愛するNPCが現実化したら勝手にギスギスし始めた挙句バカ重い責任が生えてきた話 作:フォン・デ・ペギラパギラ
曇天は、いつの間にか泣き出していた。
ぽつり、ぽつりと冷たい雨粒が静かに頬を濡らす。
リュネは、途切れ途切れに事情を語った。
家族のこと。
家を追われた経緯。
そして――ベルン組合。
その名を口にするたび、声はかすれ、震え、小さな体が揺れた。
要は、途中で一度も遮らなかった。
すべてを詳らかに聞き取った。
どんなに拙い言葉でも、どんなに矛盾が混じっていても、ただ、受け止めた。
やがて泣き疲れたリュネはぐったりと力を失い、要の腕の中でそのまま眠りに落ちる。
職員にあとを任せる。
そっと抱き上げ、連れていく。
小さな背中が、雨の向こうへ消えていく。
その姿が見えなくなって、ほんの数秒。
すぐ隣には、職員たちが懸命に作り上げた木造平屋。
不格好だが丁寧に組まれた梁。
雨をしのぐために工夫された庇。
理解している。
ここで働く者たちがどれだけの労力を注いだか。
――それでも。
感情が、抑えきれなかった。
ぐっと、拳を握る。
理性よりも先に、拳の底で、壁を殴りつけた。
「――っ!」
鈍い衝撃が、骨まで響く。
ずん、と重い音が、雨の中に沈んだ。
当然だ。
要の力で、この建物が揺らぐはずもない。
ただ己の拳を傷めただけ。
握り込んだ指の隙間から、じわりと血が滲み出る。
それなのに、クーも、クルルも、周囲に控えていた職員たちも。
びくりと大きく体を震わせた。
まるで雷鳴を間近で聞いたかのように、背筋が反射的に伸び、強張る。
「あ、手……」
クーが、ぽろりと漏らす。
――その声はかすかに震えて、誰にも届かぬまま虚空へと溶ける。
続きの言葉は出ない。
要の怒り――その衝撃が、今の要の背中に近づくことをためらわせていた。
降り続く雨だけが、淡々と音を刻んでいる。
――要はゆっくりと視線を上げ、クーとクルルを見る。
二人は――はっきりと、震えている。
犬耳はぺたりと下がり、それぞれの尻尾は股の下へ潜り込み、微動だにしない。
それは反省というよりも本能的な萎縮だった。
それに、壮絶な表情。
口はきつく引き結ばれ瞳はわずかに揺れている。
叱られた子供のような“しゅん”とした態度ではない。
緊張と、恐怖と、それでも主から目を逸らさぬ覚悟が混ざった、硬直。
背筋はぴんと伸びている。
だがそれから感じるのは行儀の良さではなく、まるで一本の柱に縫い止められているかのようなぎこちなさであった。
――その様子を見て。
要は、はっとする。
胸の奥で荒れ狂っていた何かが、ほんのわずかに形を変える。
(違う。この子たちに向けるのは……違う)
冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
目の前の二人はただ最善だと信じた選択をしただけだ。
間違っていない。
間違ったのは。最大の責任があるのは。
――止めなかった自分。
――確認しなかった自分。
そう、分かっている。
分かっている、つもりだ。
胸の奥に溜まった鉛を吐き出すように、はあ、と息を吐く。
震える喉。
熱を帯びた息。
その呼気には……どうしても怒りが混ざる。
要は、ぎゅっと目を閉じ歯を食いしばった。
漏れ出しそうになる激情を、しかし無理やり飲み下す。
今は無理やりでもいい。
そう言い聞かせ、要はもう一度目を開いた。
「……ごめん」
吐き出した息にどうしても遣る瀬無さが混じる。
抑えたつもりでも、声の奥にざらりとした感情が残っていた。
「ベルン組合、ってやつらに怒ってるだけだから……ごめんね……」
それでも声は震えている。
二人への怒りも、そして自分への苛立ちも、きれいには分離できないままだった。
言葉では謝っている。
しかし、鋭敏な感覚器官を持つ二人が要の感情に気づかないはずがなかった。
要が息を吸うたび、吐くたび――二人の肩が冗談のように跳ねる。
まるで、手を上げる飼い主に怯える小動物のように。
要は小さく首を振る。
「二人には怒ってないからね……でも、聞かせてほしい」
一拍。
できるだけ穏やかな目で、二人を見る。
「――なんで、黙ってたんだろう」
責める響きにはしないよう努めた。
しかし問いの芯は鋭い。
リュネにかけられた“呪い”。
拷問めいた“訓練”。
どちらも、詳細な説明はなかった。
――いや。
(任せきってたのは、俺だろ)
胸の内で、自分自身に毒づく。
過程を委ね、細部を見ようとしなかったのは――自分だ。
分かっている。
分かっているのだ。
けれどそれでも――もう一段奥にある何かを要は知りたかった。
「……その」
クーが言い淀む。
要は、さらに静かに押した。
「いいんだ。何でも言ってくれ……頼む。本当のことを聞かせてほしい」
クーは一度、強く口を引き結ぶ。
視線は要の足元へ落ち指先まで硬くなっているのが分かる。
それでも、逃げなかった。
「それは……ご主人さまが――辛そうだったからです」
ぽとり、と静けさに満ちたこの場所に言葉が落ちる。
その言葉は弁明ではない。
真摯な告白だった。
