愛するNPCが現実化したら勝手にギスギスし始めた挙句バカ重い責任が生えてきた話   作:フォン・デ・ペギラパギラ

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32話:ええと……、どこで止めよう

 商業地区の中央。

 

 その建物は、我が物顔で、しかし静かに横たわっていた。

 

 表通りに面した二階建て。

 横に広く、長い。

 

 長い年月に晒され角を丸く削られた石材が、どっしりと通りに根を張っている。しかしその全容のほとんどは綺麗に整えられた生垣に囲まれ、通りを歩く人間からは窺えない。

 

 大きなガラス窓がいくつも並ぶが、内側から薄い布が張られ、中の様子はうかがえない。

 

 入口は、横扉一つだけだった。

 目立たない。

 

 知っている人間でなければ見つけられないほど、その扉は視界に溶け込んでいる。

 

 看板すらない。

 

 それでも、商業地区の人間なら誰でも知っていた。

 古くから商人が集ってきた、由緒ある場所として。

 

 その建物を前に、要が佇んでいた。

 

 現代から持ち込んだ私服は脱ぎ去って、膝まで覆う黒いチェスターコートを羽織っている。

 

 カシミヤを思わせる密度の高い生地だが、どこから持ってきたものなのか、素材の出所がどこなのか、詳細は要の知るところでは無かった。

 恐らくは、ベルンの持ち物だったのだろうが。

 

 彼の風体には似合わない、と言えばそうかもしれない。

 しかし――確かな格が、そこには宿っていた。

 

「じゃあ、お願いね。ミリエルも」

 

 要は振り返り、言葉を投げかけた。

 そこに、三人の少女が並んでいる。

 

「はい」

「承知」

 

 クー、クルル。

 鏡写しのように似た顔立ちと、金と黒の犬耳が隣に並ぶ。

 

 片方はへにゃっと口角を上げ。

 もう片方は、むっとしたいつもの表情。

 

 二人とも静かに、背筋が伸びている。

 

 そして――ミリエルと呼ばれた少女が、そこにいた。

 

 見る角度によってラメのように七色に光る、金属の光沢を持つ銀の髪。

 可愛らしいリボンでサイドテールにまとめられている。

 

 オフホワイト色のゴシックロリータ。

 ふわふわで、フリフリで、フリルが幾重にも重なっている。

 まるでお菓子の家から飛び出してきたような、甘い印象。

 

 袖はラッパ状に広がり、指先が隠れてなおダラリと垂れるほど長い。

 

 スカートは反対にギリギリを攻めるほど短く――少しでも風が通れば下着が見えかねない、という危うさがあった。

 

 頭には虹色の天使の輪っか。

 背中に、小さく浮かんだ羽。

 どちらも、漫画から切り取ったようなデフォルメのよう。

 

 現代のサブカルに精通した人間が見れば、きっとこう評するだろう。

 

 ――まるで、魔法少女だ、と。

 

 ミリエルが袖口を両手で掴んで、その陰に顔を半分埋めた。

 頬をポッと赤らめながら、小さく震えて、要を見上げてくる。

 

「……主さま、ミリ……見てるね」

 

 庇護欲を掻き立てるその仕草に、要の表情が思わずほぐれた。

 

「うん、頼んだよ」

 

 ミリエルがさらに顔を赤くして、キャッと袖の奥に隠れた。

 

 要はツァンとセラを両隣に置き、ゆっくりと入口へと歩き出す。

 足取りは、わずかに硬い。

 

 その背後でミリエルの輪郭が、ゆらりと滲んだ。

 陽炎のように。

 

 次の瞬間、光がそこだけ不自然に屈折したかと思うと――何も残っていなかった。

 

 姿も、気配も、跡形もなく。

 

「じゃあ……」

 

 要は扉に手を掛けた。

 一瞬だけ、手が止まったが。

 

 ――じわりと、押し開けた。

 

 

 ***

 

 

 商業地区最大の会議室。

 

 高い天井。

 長い机。

 上等な椅子。

 

 大きな窓の向こうには、階下の大通りが一望できた。

 だが往来の喧噪が、この部屋には届かない。

 

