愛するNPCが現実化したら勝手にギスギスし始めた挙句バカ重い責任が生えてきた話   作:フォン・デ・ペギラパギラ

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30話:せっかく楽しかったのになあ

 セラが、要の腕にするりと体重を預けてくる。

 

 しきりに首を傾けては、こちらを仰ぎ見てきた。

 髪飾りを見せつけるように。

 

 光を受けてきらりと揺れるガラスビーズが、薄桃色の頬に小さな光の粒を落とす。

 

「ねえねえ! どう、似合ってる……?」

「はいはい、似合ってるって」

「えへへ……!」

 

 セラが顔を赤くして、花が咲くようにはにかむ。

 それで満足したかと思えば、次の瞬間には、返礼と言わんばかりにぎゅうぎゅうと体ごと押し付けてくる。

 

 柔らかい。

 

 むにゅり、と外套越しの胸元が要の腕に押し付けられ形を変える。

 要はドギマギしながら苦笑した。

 

 よっぽど嬉しいのか、先ほどから繰り返し同じことを聞いてくるセラ。

 そんな彼女を見ていると、要にも、じわりじわりと嬉しさが染み込んでくる。

 

 一方で、ツァンは少し離れた場所に立っていた。

 

 細い銀の腕輪を、指先でそっと撫でている。

 何を思っているのか、表情は読めない。

 ただ、その口元には仄かな笑みが湛えられていて、慈しむような目が腕輪の上に落ちていた。

 

 高級品ではない。

 露店に並んでいた、ありふれた装飾品だ。

 

 けれど要から直接渡されたその重さは、値段とは別のところにあるのか。

 それはきっと、彼女たちにしか分からない。

 

「はい、どうぞ!」

 

 セラが片手に持つパン菓子を差し出してくる。

 蜂蜜のかかった、甘い匂いのする丸いパン菓子だ。

 

 一口食べては、また要の口元へ差し向けてくる。

 その繰り返しに、要もいくらか慣れてきた。

 

 差し出されたパン菓子に、かぷりと噛みつく。

 

「……うん、美味しいね」

「うん!」

 

 セラが目を輝かせる。

 

 要の視線が、ふとパン菓子の断面に落ちた。

 二人分の噛み跡が、重なり合っていた。

 

 セラはそれを見て頬を真っ赤に染め、少し迷うように視線を泳がせてから――ちょこりと、要の噛んだ跡に小さな口を当てた。

 ついばむような、ほんの小さな動作だった。

 

「えへへ……、はい!」

 

 そうやって、またこちらに差し出してくる。

 パン菓子を食べているのではなく、このやり取りそのものを楽しんでいるのだと、要には分かった。

 

 ぽっと赤くなった頬。

 弾んだ声。

 

 桃色の幸福が、水面に広がる波紋のように要のほうへと伝わってくる。

 

 ――僅かなパン菓子だけで、お腹が満たされるような気がした。

 

 そのとき、つい、と白い指が伸びた。

 

 ツァンの指先が、要の口元に残ったパンくずを静かに掠めとる。

 視線は合わせず、ただ当然のように――ぺろりと口に運んだ。

 

 そのままきゅっと腕に抱きついてくる。

 

「ふふ、ごちそうさまじゃ」

「ああっ! ずるい! わたしもする……!」

 

 セラがぴょんぴょんと跳ねる。

 むくれた頬。きゅっと細めた薄桃色の瞳。

 パン菓子よりも深い、甘い香りが鼻先をかすめる。

 

 あどけない。

 どんな表情でも、どんな角度でも、愛くるしい。

 

 そんな二人に挟まれ、苦笑しながら――要は、ゆっくりと己を振り返った。

 

 屋敷にいたときのことを思う。

 

 報告は来る。

 数字も来る。

 情報も来る。

 

 でも――。

 

 魔術灯も、青い炎も、知らない匂いも、甘い菓子も。

 感動も、全部。

 

 報告書には、載っていなかった。

 

「どうしたの、あなた?」

 

