愛するNPCが現実化したら勝手にギスギスし始めた挙句バカ重い責任が生えてきた話 作:フォン・デ・ペギラパギラ
二日後。
場所は、エイシム拠点の一角に設けられた仮の訓練用広場。
空は低く重たい雲に覆われており、今にも泣き出しそうな色をしていた。
リュネは、その固く締め固められた土の上に仰向けに寝転がっていた。
全身が鉛のように重い。
肩で息をしなければ呼吸が追いつかない。
肺が、ぜえ、ぜえ、と情けない音を立てて必死に伸び縮みを繰り返している。
視界は滲み、焦点が合わず、目はどんよりと濁っていた。
――疲労。
それだけではない。
意識の奥まで、じわじわと摩耗していくような感覚。
リュネは、かろうじて首だけを動かし周囲に目を向けた。
そこには何人もの少女たちがいた。
石膏から削り出されたかのような美しい顔と身体。
姿勢は正しく、動作は正確で、無駄がない。
まるで――最初から“そう動くように作られた”人形のようだった。
ある者は、一定の間隔で剣を振る。
ある者は、一定の歩幅を一切崩さずに走る。
ある者は、決められた秒数だけ、重石を持ち上げ、下ろす。
誰も喋らない。
誰も表情を変えない。
掛け声も、励ましも、苛立ちもない。
ただ決められた動作だけが延々と繰り返されている。
――異様な光景だった。
リュネはこの光景を見るたびに、背中を冷たい指でなぞられるような感覚に襲われた。
そんな中。
一人の美しい職員がリュネの傍に立った。
影が、覆いかぶさる。
「リュネさま」
淡々とした声。
「足が止まっております。持久走を再開してください」
その目には感情の色がない。
叱責でも、心配でもない。
――ただの“確認”。
リュネは残りかすのような体力をかき集め、かすれた声で問いかけた。
「……なんで……しないと……いけないの……?」
「クルル主席戦略監の指示です」
職員は、瞬き一つせず即座に答えた。
「エイシムに仮にでも所属する以上、訓練を怠ってはいけません」
その声音には善意も、悪意すらない。
ただ“そう定められている”という事実だけがあった。
(誰だよ……ソイツ……)
そう心の内で零しながらリュネは、その職員の目を見る。
――色が、無い。
そこにあるのは、意志ではなく、役割だった。
リュネはふと思う。
(……ここ、人間が……いない……)
まるで、人形に取り囲まれているような孤独。
疲労で濁りきった視線を虚空へと投げる。
反論する気力も立ち上がる体力も残っていなかった。
ただ、ぜえぜえ、と呼吸だけが肺を虚しく押し広げていた。
――食事は、確かに与えられた。
エイシムにとっては倉庫の隅に積まれている程度の取るに足らない備蓄食料。
だが、リュネにとっては違った。
白く湯気を立てる塩気の効いたスープ。
肉の繊維を確かに感じられる一皿。
これまで口にしたどんな食事よりも、はっきりと“腹が満ちる”と実感できる豪勢なものだった。
――だが。
満たされたのは、胃袋だけだった。
目的も告げられぬまま、食事の後にはすぐさま訓練が待っていた。
血反吐を吐くような――だが、誰も殴らず、誰も怒鳴らない。
ただ淡々と続く“正当な訓練”。
食べる。
動かされる。
逃げられない。
限界を超えて消耗する。
そして、意識がぷつりと切れるように眠る。
それを二日ほど繰り返していた。
もちろん余計なことを考える余地などどこにもない。
思考は汗と一緒に流れ落ち、疲労と一緒に摩耗していく。
(……時間、ないのに……)
ぼんやりと霞む意識の底で、リュネは無意識に腹部へと手を当てた。
じゅくり。
内側から何かが滲み出すような、不快な感覚。
一刻一刻と――命を削る、“死の刻印”。
その感覚に引きずられるように、あの男の言葉がふいに蘇る。
薄く笑い、こちらを見下ろしながら吐き出された、蛇が這うような湿った声。
『三日以内に帰ってこられなかったらよお……』
息が、耳元で擦れる。
『その“魔毒”で……死んじゃうからなあ』
それは、リュネにかけられた“首輪”。
リュネの体の奥がじんわりと灼けるように痛む。
発熱すら、すでに始まっていた。
(死んじゃうのかな……)
疲労の影から、ぬっと顔を出す恐怖。
それは叫びにもならず、ただ胸の奥を静かに締め付ける。
うる、と。
リュネの瞳が、わずかに潤む。
