愛するNPCが現実化したら勝手にギスギスし始めた挙句バカ重い責任が生えてきた話 作:フォン・デ・ペギラパギラ
一瞬、場の空気に呑まれかけたのだろう。
ケルヴァンは喉を鳴らし、ぐらついた気配を無理やり押し戻すと、低く、湿った声で囁いた。
「……話はついた。そうだろう?」
机の向こうで、要が薄く笑う。
「いえ」
穏やかだが、即答だった。
「貴方たちが関与していたのであれば、然るべきご対応をお願いしたく思います」
「は、は……その薄汚え腕一本で終わらせてやろうって言ってるのにか?」
ケルヴァンは、わずかに口角を吊り上げ、要を睨み据えた。
「――しつけえな。関係無えって言ってんだろ」
「それを確認しに来ただけですよ。本当に関係がないのであれば、何も問題はない……そうでしょう?」
言葉は柔らかい。
しかし、逃げ道は一つもない。
「では、いくつか質問をさせてください。ご協力いただけますか?」
「チッ……」
要が静かにクーへ視線を送る。
クーは無言で懐から一本のナイフを取り出し、机の中央へとそっと置いた。
金属が木を叩く音がやけに澄んで響く。
「こちらは、リュネが所持していたものです」
要の瞳が、静かにケルヴァンを射抜く。
「この刻印。ベルン組合の識別符号と一致しているように見受けられますが、いかがでしょうか」
ケルヴァンは、今度は大きく笑った。
「だから何だ?」
酒をあおり、喉を鳴らす。
その笑い声には、まだたっぷりと余裕が浮いていた。
油灯の照り返しに染まるケルヴァンの頬。
まるで旧知を相手に与太話でもしているかのような緩み方だった。
「言っただろう。うちのもんが階段から突き落とされたってな。その時に金目のもんも全部そのガキにスられた。ナイフもその時盗んだんだろうが」
言いながら、リュネをねっとりと見下ろす。
リュネは布を噛み締めたまま、血走った目で睨み返す。
涙と汗で顔はぐしゃぐしゃだ。
それでも……目だけは折れていない。
「なるほど」
要はあっさりとナイフを脇へ寄せた。
あまりにもあっさりと。
まるでそのナイフには最初から何の意味もなかったとでも言うように。
「では、もう一点」
視線をケルヴァンへ戻す。
「リュネは、姉を人質に取られていると供述しています。この件については何か心当たりはございますか?」
ケルヴァンの笑みが、ほんの少しだけ固くなった。
口角の角度は変わらない。しかし目の奥に浮かんでいた色がじわりと変わる。
「知らねえっつってんだろうが」
苛立ちを隠そうともしない。
要は笑みを張り付けたまま、空洞の目を向ける。
数秒、ただ沈黙した。
外の風の音。
酒場の軋む木の音。
誰かが咳き込む音が、薄暗い空間を這う。
その沈黙が重たく場に横たわった。
間を埋めるように、ケルヴァンの指が卓上の酒瓶を握り直す。
にたりと笑みを貼り付けた。
「しかし、そのクソガキも救いようがねえなあ。人様に怪我させて盗み、世話になってるお前らにも平気で嘘をつき……あまつさえ、お偉いさんを殺そうとするとはな」
ぎり、と布越しに歯が軋む。
リュネの目が怒りと悔しさで焼けつくように光る。
要は、ほんの一瞬だけリュネを見て、それから視線を戻した。
「――私は“傷害事件”を起こしたとしか申し上げておりませんが」
穏やかな声。
にこり、と笑う。
「どうして、上役の殺害未遂だと?」
ほんのわずか。
酒場の空気がに沈む。
だがケルヴァンは、眉一つ動かさない。
「ああ……ただの想像だ。それが何だ?」
要は、ゆっくりと瞬きをした。
そして微笑んだまま言う。
「いえ、結構です」
声音は変わらない。だが温度が落ちる。
「あなたの返答など、どうでもよろしい」
ぴきり、とケルヴァンの額に浮いた血管がはっきりと脈打つ。
それを意に介さず、要は背後を一瞥した。
目線だけの指示。