――がつん、と。
要の頭に、ハンマーで殴られたかのような鈍い衝撃が走った。
自分では隠していたつもりだった。
けれど、彼女たちはちゃんと見ていたのだ。
要は、ぽつりと疑問を零す。
「辛そう……?」
掠れた声だった。
クーは一瞬だけ視線を伏せ、それでも逃げずに答える。
「……はい。その、ご心労でお疲れにならないか……それが、心配でした」
飾りも言い訳もない。
ただ、まっすぐな本音だった。
その言葉は要の胸の奥に静かに沈み込む。
怒りや焦燥でぐちゃぐちゃになっていた思考を押しのけ、じわじわと広がっていく。
そして――腑に落ちた。
「ああ……そうか」
要は目頭を押さえ、苦い笑みを浮かべる。
やはり、原因は自分だ。
彼女たちはただ負担を掛けまいと黙っていた。それだけなのだ。
「はは……」
乾いた笑いが洩れる。
怒りも苛立ちも通り越した――自嘲。
「ごめんな……やっぱり、俺が全部悪い」
その瞬間、二人は反射的に身を乗り出した。
「ちがっ……ご主人さまは何も悪くありません……! クーが……!」
「主、この件は私が全ての責任を負います……! 主に非は――」
必死だった。
要の顔色を窺い、言葉を選び、どうにか傷つけぬようにと縋る。
その様子を見て要の笑みが歪む。
情けなさが、さらに胸に重くのしかかる。
一方で、二人の必死さに、苛立ちと愛しさが入り混じった複雑な感情が込み上げた。
衝動のまま、要は二人に歩み寄り、まとめて肩を抱き寄せた。
「わ、えっ……!!」
「ふえ!!? え!?」
突然の行動に、クーとクルルは目を白黒させた。顔色が紅潮と蒼白を行き来する。
要は二人を包むように抱き、静かに目を閉じる。
「ごめん……本当にごめん。二人には、本当に怒ってないから」
――嘘だ。
本当は、思うところがないわけではない。
すべてを一瞬で納得できるわけでもない。
それでも――今は飲み込むと決めた。
「……もっと、話そう。俺たち」
二人の柔らかな髪に頬を寄せながら、ぽつりと続ける。
「好きな趣味とか……嫌いな食べ物とか……そういうところから、俺のこと、ちゃんと伝えるよ」
独り言のような声だった。
ぴんと張りつめていた尻尾が、ゆっくりと力を抜く。
「俺……二人が思うほど、すごい奴じゃないよ……」
クルルが反射的に息を吸う。
否定しようとして、要の胸元に預けた頭がわずかに揺れる。
だがその前に、要が静かに言葉を重ねる。
「……情けない総帥だって、二人にはちゃんと知っていてほしい」
「ご主人さま……」
クーが身をよじる。胸元から、蒼い瞳が見上げてくる。
否定したい。
だが、主自身の言葉だからこそ、強く否定できない。
そのもどかしさが、瞳の奥で揺れていた。
要は、そっと二人から体を離した。
ぬくもりが引いていく。その余韻を追うように、クーとクルルが名残惜しげに見上げてくる。
要は、少しだけ困ったような、人間味のある笑みを浮かべた。
「改めて……これからも、よろしく頼む」
その言葉に二人は慌てて背筋を伸ばした。
「もちろんです……! クーは、ご主人さまにこの身を捧げると誓っております!」
「頼みなど……! そのようなお言葉、この身には過分にございます!!」
感情が溢れ、ぽろぽろと涙が落ちている。
背後では、無数の職員たちが息を呑み、嗚咽を堪えているのが分かる。
――ここに敵はいない。
むしろ、過保護なほどの忠誠と愛情に囲まれている。
ただ――自分の無能さが、齟齬を生んだだけだ。
要の胸の奥で煮立っていた感情がぐるりと寝返る。
彼女たちは悪くない。
悪いのは――。
視線が、遠くを見る。
「……早速だけどさ、手伝ってほしいんだ」
二人の目が、すっと引き締まる。
「無論、何なりと!」
要の口元には、まだ柔らかな笑みが残っている。
だが。
目だけが違った。
「――ベルン組合と、話をしよう」
静かな声だった。
怒鳴りもしない。
激情も露わにしない。
それでも、その場の空気が変わる。
怒りも、悲しみも、約束も、不甲斐なさも――すべてが一つの“濁った決意”に溶け合っている。
……彼は善良な、根っからの日本人だ。
得手も、不得手もない。
人情を捨てきれない。
弱い者を見捨てられない。
ただ――
浮気、暴言、不祥事……たったそれだけで容易く死に追い詰める。
それができる民族。
そして今、想像を絶するほど要の基準を“冒涜”するものがすぐ隣にいる。
虫唾が、走る。
あらゆる感情が今なお溶岩のようにぐつぐつと煮立っている。
残念ながら、彼はその情動を御せるほど成熟していなかった。
だから――目の前の“ボタン”を、躊躇なく押すことを決めた。
「情報班を呼んできて」
声は穏やかなまま。
「今やってる作業は一時停止でいい。……徹底的に調べて」
一瞬、静寂。
次の瞬間、空気がぞくりと震えた。
それは歓喜でも狂気でもない。
“命令”が下った、という事実。
クーも、クルルも、たちまち目が空洞のように据わる。
巨大な獣がようやく目を開けたかのように、拠点全体の気配がゆっくりと立ち上がる。
「クルル、人選を」
そう言って鋭く目を尖らせる要の瞳は、初めて