愛するNPCが現実化したら勝手にギスギスし始めた挙句バカ重い責任が生えてきた話   作:フォン・デ・ペギラパギラ

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13話:持たざる者の最後の代償

 ここはまるで昼の顔を脱ぎ捨てたように、異様なほど静まり返っていた。

 

 石畳は途中で途切れ、荷車に抉られた泥道が続いている。

 湿って乾ききらない地面には、穀物の殻や藁が踏み潰されて貼り付いていた。

 

 甘い粉の匂い。他にも、湿った木。腐りかけの魚の嫌な匂いが鼻を刺す。

 

 倉庫だ。

 

 石造りの壁は高く、冷たく、無遠慮にそびえ立っていた。

 窓は侵入者を拒むために、やけに高い位置に申し訳程度に設えられている。

 

 ここは商業地区のさらに外縁。小さな川沿いの荷下ろし場の一角。

 

 昼の喧騒が嘘のように消え、遠くの水音と、風で木箱がきしむ音のみが支配していた。

 

 ――その暗がりを、一人の子供が歩いていた。

 

 胸の前で腕を強く抱きしめ、背中を丸めるようにして音を殺しながら進んでいく。

 

 小さな体躯。

 年の頃は、十歳前後だろうか。

 

 肩口まで伸びた髪は、暗い茶色。

 長い間手入れされていないのか、ところどころ跳ねている。

 

 身にまとっているのは、擦り切れた貫頭衣。

 布地は薄く、継ぎはぎだらけで、ところどころ色が変わっている。

 

 痩せ細った四肢。骨ばった手首と足首。

 

 この辺りでは、珍しくもない見た目。

 汚れと痣で、顔立ちははっきりせず、遠目には少年にも少女にも見える。

 眉尻はわずかに下がり、その表情には不安と疲労が染みついている。

 

 ――ただ、目だけが違った。飢えた獣のように、闇の中でぎらりと光っている。

 

 子供は、物陰に身を寄せながら、胸元に下げた小さなネックレスを握りしめた。

 

「……姉ちゃん」

 

 ぼそり、と声が零れた。

 

 震えを含んだ、小さな声。

 泣き声になる一歩手前で、必死に堪えられている。

 

 不安げな声が夜の冷たい空気に溶けていく。

 

 子供は、滲みかけた涙を、乱暴に腕で擦った。

 

 ――泣くな。

 そう言い聞かせるように。

 

 そして、キッと前を向き、再び倉庫の周囲を歩き出した。

 

(……ここに、アイツらが)

 

 胸の奥で、言葉にならない何かが蠢く。

 

 倉庫を見上げる。

 

 冷たく湿った石壁が、月光をぬるりと反射していた。

 光を弾くその様はまるで生き物の皮膚のようで、ぞわりと背筋が粟立つ。

 

 遥か上にある窓。

 外を覗くためではないことは子供でもわかる。

 

 まるで何かを閉じ込めるための入れ物のように見えて、思わず、小さく身震いした。

 

 周囲を見渡す。

 

 眠りこけた浮浪者。

 肋骨の浮いた、痩せ細った野良犬。

 

 やつらの気配はまるで無い。

 

(……やっぱり、中かな)

 

 子供は、唾を飲み込んだ。

 先ほども数度確認した倉庫の入り口に、また足を運ぼうとした――その時。

 

 ――がつん、と。

 

 乾いた衝撃が、何の前触れもなく後頭部を襲った。

 

 一瞬、何が起きたのか分からない。

 痛みより先に、世界そのものが跳ね上がる。

 

 視界が白く弾け、音がぐわんと遠のいた。

 

「……っ、ぐ……」

 

 喉の奥から、低い声が漏れる。

 次の瞬間には、湿った土の上へと転がり落ちていた。

 

 手のひらに。

 頬に。

 口の端にまで、土がべったりと貼りつく。

 

 呼吸をしようとすると、鼻の奥に湿った泥の匂いが充満した。

 

(……なに)

 

 頭が、うまく回らない。

 

(……なに、が……)

 

 そう思いながら、反射的に顔を上げる。

 

 ――空。月。

 

