おトモダチの味 ―― 暴食の少女と星天の約束 作:丸呑みトカゲ
終焉の惨劇は、一人の教師の限界から静かに、そして唐突に始まった。
変異したチュリンが纏う「水の鎧」から放たれる激流は、堅牢な防壁を削り取り、床を砕き、召喚士が展開する防御障壁を無慈悲に圧迫し続けている。
召喚士の額には真珠のような汗が浮かび、障壁を維持するために全精神を削り出していたが、分離魔法の詠唱は途絶え、四人はただ押し潰されるまでの無為な時間を稼ぐことしかできない。
「だめ……です、もう……意識が……っ!」
頭部に深手を負っていたマルスは、自身を圧殺せんとする重圧に意識の糸をかき乱され、朦朧とした。あと一分――いや、数十秒も持たずに彼の限界は訪れ、それを皮切りに脆い均衡は一気に崩壊するだろう。
移ろう意識を必死で支えながら、マルスの心に本音が零れ落ちる。
――魔法学校の教師というのは、なんて難儀な仕事だろうか。
教え導くことが本分だと思っていた。だが、生徒を守るために、専任の魔術師すら手に負えない規模の暴力的な魔法をこの身で受け止めねばならない日が来るとは。
それでも、マルスは教師になると決めた日の矜持を思い出し、奥歯を噛み締める。
世の中には、自分よりも遥かに才能に溢れ、輝かしい未来を秘めている若者が数えきれない程いる。しかし、正しく導く者がいないだけで、その未来は容易く暗転してしまう。不条理に奪われていった惜しむべき人々を、彼は何度も見てきた。そんな悲劇をこれ以上許せなくて、彼は教育の門を叩いたのだ。
目の前の顔馴染みの生徒は、数日前まで学問への熱意が込められた利発そうな瞳で、彼を見つめていた。
今は、別人かと見紛う程に食欲に支配された瞳で、自分達を獲物として見つめていることが分かる。
ここで止められなければ、この子はどうなるのか。変わり果てた姿で街を蹂躙し、最後には熟練の魔術師に無慈悲に討伐されるだろう。そこに本来歩むはずだった未来など、何の面影もありはしない。
――目の前の生徒を、化け物呼ばわりされたこの子を……私が諦めてしまえば、一体誰が、彼女を導けるというのか!
震える膝を叱咤し、マルスが再び杖に力を込めたその時。
限界は、無慈悲な音を立てて訪れた。
マルスが握りしめていた杖が、魔力の奔流に耐えきれずに砕け散る。次の瞬間、彼を襲ったのは壁のような水圧だった。
「がはっ……!!」
悲鳴を上げる間もなく、マルスの身体は木の葉のように吹き飛ばされ、練習室の壁へと激しく叩きつけられた。既に極限まで揺さぶられていた意識が衝撃に耐えきれるはずもなく、彼は糸が切れた操り人形のように崩れ落ち、沈黙した。
……
チュリンが放つ水の鎧の奔流は、四人の全力が拮抗して初めて支えられていたものだ。その一角が欠けた今、崩壊は必然だった。
防御障壁が水圧に押し潰されるように破壊される。剥き出しになった召喚士、ラピス、ベルゼブブは、濁流に呑み込まれ、広大な練習室内へと散り散りに流された。
その決定的な隙を、ケダモノは決して見逃さなかった。
チュリンは奔流に身を任せ、散り散りになった獲物たちへ、冷酷な各個撃破を開始した。
最初に選ばれたのは、最も厄介な「時」を操る男、ラピスであった。
急速に迫り来る化け物の気配に、ラピスは瞬時に反応した。体勢を立て直す間もない極限状態。彼は即座に自身の切り札である時間干渉魔法を発動し、この場の全員を回収しての緊急離脱を図ろうとした。
「
世界から色が剥落し、静寂が訪れるはずだった。
だが、異変は術者自身の身に起きた。
ラピスの視界から色が失われ、指一本動かせない金縛りのような感覚が彼を襲ったのだ。自分の魔法が、自分自身を縛り付けている。
そして、本来誰も動けないはずの凍りついた時の中で、悠然と歩み寄る者がいた。