 セラがキョトンと小首を傾ける。

 

「いや……来てよかったなって」

 

 それを聞いて、セラの顔がやわらかくほぐれた。

 

「えへへ」

 

 見つめ合って、笑い合う。

 

 ツァンがそんな要を、ひと粒の宝石でも眺めるような目で見ていた。

 それからふわりと、優しい声で告げる。

 

「次はそろそろメインストリートじゃな」

 

 

 ***

 

 

 大通りの喧騒が、少しずつ遠くなっていく。

 

 路地を一本入ったわけでも、角を曲がったわけでもない。

 ただ、少し歩いただけだった。

 

 それなのに、空気が変わった。

 

 石畳の目が細かくなっている。

 足音の響きが、少し違う。

 

 しっかりした看板。文字が丁寧だ。

 陳列も整っている。

 がっしりとした体格の男たちが制服に身を包み、無言で往来を見渡していた。

 

 呼び込みの声がない。

 

 客が自分から扉を押して入っていく。

 通行人もどこか市井の人々というよりは、商人や資産家――少し身なりのいい人物が目立つ。

 

 雑然と、所狭しと並んでいた露店が消え、系列店と思しき露店のみが静かにぽつぽつと並ぶ。

 

 静謐。

 そういう言葉が、ここには似合った。

 

 外套を着た三人が少し浮くほど、そこを行きかう人々にもまた格式が現れているように思えた。

 

「お店が大きくなったね……」

「うむ、 代々同じ商売をしておる信用のある店が並ぶのじゃ。つまり、老舗じゃの」

「……へえ」

 

 興味深そうに見回しながら歩く。

 

 警邏の男たちがちらちらとこちらに視線を向けてくるが、少女を二人連れていると見るや、すっと目を外される。

 どこかの商家の遊覧とでも映ったのだろうか。

 

「この辺りにはあまり遊べるところは無いのじゃ。一通り見て回ると、終いじゃな」

 

 ツァンが微笑を湛えながら告げる。

 

(いや、むしろここが本番だよな……)

 

 要はこっそりと気を引き締めた。

 一店一店、しっかりと目を行き渡らせる。

 

「これは、布地屋かな……」

 

 ショーウィンドウのように広い窓枠の内側に、折りたたまれた生地が整然と並んでいる。

 

 深い紺。

 落ち着いた赤茶。

 光の角度によって色が変わる薄い灰色。

 

 どれも派手ではないが、遠目からでも質が違うと分かった。

 

「こっちは、薬種商のようじゃの」

 

 布地屋の向かい。

 

 扉が少し開いていて、中から乾いた草と蜜の混ざった匂いが漏れてくる。

 棚いっぱいに並んだ小瓶が、ランプの光を受けて鈍く光っていた。

 琥珀色、深緑、白濁。どれも中身が判然としない。

 

「こっち、綺麗な鍵がいっぱいだよ!」

 

 その隣は、金物屋だった。

 

 扉の横に、鍵と鍵穴の意匠を刻んだ看板が下がっている。

 飾り気がない。

 しかし職人仕事の丁寧さが滲み出ていた。

 

 ショーウィンドウには錠前と、細工の入った金具が並んでいる。

 実用品のはずなのに、妙に美しかった。

 

「……よいのう」

 

 ツァンが、いつもとは違う声でつぶやいた。

 橙色の瞳が、しっとりと潤むような光を湛えている。

 

「楽しそうだね、ツァン」

「んふふ、わかるかえ……?」

 

 珍しく、頬が薄く染まっている。

 

「さきほどの織り屋は百年以上続いているようなのじゃ。王家への納品実績もあるそうな」

 

 さらりと言ってのける。要は思わずツァンを見た。

 

「……なんで知ってんの」

「宝は、調べるものじゃ」

 

 ゆるりと龍尾を揺らす。

 

「くふふ、全部平らげたいのう」

「やめてね……」

 

 半分くらい冗談ではない目が、獲物を見るように商品を眺めている。

 この通り全体を一つの宝物庫として値踏みしているのだろうか――そういう色をしていた。

 