 その月を、完全に覆い隠すほどの、黒い影。

 

 ぎょろり、とした濁った眼光。

 

 子供の視界いっぱいに広がる、あまりにも大きな巨躯。

 

 縄のように盛り上がった筋肉。

 無駄に太い腕。

 禿げ上がった頭皮が、月明かりを鈍く反射している。

 

 粗野で、下品な風貌。

 それなのに、着ている服だけは妙に子綺麗だった。

 

「……おい、ガキ」

 

 低く、腹の底で鳴る声。

 

 その音だけで、子供の身体がびくりと跳ねた。

 心臓が飛び跳ね、肋骨の内側を殴る。

 

「コソコソ嗅ぎ回りやがって」

 

 男は、ゆっくりと一歩踏み出す。

 

「てめえ……ここで、ベルン組合の集会してるって、どこから掴んだ」

 

 言葉の意味が頭に入ってこない。

 ――理解する前に痛みが来た。

 

 男の手が、子供の髪を掴み、容赦の欠片もなく根元から引き上げる。

 ぶちぶち、と髪が引き千切れる音が子供の耳の内側に響いた。

 

「あ――っ……!」

 

 悲鳴になりきらない声。

 

 視界が、ぐらぐらと揺れる。

 地面が、遠ざかる。

 

 必死に手を伸ばし男の腕を叩く。だが、叩いている感触すらない。

 まるで、岩を殴っているようだった。

 

「や……やめ……ろ……!」

 

 震える声で、そう言うのが精一杯だった。

 

「チッ……」

 

 男が、舌打ちをする。

 苛立ちと、ほんのわずかな面倒くささ。

 

「……まあ、いい」

 

 吐き捨てるように言う。

 

「てめえは、終いだ」

 

 次の瞬間、身体が下に落ちた。

 頭部が地面に叩きつけられる。

 

 ――鈍い音。

 

 熱と冷たさが同時に広がり、視界の端が黒く滲む。

 

 音が、溶ける。

 月が、歪む。

 思考がほどけていく。

 

 子供の意識は、ゆっくりと闇へと静かに沈んでいった。

 

 

 ***

 

 

 それは家というより、廃材を寄せ集めただけのみずぼらしいバラックだった。

 

 屋根の半分は崩れ落ち、むき出しになった梁が朽ちた骨のように空を突いている。

 壁はひび割れたレンガと腐った木材の継ぎはぎ。

 汚れた板切れが窓を塞ぎ、隙間風が湿った風を吹き込んでいる。

 

 ――それなのに。

 

 午後の光だけは、やけにあたたかかった。

 

 隙間から差し込む陽射しが室内に舞う埃を照らし出す。

 埃はゆっくりと、ゆっくりと漂い、まるで金色の粒子のようにきらきらと瞬いている。

 

 貧しさも、寒さも、すべてが光に溶かされていくような、穏やかな時間。

 

 そこに、子供の姿があった。

 

「――リュネ」

 

 名を呼ばれて、子供――リュネは振り返る。

 

 そこに立っていたのは、柔らかな笑みを浮かべた一人の少女だった。

 

 年の頃は、十七歳ほど。

 少女と女性の境目に立つ年齢特有の、まだあどけなさを残しながらも体の凹凸がはっきりと現れ始めた姿。

 成熟しきらない色気が無自覚に滲んでいる。

 

 茶色い布地一枚の、簡素なワンピース。

 飾り気はないが、その姿はどこか眩しかった。

 

 子供はその顔を見た瞬間、ぱっと表情を輝かせた。

 

「姉ちゃん!」

 

 弾けるような声。

 小さな身体が、そのまま姉の胸元へと飛び込む。

 

 柔らかい感触。布越しに伝わる体温。安心する匂い。

 

 姉は何も言わず、ただ変わらぬ柔和な笑みでリュネを抱き留めた。

 

 リュネは、胸に顔を埋めたまま言った。

 

「姉ちゃん! もう……探したんだよ!」

 

 少し拗ねたような、けれど嬉しさを隠しきれない声。

 

 姉は、くすりと微笑み小首を傾げる。

 

「探したって――どこを?」

 

 ――その瞬間。

 

 世界が、ほんの一拍だけ、止まった。音も、光も……埃の動きさえも。

 

 リュネは一瞬、呆けたように目を瞬かせる。

 

(……あれ?)