この空間で唯一、鮮やかな色彩を失っていない存在――チュリンであった。
『……やはり、あの時の違和感は本物でしたか』
ラピスは、動かぬ身体の中で冷静に絶望を噛み締めた。
最初に時間干渉魔法を行使した際、彼女の邪口が見せた微かな痙攣。あれは、初回の接触で既に時間干渉の理に順応し始めていた兆候だったのだ。それでも、この窮地を脱するにはこれに賭けるしかなかった。
結果は無惨な敗北。暴食の魔力は、魔法そのものを喰らい、逆に術者をその理の中に封じ込めるカウンターとして機能していた。
『暴食とは、これほどまでに貪欲で、理不尽なものですか……』
ラピスは自身の命運が尽きたことを悟り、観念したように、静かに瞳を閉じた。
動けないまま、巨大な顎が目前に迫る。やがて、ぬるりとした闇の中へと自身が収まっていくのを感じながら、彼の脳裏に走馬灯が駆け巡った。
それは、教師として教鞭を執ったソルシエでの日々ではない。ローゼリアの森深く、霧の帳に包まれた「紅月館」での記憶だった。
かつて、世界中に散らばる稀少な魔術書の探求に明け暮れ、旅をしていた若き日。予期せぬ窮地に陥り、命からがら逃げ延びた果てで、彼は一人の少年に拾われた。燃えるような赤の体毛を持つ、トラトラ族の少年――ルビーとの邂逅。
助けられた恩も束の間、暴君の如き傲慢さで決闘を挑んできた彼を、ラピスは華麗に、そして徹底的に叩き伏せた。その実力を見込んだ城主からの懇願を受け、家庭教師として身を置くことになったあの日々。
温厚で、慈愛に満ちたメイドのレイチェル。無表情な少女の仮面の下に、悠久の時と叡智を隠した城主ローズ。そして、傲慢で高飛車、悪逆非道を気取りながら、何度負かされても懲りずに勝負を挑み、悔しがる愛すべき教え子、ルビー。
色が剥落していく世界の中で、彼らと過ごした時間だけが、最も大切で、鮮やかな色彩を帯びた景色として輝いていた。
『……ルビー様、どうかお元気で』
音にならない最期の別れを遺し、ラピスは時を止められたまま、チュリンの胃袋の深淵の底へ消えていった。
……
世界に色が戻り、時間が動き出す。
怪力にものを言わせ、激しい奔流を強引に突破したベルゼブブは、チュリンが向かった先にいるはずのラピスの姿を探した。だが、そこにはチュリン以外、誰もいない。
いや、正確には――チュリンの纏う禍々しい魔力の中に、微かにラピスの波長が混じり始めているのを、悪魔の鋭い感覚が捉えてしまった。
「……貴様、まさか……!」
ベルゼブブは、数瞬に過ぎない僅かな時間の合間に、あの翠色の小娘の皮を被った化け物は、
ベルゼブブは激昂し、身の毛もよだつ咆哮を上げた。
亜空間の裂け目から引き抜かれたのは、彼の背丈を優に超える長大な魔槍。それはかつて悪魔と天使の戦争で数多の敵を串刺しにした、必殺の武具だ。ベルゼブブは音速を超える踏み込みと共に、チュリンの心臓めがけて槍を突き出した。
重い金属音が悲鳴のように鳴り響く。
しかし、その切っ先が彼女の胸を貫くことはなかった。 チュリンはあろうことか、迫りくる神速の槍に自ら食らいつき、その大顎で受け止めたのだ。
「なッ!?」
バリボリ、と耳障りな音が響く。彼女のアギトは、鋼鉄よりも硬い魔槍の穂先をビスケットのように砕き、咀嚼し、嚥下してしまった。
武具すら餌と見なす怪物に対し、ベルゼブブは即座に悟る。小手先の攻撃など無意味だ。
彼の全身から漆黒の瘴気が噴き出す。魔獣に近い身体の輪郭が崩れ、背中からは禍々しい羽音を立てる四枚の羽が出現する。筋肉が膨張し、外殻が形成され、顕現したのは「蠅の王」の名に相応しい、見るもおぞましい巨体。それは魔獣などという生温かいものではなく、まさしく破壊神そのものの威容だった。