 要は小さく苦笑して、また歩き出した。

 

 苦笑しながらも見回しながら歩いていると――ふと、その流れの中に不自然な淀みのようなものを見つけた。

 人の気配が、そこだけ僅かに薄い。

 

「……?」

 

 足が自然と止まる。

 

 三階建ての店だった。

 石造りの壁に、年季の入った木の看板が下がっている。

 間口は広く、並べられた商品も上等だ。

 

 束ねられた蝋燭。

 小瓶に入った油。

 丁寧に畳まれた布地。

 

 どれも派手ではない。しかし、質が揃っている。

 値札は小さく、しかし丁寧な字で書かれていた。

 

 それなのに――。

 

 視線を流すと、陳列がわずかに乱れている。

 客の影が見当たらない。

 そして――警邏の男の視線が、この店の前だけ、すっと滑って逃げていく。

 

「この店……」

 

 要が気になって呟いた――その時。

 

 裏路地から、怒声が漏れた。

 

 誘われるように足が動く。

 

 路地を覗き込むと、薄暗闇の中。

 がたいのいい男が二人、初老の男を壁に押しつけていた。

 

 初老の男に、抵抗する気力はなさそうだった。

 しかし弱々しい佇まいとは裏腹に、その目は前を向いている。

 壁に背を貼り付けられながら、しかし伏せない。

 

「今月分はどうした。払えないなら娘ごと頂くぞ」

 

 低く、粘つく声。

 声が路地の石壁に反響して、じくりと嫌な響きを持った。

 

「……頼む、払う。時間をくれ」

「何度目だと思ってるんだオラ……!!」

 

 男が初老の男を突き飛ばす。

 背中が石壁を打ち、くぐもった苦悶の声が路地に沈んだ。

 

 要は周囲に視線を投げた。

 

 警邏の男たちは――見ていない。

 見えていないのではない。見ていないのだ。

 

 はあ、と要はため息を零す。

 

「せっかく楽しかったのに――見苦しいなあ……」

 

 声は穏やかだった。

 いつもと変わらない、柔らかな声色。

 

 しかし一切笑っていなかった。

 

 ――要に、何かの気配が宿る。

 

 現代でただ過ごし、働いていた日常では、決して手に入らなかった何か。

 

 理不尽を、理不尽のまま捻り潰す選択。

 力で解決するという思考。

 それを当然の手段として扱える、常識の塗り替え。

 

 化け物染みた少女たちの上に立つ己は、采配ひとつであの程度のごろつきなど――容易く消せる。

 

 その事実の、確信。

 

 要は順当に、知らぬ間に、エイシムたちに染められていた。

 

 それは堕落か。

 それとも、より純度の高い()()への――昇華なのか。

 

「ツァン、セラ。……ごめん、頼むね」

 

 冷たい声だった。

 

「え? え?」

「宝主……。うぅむ、あいわかった」

 

 セラは戸惑い、ツァンは言いたいことを飲み込むように従う。

 

 返答も半ばのまま、要はコツコツと石畳を踏んで歩き出した。

 

 路地裏の湿った空気が鼻をつく。

 男たちがこちらに気づいて、目を細める。

 

「……あの、すみません」

 

 無表情で、あたかも通行人が道を尋ねるように歩み寄る。

 

 一歩。また一歩。

 石畳をゆっくりと足裏で確かめながら、揺るがず歩み寄る。

 

「何だテメェ、引っ込んでろ」

「何をなさっているのか、お聞きしても……?」

 

 警告を、まるで聞いていない。聞く気もないのだろう。

 

 男たちが目線を交わす。

 

 そして、一人が相対するように立ちふさがった。

 

 要はその男の前で、静かに足を止める。

 

「恐縮ですが、事情を教えてください」

「ああ……、おらよ!」

 

 前触れもなく、男は要に殴りかかった。

 

 ――その手が中空で止まる。

 

