おトモダチの味 ―― 暴食の少女と星天の約束   作:丸呑みトカゲ

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でびるんの決死の思念を受けた召喚士は、化け物に堕ちたチュリンを止めるため動き出す。
一方でチュリンは欲望に狂い、ソルシエの街を次々と地獄に変えていく。
僅かに残された意識が、惨劇の元凶であるラミアに対して復讐の機会を窺っていた。

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本編は下記要素が含まれます。
・ 「でびるコネクショん」エピローグ後の時系列に相当する物語(ネタバレあり)
・ 「魔けモン!」の設定を引用している部分あり
・ オリジナルキャラクターの登場あり
・ エロ要素を含まない丸呑み表現あり(R-15)
・ 一部血生臭い描写あり
・ ラミアにつきまして、嫌悪感を持たれる可能性がある描写あり
・ 本作品はPixivにも投稿しております


呪術師は復讐の味

 昔々、大昔のことデス。

 

 まだ文明なんて言葉もなくて、魔獣達が言葉を持たず、ただ本能のままに生きていた時代のオハナシ。

 

 広い広いオトヌの森には、二つの群れがいまシタ。一つは、柔らかな草を食み、群れで寄り添って生きる「草食の魔獣」。もう一つは、鋭い牙を持ち、他者の肉を喰らって生きる「肉食の魔獣」。

 

 この二つの群れには、友情なんてありまセン。片方は「獲物」で、もう片方は「捕食者」。それが世界の当たり前で、逆らうことのできない神様のルールでシタ。けれどある時、そのルールを壊してしまった二人がいまシタ。

 

 草食の群れの中で一番心優しい少年と、肉食の群れの中で一番孤独だった少女。

 二人は、森の境界にある静かな湖のほとりで出会い、恋に落ちてしまったのデス。

 

 でも、待ち受けていた現実は、絵本のように甘くはありませんでシタ。

 寄り添って歩く二人の間には、いつも生存の本能という名の高い壁がそびえ立っていまシタ。

 

 草食の少年は、隣を歩く大好きなパートナーの口元に、同胞たちの血がついているのを見るたび、言いようのない嫌悪感と恐怖に震えまシタ。

 

「ボクの仲間を殺さないで。その血まみれの口で、ボクに触れないで」

 

 少年の瞳には、悲しみの色が滲みマス。

 

 一方、肉食の少女は、もっと過酷な葛藤の中にいまシタ。

 隣で無防備に笑う少年の、柔らかな喉元。脈打つ温かい血の通った身体。彼女が彼を「愛おしい」と思えば思う程、彼女の胃袋は「美味しそう」だと叫びを上げるのデス。

 彼の声を聴きたいと思うのに、頭の中では彼が悲鳴を上げて食べられる想像が止まりまセン。彼女は自分の鋭い爪を地面に突き立て、溢れ出しそうな涎を飲み込み、狂おしい程の食欲を必死で我慢しまシタ。

 

「愛しているのに、食べたい」

 

「信じているのに、怖い」

 

 二人の恋は、常に吐き気を伴うような、歪な我慢の上に成り立っていまシタ。

 何度、少女の牙が少年の首筋に触れ、寸前で止まったことでしょう。何度、少年が恐怖に耐えかねて、彼女を拒絶し、泣き叫んだことでしょう。

 

 けれど、物語はそこで終わりまセン。二人は諦めませんでシタ。

 

 彼らは、数世代という気の遠くなるような時間をかけて、本能を飼い慣らす術を学びまシタ。

 知恵を絞り、文化を築き、言葉を交わすことで、心を通わせる努力を続けまシタ。

 そうしてついに、彼らの子孫達は、相手を「肉」としてではなく、心を持った対等の存在として尊重できるようになったのデス。

 

 ミーが大好きなオハナシの最後には、こう書かれていまシタ。

 『相手を想い続ける気持ちと、知性こそが、本能という名の獣を克服する、唯一の光である』……と。

 

***

 

 夜の帳が降りた召喚士の居室。揺らめくランプの火影が、壁に長い影を落としている。

 ベッドに横たわるミーティアの姿は、まるで嵐の後の夜空に浮かぶ、消え入りそうな星屑のようだった。

 

「……ん、……ぁ、だめ……デス、……暗い、……熱い……っ」

 

 ミーティアの唇から、震える譫言が漏れる。

 彼女の意識は、今も尚あの肉の牢獄の中に囚われていた。自分を愛おしそうに見つめていた親友の瞳が、突如として底なしの飢餓を湛えたケダモノのそれに変わった瞬間。逃げ場のない喉の奥を滑り落ち、粘つく肉壁に全方位から圧迫され、自身の魔力と魂がじりじりと削り取られていくあの悍ましい感覚が、離れない。

 

「う、あ……ッ! たすけて、はなして……ッ!」

 

 不意に、ミーティアが目を見開き、喉を掻き切るような悲鳴を上げた。

 だが、その瞳に焦点は合っていない。彼女の視界には、現実の天井ではなく、自分を呑み込もうとするチュリンの巨大な顎が映り込んでいるのだ。全身から噴き出す冷や汗が、彼女の淡い紫色の髪を額に貼りつかせ、恐怖に震える小さな肩は止まることを知らない。

 

 それは、ただの負傷ではない。心の奥底まで刻まれた、拭い去ることのできない捕食という名のトラウマだった。

 

 召喚士は、彼女の火照る手を包み込み、穏やかな魔力を流し込み続ける。

 すると、ミーティアの荒い呼吸が、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。混濁した意識の中で、彼女は熱に浮かされたように、途切れ途切れの声を漏らす。

 

「……ちゅりん……、……ごめんね……。……おなか、すいてた……デスね……。……くるしかった……デスね……っ」

 

 自分を消費するべき獲物として扱い、命を奪おうとした相手。その相手を、ミーティアは恨むよりも先に、その苦痛を理解しようとしていた。

 風前の灯火のようになってもなお、消えない友情。その純粋さが、却って召喚士の胸に鋭く突き刺さった。彼女の優しさが報われる世界であってほしい。その願いが、召喚士の内に静かな、しかし確かな火を灯した。

 

 だが、その静寂を、魂を切り裂くような衝撃が打ち砕いた。

 

「――ッ!?」

 

 召喚士の心臓が、一瞬、鼓動を忘れた。

 脳内を直接、暴力的に揺さぶったのは、でびるんからの切実な思念の断片だ。

 

『相棒……。聞こえるか……。おみゃーの悪魔と天使が、大ピンチだ。……助けに来い……。この、悲しい化け物を……チュリンを、止めてやってくれ……っ!!』

 

 それは、普段の小馬鹿にした軽口ではない。プライドをかなぐり捨て、盟友への信頼をすべて乗せた、心からの叫びそのものだった。

 その絶叫を最後に、でびるんとのコネクトリンクから流れてくる情報の奔流が、ぷつりと断絶した。

 

 まるで、張っていた弦が急激に引き千切られたかのような無音だけ。

 

 ――でび、るん……? クピャドエル……?

