぅぅぅーーっ! ――んぐ、ぅぅっ!!」

 

 腹の中から、くぐもった、絶望的な悲鳴が響く。

 チュリンの腹が内側からポコポコと波打つ。コニーが、自由を求めて内側から肉の壁を蹴り、叩いているのだ。

 だが、今のチュリンに慈悲なんて言葉は通用しねぇ。

 

「ア……ガ、アァ……ッ」

 

 チュリンは恍惚とした表情を浮かべた。

 彼女は、先程のミーティアの時のように、獲物をじっくりと楽しむつもりはないらしい。

 ラミアに植え付けられた負の感情と暴食の衝動が、一刻も早い魔力の供給を求めてやがる。

 

 彼女は自分の腹から浮き出る抵抗の証を愛でるように両手でさすり、そのまま体内での「吸収作業」を開始した。

 

 あれは、消化液で溶かす類のものじゃねぇ。

 対象の存在そのものを、魔力の粒子として分解し、自分の細胞へと同化させる。悪魔顔負けの、残酷な簒奪だ。

 

「……ひっ! ――あ、ああああああぁぁぁぁッ!!」

 

 腹の中から、それまでとは比較にならないほど、金切り声に近い悲鳴が上がった。

 くっきりと浮き出ていたコニーの輪郭が、内側から削り取られるように、徐々に小さくなっていく。

 

 魔力を吸われ、肉体を分解され、魂そのものが「食事」として処理されていく恐怖。

 コニーは泣き叫び、狂ったように暴れ回るが、チュリンの腹部はそれを無慈悲に包み込み、ただひたすらに縮小させていく。

 

 ……十秒。

 

 ……三十秒。

 

 やがて、狂おしく動いていた腹部の突起は、波が引くように静まり返っていった。

 最期に一際大きく跳ねた抵抗の後、路地裏に再び重苦しい沈黙が訪れる。

 

 パンパンに張り詰めていたチュリンの腹は、元のスレンダーな……いや、先ほどより少しだけ艶を増した白色の腹部へと戻っていた。

 コニーという一人の魔獣が、深い闇の底へと沈み込み、その気配がかき消えた瞬間だった。

 

「ふぅ……ア……アアァ……」

 

 チュリンが、満足げな、しかし空虚な吐息を漏らす。

 一人目の獲物を堪能した化け物の視線が、ゆっくりと……次の獲物を定める肉食獣のそれとなって、こちらに向けられた。

 

「お、おい……嘘だろ……。次はオレサマたちかよ……っ!」

 

 チュリンが這うような動きで、こちらに近付いてくる。

 彼女の口角からは、先ほどの巡査の名残なのか、銀色の糸がダラリと垂れていた。

 

 だが、あと一歩遅かったな。

 

「――解き放て、我らが絆(リーエ・リカオネ)!!」

 

 ドエルの叫びと共に、オレサマたちを縛っていた鎖が、一斉に砕け散った。

 恐怖のあまり火事場の馬鹿力が働いたのか、あるいはコニーが吸収される瞬間の魔力の揺らぎを突いたのか。

 

「おっしゃあ! 抜けたぜ、ドエル!」

 

「喜んでいる暇はありません! 逃げますよ、でびくん!」

 

 オレサマは即座にマントを広げ、浮き上がる。

 背後では、獲物を逃したチュリンが、不気味な程静かにオレサマ達を凝視している。

 

「だぎゃー、最悪だ……! 待ってろよおみゃー、絶対に相棒を連れて戻ってきてやるからな!」

 

 オレサマは夜空へと急上昇しながら、下界で佇む少女だった者の姿を、苦々しく見下ろした。

 

***

 

 真夜中の静寂を切り裂いて、オレサマとドエルは必死に空を駆けていた。

 背後には地獄が口を開けて待っている。拘束を振り切った安堵感なんて、一分も持たなかった。

 

「よし、今のうちに相棒のところまで――ッ!?」

 

 石畳を凄まじく早いリズムで叩く、人外の足音。

 オレサマは反射的に眼下を見下ろした。

 そこには、建物の影を縫うようにして、驚異的な速度で地面を滑走する翠色の影があった。

 

「嘘だろ……あいつ、なんであんなに速ぇんだよ!?」

 

 上半身を縛っていた銀縄は、既にズタズタに噛み千切られている。だが問題はそこじゃねぇ。

 あやつの足運び……あれは、さっき呑み込まれたコニーの走法そのものだ。

 あいつ、ただ魔力を吸い取っただけじゃねぇ。コニーが長年の訓練で培った身体能力までも、自分の血肉として取り込みやがった。

 

 地上のケダモノが、空を飛ぶ悪魔に追いつこうとしている。ありえねぇ。

 だが、現にあいつは加速し、建物の壁を垂直に駆け上がり、屋根から屋根へと大跳躍を繰り返して、オレサマたちの真下に張り付いてやがる。

 

「でびくん、前です! 前を見てくださいっ!」

 

 ドエルの叫び声に顔を戻すと、目の前に進路を塞ぐように聳え立つ尖塔が迫っていた。

 チッ、よそ見してんじゃなかったぜ!