 ぎしり、と。

 確かに骨が軋んだ。

 

 セラだ。

 

 セラの細く小さな手が、その男の腕を掴んでいる。

 

 筋骨隆々な前腕の肉が、千切れる寸前のように歪んでいる。

 尋常ではない力だった。

 

「あ……、があああぁぁッ!!」

 

 ミシミシ、と軋む音と、男の叫びが路地裏に沈んだ。

 腕が鬱血して、みるみる青く染まっていく。

 

「ねえ……誰に手を出したと思ってるの?」

 

 声は柔らかかった。

 甘く、鼻にかかる、あの声色のまま。

 

 しかし瞳が違った。

 

 薄桃色の目から、感情という色が全て抜け落ちている。

 怒りでも憎しみでもない。ただの――ぽっかりとした空洞。

 

 ぶわりと、クリームベージュの長髪が重力を忘れたように広がっている。

 

「な、テメエ!」

 

 もう一人の男がナイフを引き抜いた。

 足をもつれさせながら走り寄り――セラの腹部へ突き入れる。

 

 どん、と衝撃が走った。

 

「……は?」

 

 確かに当たっている。外套を貫いている。

 

 ――なのに、刺さった感触がどこにもない。

 血もにじまない。

 

 男は目の前の出来事に、思考が止まった。

 

 そのとき、しゅるり、と。

 

 翡翠色の光沢が、男の足元を這った。

 細長く、美しい龍の尾。

 

 それが――音もなく足を絡めとり。

 

 そのまま、引き倒した。

 

 けたたましい打撃音が路地に響く。

 男は石畳に頭を強打し、手放したナイフが鈍い光を撒きながら宙を舞った。

 

 ツァンは優雅に立っているだけだった。

 手も足も、微塵も動かさないまま。

 

 ただ、橙色の瞳だけが細く弧を描いて――罠にかかった鼠でも見るかのように、見下ろしていた。

 

「ありがとう、二人とも」

 

 要は二人にゆるりと微笑んだ。

 

「放り出して」

 

 たった一声だった。

 

 セラは腕を強く掴んだまま、男を引きずって歩き出す。足を縺れさせ、ずるずると膝を擦る形になってもお構いなしに。

 苦悶の声など、耳に届いていない。

 荷物でも運ぶような、無感動な足取りだった。

 

 ツァンもまた、地面に伸びた男の足を龍尾で掴んだまま、ずるずると引きずっていく。

 

 そして――二人まとめて、路地の外に放り出した。

 

 ゴロゴロと転がる男たち。

 大きな音がして、通行人が一斉に振り返る。

 

 ごろつきたちはよろよろと立ち上がり――舌打ちの一つも漏らさず、戦慄した表情で一目散に足を引きずって去っていった。

 

 要はその背中を見送ってから、ふと頭上を見上げた。

 

 ――屋根の陰に、頭。頭。頭。

 

 狭い路地の隙間を見下ろすように、屋根の縁にちょこんと手を掛け、いくつもの少女の瞳がずらりと並んでいる。

 まるで機械の作動灯のように、それぞれの色で静かに光っていた。

 

 殺気は――濃い。

 

 もしも要に一瞬でも危機が迫ればこの路地がどうなっていたか。

 考えるまでもなかった。

 

 要がひらりと手を振ると、安堵したようにスッと殺気が引いた。

 

 ただ、監視は続いている。

 体勢を変えることなく、無数の目がじっと見下ろしている。

 

 知らない人から見れば悍ましい光景だが、要は小さく苦笑を漏らした。

 

 ――心配性め、とでも言うように。

 

 それから目線を落とす。

 石畳の上、まだそこに立っている初老の男に。

 

「大丈夫ですか……?」

 

 男は一瞬、息を詰めたように目を見開き――すぐに深く頭を下げた。

 青ざめた顔をしているが、しかし表情はきちんと取り繕っている。

 

「……助かりました。見ず知らずの方だというのに」

 

 その間にも、ツァンとセラが静かに歩み寄り、すっと要の両脇に並び立つ。

 