 

 普段は鉄の冷静さを誇る召喚士の手が、目に見えて震えた。彼は即座に、途切れたリンクを辿るように意識を集中させる。呼びかけ、叫び、彼らの存在を闇の中から掬い上げようとする。しかし、返ってくるのは、冷え切った虚空の残響だけだ。

 

 魔力供給のラインは、生きている。だが、その先にあるはずの二人の意識は、まるで分厚い壁の向こうに封じ込められたかのように、一切の応答を拒んでいた。

 

 召喚士は、焼けるような痛みに耐えかねるように、震える手で自身の胸元を強く押さえた。

 指先が衣類をきつく掴み、皺を作る。その拳の震えは、彼がこれまでの人生で築き上げてきた平穏な世界の崩壊を象徴していた。

 

 脳裏をよぎるのは、鮮やかな、そしてもう二度と戻らないかもしれない日常の断片だ。

 

 かつて虚飾のプライドを纏い、常に自分が上位であると傲慢に振る舞っていた、あの不器用な悪魔、でびるん。

 威張り散らしては周囲を困らせるくせに、ふとした折に、その小さな顔を召喚士の胸元に埋め、一切の疑いもなく身を委ねてきた。あの時の、悪魔らしからぬ温かさと、絶対的な信頼を寄せていた眼差し。

 

 そんな悪魔の盟友として、種族の壁を越えて寄り添い続けたクピャドエル。

 大切な存在を守るためなら、自分の心身が削られることさえ厭わなかった。でびるんという孤独な悪魔が辿り着けるかもしれない幸福の道を、共に、懸命に探してくれた、あの献身的で真っ直ぐな天使の翼。

 

 彼らと過ごした、喧騒に満ちた愛おしい日々。

 焦がしたパンを囲んだ朝も、くだらない口喧嘩で終わる夜も、その全てが、足元の地面が音を立てて崩れ去るように、急速に遠ざかっていく。

 

 不意にソルシエの街一帯に、緊急事態を告げる魔法音声放送が鳴り響いた。

 

『緊急警報です。現在、住宅街から中心部大通りにかけて、住民に無差別に危害を加える魔獣が確認されました。住民は直ちに最寄りの避難所へ……。繰り返します、魔獣は食料の簒奪を繰り返し、建物を破壊しながら移動しています。負傷者が多数発生しています。付近の住民は……』

 

 召喚士は弾かれたように窓を開け、夜の街を見下ろした。

 家屋が立ち並ぶその遥か奥。ソルシエの空を赤黒く染めているのは、不気味に立ち昇る火災の煙だった。建物の崩壊する音が、遠く地鳴りのように響いてくる。

 

 確信があった。あの破壊の渦の中心にいるのは、暴食の魔力に乗っ取られたチュリンだ。そして、応答を絶ったでびるんとクピャドエルもまた、ミーティアと同じように――あるいは、それよりも絶望的な状況で、あの少女の腹の中に囚われているに違いない。

 

 赤黒く燃え上がる夜空を見上げる視界が、抑えきれない激情でわずかに歪む。

 だが、その瞳に宿る光だけは、かつてないほど鋭く、冷徹なまでの冴えを見せていた。

 

 救うべき友がいる。

 

 取り戻すべき居場所がある。

 

 そして、止めるべき、哀れな化け物がいる。

 

 でびるんが望んだのは、自分たちの救出だけではない。

 暴食の呪いに呑み込まれ、取り返しのつかない罪を重ねようとしているチュリンを――かつてミーティアが愛したあの少女を、止めてくれという最期の願い。

 

 召喚士は、傍らで眠るミーティアの頭を一度だけ優しく撫で、杖を、関節が白くなるほどの力で握りしめた。

 それは言葉を伴わずとも、地平を揺るがすような決意に満ちていた。

 

 召喚士は、直ちに実現のための筋道を組み立てる。

 暴食の権能を身に纏い、悪魔と天使を取り込んだ今のチュリンを、自分一人の力で制圧するのは不可能。

 他に頼れる協力者が必要だ。それならば、ソルシエール魔法学校。あそこなら、宿直の教師がいるはずだ。

 

 魔法学校は非常時の指定避難場所でもある。今頃、避難誘導のために、宿直当番の魔術師達が数名、必ず配置されているはずだった。彼らの中には、召喚士と知り合いの者も数名いる。

 

 召喚士は手早く羊皮紙を手に取り、目覚めたミーティアが混乱しないよう、手短な書き置きを残した。

 手早く支度を整えると、背後の扉を一度も振り返ることなく蹴破るようにして飛び出した。

 

 夜の街を駆ける召喚士の視界には、無残に崩れたかつての日常が流れていく。

 崩落した建物の瓦礫。泣き叫びながら逃げ惑う人々。その全てが、でびるんが最後に託した言葉の重みを増大させていく。

 

 一歩、地を蹴るごとに、彼の内に眠る魔術師としての冷徹さと、トモダチを愛する一人の魔獣としての情熱が混ざり合い、強大な力となって全身を巡る。

 全力疾走する彼の背後には、ただの青年ではない、失ったものを取り戻し、世界を繋ぎ止めるために戦う者の気迫が、夜霧を割って立ち昇っていた。

 

 目指すは、丘の上にあるソルシエール魔法学校。

 そこから、反撃の幕を上げるために。

 

***

 

 街を見下ろすソルシエール魔法学校は、平時の静謐さが剥がれ落ち、喧騒と灯火の渦に包まれていた。校門付近は、街の中心部から逃れてきた避難民で溢れ返り、悲鳴と怒号、そして幼い子供の泣き声が夜の空気に混じり合っている。

 

 石畳を蹴り、肩で息をしながら校内へ足を踏み入れた召喚士の視界に、避難誘導の指揮を執る一人の男の姿が飛び込んできた。

 

「皆さん、落ち着いてください! 怪我をされている方はあちらの救護テントへ! 大丈夫、ここは安全ですから……!」

 

 新任教師のマルスだった。おどおどとした仕草で、避難民の剣幕に圧されながらも、彼は必死に声を張り上げている。召喚士がその側へと駆け寄ると、マルスは困惑と心配が入り混じった顔で、彼へと歩み寄った。

 

「あ、召喚士さん……! 良かった、無事だったんですね。今は危険ですから、早く学内の安全な場所へ避難して――」

 

 召喚士は、マルスの言葉を遮るように、短く、だが切迫した口調で協力を求めた。

 今、街を蹂躙している惨劇の正体。そして、自分一人の力では抗い得ない事態に陥っていることを、鋭い眼差しだけで伝えた。

 

「……緊急の、要件ですか……?」

 

 マルスが戸惑いを見せたその時、背後から一切の予兆もなく、冷ややかな風が吹き抜けた。

 