 

 胸の奥に小さな違和感。

 

(なんで……探してたんだっけ……?)

 

 考えようとすると思考が指の隙間から零れ落ちる。

 

 姉は、いつだってこの家に帰ってくる。

 夕方になれば、必ず。

 遅くなっても、笑って。

 

 ――探す必要なんてあるはずがないのに。

 

 どうして、さっきは――胸が、あんなにも締めつけられたんだろう。

 

 リュネは、不思議そうに眉をひそめる。

 

 姉は相変わらずやさしい目でリュネを見下ろしていた。

 

 しかし、リュネはその違和感を、胸の奥でぐしゃりと丸めて捨てた。

 ぎゅっと姉にしがみつく。

 

「ううん、なんでもない!」

 

 そう言って姉の胸元に、ぐりぐりと頭を擦り付ける。

 まるでよく馴れた猫が自分の居場所を確かめるように。

 

 姉は――相変わらず、拒むことも戸惑うこともなく、柔らかく微笑んでいた。

 

 ――その時、横合いから声がかかった。

 

「あんたたちは……ほんと、いつでも仲がいいねえ」

 

 懐かしくて、少ししゃがれた掠れ声。

 

 リュネは、姉の胸の間から顔を上げ、その声の主を見る。

 

 そこには、廃材を寄せ集めただけのボロボロのベッドがあった。

 その上に壮年の女性が横たわっている。

 

 麻袋を縫い合わせた布団。中身は干し草だけの、粗末な寝床。

 

 女性の頬はこけ、唇は乾き、身体全体がひどく軽そうに見えた。

 痩せ細った腕には骨と筋が浮き出ている。

 今にも折れてしまいそうで、見ているだけで胸がざわつく。

 

 ――それでも。

 

 女性は、リュネと姉を見て、心の底から嬉しそうに微笑んでいた。

 

「母ちゃん!」

 

 リュネの声が、弾ける。

 

 駆け寄りたい衝動をこらえ、その場でにこにこと笑みを交わす。

 この光景がずっと続けばいいのにと、心のどこかで願いながら。

 

 その時、姉が変わらない微笑みのままリュネに何かを差し出した。

 

 リュネは、きょとんとしながら、それを見る。

 

 それは――丁寧に削られ、磨かれた木と、美しい石がはめ込まれたネックレスだった。

 

「――わあ……!」

 

 リュネは、ネックレスと姉の顔とを、何度も何度も見比べた。

 

 こんな綺麗なもの見たことがない。

 言葉にしなくても、その感情は顔いっぱいに溢れている。

 

「これ、どうしたの……!?」

 

 まるで太陽の光を一身に浴びた花のように、ぱあっと笑顔が咲く。

 

 姉はその様子を見て、少しだけ目を細めた。

 それでも、微笑みは、変わらない。

 

「リュネに、プレゼントしようと思ってね。頑張って、作ったのよ」

 

 姉の手の中で、ネックレスがころん、と転がる。

 翡翠色の石がきらりと光った。

 

「きっと、リュネに似合うわ」

 

 リュネは笑みの形で口を大きく開けたまま、そっと、それを受け取る。

 

 まるで、二度と手に入らない宝物を託されたかのように、両の手のひらで、大切に、大切に包み込む。

 

「すごい……! 姉ちゃん、ありがとう!」

 

 きらきらとした視線をそのまま姉に向ける。

 

「ええ」

 

 姉は、頷いた。

 なおも――まったく同じ、柔和な笑みで。

 

「……お母さんが、死んじゃったから頑張らないとね」

 

 一拍。

 

 ――がくん、と。

 

 何かが足元から崩れ落ちた。

 

 あたたかな光に包まれていた家が、空間が、一段暗く沈む。

 

 まるで誰かが灯りを一つ消したかのように、すべての影が、ずん、と濃く、長くなる。

 

 崩れかけた窓も、最後まで閉まらない棚も。

 

 ――姉の顔さえも。

 