 

「だぎゃあぁぁぁッ!!」

 

 オレサマは強引に旋回し、尖塔を掠めるように回避した。

 だが、ドエルは回避がわずかに遅れた。尖塔の影から抜け出そうとした、その空白の一瞬を、あやつは完璧に読み切ってやがった。

 

 ドンッ、と石壁を蹴り飛ばす破裂音。

 チュリンが建物の壁面を交互に蹴り、三角跳びの要領で空中のドエルへと一直線に躍り出た。

 その姿は、空を飛ぶ鳥を執拗に狙う肉食獣そのものだ。

 

「ドエル! 逃げろッ!!」

 

 オレサマの叫びは、間に合わなかった。

 空中で、チュリンの手がドエルの小さな身体を鷲掴みにした。

 重力に従い、二つの影がもつれ合うように地上へと落下していく。

 

 ドサリ、という重い音が路地に響いた。

 オレサマは急降下し、地上でドエルを組み伏せているチュリンを睨み付けた。

 

「ア……アァ……ッ」

 

 チュリンは、空の上のオレサマに見せつけるように、掴んだドエルを高く掲げた。

 二等身強しかないオレサマたちの身体は、今のあやつにとっては、文字通り一口サイズのデザートに過ぎねぇ。

 

「でびくん……逃げて……! 召喚士さんに、報せを……っ!」

 

 ドエルが、必死に手を伸ばして叫ぶ。

 その小さな身体が、チュリンの大きく開かれた顎の中へと、頭から突っ込まれた。

 

「やめろおおおぉぉぉッ!!」

 

 オレサマの絶叫を嘲笑うように、チュリンは一息で喉を鳴らした。

 ゴボリ、という不快な嚥下音。

 コニーの時のような時間は必要なかった。抵抗する間もなく、ドエルの身体は滑り込むようにあやつの喉奥へと消え去った。

 

「ド、ドエル……ダメだ……ッ」

 

 チュリンの喉が大きく波打ち、あやつは満足げに腹をさすった。

 あやつの腹には、先ほどのコニーに比べれば小さな、けれど激しく蠢く突起ができあがっていた。ドエルが中で必死に抵抗している証拠だ。

 さらに、その薄い皮越しに、天使の象徴である「光輪」の淡い輝きがぼんやりと漏れ出している。

 

 その光景を見た瞬間。

 オレサマの中で、何かが切れた。

 

「……てめぇ、よくも……よくもやってくれたなァッ!!」

 

 怒りで視界が真っ赤に染まった。

 オレサマは、もう逃げることなんて考えられなかった。盟友を目の前で喰われて、尻尾を巻いて逃げ出すなんて、悪魔のプライドが許さねぇ。

 

「――見てろよ、化け物。オレサマの本気を見せてやる」

 

 オレサマは、魔力消費を抑えるために保っていた幼体の身体を捨て去る。

 禍々しい魔力の渦に包まれ、瞬く間に身体が作り替えられていく。手足、胴が引き延ばされ、翼は巨大化し、鋭い角が天を突き――「成体」へと変化を遂げた。

 チュリンよりも頭一つでかい、真なる大悪魔の姿だ。

 

 成体になった俺様には、一つの特殊能力がある。

 視界に入った対象の内部に直接干渉し、その中身を破壊する念動力だ。

 

「最後だ。そやつを吐き出せ。さもなきゃ、お前のその心臓を、今ここで捻じ切ってやる」

 

 俺様は右手を突き出し、虚空を掴むように指を曲げた。

 だが、チュリンは止まらない。理性など欠片もない瞳を爛々と輝かせ、あやつは地を這うような姿勢で襲いかかってきた。

 

「……ッ!!」

 

 殺るしかない。

 

 そう思った瞬間、俺様の脳裏に、さっき覗いたばかりのチュリンの過去が過った。

 

 不自由な身体で笑うあの親父。なけなしの金を出し合った村人たち。

 そして何より、こやつの純粋すぎる願い。

 

 ――殺したくねぇ。

 

 だが、殺さなきゃ、ドエルが死ぬ。

 

「――クソッ!!」

 

 良心の呵責を無理やり押し殺し、俺様は右手を一気に握り込んだ。

 

 グチャリ。

 

 生々しい破砕音が、チュリンの体内から響いた。

 彼女の心臓が、俺様の魔力によって圧壊し、物言わぬ肉塊へと変えられた手応えがあった。

 チュリンの身体が激しく痙攣し、口から大量の血を吐き出して地面に崩れ落ちる。

 