コクリ、と控えていた職員が小さく頷き、音もなく入口へと駆けていく。
数拍の静寂。
やがて開け放たれた古びた扉の向こうから、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
――わっせ、わっせ。
可愛らしい妙に明るい掛け声。
この湿りきった薄暗い場所にはあまりにも場違いで、何故かぞわりと背筋を撫でるように響く。
ごろつき達が思わずそちらを振り向く。
数名の職員が、何か大きなものを抱えて入ってきた。
細長い、木製の箱。
棺を思わせる形状。
小柄な少女たちが、わっせ、わっせと律儀に声を合わせながらそれを運ぶ光景はどこか滑稽で――だからこそ異様だった。
その異様すぎる行進を、ごろつき達も目を見開いて見送る。
やがて席の前に到達すると、彼女たちは慎重にそれを床へと下ろした。
ごとり、と鈍い音。
「……なんだ、これは」
ケルヴァンの声が、わずかに乾く。
要は変わらぬ微笑みを浮かべたまま、穏やかに言う。
「ご覧いただきましょう」
その合図で、職員が箱の蓋に手をかけた。
がたり。開いた瞬間――。
鼻腔を刺す腐臭がぬるりと広がった。
甘ったるく、湿った匂い。
喉の奥にまとわりつく重たい死の気配。
――箱の中には、女の遺体が横たわっていた。
皮膚はところどころ色を変え、青黒く沈み、指先や耳朶には腐敗の斑が浮いている。
しかし、閉じられた瞼の上には、薄く化粧が施されていた。
崩れかけた皮膚を隠すように、頬には粉が重ねられ、唇にはかすかな紅。
まるで"最後の尊厳"を取り戻してあげたかのように。
死臭と化粧品の甘い香りが入り混じり、それが酒場の湿った空気にゆるゆると溶ける。
呼吸するたびに肺の奥までその矛盾した匂いが沁みた。
「この方が――リュネの姉君の亡骸です」
リュネの怒りに歪んだ目から涙が滲んだ。
「身元確認も済んでおります。疑いの余地はありません」
酒場から、音が消えた。
先ほどまで粗暴に酒を呷っていたごろつき達さえ、誰一人として声を出さない。
腐臭が空気ごと場を押さえつけていた。
ケルヴァンが何か言い返そうと口を開く。
だが、要が上から滑らかに重ねる。
「――どちらで発見されたか、お伝えいたしましょうか?」
一拍。
「もういいんです……我々は既に、貴方方の関与をほぼ確信しております。――その証拠に」
すっと、指先が持ち上がる。
まっすぐにケルヴァンの胸元を指す。
「――そこに、リュネの私物のネックレスがある」
場の空気が凍る。
ケルヴァンの視線が、無意識に自らの胸元へ落ちかける。
だが、途中で止まる。
顰めた目で黙り込む。
要は淡々と続ける。
「もし見当違いでしたら、失礼をお詫びいたします。その場合は改めて誠意をお示ししましょう」
にこり。
「――ご確認、いただけますか?」
ケルヴァンは、鼻で嗤った。
「で……?」
空気が、ひび割れる。
「だから何だよ」
低い、地の底を這うような声。
次の瞬間。
椅子が軋み、酒瓶が倒れ、男が立ち上がる。
「てめぇらがなぁ……」
床板が鳴る。
「人様のシマに土足で踏み込んで、勝手に嗅ぎ回ってんのが悪いんだろうが……あぁ?」
目が、血走る。
「ここはな、俺たちの庭だ。許可もなく居座った上に――因縁つけてくんじゃねぇぞオラァ!!」
机を拳で叩きつける。
どん、と鈍い衝撃。
唾が飛ぶ。
怒気が酒場を満たす。
「ガキがどうなろうが、姉がどうなろうが……俺たちの知ったことか!!」
周囲のごろつき達も椅子を蹴り、刃物に手をかける。
「ぶっ殺すぞゴラぁ!!」
「舐めてんじゃねえぞ!」
怒号が天井を震わせる。
酒瓶が倒れ、椅子が軋み、空気が一瞬で血の匂いに変わる。
だが――。
要は、微動だにしない。
その顔から、すうっと笑みが消えた。
怒りもない。