ベルゼブブは巨大化した腕を振り上げ、チュリンを地面ごと叩き潰すべく襲いかかった。その一撃は、城壁すら粉砕する質量と魔力が込められている。チュリンが細い腕で防御しようとも、物理的な重さで圧殺できるはずだった。
「オオオオオオオオッ!!」
巨大な拳がチュリンを捉え、地面に蜘蛛の巣状のひび割れを作る。ベルゼブブはそのまま体重をかけ、彼女をミンチにするべく力を込めた。勝った、と確信した瞬間だ。
――ジュルリ。
拳の下から、場違いな、粘つく水音が聞こえた。
違和感はすぐに訪れた。拳に力が込められない。いや、力が抜けていく。チュリンに触れている拳の接地面から、体内の魔力、体力、生命力、あらゆるエネルギーが急速に吸い上げられている。滝のように流れ出る力の奔流。それは、先ほどの魔法吸収など比較にならない吸引速度だった。
「まさか、貴様……この質量ごと……吸って……ッ!?」
拳の下から聞こえるのは、苦悶の声ではなく、歓喜のあえぎ声。彼女にとって、この押し潰される圧力すらも、極上のメインディッシュだったのだ。
「おのれ……離れよッ!」
ベルゼブブは慌てて距離を取ろうとするが、すでに遅い。
見る見るうちに巨体がしぼんでいく。盛り上がった筋肉は枯れ木のように細くなり、漆黒の外殻は光沢を失って剥がれ落ちる。膨大な魔力を根こそぎ吸い取られ、神話級の巨躯を維持できない。彼は見る見るうちに縮み、かつてチュリンの前に現れたときのような、二等身ほどの幼体の姿へと戻されてしまった。
「な、ばか……な……」
形勢は完全に逆転した。小さくなったベルゼブブを、まるで玩具か菓子のように片手で無造作に掴んだチュリンは、抵抗する彼をそのまま暗黒の口の中へ放り込もうとする。
万事休すかと思われた直前。
「すまぬ……っ!」
苦渋に満ちた謝罪の声と共に、空間が歪んだ。緊急離脱の転移魔法が発動し、おどろおどろしい渦に吸い込まれるようにして、ベルゼブブは戦場から離脱を果たした。
手塩にかけて育て、一心に目を掛けてきた
そして、暴食の大悪魔として、魔界に残してきた部下と、大切に育んできた堕落園で帰りを待っている
その相反する意志が、暗黒の口を目の前にして無慈悲にも秤に掛けられた。
ベルゼブブは咄嗟に選んだ。選んで、しまった。
「ベル……ベルぅ……すまぬ……ワシは……っ!」
ベルゼブブは、次元の狭間で魔界へと続く道に身を任せながら、絶叫し、慟哭した。
気まぐれに魔力を与え、生き残ってしまった小さな悪魔の名を。めきめきと実力を伸ばし、終いには七大悪魔の一柱を担うに相応しい存在に成長した若き悪魔の名を。魔界で居場所を無くし、地上に追放された先で、最後に巡り会えた安息の地で、人生の相棒と心の底から笑う、愛おしい息子の真名を。ただ呼び続けた。
それは、誰にも届くことなく、虚空に轟き響いた。
……
残されたのは、召喚士ただ一人。
チュリンは彼に狙いを定め、奔流の中を弾丸のように突き抜けた。
一方で、激しい水流に翻弄されながらも、召喚士は諦めていなかった。彼にはまだ、最後の切り札がある。どれほど絶望的な結末を迎えようとも、過去の時間軸へと遡り、全てをやり直す禁忌の「ロード魔法」。
彼は懐から真紅の魔導書を取り出し、開こうとした。
だが、その指先が頁に触れることはなかった。
間一髪、チュリンが魔導書そのものに喰らい付き、その強靭な顎で引きちぎったからだ。
召喚士は奥の手を失い、チュリン自身は、最後に自分が救われる可能性を自らの手で永遠に葬り去った。
しかし、ケダモノとなった彼女がそれを知る由もない。いや、仮に理解する知能があったとしても、この暴食の衝動は構わず食い散らすことを選んだだろう。その先にはどう足掻いても、破綻した未来しか残されていないのだから。