 ここは、そういう場所だった。

 商人たちの力を誇示するための、静かな舞台。

 

 すでに十数名が揃っていた。

 商業地区を代表する顔ぶれが、長い机を埋めている。

 

 その上座に、老商人が座っていた。

 

 白髪交じりの顎髭。

 指に嵌まった太い指輪。

 椅子への深い座り方。

 

 何もかもが、『ここは私の場所だ』と語っていた。

 

 彼らが頷けば地区が動く。

 首を振れば、話が消える。

 

 その末席に、騎士団代表のライナスの姿もある。

 どこか窮屈そうに、それでも背筋だけは伸ばして椅子に収まっている。

 

 ――老商人が、手元のハンドベルを鳴らした。

 

 間を置かず、勝手口にしては華美なドアが開く。

 使用人が静かに入室した。

 

「飲みものを」

 

 それだけだった。

 

 使用人は優雅に一礼する。

 

「かしこまりました」

 

 音もなく、扉が閉まる。

 錠前が擦れる、かちゃり、という小さな音が響いた。

 それが聞こえるほど、部屋は静かだった。

 

「エイシムとやらはまだか」

 

 静寂を切り裂くように、老商人が呟く。

 

「今しばらくかと」

 

 隣の商人が声を潜めながら答える。

 副座格らしく、その佇まいには自負が滲んでいた。

 

「しかし……本当に来るのか、その組織の総帥とやら」

 

 別の商人が、訝しげに顔を歪める。

 視線が、所在なく座るライナスへと飛んだ。

 

「はっ……」

 

 急な問いかけに、ライナスが一瞬だけ目を開く。

 しかし静かに、丁寧に返した。

 

「今朝お伺いした際には準備されているとのことで、おいでになるかと」

 

 その仰々しい言葉遣いに、別の商人がわざとらしく肩をすくめた。

 珍妙な来客に『おいでになる』など、と表情が雄弁に語っている。

 

「ははは、まあ来るでしょう。我々の許可なしに商売はできないと分かっているはずです」

「女ばかりの組織だそうですよ。しかも、若い。代表も相当若いとか」

 

 静寂が緩んだことを皮切りに、声が重なり始める。

 

「ベルン組合を消し去ったのは本当らしいが。……美人局で罠にでも掛けたのか?」

「ははは。子供のお遊びに付き合わされるのか、我々は」

 

 笑いが起きた。

 緊張のない、湿った笑いだった。

 

 しかし――老商人だけが、笑わなかった。

 

 談笑の空気の中で、小さな勝手口が静かに開く。

 使用人が静々と入室し、老商人の傍らに立った。

 

「――オズウェルさま、どうぞ」

 

 飲み物を置き、身を引く。

 用事が終わるやいなや、景色に溶け込むように、音もなく退出していく。

 

 老商人――オズウェルは、金の細工があしらわれたカップをゆっくりと傾けた。

 

「……まあよい。話だけは聞いてやろう」

 

 その声一つで、商人たちの声が止んだ。

 

 ――その瞬間。

 

 コンコン、とドアがノックされた。

 

 

 ***

 

 

 燕尾服を着た執事に案内され、要は部屋へ踏み込んだ。

 

 ドアをくぐった瞬間、十数対の視線が一斉に刺さる。

 

 一瞬の静寂。

 

 じろり、と。

 目線が足元から頭の天辺まで、品定めするようにゆっくりと這い上がる。

 

 緊張が走る。

 

 しかし――たっぷりと眺め尽くした商人たちの間で、空気がわずかに弛んだ。

 

 若い。

 目の前に立つ三人は、どう見ても若かった。

 

 そして両脇に並ぶ女の美しさが、商人たちの警戒を別の感情に変えていく。

 純粋に見惚れて、息を詰まらせている者もいた。

 

 セラの白いドレスは露出が多く、そして明らかな高級品だ。

 彼女は緊張で顔を引き攣らせたまま、ただまっすぐ前を見ている。

 

 一方のツァンのチャイナドレスも、前掛けのような布一枚だが目の利く商人ならすぐ分かる値打ち物。

 完璧に作られた笑みと姿勢で、優雅に、静かに、立っていた。

 