「……え?」

 

 リュネの喉から小さな声が漏れる。

 

 姉は――それでも、微笑んでいる。同じ笑み。変わらない表情。

 

 リュネはゆっくりと視線を逸らし、母の横たわっていたあのボロボロのベッドを見る。

 

 そこには。

 

 ――白骨が、がらんと、転がっていた。

 

 最初からそうであったかのように。

 

「――っ……」

 

 リュネの顔から血の気が一気に引いた。

 

 息が止まる。

 胸が、ぎゅっと締めつけられる。

 

 目は大きく見開かれ、叫ぼうとした声は喉の奥で絡まり音にならない。

 

 リュネは助けを求めるように、震える視線を眼前の姉へと向けた。

 

 ――姉は。

 

 影の中で、笑っている。

 

 光を失った部屋、輪郭の曖昧な闇の中で。“いつもの顔”で。

 

「ね、姉ちゃん……」

 

 かすれた声で問いかけながらも、リュネは理解してしまった。

 

 ――これは、何かがおかしい。

 

 姉は変わらない表情のまま、柔らかく、あまりにも穏やかに告げる。

 

「お姉ちゃんね。リュネのために、頑張るから」

 

 その声は目の前から聞こえているはずなのに。

 なぜか家中の壁や天井、床の下から、同時に響いてくるように感じられた。

 

「大丈夫よ……心配しないで」

 

 リュネは、思わず視線を落とす。

 

 両の手のひらの中。

 そこにあるのは、ネックレス。

 美しく削られた木。翡翠色の、冷たい石。

 

 ――姉が、作ったもの。

 

 姉の声が耳の内側で繰り返し反響する。

 

「リュネ……それを、私だと思ってね」

 

 胸が、ひくりと跳ねる。

 

「リュネは……一人で、待てるよね?」

 

 リュネは悲痛な表情で、顔を上げた。

 

 ――姉が、いない。

 ついさっきまで目の前にいたはずなのに。

 

 光の届かない部屋にリュネ一人だけが、取り残されている。

 

 呼吸が、知らず荒くなる。

 

 リュネは耐えきれず、家の中をうろうろと駆け回り始めた。

 小さな足音がやけに大きく空間に響く。

 

「ね、姉ちゃん……どこ……?」

 

 柱の影。

 崩れかけた棚の裏。

 ベッドの下。

 

 あらゆる場所を、必死に探す。

 だが、小さな家には隠れる場所などほとんど無い。

 

 ――どこにも、いない。

 

「姉ちゃん……母ちゃん……」

 

 呼びかけた声が空気に吸い込まれて、消える。

 

 リュネの瞳から、ぽろり、と大粒の涙が零れた。

 一粒落ちた瞬間、堰が切れた。

 

 喉がひくひくと震える。嗚咽を必死に噛み殺す――だが、涙は止まらない。

 

 手の甲で何度も何度も頬を拭う。

 それでも次から次へと溢れ、頬を、顎を、濡らしていく。

 

 リュネは一人、暗い家の中で小さな身体を丸めて泣いた。

 

 ――その時。

 

 ほんの一瞬、柱の裏で何かが動いた。

 

 リュネははっと顔を上げ、期待をそのまま身体に乗せて駆け寄る。

 

「姉ちゃん!」

 

 ――そこにいたのは見知らぬ男だった。

 

 ボロボロの服。

 頬はこけ、伸び放題の髭。

 汗と酒と不潔な匂い。

 

 リュネは、急なことにどうしていいか分からず、思考が止まった。

 

「あ……?」

 

 男が、だるそうに目を細める。

 

「……ああ。ミシュリーヌんとこのガキか」

 

 男は威圧的な表情のまま、ずかずかと近づいてくる。

 

 リュネは一歩後ずさろうとするが、恐怖や驚きで足が硬直して動かない。

 

「今日から、ここは俺の家だ」

 

 低く、荒い声。

 

「てめえはどっか行け。どこにでも、だ」

「……い、痛い……! やめて……!」

 

 男の手が容赦なく乱暴にリュネの髪を掴み、そのまま引きずる。

 