チュリンは召喚士を片手で掴み、高らかに持ち上げた。魔法練習室内で荒れ狂っていた死の奔流は、いつしか収まっていた。もはや、獲物を追い詰める必要がなくなったからだ。勝負は決した。
彼女は、召喚士の必死の抵抗や、至近距離から放たれる魔法の矢を気にする素振りも見せず、その頭から丁寧に、慈しむように彼を口内へと滑り込ませた。
それは、ケダモノに墜ちる前の彼女が、ミーティアを奪い合う恋敵として、彼に抱いていた密かな嫉妬への意趣返しのようでもあった。
どれだけ努力しても、凡才の自分には決して届かない天上の存在。まともに勝負する前から結果が分かりきっている、圧倒的な実力差。
それが今、雲の上の存在であったはずの神童は、まともに有効打を与えることもできず、ただ無様に、自分の喉の奥へと呑み込まれていく。
その対比はあまりに残酷で、そして皮肉だった。
抵抗空しく胃袋へと収まった召喚士は、悲鳴を上げることもなく、ただひたすらにあらゆる手を尽くして足掻き続けた。
それはかつて、でびるんを救い出すために、何度も時を巻き戻し、砂漠の中から一粒の砂金を探すように、万に一つの希望を探し続けた、鋼の覚悟の表れだった。
しかし、いかに常人離れした精神力を持とうとも、暴食の化身の暗黒からは逃れられない。彼女はミーティアを呑み込んだ時とは異なり、どんな獲物も二度と光の下へ帰すつもりはなかったのだ。
チュリンは、腹の中で暴れる召喚士を愛おしむように撫で、吸収を始めようとした。
だが、ふと動きを止めた。
彼女の脳裏に、召喚士を超える「最高の獲物」の存在が過ぎったからだ。
そこから、あまりにも悍ましく、冒涜的な計画を、ケダモノの彼女は「考えた」。
それは、本能に忠実に生きてきたケダモノに、初めて「理性」が芽生えた瞬間だった。
悪意という名の、悍ましい知性が。
チュリンは口元を歪め、醜悪な笑みを浮かべた。
そして、必死に抵抗を続けて激しく波打つ自らの腹を抱え、さらには、片腕には気を失っているマルスを抱え、足取りも軽く歩き出した。
向かう先は、最高のメインディッシュ――ミーティアが待機しているであろう、召喚士の家。
絶望の宴は、まだ終わらない。
***
召喚士の家の寝室で、ミーティアは布団を頭から被り、膝を抱えて震えていた。
ソルシエール魔法学校の校門前で、化け物に堕ちたチュリンの咆哮を耳にした瞬間、彼女の勇気は無惨にも挫かれた。パニックに陥った避難民に突き飛ばされ、泥に塗れたことが契機となり、彼女の心は恐怖と、かつて丸呑みにされたトラウマで埋め尽くされたのだ。
本能に支配された彼女は、弾かれたように校門から背を向けた。
人々の悲鳴。建物の崩壊音。校舎の向こうから響く轟音。その全てから耳を塞ぐために。
生にしがみつき、我先にと逃げ出す醜悪な群衆。転んで泣き叫ぶ子供。助け起こそうとした母親が人の波に飲まれていく姿。その全てから目を逸らすために。
全ては、現実に顕現した悪夢から逃れるため。
どうやって召喚士の家に辿り着いたのか、記憶さえ定かではない。ただ先程まで自分が眠っていたベッドに駆け込み、布団という脆い殻に閉じこもった。
『大丈夫、召喚士サンならきっと大丈夫デス……』
今にも砕け散りそうな心を繋ぎ止めるため、召喚士への絶大な信頼を呪文のように繰り返し、震える身体を抱きしめる。
やがて、窓の外に薄明が差し込み、夜明けが訪れようとしていた。
あれほど響いていた轟音や振動が、いつの間にか嘘のように止んでいる。静寂。それが何よりも恐ろしかった。
召喚士サンは勝ったのだろうか。チュリンは助かったのだろうか。
臆病風に吹かれて逃げ帰った自分には、それを確かめる術もない。ただ、無事を祈ることしかできなかった。
その時。