いつもはボス猫のように吊り上がっていた目元が、今は情けないほど垂れていた。
(……姉ちゃん……)
歯を、ぎり、と噛みしめる。
もう、全部投げ出してしまいたい。
そう思った――そのとき。
――わっ、と。
空気が、目に見えるほど大きくどよめいた。
瞬間。
それまで無言で、ただ同じ動作を繰り返していた周囲の“人形”たちが一斉に色めき立つ。
頬に、朱が差す。
引き結んでいた口元が緩み、笑みが戻る。
黄色い声を上げて互いに顔を見合わせ早口で何かを話し出す者もいた。
――まるで。
止まっていた時間が一気に流れ出したかのような。
あるいは、無機質な人形に突然“命”が注がれたかのような。
あまりにも異様な光景だった。
リュネは、何事かと疲れきった頭を無理やり回転させる。
視線を巡らせると、一方向だけ明らかに騒ぎが大きくなっているのが分かった。
訓練中だった職員たちも次々と動作を止め、引き寄せられるようにそちらへ歩き出す。
中には駆け寄ろうとする者すらいた。
集まった人影。
その隙間、その奥から――見えてきたもの。
――要だ。
奇妙に映る、現代的な服装。
周囲を威圧するような格はどこにもない。
平凡で、頼りなげですらある佇まい。
それなのに。
柔らかな笑みひとつでこの場の空気をいとも簡単に塗り替えている。
リュネの脳裏に、初日の光景がぼんやりと蘇る。
疲労で煮詰まった今の頭でもそれだけははっきり分かった。
――あれが、一番、偉いヤツだ。
(……アイツだ)
リュネの視線が錆びついたナイフのようにじわりと先端だけ鋭さを取り戻す。
要は、ひと際美しい、双子かと思うほどよく似た少女たち――クーとクルルに、何かを話しかけている姿を捉える。
(……アイツを、やれば)
思考が、細く、細く、一本に絞られていく。
リュネは、懐に忍ばせた固い感触を指先で確かめた。
冷たい金属。
あのコートの男から預かった、小さなナイフ。
要が、リュネの方へ近づく。
その直前。
クルルがそれとなく、しかし確実に要の歩みを止めた。
要は焦ったようにリュネを見つけ、声を上げる。
「……なんで、倒れてるの? 何、させたの?」
クルルが、何かを返している。
その声は、リュネの耳には遠い残響のようにしか届かない。
疲労と、呪い。
思考を縛る重りが、限界まで積み重なっていた。
――ここしか、ない。
リュネの眼前に残された選択肢は、ただ、それだけだった。
「――う、ぁあああああああああっ!!」
喉が裂けるほどの叫びと同時に、リュネは懐からナイフを引き抜いた。
冷たい金属の感触。
僅かに残っていた体力を全部まとめて燃やすように――無理やり立ち上がり、全速力で駆ける。
近い。
三秒も、かからない!
――はずだった。
(……あれ?)
視界が、ぐるん、と裏返る。
天地が反転し、前後も上下も意味を失う。
「……ぐっ……」
どさり、と背中に重い衝撃。
同時に肺の空気が一気に吐き出される。
遠くで、からん、と乾いた響き――ナイフが落ちた音。
気づけば、眼前には灰色の空が広がっていた。
そして。
その空を遮るように、ひとつの影がゆっくりと覗き込む。
ゾッとするほど冷酷な表情。
金髪の獣人。
光を一切映さない、蒼の眼。
リュネは、何が起きたのかまるで理解できなかった。
次の瞬間――するり、と。
空気を切り裂くように、美麗な白刃が抜き放たれる。
――月の雫を絞り出したかのような、日本刀。
見ているだけで、透き通った水中のような安らぎと、深い水底を覗くような戦慄を同時に与える刃。
(……あ)
理解する前に。
躊躇なく――その白刃が、リュネの細い首へと振り下ろされた。
刹那。
――太い黒刃が、その軌道を叩き止めた。
ぎり、と。
鍔迫り合いの音が、火花と共に響き渡った。
「……何故、止めるのです」
冷たく底のないクーの声。
それに対し、クルルは驚くほど淡々と告げる。
「泳がせていた。それだけだ」
「……ご主人さまをダシに使ったと?」
「後から、どんな処罰でも受ける」
一拍。
「――だが、これで“口実”は揃った」
クーは、蒼い瞳をこれでもかと細める。
だが、それ以上は何も言わずすっと身を引いた。
音も立てず白刃を鞘へと収める。
「……尋問のきっかけを作った、と。……それでナイフも?」
――わざと、取り上げなかったのか。
言外にその意味を含む問いかけに、クルルはゆっくりと頷いた。