恐怖もない。
失望すらない。
ただ、灯りを落とした部屋のような無表情。
能面のように何も映さない目。
ゆっくりと瞬きをしてから、穏やかな声で言った。
「――もういいか」
まるで、商談が決裂したあとのような声音だった。
興味を失った、それだけの態度。
静かに立ち上がる。
「逃げられると思ってんのかァ!?」
ケルヴァンの叫びを合図に、男たちが一斉に立ち上がる。
刃物が抜かれる音。
椅子が蹴飛ばされる音。
酒場の奥の影からも、ぞろぞろと人影が現れる。
出入口を塞ぐ。
窓を塞ぐ。
退路を断つ。
「男は殺せ!! 女は捕まえろ!!」
「おうおう、上玉ばっかじゃねえか……順番に可愛がってやるぜ」
粘つく笑い声。
唾を飲む音。
だが。
その全てを要は一瞥もしない。
背後で、黒いドレスの少女が一歩前へ出た。
「はい……もうよろしいでしょう、主」
静かな声音。
「既に十分な“名分”は確保できたかと」
「うん」
こくり、と要が頷く。
何の表情もない顔で淡々と告げる。
「じゃあ――お願い」
――その一言が、落ちた。
ごろつき達はまだ吠えている。
刃物を振りかざし、唾を飛ばし、酒瓶を握りしめ、押し寄せようと足を踏み出している。
怒号は絶え間なく天井を叩き、酒場は咆哮に溢れかえっていた。
その喧騒のただ中で。
黒い犬耳が、ぴん、と張り詰めた。
赫い瞳は薄く開かれ、ゆっくりと酒場全体を舐めるように巡る。
出入口を塞ぐ男の数。
窓際の配置。
奥から出てきた人影の武装。
天井の梁の位置。
柱の間隔。
壁の厚さ。
――その全てを。
尾が、静かに揺れる。
ごろつきの一人が、金切り声で仲間を煽りながらこちらへ踏み込んできた。
あと数歩で刃が届く距離に入る。
クルルは、顎をゆるやかに引いた。
まるで王が玉座から臣下を見下ろすような、凪いだ仕草。
そして。
酒場の天井を貫くような、鋭く澄んだ声が響いた。
「――総帥命令、発動」
怒号が、嘘のように途切れる。
空気を裂き、鼓膜を打つ。
酒場に充満していた獣じみた喧騒を一刀のもとに断ち割った。
「エイシム全戦力、戦術段階移行。標的――目下敵対集団」
赫い瞳が、災厄の色に染まる。
決定的に火蓋を切る。
「――蹂躙せよ。一人も残すな」
瞬間――世界が割れた。
轟音。
酒場全体が、壁が、柱が、天井が、同時にびりびりと共鳴した。
油灯の炎がいっせいに横へなびく。
「――なっ」
誰かの声が、潰れるように消える。
最初に壊れたのは窓だった。
すべての窓が同時に、外側から砕け散る。
ガラスの破片が夜気と共に酒場の内側へ吹き込み、窓際にいた男たちに容赦なく突き刺さった。
血液が宙を舞い、油灯の橙色に照らされて赤黒い靄となる。
砕けた窓枠の向こうから、少女たちが音もなく滑り込んできた。
――ひとり、ふたり、ご、ろくななはち。
濁流のように。
制服のような揃いの黒白の衣装。
幼い体躯。
その着地の軽さは猫よりも静かで、ガラスの破片を踏みしめる足音すらしない。
ただ目だけが暗がりの中で冷たく光る。
「な、なんだてめえら――」
窓際の男がナイフを振りかざす。
少女のひとりは、それを見もしなかった。
半歩だけ身を沈めると、男の手首を掴み、ひねり、引く。
関節が本来曲がらない方向にねじれ、ごきり、と乾いた音がした。
ナイフが床に落ちるより先に、別の少女の掌底が男の喉を打ち抜く。
あらぬ方向に首を曲げ、二回りも大きな体が壁まで吹き飛んだ。
――入口では、それよりさらに派手な破壊が起きていた。
扉が蹴破られた。
蝶番がバターのように千切れ、重い樫の板が回転しながら店内へと射出。
酒樽を砕き、机を削り飛ばし、そのまま奥にいた不運な男の胸に突き刺さる。
肋骨が折れる湿った音と、口から漏れた血泡。
男はそのまま壁に縫い止められたように動かなくなった。