 リュネはばたばたと身を捩る。

 だが、大人の力に抗えるはずもない。

 

 ずるずると床を引きずられ――次の瞬間、玄関から乱暴に放り出された。

 

 身体が硬い地面に叩きつけられる。

 

 息が、詰まる。

 

 リュネは痛みに耐えながら、涙で滲んだ視界で見上げる。

 

 男が蔑むような目を向けている。

 そして何の感情もなくドアがゆっくりと閉められた。

 

 リュネは必死に手を伸ばし、叫ぶ。

 ――しかし、声がでない。指も、動かない。

 

 残るのは、ずきずきと脈打つように全身を走る鈍い痛みだけ。

 

 やがて。

 

 視界がゆっくりと、闇に溶けていった。

 

 

 ***

 

 

 ――薄暗闇。

 

 湿った石の匂いが鼻腔を撫でる。

 灯りは乏しく、壁際に据えられた油灯が、弱々しく揺れているだけだった。

 

 コツ、コツ。

 

 硬い靴底が石畳を叩く音。

 磨かれた鏡の内側に閉じ込められたかのように反響し、逃げ場を失った音が何度も跳ね返って、この空間を執拗にさまよっている。

 

 その足音の主は、筋骨隆々の大男だった。

 肩から腕にかけて、縄のように浮き上がる筋肉。

 そしてその腕に、何かが無造作に抱え込まれていた。

 

 ――リュネだ。

 

 小さな身体は力なく垂れ下がり、揺れるたびに首と手足がかすかに揺さぶられている。

 

 だが、男はそれを気にも留めない。

 荷物を運ぶときと同じ所作で、重さとバランスだけを意識しながら、淡々と歩みを進めている。

 

 コツ、コツ。

 

 石畳が、冷たく鳴る。

 

 やがて男は、木箱がいくつも積み重なった影――数名が身を潜められるほどの、狭く閉じた空間へと滑り込んだ。

 

 そこには、すでに数人の男たちが集まっていた。

 

 いずれも強面。

 顔や首筋に刻まれた傷は、荒事の数を誇るように古く深い。

 筋肉質な身体つきは、街のチンピラとは明らかに違う“重み”を持っていた――それは人を殺すことに躊躇しない者だけが纏う、鈍く澱んだ死の匂いだった。

 

 木箱にもたれかかる者。

 資材の上に腰を下ろす者。

 壁に背を預け、腕を組む者。

 

 それぞれが、好き勝手な姿勢で居座っている。

 

 その中心。

 

 ボロボロのコートを羽織った男が、まるで玉座に座るように資材の上に腰掛けていた。

 擦り切れた布地。

 しかし、不思議と下賤な印象はない――むしろ、わざと貧しさを装った捕食者の擬態のようだった。

 

 他の男たちよりも、さらに一段深い影を纏っている。

 空気そのものが、この男の周囲だけ密度を増しているかのようだった。

 

 ――その男が、ゆっくりと口を開いた。

 

「……おい」

 

 低く、腹の底で鳴るような声が、この狭い空間に染み込む。

 

「なんだ、そいつは。土産か?」

 

 言葉と同時に、指に挟んだ葉巻を一吸いする。

 暗い部屋に、赤く灯った火が蛍のように宙に浮かび、吐き出された紫煙がするりと空気をたなびいた。

 

 リュネを抱えていた男が、一歩前に出る。

 

「へい、兄貴……こいつ、倉庫の前をウロチョロ嗅ぎ回っていやがりまして」

 

 腕の中のリュネを、虫けらでも見るようにちらりと見下ろす。

 リュネはまだ力なく眠っており、その存在はあまりにも小さく、あまりにも無力だった。

 

「とりあえず、ふんじばりましたが……如何いたしやしょう」

 

 コートの男は、答える前に煙を吐く。

 紫煙が天井へと昇り、やがて闇に溶けて消えていく。

 

「……」

 

 短い沈黙。

 

「そこに転がしとけ」

「うす」

 

 次の瞬間、男は腕を振り、ゴミ袋でも捨てるようにリュネを放り投げた。

 

 どさっ。

 

 鈍い音とともに、小さな身体が床を転がる。

 