 この場に立つ資格は、三人とも満たしている。

 

 ――だが、目の前に並んだ顔は、商人にとってはどう見ても子供だった。

 

「これはこれは」

 

 オズウェルが、口の端だけを吊り上げた。

 背後の窓からの逆光を受けて、その笑みに影が差す。

 

 その逆光の差し込む角度までも、彼の――ひいてはこの建物を支配してきた古商人たちの演出なのだろうか。

 

「貴方がエイシムの総帥殿、ですかな? ……ずいぶんとお若いですな」

 

 彼にとってそれは小手調べなのだろう。

 明らかに下に見る態度で、刃の先を向けるような言葉。

 

 しかし――。

 

 要がその繊細な駆け引きに気づく訳もない。

 ……嫌な信頼だが。

 

「あはは、そうでしょうか」

 

 頭を掻きながら、のんびりと返す。

 

 いかにも素人。

 いかにも場慣れしていない。

 

 商人たちの間で、静かに、更に空気が緩む。

 ああ、気楽な相手だ――と。

 

 しかし、ライナスだけが。

 

 一瞬だけ要の方へ目をやる。

 次の瞬間には素早く逸らして、頬を引き締め、視線を机の一点に落としていた。

 背筋をぴしりと伸ばす。

 

 何かを願っているように。

 衝撃に備えるように。

 

 オズウェルは隣の商人たちと、静かに視線を交わした。

 それから、余裕を纏ったまま続ける。

 

「我々は忙しい身でして……、手短にお願いしたい」

 

 石を水面に落とすような声だった。

 

「本日は、例の跡地を勝手に占有されている件について釈明頂けると……その理解でよろしいですかな」

 

 帳面へ目を落としながら言う。

 議題を聞く前から、時間が惜しいとでも言いたげに。

 

 本当に多忙なのか。

 それとも――主導権を握りに来ているのか。

 

 その態度にセラが僅かに眉を顰める。

 

 しかしツァンは、要の隣でほくそ笑んでいた。

 嫌なほど静かに。

 何もかもが織り込み済みだと、その表情が語っているように。

 

 要が、一歩前に出た。

 

 肩が強張っているのは、誰の目にも明らかだった。

 

「すみません……お時間を頂きます、エイシム代表、真藤 要です」

 

 そう言って、一度唾を飲んだ。

 

「まずは、勝手に占有してしまって申し訳ありません」

 

 要は――頭を下げた。

 

 小さすぎず、しかし深すぎない角度。

 総帥という立場を(いたずら)に貶めない、急拵えだが洗練された会釈だった。

 

 ツァンとセラも、揃って腰を曲げた。

 

 その謝罪は、どこか真剣味が伝わる誠実なものに思えた。

 形式や建前ではない、本物の要の想いなのだろう。

 

 商人たちの雰囲気が、ほんの匙の先ほどだけ軟化した。

 しかし視線には油断があっても、容赦は一粒もない。

 

 要は頭を上げ、続ける。

 

「今回参りましたのは我々エイシムと商業地区の皆様で協力関係を結ばせて頂きたかったからです。ついては、あの土地に関しても都合をつけて頂きたいと思っています」

「……ほう」

 

 商人の一人が、試すように声を落とした。

 

「何やらご提示いただけると?」

 

 要は強張った笑みで頷いた。

 

「はい……我々エイシムからは、()()をご提供したい」

 

 途端に。

 商人たちは、一斉に訝しむような視線を投げかけた。

 

 中には侮り、笑う顔の者もいる。

 女ばかりの集まりが何言うのか、と。

 

 品が無いことは言わないし、漏らさない。

 しかしセラとツァンを舐め回すように見るその表情が、『別のものを提供したら良いのでは』と雄弁に語っていた。

 

 そう、ほとんどは――もう結論を出している目をしている。

 都合などつけるつもりは、最初から毛頭ない。

 さっさと追い出す口実だけを待っていた。

 

 そこへ、唐突に、要が口を開いた。

 

「――これからお見せすることは、全部デモンストレーションです」

 

 要が告げる。

 頬に緊張を滲ませながら。

 