「ふふ……」
その扉の残骸を踏み越える影。
真緑の光の筋を残しながら、ひとりの少女がゆっくりと入室する。
白いフードの奥から、瞳光がぬるりと灯った。
土気色の肌。
濃い隈。
白いコート。
覗く、病的に細い手足。
背中の荘厳で華美なメイスが不釣り合いなほど重く映る。
ノインは――まるで朝の散歩から帰ってきたかのような足取りで、血と硝子の破片が散らばる酒場を歩いた。
彼女の足元で、扉の直撃から辛うじて逃れた男が呻きながら這っている。
ノインは立ち止まった。見下ろした。
緑の瞳がきょとんと瞬く。
「……痛い、の?」
幼く、たどたどしい声。
心底優しそうな声色で告げる。
「大丈夫。すぐ……楽に、ね」
メイスの石突が、ことり、と床を打つ。
男のうめき声はそれきり途絶えた。
そして――壁が、弾けた。
轟音と粉塵が奥の壁を食い破り、煉瓦の破片が酒場に降り注ぐ。
煙の中から最初に見えたのは、金色の瞳。
暗がりの中でぎらりと光る、爬虫類じみた縦長の瞳孔。
図太く、捻じれ狂う龍角。
褐色銀髪の小さな少女が、崩れた壁の穴からゆったりと足を踏み入れた。
ぶかぶかのスカジャンの袖が揺れる。
萌え袖の奥で、指先だけがわずかに黒ずんでいる――龍鱗の断片が浮いているのだ。
グラは、心底飽き飽きとした表情をしていた。
欠片ほどの緊張も、怒りもない。
蚊柱の中を歩くときに感じる程度の、面倒くささ。
目に入ったごろつきが何か叫んだ。
剣を構えた。
振りかぶった。
……グラは振り向きもしなかった。
萌え袖のまま、片手を横に薙ぐ。
それだけ。
男の体が酒場の端まで吹き飛び、壁に激突。
水の詰まった革袋を石壁に叩きつけたような、湿って重たい音。
壁に赤い花が咲き、男はそのままずるりと崩れ落ちた。
「つまらん」
小さな唇が、ぼそりと呟く。
その声に宿る重圧だけが、少女の外見とはあまりにもかけ離れていた。
二階からも激しい破壊音が響く。
天井板がみしみしと撓み、隙間から埃が降る。
怒号と悲鳴、何か重いものが床を転がる鈍い音が壁を伝って聞こえる。
――酒場は、もはや一方的な戦場であった。
壁際で職員の少女に首を絞められ、泡を吹いて失神する男。
カウンターの裏に逃げ込もうとして、足を引っ掛けられ顔面から床に落ちる男。
起き上がろうとしたところを、小さな膝が背中に落ち、脊椎がへし折れる。
集る虫を払うように半狂乱で棍棒を振り回す禿げた男――その足元に、紅い光の粒が着弾する。
爆ぜ、膝から下が消し飛んだ。
灼けた肉の匂い。
崩れ落ちた男の口からは、声にならない空気が漏れた。
酒場の天井の梁の上――薄暗がりに溶け込むように、数名の少女が身を潜め、指先に光を灯していた。
命令が発せられる前から、既に配置されていたとしか思えない。
抵抗は、十数秒で瓦解した。
数十人いたはずのごろつき達は、立っている者の方が少なくなっていた。
床に転がる体。
呻き。
血の水溜まり。
折れた家具の破片。
酒と血と粉塵が入り混じった、むせかえるような空気。
その修羅場の中心で。
「なんだ、これ……」
ケルヴァンが、呆然と呟いた。
声が震えている。
足が動かない。
頭が回らない。
目の前で起きていることの規模と速度と、そしてあまりにも淡々とした少女たちの所作が、ケルヴァンの理解の外にあった。
違う、と。
ケルヴァンの頭の奥で何かがよぎった。
こいつらは、戦っているんじゃない。
――処理しているのだ。
虫を潰すのと同じ手つきで、淡々と、効率的に、一人ずつ無力化している。
怒りもない。
興奮もない。
呼吸すら乱れていない。
まるで――作業だった。
思考が空転する。
唖然と立ち尽くすその視界の端に――要の背が映った。
修羅場をすり抜け、悠々と立ち去っていく。
振り返りもしない。
この惨劇に、一片の興味も示さない。
