僕らはまだ名前のないまま   作:清月奏嘉

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エピローグ ― 僕らはまだ名前のないまま ―

 それから、季節がいくつも過ぎた。

 

 大学の構内は、相変わらず騒がしかった。

 サークルの勧誘の声。

 どこかの講義を終えた学生たち。

 昼休みの通路は人であふれ、

 あちこちで笑い声が重なっている。

 

 新しい時間割にも、

 少しずつ慣れてきた。

 知らない名前だった講義室も、

 今では迷わず行けるようになった。

 

 俺は、人の流れに押されるように歩いていた。

 急ぐ理由があるわけでもないのに、

 立ち止まるのが少し億劫で、

 流れに逆らわずに進んでいる。

 

 足元に落ちている影が、

 知らない誰かのものと重なる。

 そんなことを、ぼんやり考えていた。

 

 講義棟の前で、ふと足を止めた。

 

 視界の端に、

 見覚えのある横顔が映った気がした。

 

 黒い髪。

 少しだけ、記憶に引っかかる歩き方。

 

 一瞬、息を止める。

 

(……違うか)

 

 確かめるほどの自信はなかった。

 名前は知らない。

 声も、はっきりとは思い出せなかった。

 

 それでも、

 なぜか目だけは追ってしまう。

 

 人混みに紛れて、

 その姿はすぐに見えなくなった。

 

 胸の奥に、

 小さな波紋みたいなものが残る。

 

 しばらく、その場から動けなかった。

 

 ポケットの中で、

 スマホの感触を確かめる。

 

 画面を見れば、

 いつものアプリの並びが目に入る。

 けれど、

 そこから先には進まなかった。

 

 昔、毎日のように開いていた場所。

 名前も顔も知らない誰かと話していた場所。

 

 今は、もう開かない。

 

 通知が来ることもない。

 画面が光ることもない。

 

 あの時間を知っているのは、

 たぶん、俺だけだ。

 

 不安を吐き出した夜のことを、

 ふと思い出す。

 

 受験の話。

 進路の話。

 どうでもいい雑談。

 

 顔も知らない相手と、

 同じ場所にいると知っただけで、

 なぜか安心できた時間。

 

 あの頃の自分は、

 何者でもなかった。

 

 何になりたいかもわからなくて、

 どこへ行けばいいのかも決められなくて、

 ただ、立ち止まっていた。

 

 周りが進んでいるように見えて、

 自分だけが取り残されている気がしていた。

 

 でも、あの時間があったから、

 少しだけ、前を向けた。

 

 「自分で決めないといけない」

 そう思えただけで、

 あの頃の俺にとっては十分だった。

 

 目の前を、

 知らない誰かが通り過ぎる。

 

 その中に、

 もう一度、

 あの横顔が混じることはなかった。

 

 でも、きっと。

 

 あの人も、

 どこかで、

 同じように歩いている。

 

 不安を抱えながら、

 それでも、自分の場所を探して。

 

 あの頃と同じように、

 迷いながら、

 立ち止まりながら。

 

 何者でもなかった二人は、

 何者でもないまま、

 それぞれの道を進んでいる。

 

 名前は、今も知らない。

 

 けれど、

 あの時間があったことだけは、

 確かだった。

 

 俺は、また歩き出す。

 

 風が、校舎の間を抜けていった。

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