「おや、そんなに怖い顔をしてどうしましたか? 何か、穏やかではない事態が起きているようですが」

 

 そこに立っていたのは、非常勤講師のラピスだった。

 感情がこもらない氷のような目を尖らせ、静かに召喚士を見据えている。この非常時ということもあってか、彼の纏う魔力は、この場の騒乱を一瞬で凍てつかせるほどの鋭利さを漂わせていた。

 

「詳細を伺いましょう。あなたがそれほどまでに形振り構わないということは、ただの火事場泥棒の仕業ではないのでしょう?」

 

 召喚士は、ミーティアから聞き及んだチュリンの変貌、そして現在街で猛威を振るっている化け物の正体について、簡潔に、しかし残酷な事実をありのままに告げた。

 

「……チュリンさんが……化け物に成り果てて……魔獣を……? そ、そんな……まさか……」

 

 馴染みの生徒の名を聞き、マルスの顔から血の気が引いた。

 毎日、小まめにやり取りを重ね、不器用ながらも努力する彼女の姿を見守ってきた彼にとって、それはあまりに受け入れがたい内容だった。

 

「と、とても信じられませんよ! 最近まで、チュリンさんは普段通りに過ごされていたはずなのに――」

 

 最後まで言い切る前に、直近で確認したチュリンについて、腑に落ちない点が見られたことを思い出す。

 

「はっ!? ……そうです、最後にチュリンさんを見た授業で、様子がおかしかった。何かを我慢しているようでしたが、まさか、あれが……」

 

 自分が早期に気付けなかった可能性に思い至り、後悔で膝を震わせるマルスに対し、ラピスは対照的に、冷静沈着な手つきで顎に手を当てた。

 

「暴食……七大悪魔が司る禁忌の魔力、ですか。確かに、それならば現時点で魔法警察が鎮圧出来ていないのも道理です。……しかし、根本的な原因を叩かなければ、チュリンさんを救うことも、街を救うことも叶いませんね」

 

 ラピスは召喚士の瞳を覗き込み、一案を提示した。

 

「ここは当事者に直接聞くのが、最も確実ですね。提案ですが、暴食の悪魔ベルゼブブを召喚してみるのはいかがでしょう? 『彼』ならば、この異常事態の裏側を知っているはずです。幸い、あなたとは親交があるのでしょう?」

 

……

 

 三人は、避難民から離れた学内の魔法練習室へと急行した。

 体育館のように広大なその空間は、強力な魔法の暴発にも耐えうる堅牢な防御結界と完璧な防音加工が施されており、今の密談にはこれ以上ない場所だった。

 

 召喚士は床に魔法陣を、マルスとラピスはそれを補強する補助魔方陣を、電光石火の速さで描き上げる。

 

「いでよ悪魔、描く魔方陣の元に。 |天理を司る魔の神々よ、我が魂の慟哭を聞き届けよ!《スピリトゥ・シルピリーヴァリムス》」

 

 召喚士の詠唱と共に、魔法陣から禍々しい紫色の魔力が噴き出した。

 空間がひび割れるような衝撃と共に、その中心から暴食の悪魔が姿を現す。

 

「……おお、召喚士か! 助かった、誠に助かったぞ! 魔界に帰るや否やニスロクに押し倒されてな。こっそりラーメンを食べたことを三日三晩詰められるところであったわ!」

 

 床に仰向けの状態で召喚されたベルゼブブは、本来の威厳をかなぐり捨て、召喚士に対して感謝の言葉を述べた。

 しかし、隣に立つ見慣れない二人の魔術師に気づくと、即座に姿勢を正し、警戒の眼差しを向けた。

 

「ぬ……? 召喚士よ、そこのひ弱な男と、気障な格好の男は何奴だ? ワシに一体何用だ?」

 

「お初にお目に掛かります、暴食の閣下。わたくしはソルシエール魔法学校の教師、ラピスと申します。こちらは同僚のマルスです」

 

 剣呑な雰囲気が漂う中でも、ラピスは一歩も引かず、優雅に一礼した。

 

「閣下に敵意はございません。……故あって閣下の真名を存じ上げておりますが、それを悪用するつもりもございません。ただ、事は急を要します。この街の存亡に関わる、緊急の問いにお答えいただきたいのです」

 

 ベルゼブブは、ラピスの「真名を知っている」という言葉に一瞬だけ不快そうに鼻を鳴らしたが、召喚士の真剣な表情を見て、話を聞くことを許可した。

 

「よかろう。召喚士の面子に免じて、少しだけ時間をくれてやる。……して、何を問う?」

 

「つい最近、閣下が召喚されたことはございますか? 我々の認識が正しければ、ソルシエール魔法学校のチュリンという女子生徒が、閣下を召喚したはずですが」

 

 その問いに、ベルゼブブの表情が曇る。

 

「チュリン……? ああ……あの忌々しい小娘のことか」

 

 ベルゼブブは当時の状況を語り始めた。魔力不足を補うという口実でマジリシアに降り立ち、彼が何よりも楽しみにしていたニンニクマシマシラーメンを堪能していた最中のこと。突如として現れた魔方陣に引き摺り込まれ、食事を台無しにされたベルゼブブは、かつてないほどの怒りに支配されたという。

 

「……ワシとしたことが、あの時はどうかしておったのだ。我を忘れ、感情に任せてあの小娘を邪口で丸呑みにしてやったわ。……だが、あの娘、力尽きる前にワシの舌を全力で噛み切りおってな。その痛みで怒りが引き、我に返ったワシは撤退したのよ」

 

 語るうちに、ベルゼブブの声から威厳が消え、困惑とばつの悪さが滲み出す。

 唐突に額を押さえ、呻きだす。

 

「……いや、待て。何故ワシはあやつをあのままに放置したのだ……? 小娘の身体にワシの魔力は、危険過ぎると分かっておったはず……」

 

 ラピスはベルゼブブの様子を観察し、呪いが解けた際に生じる、記憶の混濁に似ているという印象を抱いた。

 何か、自分達の知らない別の要因が絡んでいる可能性を疑ったが、今はそれを追及する時ではないと判断した。

 

「……まさか、そのことが、今現在の騒動に繋がっておるとでも言うのか?」

 

「その通りです。あの日以来、その少女は閣下の強大な『暴食の魔力』に侵食され、異常な食欲と、それに伴う暴走に苦しめられてきました。……そして今日、彼女は完全に理性を失い、親しい友人を、そして住民の皆さんを呑み込みながら街を破壊し続けています」

 

 さらに召喚士が、沈痛な面持ちで一つの事実を付け加えた。コネクトリンクを通して伝わってきた断末魔。でびるんとクピャドエルが、おそらく既に彼女の腹の中に収まったという事実を。

 

「……な、何だと……?」

 

 ベルゼブブの瞳から、戸惑いが消えた。代わりに、辺りの空気が震え出すほどの、灼熱の怒りが溢れ出す。

 