背筋は伸び、歩調は乱れず、まるで雨の中を傘をさして歩いているだけのような――あの穏やかな佇まいのまま。
ケルヴァンの中で、何かが弾けた。
論理ではなく、衝動だった。
あの背中さえ断てば――あの男さえ殺せば――。
「てめえぇぇぇぇッ!!!!」
懐からナイフを引き抜き、要の背に向けて走った。
視界が狭まる。
心臓の音だけが耳に響く。
周囲の惨状も、少女たちの視線も、もう何も見えない。
ただ要の背中だけが世界の全てになる。
あと五歩。
あと三歩。
あと――。
その瞬間。
金色の風が、割り込んだ。
音もなかった。
ただ、要の背中とケルヴァンのナイフの間に、突然、少女がいた。
流麗に靡く金の髪。
ほの暗い酒場の空気を裂くように、鋭く細められた蒼い瞳。
犬耳が、ぴたり、と伏せられている。
腰の美麗な鞘から、何の音もなく抜き放たれた白刀。
まるで、月の映し鏡。
油灯の橙色の光を吸い込み、ぎらり、と冷たく跳ね返す。
――くるりと舞った。
回転に合わせて金色の尾が追従し、夜気の中に綺麗な円弧を描く。
美しく、そして無慈悲な軌道だった。
白刃が閃いたのは一度きり。
しかし手首に、足首に、膝裏に、肘の内側に――無数の線が同時に走った。
ケルヴァンは、その瞬間を知覚できなかった。
見えたのは結果だけだ。
天井が回る。
床が迫る。
体が慣性のまま前につんのめり、制御を失い、ごろごろと転がっていく。
(なんだ……力が、入らねえ……)
手も足も、命令を聞かない。
握っていたはずのナイフがどこにあるのかも分からない。
口の中に広がる、唾液に混ざる血と、油と土が混ざった床の味。
目線だけで見上げる。
要が、振り返っていた。
その隣にぴたりと寄り添うクーが、蒼い瞳を細めてケルヴァンを見下ろしている。
刀はもう鞘に収まっている。
「ご主人さま、“これ”は残しますね?」
予想外の声色。
先ほどまでの静謐な冷たさではない。
甘く、弾むような、元気な声。
主に向ける顔だけが、別の生き物のように柔らかくなっている。
「そうだね、色々聞きだせるかな?」
「はい! 武管庁と外調局に任せましょうか」
尻尾がぱたぱたと揺れている。
主の傍にいる、ただそれだけで嬉しいとでも言うように。
――ケルヴァンは、まるで羽をもがれた虫のように床に伏せている。
手足の腱が全て、綺麗に断裂。
切り口が正確すぎて痛みが遅れてやってくる。
じわじわと広がる熱い感覚の中、血が床に黒い水溜まりを作っていく。
クーは、要の背をそっと押すようにして促した。
こちらですよ、と。
要はゆるりと首を振り、ため息を一つ残し、去っていく。
――散歩のように。
「待て……てめえ……」
声が掠れる。喉の奥から絞り出すのが精一杯だった。
答える者はいない。
倒れ伏し、ぼんやりとする意識に、やけに音だけは残響を残し脳にこだまする。
無数の足音。
肉のぶつかる音。
助けを求める声。
炎、血。
何かが崩れ落ちる音。
天井を見上げると、梁の隙間から二階の光が漏れていた。
まだ戦闘が続いている。
いや、もはや戦闘とは呼べない。
一方的な蹂躙だ。
ケルヴァンがもう一度視線を前に戻す。
――そこには誰とも知れない幼い少女が立っていた。
どこの部署の者かも分からない。
名前すら知れない。
エイシムの、無数の少女職員のうちのひとり。
人形のように無表情。
感情の色が、どこにもない。
ただ、命令を実行するだけのように――静かに足を上げた。
「ま、待て……まだ、交渉――」
ごきり。
少女の脚力とは思えない衝撃が、ケルヴァンの側頭部を打ち抜いた。
視界が白く弾け、音が遠のき、世界が傾ぐ。
最後に見えたのは、少女の靴底だった。
ケルヴァンの意識は、堪らず沈んだ。
シリアス終わったかえ……?
そろそろ喋ってもええか……?