 乱暴な扱いだった。

 ――だが。

 

 だが、リュネの口を覆う猿轡はずれることなく、手足を縛る縄も無駄のない結び目で固定されている。

 転がした程度ではほどけない、誰の目にも明らかな“慣れた仕事”だった。

 

「――っ、ぐ……」

 

 肺から空気が押し出されるような、かすかな声。

 

 ――痛覚によって、リュネは悪夢から引きずり戻された。

 

「――!?」

 

 瞠目したまま、焦点の合わない視線で周囲を見回す。ここがどこなのか、なおも理解が追いつかない様子だ。

 

 コートの男は、呻きながら辺りを見回すリュネを一瞥もせず、話を続ける。

 

「……で」

 

 葉巻を指で挟み直す。

 

「商業区に送り込んでる連中は、何か掴んでたのか?」

 

 紫煙の向こうから、別の男が淡々と答える。

 

「いえ……今のところ、何も。騎士を使ったようですが、直接あの団体と話せ、と開き直っている様子で」

 

 コートの男は、深く息を吐いた。

 ため息と一緒に、煙が流れる。

 

「あの穀潰しども……」

 

 声に、苛立ちが滲む。

 

「仕事の一つも、まともにできねぇか」

 

 そう吐き捨てると、足元へ葉巻を落とし靴底で擦り付けた。

 じゅっ、と火が消える。

 

 その間もリュネは、床に転がされたまま、誰からも顧みられなかった。

 

 ――側近のように控えていた、背の高い男が口を開いた。

 壁に溶け込むように立つその影は、長く、黒い。

 

「あっしが……ちょっかい掛けてきやしょうか」

 

 声は低く、探るようだった。

 

 コートの男は、腰掛けたままゆっくりと目を剥く。

 獲物の形を測るような視線。

 

「……馬鹿か、てめぇは」

 

 吐き捨てるように言う。

 

「女子供ばっかりだがな……数が異常だ。突いて、何が出るか分からねえ」

 

 眉間の皺が、深く刻まれる。

 

「貴族の人形遊びにしちゃ規模が狂ってやがる……気色悪ぃ。何なんだ、アイツらは」

 

 側近は視線を伏せたまま、喉の奥で言葉を探すように小さく続けた。

 

「ですが兄貴……本家が、うるせえって……」

 

 その語尾には、責められる側の怯えがにじんでいる。

 

 コートの男は答えず、床へと唾を吐き捨てた。湿った音が、妙に大きく響く。

 

「チッ……シマの問題だ、さっさと片付けろ、だとよ」

 

 苛立ちを噛み殺すように髪をがしがしと掻く。

 爪が頭皮を擦る音が場の空気を荒立てる。

 

「……ったく。どうすっかねぇ」

 

 沈黙が落ちる。

 

 その隙を縫うように、少し離れた場所で控えていた大男が恐る恐る声を掛けた。

 リュネを運んできた、あの男だ。

 

「すいやせん、兄貴……このガキ、どうしますか」

「ああ?」

 

 反射的に鋭い声が返る。

 だが次の瞬間、コートの男は舌打ち一つで感情を引っ込めた。

 

「こいつは……何で俺たちの集まりが分かった」

 

 ぎろり、と睨みを利かせながら問いかける。その視線は刃物のように鋭く、大男は一瞬言葉を失う。

 

「……それは」

 

 答えあぐねたその脇から、痩せこけた別の男が、甲高い声を割り込ませた。

 

「こいつ、まさか昼間の……」

 

 その一言で、場の視線が一斉に集まる。

 

「あれだ。ジェイクが階段で突き落とされたって話……あいつ気絶して、荷物全部摺られてやがったろ。……ここのメモも」

 

 そう言って、コートの男へ視線を投げる。

 男の目が、さらに細く、鋭くなった。

 

「……ガキが。やってくれたなぁ」

 

 物理的な圧を感じるほどの視線が、床に転がされたリュネへと突き刺さる。

 

 リュネは猿轡の奥で声を詰まらせ、冷や汗を滲ませた――それでも、目だけは獣のように、ぎらりと光っている。

 