 その整いすぎた容貌に、男が一瞬息を呑んだ。

 

「そちらこそ、お嬢様方にお怪我はありませんか?」

「ええ、大丈夫ですよ。自慢の護衛です」

 

 その言葉に、二人はわずかに視線を交わし――くすりと微笑んでほんの少しだけ()()を作る。

 

「本当に、助けて頂いてありがとうございます。私はルーベンと申します」

 

 初老の男――ルーベンは、胸に手を当て、ゆったりと目礼する。

 

 五十代の前半だろうか。

 恰幅がよく、白髪まじりの短い髪。いやらしさを感じさせない口ひげ。

 愛想のいい顔立ちで、親しみやすい雰囲気を持っている。

 

 しかし目だけは違った。

 長年かけて積み上げたのだろう、何かの矜持が、静かに滲んでいた。

 

 身なりは良い。

 商人であることは一目でわかる。

 

 ただ――どこか、少しだけ煤けていた。

 まるで、長い間ずっと何かに擦り減らされてきたような。

 

「助けて頂いた上で口を挟んでしまいますが――目を付けられかねませんよ?」

 

 ルーベンの瞳に、明確な心配の色が滲む。

 

 要はそれに、率直に好感を持った。

 助けられた側から、助けた相手を気遣う。

 それができる人間が何人いるだろうか。

 

「大丈夫です、旅人ですから」

 

 優しく微笑んで、要は外套を披露するように手を広げた。

 ルーベンも緊張をほぐして、少し笑う。

 

「しかし、そなたはこの横の店の店主かのう……?」

 

 ツァンがこてん、と首を傾ける。

 その仕草は愛らしい。しかし――。

 

 表情も。

 仕草も。

 声も。

 

 先ほどまでの遊覧の色は、跡形もなく消えていた。

 完全に制御された別の顔。

 

 その瞳は一切の揺らぎなく、相手を観察している。

 

「この辺りでは名の通った店とお見受けするのじゃが……」

 

 そこで言葉を切る。

 言外に問うていた――『なぜあのような輩に絡まれるのか』と。

 

 ルーベンは気を取り直すように、商人の顔つきを取り戻した。

 

「ええ。三代続いた店です。……最近は、少し、難しくなっています」

 

 言葉を選んでいる。

 それでも、正直に吐露した。

 

「裏の連中に目をつけられまして。みかじめ料などと称し……逆らえば、こういうことになる」

 

 ツァンがその細く白魚のような指で口元を隠す。

 

「それは、この界隈全体の話かえ?」

 

 ルーベンの肩が、わずかに落ちる。

 

「……この辺りでは、うちだけじゃないですね。ただ、声を上げられる人間がいない」

「なぜ?」

 

 要がぽつりと洩らす。

 

 ルーベンは一瞬悩むように視線を泳がせる。

 路地の奥、入口、影。誰もいないことを確かめるように。

 

 そして、乾いた唇を舐めて――告げた。

 

「――貴族です」

 

 しん、と静まり返る。

 

「……"晩餐会"というものが、最近幅を利かせていましてね。裏社会と繋がって何かの"見世物"をしているらしいのですが……騎士団も手が出せない事情があるそうで」

「見世物……」

 

 要の呟きに答えるように、ルーベンが続ける。

 

「ええ、私も詳細は存じ上げませんが……どうせ、碌なものではない」

 

 言葉尻が、地面に痰でも吐き捨てるように落ちた。

 長年積み重ねた不信と嫌悪が滲んでいる。

 

「しかし……そこの後ろ盾がある連中には、今は誰も逆らえない。そして――」

 

 一度切ってため息を洩らす。

 その吐息は、わずかに震えていた。

 

「……うちの娘も、狙われている」

 

 声が変わった。

 商人のそれから、父親のそれへ。

 

「親のひいき目ですが、娘は見目がよいのです。貴族が娘に目をつけているのは分かってる。止めたいが、しかし逆らうと……。だからこうして金を払うしかないのです」

 