「でびるんと……クピャドエルまでもが、喰われたと言うのか!? 召喚士よ、おぬし、そんな一大事に何をしておったのだ! おぬしならば、助けられたはずであろうが!!」

 

 鬼の形相で召喚士に詰め寄り、召喚士が悔しさで歯を食いしばり、俯いた。

 ベルゼブブは天井を見上げ、悲痛な叫び声を上げる。

 

「ベルは……でびるんはワシが手塩にかけて育ててきた……息子も同然の存在ぞ! クピャドエルも、召喚士と共にでびるんの幸せのため尽くしてくれた大切な仲間……! それを、あの魔獣の小娘が……ッ!!」

 

 ベルゼブブの腹にある邪口が、牙を剥き出しにして咆哮を上げた。

 

「許さん……断じて許さぬ! 召喚士よ、道を開けよ! 今すぐその化け物を探し出し、ワシの手で八つ裂きにしてくれる!!」

 

 伝説の大悪魔が放つ殺気に、練習室の防壁が悲鳴を上げる。

 あらゆる障害を喰らい尽くして進みかねない威圧感に対し、意外な人物が立ち塞がった。

 

「……ま、待ってください! いいい行かせません!」

 

 恐怖で腰を抜かしそうになりながらも、その前に立ちはだかったのはマルスだった。

 

「退け、ひ弱な魔術師よ。さもなくば貴様から喰らってやろうか」

 

「……ひ、ひぃっ……! で、でも、例えどんな姿に変わってしまったとしても、チュリンさんは私の……僕の大切な生徒なんです! お願いです! どうか、殺さないでください……っ!」

 

 生徒の未来を見守り、教え導く者としての矜持を胸に、マルスは涙を浮かべ、震える声で叫ぶ。しかし、ベルゼブブの怒りは収まらず、押しのけて突き進もうとする。

 そんな一触即発の事態を制したのは、召喚士が静かに提示した魔法の術式だった。

 

 それは、彼がでびるんの不調を治すために研究していた、薬液抽出の理論から着想を得たものだ。

 

「この術式は……?」

 

 ラピスがその構成を読み取り、驚愕に目を見開いた。

 それは「分離魔法」。一つに融合し、混ざり合ってしまった存在同士を、その本質を傷つけることなく、強制的に引き剥がすための大魔術とでも呼ぶべき代物だった。

 

 召喚士は、二人の魔術師と一柱の悪魔に説明を試みる。

 多大な魔力を得た今のチュリンを一人で抑え込むことは不可能だ。だが、この場にいる三人と一柱が多重魔方陣を展開し、増幅された分離魔法と召喚魔法を同時に行使すれば、彼女の体内に取り込まれた人々を、元の肉体のまま外へと具現化させ、救い出すことが出来るかもしれない。

 

「強制分離、及び個体再構成というわけですか。召喚士さん、正気ですか? 一度胃袋に収まり、魔力として融解が始まった存在を、再び『形』として取り出すなど、神の領域への不遜です。もし再構成に失敗すれば、取り出したものは肉の塊にすらならないかもしれないのですよ」

 

 召喚士は、震える手で術式を指し示し、静かに、だが退路を断つように説明する。

 彼女の腹の中にはまだ、でびるん達の、そして犠牲になった人々の魂の芯が残っているはず。それが完全に消化され、魔力の奔流に溶けきる前ならば。この多重魔方陣でなら、引きずり出せると。

 

 続いて彼はベルゼブブを見据え、懇願する。

 これを実現するためには、大量の魔力が必要だ。お互いにとってかけがえの無い存在であるでびるん達を取り戻すため、その力を「破壊」ではなく「繋ぎ止める」ために貸して欲しいと。

 

 ベルゼブブは、その傲岸な瞳を細め、唸るように言った。

 

「……承知した。その賭け、ワシも乗ろう。もし失敗し、でびるん達が戻らなんだ時は……ワシがこの街ごと、その化け物を喰らい尽くしてやるわ」

 

「ぼ、僕も……自信はありませんが、チュリンさんのためなら、全力を尽くします!」

 

 マルスも、その目に勇気の火を灯した。

 ラピスは、氷のような沈着さで指摘する。

 

「本来ならば、事ここに至っては危険分子として始末するのが魔術師としての正解です。……ですが、一人の教師として、あのような不幸な末路を生徒に辿らせたくはないのも、また事実。承知しました。あなたの無謀な賭け、わたくしもお手伝いしますよ」

 

 そういえば、と思い返すように呟く。

 

「あの子は、入学試験で面白いものを作っていましたね。魔法の下地等何もない辺境出身だと言うのに、よくここまで創意工夫を凝らせたものだと感心しましたよ。……あの才能が羽ばたいていく姿を見てみたいものです」

 

 こうして、目的も立場も異なる者達による、奇跡の共同戦線が結成された。

 

「準備に取り掛かるぞ。召喚士よ、あの小娘を、この『檻』へと召喚する手筈を整えよ」

 

 ベルゼブブの号令の下、魔法練習室に再び巨大な魔力が渦巻き始める。

 それは、一人の少女を、そして彼女の腹の中で消えゆこうとしている命達を救い出すための、最後の、そして唯一の希望の儀式だった。

 

***

 

 熱い。

 

 お腹が空いた。

 

 喉が渇いた。

 

 もっと食べ物を。

 

 もっと魔力を。

 

 何も、満たされない。

 

 泥を飲み込み、沸騰した鉛を喉から直接流し込まれているような、悍ましいまでの飢餓感が私の内側を焼き尽くしていた。

 私の意識は、冷たい深海の底に沈んだ沈没船のように、もはや言うことを聞かない肉体の奥深くに置き去りにされている。視界は鮮血の色に染まり、耳に届くのは、私自身の喉が鳴らす、卑しくも巨大な嚥下音と、何かを噛み砕く湿った音ばかり。

 

 ラミアが植え付けた呪い。それが、壊れかけた理性の箍を、跡形もなく粉砕してしまっていた。

 

 私の身体は、もはや私自身の意志など一欠片も受け付けない。

 指先の一つ、視線の先の一つさえも、私という「意識」はただの傍観者へと突き落とされ、内側に潜むケダモノが私の輪郭を借りて残酷なパレードを繰り広げていた。

 

 鼻腔を突くのは、かつて大好きだった焼き立てパンの芳醇な香りではない。

 目の前にあるのは、学校の帰りにいつも立ち寄っていたパン屋の石造りの壁だった。かつてはその扉を開けるたびに心が躍ったはずの場所が、今の私には、進路を遮る障害物であり、同時に飢えを凌ぐための餌でしかなかった。

 

 反射的に、壁に噛み付く。硬いはずの煉瓦や石材が、熟しきった果実のようにたやすく砕け、砂利と共に口の中へと崩れ落ちる。店内に並んでいた真っ白な小麦粉の袋も、職人さんが毎日手入れしていた木製の棚も、そこに染み付いた温かな店主の想い出も、すべてを等しく質量として咀嚼し、胃袋の暗黒へと流し込んだ。