クーは要のいる方向へ視線を向ける。
そこには――完全防御としか言いようのない陣形で、要を中心に職員たちが密集していた。
――最初からすべてが“想定内”だったのだとクーは即座に理解する。
クルルは剣を収めつつ、要に向き直った。
そして深く、深く、粛然と頭を下げた。
「我が独断により、尊き御身を、ほんの僅かとはいえ危険に晒してしまいましたこと……万死に値する不調法にございます」
声は低く、重い。
「如何なる処分も甘んじてお受けいたします。ただ――すべては、主の御前に真実を差し出すための唯一の手段でございました」
要はその言葉をほとんど聞いていなかった。
震える瞳はただ一人――リュネを捉えている。
地面に倒れ、肩を震わせ、唖然と空を見上げたままの小さな子供。
その姿を見た瞬間。
胸の奥に耐えきれないほどの感情が一気に押し寄せてきた。
怒り。
憐憫。
悲しみ。
そして、どうしようもない憤懣。
「しかしこれでこの子供への――」
クルルの言葉がすり抜ける。
(……なんで、……どうして、こうなった)
要は――この世界に来て初めて、感情を抑えることができなかった。
「――いい加減にしろ!!」
その怒声は広場だけでは収まらなかった。
石造りの壁を震わせ、訓練場を越え、エイシム拠点全体へと波紋のように広がる。
――その証拠に、一瞬で音が消えた。
さきほどまで響いていた足音も、話し声も、釘を叩く音も、ざわめきも。
すべてが、吸い取られたかのように途絶えた。
代わりに聞こえたのは、遠くで一羽だけ鳴いた鳥のさえずり。
異様な静寂が訪れた。
クーも、クルルも。
その場に立ち尽くし、犬耳はぺたりと倒れ、尻尾は無意識に股下へぐるりと巻き込まれる。
一方要は、弾かれたように駆け出した。
一直線に、リュネへ。
「……あ」
クーが、思わず手を伸ばす。
危険です、と。
行かないで、と。
だが怒声の余波に言葉が絡まり、かすかな声が洩れただけ。
要は、そのままリュネの傍へ膝をつく。
「大丈夫!?」
焦りを隠そうともせず、問いかける。
リュネはぐったりと横たわったまま、呼吸は荒く、瞳は焦点を結ばない。
要は、慌てて額へ手を伸ばす。
触れた瞬間。
「……熱い」
指先に伝わる異様な温度。
「すごい熱だ……」
リュネが最後の力を振り絞るように弱々しく手を振り上げ、要の手を払おうとする。
「……やめて……触らないで……」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
反射のように返る要の声。
焦りに満たされた瞳。
びく、とリュネの肩が震えた。
蔑まれたのでもない。
怒鳴られたのでもない。
――叱られた。
目の前の男の顔には、怒りでも嫌悪でもなくただ焦りと心配が浮かんでいる。
その表情に――どこか、懐かしさが滲んだ。
かつて熱を出した夜、誰かがこんな顔で覗き込んでくれた記憶がふと蘇る。
(姉ちゃん……?)
一瞬、思考が止まる。
リュネは固まったまま動けなくなった。
逃げることも、噛みつくこともできない。
ただ、自分を案じる顔を真正面から見つめるしかなかった。
「誰か……そうだ、セラ呼んできて!」
要の声が、再び広場に響いた。
だが先ほどの怒声とは違う、焦燥に満ちた必死の呼びかけだった。
周囲の少女たちはびくりと肩を震わせる。
動かなければ、と理解している。
だが“叱責の直後”という事実が彼女たちの思考を一瞬止めていた。
誰が。
どこへ。
戸惑いが視線となって交差している。
その沈黙を破るように、クーが恐る恐る口を開いた。
いつもより僅かに小さい声。
「あの、ご主人さま……、クーが……治療できます」
要は弾かれたようにそちらを見て、一瞬の迷いもなく言葉に飛びつく。
「ああ、そうだったね。頼むよ」
その無条件の信頼に、クーの蒼い瞳がわずかに揺れた。
彼女は静かにリュネの傍へ膝をつき、腹部へ右手をかざす。
指先が淡い光を帯び始め――金色の輝きが、ゆっくりと浸透していく。
「……これは、魔力拘束です」
空気が、ひやりと冷える。
「――いわゆる、“呪い”です」
要は、目を見開いた。
「呪いだって……!?」
息を呑む。
「いったい、誰が……」
その瞬間、ほんの一瞬だけ最悪の想像が脳裏をかすめる。
――まさか、エイシムの誰かが?