家のすぐ近くから、凄まじい魔法の炸裂音が響いた。魔法警察と思われる人々の必死の叫び声が風に乗って聞こえてくる。まるで、何かに対して集中砲火を浴びせているかのような激しさ。一体、何と戦っているというのか。
ミーティアは布団の中で、ただ小さくなって震え続けた。
次の瞬間、これまでに一度も聞いたことがないような、世界を終わらせるごとき轟音が轟いた。
巨大な、あまりにも巨大なエネルギーが街全体を蹂躙し、建物も瓦礫も、悲鳴さえも巻き込んでいく破滅の音。
ミーティアは耳を強く塞ぎ、歯を食いしばって耐えた。音が収まると、そこには不気味な静寂だけが残された。
鼓膜が破れたわけではない。完全な無音だ。気の早い鳥達が挨拶を交わす声さえ聞こえない、死の静寂。
外では何が起きたのか。恐怖で手足が痺れ、彼女は一歩も動けなかった。
コン、コン。
軽いノックと共に、ゆっくりと玄関のドアが開く音がした。
ミーティアの心に、一筋の希望が走る。召喚士サンだ。彼が帰ってきたに違いない。
彼女は盲目的な希望に縋り付き、リビングへの扉を開け放った。
――そこには、最悪の光景が広がっていた。
立っていたのは、ボロボロのローブを纏ったチュリンだった。
彼女はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。それはかつての親友の笑顔でありながら、その瞳の奥には、獲物を甚振ることを愉悦とする、底知れぬ悪意の光が爛々と輝いている。
『ただいま、ミーティア』
言葉を持たない悪魔が、魔獣の真似をして無理やり音を紡いだような、たどたどしく、おぞましい声。
何より異様なのは、その腹部だった。
異様に膨れ上がった巨大な腹は、縦へ横へと激しく波打ち、まるで腹そのものが意思を持って、この悍ましい化け物から逃れようとしているかのように蠢いている。
その中には、先ほどまで戦っていたはずの「誰か」が収まっていることは明白だった。
チュリンの腹にある邪口から、誰かの手が飛び出し、空しく空を切る。その指にはめられた指輪に、ミーティアは見覚えがあった。大天使ミカエルから授かったという、途方もない魔力を秘めた指輪。
それは、召喚士の手だった。
極めつけは、チュリンが片手に握っている杖の先だ。そこからは細い水の鞭が伸びており、その先にはマルスが縛られ、宙に吊るされていた。
酷く衰弱したマルスは、ミーティアの姿に気付くと、絶望に顔を歪めた。
「み、ミーティアさん……! に、逃げて……ッ! 早くッ!!」
口元を戦慄かせ、拘束から逃れようと藻掻きながらの必死の叫び。
だが、全ては手遅れだった。
今この場で、最強の捕食者であるチュリンが、至近距離にいる獲物を逃がすはずがない。
背を向けて逃げ出そうとしたミーティアに、チュリンの腹にある邪口が、化け物の影のように覆い被さった。
「いやぁぁぁぁッ!! やめっ、チュリ……ッ!!」
パニックになり泣き叫ぶミーティアを、邪口は足からゆっくりと、味わうように呑み込んでいく。
既に腹の内に獲物がいるにも関わらず、邪口はゴムのように皮膚を引き延ばし、新たな獲物を貪欲に口内へと収めていく。
「いやぁぁぁッ! 離して、離してくだサイッ!! 食べないで……ミーは、ご飯じゃ……ないッ!! 召喚士サ……たすけ、助けてぇッ!!」
ミーティアは悲鳴を上げ、涙を溢れさせ、いるはずのない――いや、既に肉の牢獄に囚われている召喚士に、無意味な助けを求め続けた。
もはや、彼女の目に映るのは親友ではない。本能に飢え、友を餌としか見ない化け物だ。
さらには、外に飛び出していた召喚士の手が、助けを求めるように藁をも掴む勢いでミーティアの身体を掴んだ。それはあたかも、彼が自分と同じ地獄へミーティアを道連れにしようとしているかのようだった。