 

 次に視界に入ったのは、大通りから少し外れた場所にある、こじんまりとした、しかし新築の清々しさを残す一軒家だった。

 壁に露出している木材に齧り付くと、それはまるで幾層にも重なったパイ生地のような食感でボロボロと砕け、私の口の周りに木屑がこびり付く。

 鉄製の玄関を蹴り破り、廊下の床を剥ぎ取り、壁をもいでは、歩きながら摘まみ食いを繰り返す。目指す先は、この家で最も濃い魔力が眠る場所。家主とその家族が、すやすやと眠っている寝室だった。

 扉を食い破って侵入すると、凄まじい破壊音に覚醒させられ、眠い目をこする若い夫婦と小さな子供が、そこにいた。

 

『……逃げて、お願いだから、誰か……ッ!』

 

 心の中の私が、喉が裂ける程に叫ぶ。けれど、現実の私の口から漏れるのは「ギ、ガァァァ……ッ!」という、聞くに堪えないケダモノの咆哮だけだった。

 

 私はまず、夫と思われるウサウサ族の男を片手で持ち上げた。事態を理解する時間さえ与えずに、私はその身体を淡々と呑み込んだ。ミーティアを飲み込んだあの時、限界を超えて顎を開く感覚には、もう慣れてしまっていた。

 目と鼻の先で、愛する者が奪われたことを認識したイヌイヌ族の女が、劈くような悲鳴を上げる。私はその女を掴み、その柔らかい肉質を感じながら、丁寧に味わって喉の奥へ送り込んだ。

 最後に一人残され、大粒の涙を浮かべて呆然とする子供を摘まみ上げる。抗う力もないその小さな身体は、まるで小さなチョコのように簡単に口の中へと吸い込まれていった。

 

 家族一同を腹の中で再会させると、私の体格には到底似合わぬ程に引き延ばされた腹が、異様な膨らみを見せる。胃壁の内側から上げられる、誰にも届かない悲鳴が響く。四方八方へと突き出される手足の形が、私の皮膚を裏側から悍ましく押し広げ、蠢く。

 しかし、ケダモノとしての私は一切動じることなく吸収を始めた。消滅の恐怖に震える家族の断末魔、それら全てを無慈悲に、純粋な魔力へと変換していく。

 

 そして次の標的へ、ただひたすらに喰らい続ける。ペースを早めるごとに、犠牲者の数は指数関数的に増えていく。

 

 ソルシエの街は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変貌していた。

 惨劇を目の当たりにした人々が、半狂乱で叫びながら、私という捕食者から逃げるため思い思いに走り去って行く。瓦礫と化した家屋から火の手が上がり、血走った目を爛々と光らせる私を、背後から業火のように照らしていた。

 

 私は家屋を飛び越え、逃げ惑う人々の群れに飛び込む。すると、真夜中に急遽招集された警察官や機動隊の方々が、決死の表情で杖を構えているのが見えた。

 

「撃てぇッ! 怯むな、総員斉射!!」

 

 隊長の号令と共に、無数の魔法が放たれる。

 放射される紫電の矢、凍てつく氷塊、強烈な爆風。それらは確かに私の身体を捉え、皮膚を焼き、肉を抉ったはずだった。だが、私はそれを「痛い」とも、「熱い」とも感じなかった。

 あろうことか、私の皮膚は魔法の衝撃そのものを濃厚な魔力の塊として認識し、歓喜の声を上げて吸収し始めたのだ。傷口が瞬く間に塞がり、魔力を糧にしてさらなる強度が上書きされていく。

 

 私の身体は、自身を脅かす敵を正確に認識した。矢継ぎ早に放たれる魔法を無視して突っ込み、悲鳴を上げる魔術師達を一人ずつ捕らえては、順番に喰らい付き、丸呑みにして力の一部へと変えていく。

 

 外見に、劇的な変化はまだ現れていないかもしれない。それでも、私には分かっていた。

 でびるんさんを取り込み、多くの住民を呑み込んだ私の体内では、魔力が異常な密度で圧縮され、空間そのものを歪ませ始めていた。私の周囲には、肉体には収まりきらない濃厚な魔力の霧が漂い、私が一歩踏み出すたび、石畳は圧力によって粉砕され、微細な砂へと変わっていく。

 その威容は、大昔の文献に記されていた、暴食の悪魔が山をも喰らい尽くしたという破壊神の姿に、刻一刻と近づいていた。

 

 ふと、視界の隅に、瓦礫の陰でうずくまる小さな子供の姿を捉えた。

 

『ダメ。それだけは、絶対にダメェッ!』

 

 私は必死で、足にブレーキをかけ、伸びる腕を抑えようとした。

 しかし、私の肉体は冷酷に、そして慈しむように、その子を両手で掬い上げた。

 

「……た、すけ……て……」

 

 涙でくしゃくしゃになった顔を舐めるように一瞥した私は、見定めは済んだとばかりに大口を開け、その子の表情を絶望に染める。

 

「んぐ……っ、ん、んむ……ッ」

 

 小さな悲鳴が遮られ、生暖かい感触が喉を通り、胃へと落ちていく感覚が全身を走る。

 その子が腹の中で泣き叫び、壁を叩く振動が、私の神経を通じて脳に直接届く。

 

『……ごめんなさい。ごめんなさい……ッ!』

 

 魔術師になりたいという無邪気な祈りは、いつしか世界を蹂躙する牙へと変貌していた。

 私の胃袋には今、無実の犠牲者の声が満ちている。差し伸べられた温かな手も、背中を押してくれた数多の期待も、全ては私が食い散らかした餌に過ぎなかった。そして、その最果てで。

 

 唯一無二の光であった親友までも、私は暗黒の底へと呑み下そうとした。

 

 こんな夢に、焦がれなければよかった。

 

 触れるもの全てを壊し、関わるもの全てを汚す。そんな歩く災厄として産み落とされるくらいなら、私は最初から、母の胎内で息絶えているべきだった。

 

 終わりのない地獄を彷徨う絶望の淵で、私は、溢れ出しそうな涙を憎しみに変えて、ひとつの誓いを立てた。

 この惨劇に、私自身の命を持ってけじめを付ける。だがその前に、私をこんな怪物に仕立て上げ、この街を、私の大切な居場所を壊そうとしている「あの女(ラミア)」にだけは、必ず報いを受けさせるのだと。

 

……

 

 その時、ふと視界に見慣れないものが混じり始めた。

 夜の闇の中に、吹けば飛んでしまいそうな程細く、繊細な光の糸が幾重にも織り重なり、川のように流れている。

 その糸が私の肌に触れるたび、内側からじわりと渇きが癒やされ、醜い欲望が満たされていく感覚があった。

 

 ――魔力だ。

 

 でびるんさんを吸収したことで、悪魔特有の魔力感知能力が、私の意識にも伝播していた。今の私には、世界が剥き出しのエネルギーの奔流として見えている。

 