だが、クーは首を振る。
その動きはどこか硬い。
「その……」
声がわずかに震える。
「この子供が来た当初から、です」
光を維持したまま、淡々と告げる。
「ですので、恐らく……背後に、何かが……」
「なんだって……?」
要の顔から、血の気が引く。
だが、会話を続けている間にも治療はすでに終盤に差し掛かっていた。
光が、すう、と収束する。
リュネの体から熱の波が引いていくのが目に見えるようだった。
荒れていた呼吸が整い始める。
数秒後。
リュネは、ゆっくりと上体を起こした。
きょとんとした表情。
自分の体を見下ろし、腹に手を当て、違和感が消えていることを確かめている。
――要はクーとのやり取りをそこで切り上げ、ゆっくりとリュネへ向き直った。
「ええと……リュネ、くん、だったね」
一拍、声の調子を落とす。
「調子は……大丈夫そう?」
そう問われて、リュネは一瞬だけ視線を泳がせる。
困惑。
警戒。
それから、ほんの僅かな戸惑い。
上目遣いに要を見た。
しかし逆らうでもなく、小さく、こくりと頷く。
要は、胸の奥から安堵を滲ませるように微笑した。
「……そうか。よかった」
その笑みに、リュネの喉がひくりと鳴る。
「な、なんで……?」
かすれた声。曖昧な問い。
だがその瞳は、はっきりと語っていた。
――どうして助ける。
――見返りは。
――罠じゃないのか。
怯えと期待が、綯い交ぜになっていることがはっきりと伝わる。
要は、少し肩をすくめるように笑った。
「なんでも何も……子供がそんなこと、考えなくていいんだよ」
そう言って躊躇なくリュネの頭をがしがしと撫でた。
リュネは、思わずぎゅっと目を瞑った。
殴られるのかもしれないと思った――だが、衝撃は来ない。
ただ温かい手のひらが、無造作に触れるだけ。
整えられていないぼさぼさの髪が無遠慮に揺れる。
「またこの姉ちゃんたちにいじめられそうになったらさ」
要は、わざと軽い調子で言う。
「兄ちゃんに言いに来なさい。止めてあげるから」
穏やかな声音。
冗談めかしているが、本気なのは誰の目にも明らかだった。
リュネは、ぽかん、とした顔でそのまま身を任せる。
警戒がほんの少しだけ緩む。
――要は少しだけ考えた。
遠回しに探るべきか。それとも、正面から聞くべきか。
しかし、後者を選んだ。
「あのさ、もしかして……誰かに脅されたり、してるのか?」
その瞬間。
リュネの体が、はっきりと跳ねた。
肩が強張る。
視線が逸れる。
「し、知らない……」
早すぎる否定。
要は責めるでもなく、疑うでもなく、じっと見つめる。
「急に信じろって言っても、無理だよな」
声は、静かだ。
「でもさ――絶対、俺が助けになる」
まっすぐな瞳、静かにリュネを射抜く。
「なんでもいいから、言ってくれないか?」
リュネは、ゆっくりともう一度だけ要を見る。
そこに浮かぶ感情は単純ではない。
疑い。
恐怖。
――それでも拭いきれない、かすかな期待。
敵か、味方か……それとも、もっと別の何かか。
この男を自分の世界のどこに置くべきか、その算段を無意識のうちに巡らせる視線だった。
ただ――その思考は成熟したものではなかった。経験も、偏見も、大人の打算もない。
ただ目の前の人間をそのままの温度で測ろうとする、幼い判断力。
その事実が――
要の瞳は、微塵も揺れていない。
そこにあるのは演技でも駆け引きでも利用でもない。
リュネは、理屈ではなく直観で理解した。
「……あ、の」
――重い口が、ようやくわずかに開いた。
要は、リュネが語り終えるまで最後まで視線を逸らさなかった。
深刻な表情を崩さず、強い共感を瞳に宿し、逃げず、逸らさず――受け止めた。
一言も漏らさぬように。
一瞬の逡巡も取り逃がさぬように。