「おい、猿轡を外せ」

「へい」

 

 大男が頷き、慣れた手つきで布を解く。結び目はあっさりとほどけた。

 

 その瞬間。

 

「――姉ちゃんを返せ!!」

 

 金属を擦るような、甲高い叫び。

 リュネは肩で息をしながら歯を剥き、必死に男たちを睨みつける。

 

 耳を刺す声に、コートの男は露骨に眉をひそめ、隣の大男へ怪訝そうな視線を投げた。

 

 大男は、小さく首を横に振る。――知らない、と。

 

「……まあいい」

 

 話を切り替えるように、コートの男は言った。

 

「おい、ガキ。てめえ、ウチの組のもんをやってくれたみてえじゃねえか」

 

 リュネは間髪入れず、食いつくように叫ぶ。

 

「うるさい!! オマエらみたいなやつ、全員死んで当然だ!」

 

 コートの男はちらりと大男を見る。

 大男は、短く頷いた。

 

 次の瞬間、重い蹴りがリュネの小さな腹に叩き込まれた。鈍い音が空間を震わせる。

 

「――ぐっ……! ううっ……!」

 

 二度。

 三度。

 

 その間も、リュネは胸元のネックレスを守るように、ぎゅっと握りしめていた。

 

 ……それに、コートの男が気づく。

 

 ふと、思いついたように口元が歪んだ。

 ――思いのほか、良案だとでも言うように。

 

「……ぐうっ……!」

 

 背中を靴底で踏みつけられ、痛みに身体を震わせながら反射的に涙を流すリュネ。

 

 その様子を見下ろしながら、コートの男が歩み寄る。

 影が、ゆっくりと覆い被さった。

 

 髪を掴み、乱暴に顔を引き上げ――そのままネックレスを引きちぎる。

 ぶちり、と細い首紐が千切れた。

 

「か、返せ……! ダメ……!」

 

 リュネの声は喉の奥で引き攣れていた。

 手足を縛られたまま、それでも必死にもがく。

 

 コートの男は、その様子を――まるで虫の足をもぎ取る子供のように、愉しげに見下ろしていた。口の端が歪み、冷たい笑みが油灯の影の中でにやりと浮かび上がった。

 

「――返してやってもいい」

 

 低く、腹の底から這い出るような声。蛇が、地面を滑るような掠れた声色。

 それなのに、妙に甘ったるい響きがあった。

 

「てめえの勇気を買ってやる。姉ちゃん……助けたくねえか?」

 

 ――その言葉が、リュネの胸を貫いた。

 

 一瞬、呼吸が止まる。涙で滲んでいた瞳孔がわずかに開いた。

 絶望に沈みかけていた瞳に、確かに光が戻った。

 

「……え?」

 

 コートの男は、その反応を逃さない。

 獲物が罠にかかる瞬間を見定めるように、じっと、リュネの表情を観察している。

 

 やがて男はゆっくりと懐へ手を伸ばし、一本のナイフを取り出した。

 鈍い刃が油灯の光を反射して、ぎらりと輝いた。

 

「てめえはな……これから、ある団体に潜り込む」

 

 ナイフの刃先が、リュネの視界で揺れた。

 光が蛇のように這い、冷たい恐怖を喉元に巻きつける。

 

「情報を流せ。上手くやりゃ、姉ちゃんも、この汚ねぇ首飾りも全部返してやる」

 

 リュネは息を呑んだ。

 心臓が跳ねる。

 鼓動が、縛られた手首の内側で脈打っている。

 

「だが、収穫が無ぇなら――」

 

 一拍。

 

 男の目が、細く、鋭く光る。

 

「重要そうなやつを、一人……ぶっ殺してこい」

 

 そう言ってコートの男は舌なめずりをした。

 

 ……男は、ただ目の前の井戸の深さがどれほどか。水が張っているのか、それとも干上がっているのか。

 それを探るために小石を投げ込んでみたくなった、ただそれだけだった。

 

 ――その井戸に、悍ましい怪物が巣食っていることも知らずに。




あるある布石回。
エイシム出てこなくて面白くないかもと思って一話に詰め込んだら長くなりました……。
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