 ルーベンが拳を握り込む。

 白くなるほど、力んで。

 

 要が前のめりになった。

 

「……その話、もう少し詳しく――」

 

 ――袖を、ツァンにそっと引かれた。

 

 要の耳元にするりと潜り込み、囁く。

 あたたかい吐息が耳元に掛かり、こそばゆさに背筋が少しだけ震えた。

 

「今日は下見じゃて、宝主。深入りは後にするのじゃ」

「……だけど」

 

 眉を下げ、ツァンを見る。

 

 ツァンは、まっすぐだった。

 頬を引き結んで、真摯に要の目を見ている。

 いつもの艶やかな余裕も、からかいの色も、今はない。

 

 要は、少しハッとした。

 

 ――自分は、エイシムの総帥。

 

 やるべきことは、別にある。

 

 要は小さく視線を伏せ――それから申し訳なさそうにルーベンに向き直った。

 

「すみません、また来ます。その時にもっと話を聞かせてください」

 

 ルーベンの表情が、わずかに曇る。

 

 ツァンの耳打ちは聞こえていない。

 それでも、要が護衛から釘を刺されたことは、ありありと伝わっていたようだった。

 

「……いえ、話し過ぎました」

 

 迷惑を掛けてはいけない。

 その覚悟が、声の底に薄く沈んでいた。

 

「お客様の旅路を汚すことはできません。今度はぜひうちに商品を見にいらっしゃってください!」

 

 いつの間にか、ルーベンは商人の顔つきに戻っていた。

 

「……旅人さん。お名前だけ頂いてもよいですか」

 

 要が少し考えてから答える。

 

「カナメといいます」

「カナメさん……」

 

 名前を、刻み込んでいる顔だった。

 

「次にいらっしゃったときはご歓迎を。……しかし本日のところは、お早めにご退散くだされ。あれらが戻って来ぬとも限りません」

 

 苦々しげに笑うルーベンの言葉に、要は甘えるしかできなかった。

 

 

 ***

 

 

 帰り道、三人は黙って歩いている。

 

 日が傾いていた。

 商業地区の人々が、賑やかに、しかしどこか静々と、それぞれの終わり支度を始めている。

 

 要は真っ直ぐ前を向いて歩いている。

 さっきまであんなに目が泳いでいたのに。

 

「あなた……」

 

 セラがその横顔を、心配そうに見つめる。

 

「華やかなんだけどな。表は」

 

 ぽつりと落とす。

 独り言のような声だった。

 

 ツァンが静かに答える。

 

「そういうものじゃ、宝主。光が強ければ、影も濃い」

「……そうだな」

 

 また、黙って歩く。

 石畳の音だけが、三人分、並んで鳴っていた。

 

 ふと、要が洩らした。

 

「あ」

「……どうしたのじゃ」

「外交用の服買うの忘れた」

 

 ツァンがふわりと笑った。いつもの柔らかいそれに戻っている。

 

「なんじゃ、そんなことかえ。買わんでも作らせればよいのじゃ」

 

 セラもまた、きゅっと要の腕に抱きついた。

 

「えー! わたし、あなたのカッコいい姿、見たい!」

 

 要は二人の顔を見回した。

 どこか励ましてくれている彼女たちに気づく。

 

 硬く結んでいた口を、少しだけ緩めた。

 

「あはは……、ありがとうね」

 

 その瞬間――風が吹いた。

 要のフードが、ずり落ちる。

 

 セラとツァンが同時に手を伸ばした。

 二人の手が、空中でぶつかる。

 

 短い沈黙。

 それから――軽く、睨み合った。

 

 要が苦笑する。

 

「本当に、ありがとう」

 

 そう言って、今度は自分で直した。

 




ツァンは光り物が大好き! カラスかな?
詳細は機密文書へ。
実は本文より先に設定出してたりする。しかも趣味全開。
セルフネタバレ正気かよという方や、なんやこのテキスト読めねえわって方は無理しなくて大丈夫。
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