「ひぃッ!? 召喚士サン……! 助けて……助けてくだサ……ちが、それ違いマス!……いやぁぁぁ、引きずり込まないデェェッ!!」
あまりにも痛ましく、正視に耐えない光景。
にも関わらず、ケダモノのチュリンは、この世の全ての悦楽を一度に体感しているかのような、醜悪で恍惚とした笑みを深めていた。
やがて、ミーティアが召喚士の腕ともども腹の中に収まると、二人分を詰め込んだ腹は、これ以上ないほどに大きく、パンパンに膨れ上がっていく。
「暗い……暗いデス、嫌デス……! チュリン、ごめんなさい、ごめんなさい……許して……呑まないデェェェェッ!!」
断末魔の叫びと共に、ミーティアの姿は完全に暗黒の口腔へと吸い込まれた。
二人の激しい抵抗により、腹部は別の生き物であるかのように激しく蠢き、形を変える。内側から皮膚を押し上げる手足の形。
その光景に、ミーティアの絶望を込めた悲鳴と、惨劇を特等席で見せつけられたマルスの慟哭が重なり、この世ならざる宴を彩る。
「……ぅぐ、ぉぉぉ……! ここ、開げて……チュリン……だし、て……! 苦じ、い゛……んぶぁあ゛ぁああ゛!! ……ぅぅぅ!!」
分厚い肉と皮に遮られ、くぐもった、しかし確かな生き餌の悲鳴。
『……コレデ、イッショ、ダネ』
ケダモノは、赤ん坊が覚えたばかりの言葉をぎごちなく話すかのように呟き、慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべた。
そうして、ケダモノは思った。これで満足だと。
満ち足りた表情で目を閉じ、今一度の、甘美な眠りにつくのであった。
…
……
……あたたかい。
私は、意識が暗闇に沈む中、全身で幸福な熱を感じていた。
深い微睡みの中で、かつてないほどの充足感に包まれている。
お腹が、満たされている。私を散々苦しめていたあの飢餓感が、嘘のように消え去っている。口の中には、甘く、切なく、そして何よりも懐かしい「味」が残っていた。
すると、大切なミーティアの声が聞こえた気がした。マルス先生の声も。
私を呼んでいるのだろうか。いや、それは、助けを求める慟哭のような、悲痛な絶叫のような……。
私はゆっくりと目を開けた。
見慣れた天井ではない。気がつけば、私は召喚士君の家のリビングで佇んでいた。
どうしてこんなところに、と思った瞬間。
ドスンッ!
腹部に、内臓を蹴り上げられるような強い衝撃を感じた。
下を向いた瞬間。
そこには、私の視界を遮るほどに肥大化した、巨大な太鼓腹があった。
まるで、何か大きなものを……いや、「何人もの人間」を無理やり詰め込んだかのように、はち切れんばかりに張り詰めたお腹。
その皮膚の下で、何かが激しく暴れている。
ドスン、ボコン、と内側から殴られ、蹴られる感触。私の胃袋を直接握りつぶされるような、生々しい抵抗。
そしてそこからは、くぐもった、けれど凄まじい悲鳴が聞こえてくる。誰かに助けを求めるような、恐怖に染まった声。
「……ぁ……ぐぅ……ぅ……いやぁあ゛あ゛あ゛ぁあ゛!! あづ、い……召喚士、サン……どこ……? だす、け……で……」
男の絶叫が聞こえて振り返ると、そこには水の拘束魔法で縛られたまま宙に浮かぶマルス先生がいた。
「あ、あぁ……あが……っ! 食べ……食べちゃダメだ……生徒……私の、生徒……吐き出し……て……うあぁぁぁぁッ!!」
彼は虚ろな目で宙を掻きむしり、壊れたレコードのように同じ言葉を叫び続けている。大切な生徒である召喚士を、ミーティアを、そして私を救えなかった事実に精神が崩壊し、発狂してしまっていたのだ。
「あ……あ、あぁぁ……ッ!?」
全身の血が逆流する感覚。
急激な吐き気がこみ上げ、私はその場に膝をつき、胃液を激しく吐いた。
吐瀉物で汚れた手で、自分の腹を爪で掻きむしる。