 視線を走らせると、街の中央に聳え立つ、高さ数百メートルの巨大な時計塔――その最上部にあるバルコニーに、ひときわ禍々しい、どす黒い赤色の魔力が渦巻いているのが見えた。まるで噴出する血そのもののような、不吉な輝き。

 

 目を凝らすと、私の眼はその全容を詳らかにした。

 そこには夜闇の中で爛々と瞳を輝かせ、愉悦に頬を歪ませるラミアがいた。

 彼女は、燃え盛る街と、人々の悲鳴を、まるで極上の演劇でも鑑賞するかのように見下ろしていた。この惨状こそが彼女の真に望んだものであり、これ以上の悦楽は存在しないといった様子で、恍惚とした表情を浮かべている。

 

 ――許さない。絶対に、許さない。

 

 心の底から沸き上がる純粋な憎悪が、ついに肉体の制御を強制的に上書きした。

 私の身体が、獲物を狙う獣のような俊敏さで、石畳を猛烈に蹴り上げる。建物の壁を垂直に走り、屋根から屋根へと跳躍しながら、最短距離で時計塔へと向かった。

 「獲物を追い詰め、丸呑みにする」という暴食の本能と、私の「殺意」が完全に合致した瞬間、呪われた肉体は驚くべき従順さで私の意志に応えたのだ。

 

 風を切り裂き、私は時計塔の垂直な壁に取り付いた。

 爪を石壁に深く食い込ませ、重力を無視する速度で駆け登る。カチ、カチと巨大な時計の針が刻む音が、私の早鐘を打つ心臓の鼓動と重なり、頭蓋の奥で鳴り響いた。

 

 頂上に到達した私にラミアが気付く。

 驚く風もなく、杖の宝玉を淡く光らせると、ふわりと空中に浮き上がった。

 彼女は私を見下ろし、嘲るように唇を歪めた。

 

「ふふ、化け物に生まれ変わった気分はどうかしら、チュリン? 素晴らしい力でしょう? アタシね、まだまだ全然見足りないの。きっと底が抜けているのね」

 

 眼下に広がる惨状を、まるで物語のクライマックスに心打たれた観客のように、感極まった表情で腕を広げ、彼女は夢心地で語りかける。

 

「もっと派手に、もっと凄惨に、無辜の人たちが狂い叫び、逃げ回る様子を見たいわ。自分達が必死に築き上げた建物が、刻まれた記憶が、その忌々しい文化そのものが粉々に砕けて燃え盛る様子を……もっと近くで感じたいのよ」

 

 己の言葉に感化されたのか、穏やかだった語り口に火が付き、段々と燃え広がるような激情に染まっていく。

 

「そうよ、私を除け者にして、ストレスの捌け口にする屑共なんて、全部燃やしてしまえばいい! くだらない家柄のために、アタシという才能を型に嵌めて、お人形さんのように仕立て上げようとしたあいつらの……あいつらの大切にしている世界を、全部粉々にしてやるわ! 全てを、この世界の全てを壊してやりたい!」

 

 心に詰まっていたどす黒い厄をすべて吐き出し、魔力切れでも起こしたかのように、ふっとラミアの力が抜けた。

 俯いた頭が、壊れた人形のようにぎこちなく私の方を向く。その顔は、この惨劇の場には到底相応しくない程に晴れやかで、可愛らしく……生物としての根源的な恐怖を煽るものだった。

 

「アンタは、アタシと似ているわね。自分だけ、色々なことがままならなくて、優れた周りに嫉妬したから……だから、あんな綺麗な炎を噴き上げたんでしょう? いいわ、一緒に楽しみましょうよ。こんなところで油を売っていないで、早く街に戻って。もっと破壊の限りを尽くしなさい。それが、今のアンタの役目なのよ」

 

 彼女の声が、頭蓋に直接響く毒のように流れ込んでくる。

 私は言葉を返せない。ただ、喉の奥から這い出るような、ケダモノの唸り声を上げるだけだ。理性のある私の意識は「黙れ」と叫んでいるのに、口から出るのは溢れる唾液と、言葉にならない咆哮のみだった。

 

「ふふ、主人に牙を剥くなんて、無礼にも程があるわね。少し躾が必要かしら。首輪を付けてあげましょう」

 

 ラミアが杖を振るうと、夜の凍りつく空気を焼き焦がすような極太の火炎放射が放たれた。

 私はバルコニーの足場を蹴って空中へ逃げるが、火炎の余波が私の腕を焼き、熱に当てられた皮膚がジリジリと火傷を増やしていく。超常的な再生速度さえ追いつかないほどの火力。

 

 壁に取り付いた私目掛けて、再度、火炎の濁流が襲いかかる。

 横っ飛びで躱すも、逃げ場の少ない空中で火炎の余波まで避け切ることは叶わない。

 

 ラミアの杖の宝玉に、爬虫類の瞳孔を思わせる一本線が浮かび上がった。そこから収束された炎線が吹き出し、あらゆる物質を塵にせんと唸り声を上げる。それは、巨大な龍が怒り狂い、全てを無に帰すブレスを吐き出しているようだった。

 

 ――このままでは、ジリ貧だ。

 

 焼け付く手足を叱咤し、火炎放射の直撃をすんでのところで躱しながら、私は時計塔の足場を飛び回った。僅かな隙――詠唱の合間を見つけ、私はラミアに飛びかかる。今すぐにでも、その悍ましい思考を宿した頭ごと、呑み込んでやるために。

 

 しかし、至近距離まで飛び込んだその瞬間。

 虚空に罠のように仕掛けられていた魔法陣が、網を広げるように浮かび上がった。霧状の鎖が蛇の如く這い出し、空中で私の四肢を空間に縫い付けた。

 

「さて、これはどう対応するのかな?」

 

 ラミアの冷徹な声。眼前で、爆発的な火炎が渦を巻き、瞬く間に私を飲み込んだ。

 全身の水分が奪われ、皮膚が焼き焦がされていく。あらゆる穴から火炎が侵入し、熱さで喉が潰れる。

 声にならない悲鳴を上げたくても、肺までもが業火に達し、呼吸さえ奪われる。

 このまま灰となり、崩れ落ちていくかと思われたその時。

 命の灯火が消えかける極限の窮地で、私の肉体は、さらなる生存本能による変異を強制的に開始した。

 

 ――メキメキ、と。

 肉が裂け、骨が軋む鈍い音を立てて、私の腹の皮が大きく割れた。

 痛みはなかった。あるのは、全てを喰らい尽くしたいという、底なしの食欲の解放感だけ。

 そこに出現したのは、暴食の悪魔と同じ、毒々しい赤い舌を覗かせた巨大な邪口だった。

 

 腹に生まれたその口は、瞬く間に周囲の火炎を吸い込み、私を縛り付けていた黒い鎖をも噛み千切って胃の中に収めた。全てを、自らの魔力として変換するために。

 