 オズウェルが。

 いや、商人全員が『は?』という顔を浮かべた。

 

「すみません、驚かせてしまうと思うので先にお伝えしておこうと思って」

 

 要が続ける。

 

「……お願いですから、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 疑問符が、室内に浮かび上がった。

 

 顔を見合わせる者。

 首を傾げて笑う者。

 

 何か言い出したぞ、とでも言わんばかりの空気。

 大道芸でも見るような、緩んだ期待が漂い始めていた。

 

 ――ただ。

 

 ライナスだけが、ビクリと肩を凍らせた。

 

 人知れず歯を食いしばる。

 絶対に動くまい、と。

 動いた者がどうなるかを、この中で唯一知っている顔だった。

 

「じゃあ」

 

 要が手を掲げた。

 親指と中指を合わせ、指を鳴らそうとした。

 

 ぽす――と。

 

 気の抜けた音が、静寂に落ちた。

 

「……あ、あれ」

 

 要が自分の右手を見つめて、呟く。

 

 くすり、と商人たちの一部から笑いが漏れた。

 肩の力が、ふっと抜けていく。

 

 やはり子供のお遊びだ、と。

 

 しかし、ツァンは唇をわずかに噛んでいた。

 笑いを堪えているのだ。

 

 己の主の、どこまでも天然な振る舞い。

 

 しかしそれが、計算し尽くされた演出よりも――どれほど()()()かを。

 ツァンだけは、正確に理解していた。

 

 ――次の瞬間。

 

 ごぉん、と。

 

 部屋を。

 

 空間を。

 

 体中を、駆け巡る。

 

 音というより、衝撃だった。

 鐘の鳴動に似て――しかし全く違う。

 

 鼓膜ではなく脊髄に直接触れてくるような、低く不浄な不協和音。

 

 人体が本能的に“異常”と判断する類の音が、空気そのものを伝って全身を叩いた。

 

 視野が欠け落ちる――いや、そう思ってしまうほど暗闇に包まれた。

 商人たちは暗順応で一切の視界が塞がれた。

 

 数秒。

 それとも数十秒か。

 

 ゆっくりと、血が戻るように目が慣れ始める。

 

 ――夜だった。

 

 今の今まで昼間だった。

 窓の外には大通りがあった。

 人の往来があった。

 馬車の音があった。

 

 全部――消えていた。

 

 窓の外に、月が浮かんでいる。

 

 大きすぎた。

 

 あってはならない大きさで、空を覆い尽くすように据えられている。

 

 美しくなどない。

 美しさより先に、何か根源的な恐怖が来る。

 あれは正しくないと、脳のどこかが悲鳴を上げている。

 

 その月光が窓から差し込み、会議室の内側を切り裂くように光と影が走る。

 

 ――そして。

 

 全員の背後に、人が立っていた。

 

 音もなく。

 気配もなく。

 いつの間にか。

 

 人形のような少女たちが、虚ろな瞳のまま、商人一人ひとりの背後にぴたりと張り付いていた。

 冷たいナイフが首筋に這う。

 

 笑いが止まった。

 声が出なかった。

 息が、引き攣った。

 

 いつからいたのか。

 どこから来たのか。

 

 ドアは開いていない。窓も閉まっている。

 ならばどこから――。

 

 ふと。

 

 月光に照らされた会議室の中央。

 長く荘厳な机の上に、銀色の少女――ミリエルが浮いている。

 

 いつからいたのか、誰も分からない。

 

 三角座りの格好で、膝を揃えて、ふわふわとした袖口を膝の上に重ねている。

 月光を受けながら、ゆっくりと、ゆっくりと回転している。

 少し恥ずかしそうに、はにかんでいる。

 

 可愛らしかった。

 だがその可愛らしさが余りにも場違いだ。

 

 違和感。

 

 月光を受けて壁まで伸びるミリエルの影が――おかしい。

 

 光源は月だ。

 方向は決まっている。影の向きも決まっているはずだった。

 

 でも間違っている。カタチが違う。

 人のカタチではない。

 

 首がある。腕がある。無数の腕が。足が。指が。全部――ばらばらの方向を向き。

 

 ばらばらに蠢いていた。

 