出してあげなきゃ。今すぐに。
邪口をこじ開けようと指を突っ込むが、眠りについた邪口は頑として開かない。
「……いやぁ……ミー……なくな、ちゃう……チュリ、ン……痛い……だじで……だし、てェ……ッ!!」
私の腹の中で、召喚士君と、最愛の親友であるミーティアが、私の肉体の一部として吸収されていく感触を、温度を、動きを、鮮明に味わうことしかできない。
「うあ゛ぁあ゛あ゛あああッ!!」
私は半狂乱になり、重たい腹を抱えたまま、ドアを突き破って外へ飛び出した。
助けを求めなければ。誰か、誰かこの悪夢を終わらせて。
しかし、外に出た私を待っていたのは、あまりにも現実離れした、ふざけた光景だった。
召喚士君の家を除く、あらゆる家屋が、文字通り「消滅」していた。
瓦礫すらほとんど残っていない。私が立ち尽くす位置からでも、遥か彼方の地平線が見渡せるほどに、街が平らに均されていた。
想像を超える虚無の景色に、思考が白く染まる。
――どうして。誰が、こんなことを。
問いかけた瞬間、私の身体の奥底から、熱い震えが込み上げてきた。それは「快感」の記憶だった。
大きな腹を抱え、マルス先生を引き摺りながら、邪魔な建物を水魔法で薙ぎ倒し、ゆっくりとここへ歩いてきた、愉悦の記憶。
家の近くで待ち構えていた魔法警察の部隊に、極大の大魔術を放った記憶。
『|万物の母、古の海よ。慈悲の恵みを、眼前に顕現せよ《ノッド・シーライカ》』
初歩の水魔法をただ無機質に詠唱し、両手を掲げた瞬間、街全体から大量の水が噴き上がり、数百メートルの時計塔すらも飲み込む大波となって、ソルシエを襲った記憶。
「召喚士君の家を除いて」、存在する何もかもを巻き込み、押し流し、蹂躙していった、快感の記憶。
私は、ソルシエの街を、滅ぼしていたのだ。
衝撃で目を見開いたまま、乾いた唇から言葉が零れ落ちる。
「地獄だ……」
この世の地獄が、眼前に広がっている。
街を、学び舎を、文化を、環境を、人々の思いを、そしてミーティアとの思い出が詰まった場所を。あらゆるものを壊したのは、私だ。
私の、せいだ。
「あ、は……はは……」
掠れた声で、力無く笑った。笑いが止まらない。
「ふふ……はは……はははぁはは」
腹の中で暴れる親友の感触を感じながら、私は延々と笑い続けた。
「はぁはっ……はは……ははははぁっはははははっ!」
涙が溢れる。声が震える。それでも笑い続けた。
「はあ゛っははっ……あ゛はは……ははははは……あ゛ぁはははあ゛ぁはあああっ!!」
私が笑うたびに、腹が大きく波打ち、中の二人が苦しげに暴れる。その振動さえもが、今の私には愛おしく、そして吐き気がするほど悍ましい。
やがて笑い声は、言葉にならない嗚咽に変わり、最後には悲痛な絶叫へと変わった。
「ああぁああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!」
うつろな瞳は、夜が明けて空の向こうへ消えようとしている、弱々しく光る星を捉えていた。
かつて二人で見上げた、あの美しい星空は、もう、どこにもない。
助けを求めるように、ただ、ただ、私は誰もいない荒野で絶叫した。
叫びは、私が自ら作り出した静寂の荒野に吸い込まれ、消えていった。
答える者はいない。喉は焼けつくように熱いのに、肌を撫でる夜風は、私の内側から奪われた命の温度をあざ笑うかのように冷たい。
空の向こう、最後の星が白んで消えていく。
私の腹の中以外には、もう、誰もいない。
***
おトモダチは再会の味
おトモダチは の味
おトモダチは の味
おトモダチは の味
おトモダチは の味
おトモダチは の味
おトモダチは の味
おトモダチは の味
おト モダチ じゃな 助けテ ミ 味
おトモダチは終焉の味