「……はぁ、はぁ……。ごめんな……」

 

 これで終わりだ。そう思った。

 

 だが、地獄はそこからが本番だった。

 

「……ア、……ガ……ガガガッ!!」

 

 地面に転がっていたチュリンの身体が、不気味に、異常な速度で蠢き始めた。

 止まったはずの心臓の鼓動が、再びドクン、ドクンと路地に響き渡る。

 傷口は瞬く間に塞がり、死ぬ前よりもさらに禍々しいオーラを纏って、糸で吊られた人形のように跳ね起きた。

 

「嘘だろ……。心臓を、一瞬で再生しやがった……!?」

 

 暴食の魔力は、もはやこやつを「生き物」として扱ってねぇ。

 心臓が止まろうが関係ない。ただ視界に捕らえた獲物を喰らい尽くす目的を果たすためだけに、宿主の肉体を無理やり駆動させる、自律再生する化け物に作り替えちまってたんだ。

 

……

 

「だぎゃあああああぁぁぁッ!!」

 

 絶望に固まった俺様の右腕に、チュリンがしゃぶりついた。

 狂暴な顎が、俺様の腕を万力のように締め付け、喉の奥へと引き摺り込んでいく。

 

「離せ! このっ、離せえぇッ!!」

 

 俺様は左手の拳でチュリンの顔面を何度も殴りつけ、念力で何度もこやつの臓物をかき回した。

 だが、こやつは一切怯まない。痛みすら食事のスパイスだと言わんばかりに、俺様の頭を、肩を、胴体を、順序よくその底なしの暗黒へと送り込んでいく。

 

「……ぁ……っ」

 

 視界が塞がる。

 ヌルリとした、熱く湿った肉の壁が、俺様の全身を全方位から蹂躙するように包み込んでいく。

 

 喉の奥の強烈な蠕動に逆らうことなど、もはや不可能だった。

 成体化して一回りデカくなったはずの俺様の身体が、チュリンの細い喉を内側から無理やり押し広げ、食道という名の暗黒のトンネルを滑り落ちていく。

 

「んぐ……っ、だぎゃあぁぁぁッ!!」

 

 視界が完全に塞がれ、肺の中の空気が強制的に絞り出される。

 鼻を突くのは、生臭い血の匂いと、暴食の魔力が放つ噎せ返るような死の香りだ。

 締め付けは想像を絶していた。心臓を潰された仕返しと言わんばかりに、胃壁に悪意が込められてやがる。

 本来なら成体の悪魔が収まるスペースなんてどこにもねぇはずなのに、チュリンの胃袋は異次元の広がりを見せ、俺様の体躯を強引にその深淵へと引き摺り込んでいく。

 

 ドプン、と。

 

 不快な粘着音を立てて、俺様は底に辿り着いた。

 

 そこは、暗黒の深海であり、同時に灼熱の地獄だった。

 

 足元を満たしているのは、ただの胃液じゃねぇ。対象の存在そのものを分解し、魔力へと還元する暴食のエネルギーだ。浸かっているだけで、皮膚の表面から魔力がじりじりと剥ぎ取られていく感覚に、俺様は歯を剥き出しにして悶絶した。

 

「おい……ッ! ドエル! どこだ、ドエル!!」

 

 真っ暗闇の中で、俺様は必死に手を伸ばす。

 すると、すぐ隣で淡く、今にも消え入りそうな光が揺れた。

 ドエルだ。小さな身体で、粘つく肉壁に押し潰されながらも、自身の光輪を懸命に輝かせて抵抗を続けていた。

 

「……でび……くん……。来て、くれたのですか……」

 

「当たり前だ! お前を一人でこんな薄汚ねぇ胃袋に置いておけるかよ!」

 

 俺様は成体の腕を伸ばし、ドエルの小さな身体をその胸に抱き寄せた。

 

 狭い。あまりにも狭すぎる。

 俺様が少し身をよじるだけで、肉の壁がミシミシと音を立てて俺様達の身体を圧迫する。皮一枚隔てた向こう側にはソルシエの夜風が吹いているはずなのに、ここには絶望的なまでの密閉感と、逃げ場のない熱気しか存在しなかった。

 

「……っ、ふざけんな……! こんなところで、終わってたまるかよォッ!!」

 

 俺様は自由な方の拳を握りしめ、チュリンの胃壁に向かって渾身の力で念力を叩きつけた。

 

 ドゴォッ!