「……へぇ」

 

 急ピッチで細胞を再生し、再び視界を取り戻した私に対し、ラミアが面白そうに声を漏らす。

 窮地を脱した私は、その勢いのまま彼女に肉薄し、強靭な顎を目一杯に開いて食らいついた。

 

 しかし、あと一歩というところでラミアが盾のように構えた杖が邪魔に入り、衝撃波と共に私は突き飛ばされ、距離を離される。

 

「きゃはっ! アンタ、やっぱり面白いわね! 必要に迫られれば、いくらでも進化して強くなれるなんて、理想的な化け物じゃないの。いいわ、もっと追い詰めてあげる。もっともっと、可愛くて醜い姿に生まれ変わっていこうねぇ!」

 

 ラミアは気色の悪い笑みを浮かべ、首を奇妙な角度に傾けながらそう宣った。

 

***

 

 戦いは、文字通りの熾烈を極めた。

 時計塔の限られた足場を縦横無尽に駆け回り、死角を突こうとする私に対し、ラミアは嘲笑いながら指先を振るう。彼女が放つ火炎放射は時計塔の石壁を赤く焼き、木製の梁を舐め、徐々に逃げ場を火の海で塗り潰していく。

 

 それだけではない。火炎の合間に放たれる紫電の刺突、大気を切り裂く真空の刃。それは私の反射神経の限界を試し、ミスを誘うための冷酷で狡猾な遊戯であった。

 腹の邪口が魔法を吸収し、傷を癒やす。だが、その再生速度さえラミアの破壊は上回ろうとしていた。膨大な魔力を持ちながらも、野生のケダモノと化した私には「戦術」がない。いたちごっこの果てに、私は確実に死の淵へと追い詰められていた。

 

「ほらほらぁ、どうしたの? 逃げてばかりじゃ『食事』にありつけないわよ! アタシを殺したいんでしょう? もっと化け物らしく、無様に抗ってみせなさいよ!」

 

 空中に浮かぶ魔女は、愉悦に瞳を細め、踊るように杖を振るう。

 

――どこかで、不意を突かなければ、この女には届かない……!

 

 その時、避けたはずの火炎が爆ぜた。崩れ落ちるバルコニーの突起に足を奪われ、私は転倒する。無防備に晒された脚が延焼する業火に焼かれ、私の口からケダモノの悲鳴が漏れた。

 それを見たラミアは、心底退屈そうに深く、長くため息をついた。

 

「うーん……やっぱり、適当に傷付けるだけじゃ『進化』のトリガーにはならないのかしら。一度、心臓が止まるくらいの絶望を与えてあげなきゃダメね。……じゃあ、全部。塵も残さず焼き尽くしてあげる」

 

 空間が、歪んだ。

 禍々しい赤黒色の魔力が、彼女の杖の宝玉へと収束していく。周囲の空気が呻き声を上げ、大気が震える。私の本能が、全身の細胞が、最大級の「死」が来ることを察知して震え上がった。

 

地を這う愚民の骸よ、(ラメモリア・)我が嘆きの炉にて(サントラ・)追悼の火を灯せ。(フェイル) 天翔ける神々よ、(オスキャ・)星海を灼く怨嗟の(モスリィーゼ・)雷に見伏すがいい(ガリネ)

 

 ラミアが目を閉じ、深い断罪の詠唱を紡ぐ。周囲の温度は瞬く間に跳ね上がり、時計台の水分を、そして私の体液さえも干上がらせていく。

 今、ここで彼女を止めなければ、全てが終わる。

 朦朧とする意識の中、指先に触れたのは、燃え残ったローブの裏側に隠されていた小さな硬い感触だった。取り出した小瓶の中には、濁った琥珀色の液体。数時間前、でびるんさんが私に託してくれた鎮静薬だ。

 

 考える暇などなかった。私はそれを瓶ごと邪口へと放り込み、全力で噛み砕いた。

 舌を刺す猛烈な苦味が広がると同時に、脳内を支配していたケダモノの霧が、劇的に晴れていく。

 魔法を、理を組み上げる知性と理性が、鮮明に蘇る。

 私が選んだのは、かつてミーティアと共に受けた補習で、珍しく成功させた初歩の水魔法だった。あの時は、杖先に小さな水球を作るのさえ精一杯だったけれど。

 

「|万物の母、古の海よ。慈悲の恵みを、眼前に顕現せよ《ノッド・シーライカ》!!」

 

 それはもはや、魔法と呼べる規模ではなかった。

 数百人分の魔力を喰らい、蓄えられた異常な魔力が、私の祈りを形にする。

 時計塔の頂上から溢れ出したのは、私の故郷、マナウイ海域の荒々しくも美しい海流そのものだった。島々を繋ぎ、生命を育む青き奔流が、天空から爆発的に噴出したのだ。

 

「なっ……! 灰に、灰に埋もれなさい!!」

 

 ラミアの放つ憎悪の業火と、私の母なる海が正面から激突する。

 凄まじい衝撃波と、視界を白一色に染める水蒸気。時計塔ごと全てを焼き尽くさんと放たれた龍の憤怒は、全てを包み込み、鎮める海流の前に、その勢いを削がれていく。

 圧倒的な質量をもって勝ったのは、故郷の香りを纏った青い波濤だった。

 

「うそ……アタシの魔法が、押し負けるなんて……ッ!」

 

 災害規模の一撃を破られたラミアは、呆然としたまま濁流に呑み込まれ、押し流される。

 私は水の流れに身を投じた。久々に全身で触れる水の感触に、身体が歓喜する。私は海流に乗って自らを弾丸に変え、体勢を崩したラミアとの距離を瞬く間にゼロにした。

 

 霧の中から躍り出た私の渾身の頭突きが、彼女の額を捉える。

 鈍い音と共に、ラミアの手から杖が離れ、闇の底へと消えていった。

 無防備になった彼女へ、私は逃がさぬよう覆い被さる。

 

 皮肉なことだった。この悪夢を終わらせるための武器を、私は何一つ持っていなかった。魔術師としての杖も、彼女を拘束する術も、今の私にはない。 残されているのは、忌まわしい捕食者の肉体と、理不尽に広がるこの「口」だけ。

 悔しくて、惨めだった。正義を成そうとする最後の瞬間まで、私は彼女と同じ「化け物」のやり方を選ばなければならないのか。心の中の私が拒絶の悲鳴を上げるのを無視し、私は自分自身の「業」を受け入れた。

 

 腹の邪口が、限界を越えた大きさで顎を開かせた。

 

「はなっ、離しなさい! いやあ゛あ゛あああッ!! ……んぐっ、ぐぶあ゛あ゛ぁッ!!」

 