 

 凄まじい衝撃が走り、外側からはチュリンの腹が歪にボコりと突き出したはずだ。

 だが、手応えがねぇ。殴った感触が、まるで泥沼に飲み込まれるように霧散していく。

 それどころか、俺様が放った魔力そのものを、この胃壁は美味なデザートとして吸収し、さらにその柔軟性と強度を増しやがった。

 

「あ、が……あぁ……ッ」

 

 身体が重い。魔力吸収のスピードが上がってやがる。

 成体を維持するだけでも精一杯だってのに、この胃袋は俺様の魂そのものを削り取ろうと牙を剥いている。

 

「……くそ。意識が……。相棒、ドエル……」

 

 薄れゆく意識の向こう側で、走馬灯のように過去の記憶が溢れ出した。

 

 元々、俺様は魔界でも鼻つまみ者のはぐれ者だった。

 ブブのおかげでベルフェゴールの座に任命してもらったのに、満足に役目を果たせず、結局は地上へと追放された。あの頃の俺様は、世界中の全てをやさぐれた目で見ていた。

 そんな俺様を呼び出したのが、あのお人好しで、どこか抜けていて、けれど誰よりも真っ直ぐな瞳をした相棒だった。

 

 最初は、ただの使い魔だと思っていた。必要な魔力を回収するまでの使い捨ての道具に過ぎないと。

 だが、ある時、俺様は己の焦りから、集めた無尽蔵の魔力を制御できず、自滅したことがあった。

 何もかも後悔して俺様が息絶えていった後、何度も俺様との出会いをやり直して、未来を導いてくれたのが、相棒とドエルだったんだ。

 

『トモダチになろう』

 

 相棒が手を差し伸べながら、言ってくれた。

 

 ドエルは泣きながら、俺様に抱きついて喜んでくれた。

 

 悪魔が愛だの絆だの、反吐が出ると思ってた。

 だが、あいつらと過ごす毎日は、魔界のしょうもない玉座なんかよりも、ずっと、ずっと……居心地が良かったんだ。

 

 朝起きて、眠い目をこすりながらドエルと一緒にお好みのジャムを付けたパンを食べる。

 ラズベリーでベタベタの身体を風呂で洗われた後、相棒に熱風魔法で髪を乾かしてもらう。

 洗濯前の投げ出された相棒のローブを羽織って、その匂いに包まれて心地良い気分に漬かる。

 

 そんな、何の変哲もない、だが宝石みたいにキラキラした日常。

 それが、俺様がついに見つけた、安息の地だった。

 

 失いたく、ねぇな。あやつらと一緒に。

 もっと、一緒に美味いものを食べたかったなぁ。

 

 パキパキ、と音がした。

 チュリンの貪欲な魔力吸収に耐えられず、成体の身体が維持できずに縮んでいく。元の幼体の姿に戻り、オレサマの体力は限界を迎えた。

 

 もう、指一本動かせねぇ。

 肺に流れ込んでくるのは、酸素じゃなくて熱い消化液の飛沫だ。

 

「……っ、ごめん……な……。相棒、ドエル……。オレサマ、格好つけた割には……このザマだ……」

 

 掠れた声で謝罪を口にする。悔しくて、情けなくて、涙が溢れそうになるが、それすらも胃液に混じって消えていく。

 

 すると、同じく限界を迎え、吸収を待つばかりだったドエルが、ぬめりのある液体の中から、オレサマの胸にそっと頭を寄せた。

 

「……大丈夫ですよぅ……。謝らないでください、でびくん」

 

 ドエルの声は、どこまでも透き通っていて、優しかった。

 こやつはもう、自分の運命を受け入れているような、穏やかな光を放っていた。

 

「最期まで……ボクがついていますから。地獄の底まででも、お供しますよ?」

 

「……っ。……おみゃーは、本当に……お節介な天使だなァ……」

 

 オレサマは、微かに残った力を振り絞って、ドエルの小さな身体を抱きしめ返した。

 熱い。苦しい。けれど、不思議と怖くはなかった。

 隣にこやつがいるなら。そして、外には信じ合える相棒がいるなら。

 

 だが、ただ食われて消えるだけじゃ、悪魔の名が廃る。

 オレサマは残った全ての魔力を、たった一つの思念に変換した。

 それは攻撃でも、防御でもない。次元を越え、距離を無視して、ただ一人にだけ届けるための心の叫びだ。

 

『相棒……。聞こえるか……。おみゃーの悪魔と天使が、大ピンチだ。……助けに来い……。この、悲しい化け物を……チュリンを、止めてやってくれ……っ!!』

 

 ドクン、と。

 

 オレサマの胸の中から、最後の一閃が放たれた。

 それはチュリンの肉壁を突き抜け、夜空へと消えていった。

 

 それと同時に、オレサマの視界は完全な暗転を迎えた。

 

 熱も、痛みも、音も、すべてが遠ざかっていく。

 

 ドエルの温もりだけを感じながら、オレサマの意識は、底のない深い深い眠りの淵へと、静かに沈み込んでいった。

 

 続く

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