 熱く湿った肉の壁が、ラミアを包み込んでいく。

 彼女の全身を胃袋へと引きずり込む過程で、激しい抵抗が伝わる。手足が私の内臓を蹴り飛ばし、爪が粘膜を必死に掻き毟る生々しい感触。

 しかし、魔杖を失い、物理的な力を持たない彼女の抗いなど、今の私には羽虫の羽ばたきほどにも感じられなかった。

 

 彼女が完全に私の中へと収まった瞬間、これまでにない呪詛の絶叫が内側で鳴り響いた。

 

「出しなさい! 出しなさいよ、こんな薄汚い場所から!! このケダモノ! 出来損ないの癖に、死に腐れえぇぇッ!!」

 

 ラミアは私の胃の中で、正気を失ったように暴れ回る。

 内側から細胞を壊し死滅させる呪い、金をも腐らせる毒の霧。しかし、私の胃壁は邪口と直結し、彼女が放つ魔法を片っ端から吸収し、糧に変えていく。暴れれば暴れるほど彼女の魔力は失われ、皮肉にも私の血肉となって同化していく。

 

 ドクン、と。

 

 これまでに経験したことのない巨大な魔力の拍動が、胃袋から全身へと突き抜けた。ラミアの命を糧として、私の細胞が、骨格が、さらに強固な破壊の化身のそれへと強制的に上書きされていく。

 けじめを付けるために振るったはずの牙が、結局は私をより強大な、より完成された「化け物」へと至らせてしまう。

 命を救いたいと願うほどに、命を奪う力が研ぎ澄まされていく矛盾。内側から湧き上がるこの全能感こそが、今の私にとって最大の屈辱であり、絶望だった。

 

 吸収された魔力は、粘つく熱を伴って私の脳に直接流れ込んできた。それは言葉という形を成さない、彼女が抱え続けてきたどす黒い記憶の奔流だった。

 

 完璧を求める親からの冷徹な眼差し。どれだけ努力しても「欠陥品」と切り捨てられた幼い日の絶望。唯一の拠り所だった魔法さえも、家柄を飾るための道具としてしか認められなかった孤独。

 「私を見て、私を認めて」という幼い悲鳴が、長い年月をかけて「世界なんて壊れてしまえ」という凶行へと歪んでいく……その長く、孤独な過程が、私の内臓に消えない火傷のように焼き付いていく。

 

『……ああ、私と、同じだ……』

 

 出会う場所が、出会う時が違っていれば、私達は友達になれたのかもしれない。

 彼女が抱える闇の深さは、私の想像を絶するものだった。それでも、私達は同じ「ままならなさ」に絶望し、世界から零れ落ちてしまった者同士だったのだ。

 あるいは、彼女が私にかけたこの呪いがあるからこそ、私達は誰よりも深く、その魂の痛みを分かち合えたのかもしれなかった。 

 

「アタシは死ねない! まだ、この世界を……マジリシアを灰にするのを、見届けるまではぁッ!!」

 

 胃の中から邪口を押し広げ、粘液に塗れた細い腕が外へと突き出した。必死に空を掴もうとするその指先は、溺れる者が藁をも掴もうとするかのように悲痛に震えている。それでも彼女は、泥を啜り、他者を踏みにじってでも、自らの存在を証明するために生きることを諦めない。

 

 ……だけど。

 彼女が最終的に行き着こうとした場所は、私が愛したいと願った世界とは、絶対に相容れない地獄だった。

 この悲しみを終わらせるために。私が彼女に引導を渡す理由は、それだけで十分だ。

 

 私は、ラミアが中で暴れる自分の腹を、両腕で力の限り締め付けた。

 ミーティアの時とは違う。これは甚振るためではなく、息の根を止めるための抱擁だ。

 肉が潰れ、骨が軋み、へし折れる音。怨嗟の声が、激痛に悶える絶叫へと変わる。

 

「あぎゃあ゛あ゛あ゛あぁぁ!! いや……嫌ぁぁ……ッ!!」

 

 一際大きく、裂けるような悲鳴を最後に、嵐が去ったような静寂が訪れた。

 腕の力を緩めると、後に残ったのは、消え入りそうな命の残滓だけだった。

 

「……おとうさま……おかあさま……」

 

 それが、一人の魔女の最期だった。

 

 厳格な家に生まれ、期待という呪縛に応えられずに歪んでしまった魂の、震えるような独白。

 声が途絶えた瞬間、彼女の魔力は濁流のように私の血肉へと溶け込み、完全に消失した。

 

 重い喪失感と共に、私の意識を繋ぎ止めていた鎮静薬の効力も、終わりを告げようとしていた。

 

……

 

 再び、意識の端から泥のような本能が侵食してくる。

 もう、薬はない。次に自我を失えば、私は二度と自分を取り戻せない。強大になりすぎたこの肉体で、今度こそ世界そのものを食らい尽くしてしまうだろう。

 

 私は、時計塔のバルコニーの縁に立った。

 眼下には、火が消え始め、静寂を取り戻そうとするソルシエの街が見える。私のせいで、私が壊してしまった街。

 頭上を見上げれば、あの日ミーティアと一緒に見上げたのと変わらない、どこまでも澄んだ星空が広がっていた。

 

 その美しさを、脳の芯に焼き付けるように見つめる。

 自然と涙が溢れ出した。この涙は星の美しさへの感動か、それともこの場所で生きられないことへの悔恨か。感情はぐちゃぐちゃに混ざり合い、もう正体さえ分からない。

 

 寮の部屋で一緒に薬品を調合した日。薬品の匂いに顔を顰め、気付けば窓の外に一番星が覗いていた。

 いつか、空気が綺麗な場所へ二人で行って、もっとたくさんの星を見ようね――。

 そう誘ってくれたミーティアの声が、昨日のことのように耳を掠める。

 

「ごめんね……もう、その約束は……守れそうにないよ」

 

 私は、街のために、そして私自身のために、けじめを付けることに決めた。

 これ以上、誰かを食べてしまう前に。私自身の手で、私を終わらせる。

 

「……さよなら。ミーティア、先生、お父さん、お母さん、みんな……」

 

 重すぎる身体を、冷たい夜風へと投げ出した。

 ふわりと身体が浮き、すぐに重力に引かれ、石畳の地面へと真っ逆さまに堕ちていく。

 風を切り裂く轟音が、今の私には優しい子守唄のように聞こえた。

 これでいい。このまま砕け散れば、私の罪も、呪われた食欲も、すべてが終わる。

 

 激突の衝撃を覚悟し、静かに目を閉じた、その直前。

 

 何もないはずの空中に、目も眩むような鮮やかな紫色の魔法陣が、巨大な花を咲かせるように展開した。

 それは落下する私の身体を優しく受け止めるように包み込み、凄まじい落下の衝撃を柔らかな光へと変えていく。

 

「……え……?」

 

 痛みはなかった。

 代わりに、温かな、どこか懐かしい光に全身を包み込まれる。

 私はそのまま次元の狭間へと吸い込まれ、夜のソルシエから、その姿を消した。

 

 続く ( 次回、最終話 )

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