 ミリエルは静かに浮いているのに。

 影だけが、悍ましく生きていた。

 

「ひっ……」

 

 その事実に最初に気づいた商人が思わず声を洩らした。

 

 しかし、その影を指差せなかった。

 差せる訳がない。

 

 もし声をあげて――この影の中のナニカが振り返ったら。

 

 そんな根拠のない恐怖が、全員の体を縫いとめた。

 

「――ベルを、鳴らしてみてください」

 

 要が穏やかに、オズウェルへ向かって言う。

 

 ミリエルの影が揺れる真ん中で、その影に隠れる要の表情は伺えない。

 

 オズウェルは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 

 しかし自分へ向けられた言葉だと分かると――オズウェルは震える喉で呼吸を整え、ゆっくりと手を伸ばした。

 

 小さな、綺麗な、ハンドベル。

 いつも使用人を呼んできたもの。

 

 ちりん――。

 

 誰も来ない。

 

 もう一度。……しかし、誰も来ない。

 

 廊下の向こう、何も音がしなかった。

 

 足音も。

 衣擦れも。

 息遣いも。

 

 建物が、まるで呼吸をやめたように静かだった。

 

「使用人や警備の方々には、少しの間だけ席を外していただいています。ご安心ください、何もしていません」

 

 要の声が続く。

 

 穏やかだった。

 謝罪の時と同じ、柔らかい声色だった。

 

「室内も、建物も、外も――完全に制圧しました。……どうでしょう、ご確認いただけますか?」

 

 影の中、要のシルエットの輪郭が、ぽりぽりと頭を掻いていた。

 

 さっきと同じだった。

 素人の仕草だった。

 まるで何でもないことのように言っていた。

 

 誰かが、息を呑んだ。

 

 確認するまでもなかった。

 確認したくもない。

 

 今すぐナイフから、この異界から、あの影から、一秒でも早く解放してほしかった。

 

 ライナスもまた壮絶な顔のまま拳を固く握り、ただ時間が過ぎ去るのを待っている。

 さながら、嵐の中で岩に必死にしがみつく形相で。

 

 しんと静まり返った会議室。

 

 ミリエルが机の上で浮いたまま、ふわふわとした袖口で口元を隠した。

 桃色に染まった頬。

 虹色の瞳が、ゆらりと揺れる。

 

「……主さま、かっこいい」

 

 ぽつりと、零れた。

 

 ――その瞬間。

 

 影が、ざわりと動いた。

 無数の首が、無数の腕が、無数の指が――机の上でうねる。

 

 商人たちの誰かが、小さく喉を引き攣らせる。

 

 静寂が続く。

 

 ――なぜなら、要もどこで止めるか迷っていたからだ。

 

 最初に動いたのは、一番端に座っていた中年の商人だった。

 

 額に汗が滲んでいる。

 顎から雫が落ちそうだ。

 

 それでも彼は――笑顔を作った。

 震えながら、必死に。

 

 ――彼は根っからの商人だった。

 三十年生き延びてきた欲が、恐怖に勝ったのだ。

 

「い、いやあ……なんと……素晴らしいですな……ッ!」

 

 引き攣った声。

 何が素晴らしいのか、本人にも分かっていないだろう。

 しかし口が動いた。

 

 その一声が、部屋の空気を変えた。

 彼ら全員が本分を思い出したかのように――声が重なる。

 

「っ、聞きしに勝るとはこのこと……、何とも素晴らしい統率で……ははは」

「こっ、これほどの手腕をお持ちとは……、噂は当てになりませんなっ……」

 

 乾いた笑いが充満する。

 かたかた、と。歯が鳴るような笑いだった。

 “笑うしかない”という空気が、瞬く間に伝染していく。

 

 事実――それしか手段がなかった。

 

 その中で。

 

 オズウェルが手拭いを取り出し、冷や汗をゆっくりと拭った。

 深く息を吐いて姿勢を正す。

 それが彼の、並外れた胆力の証明だった。

 

「……失礼しました、総帥殿。協力関係の件、お話をうかがいましょうぞ」

 

 さっきまでの侮る空気は、どこにもない。

 

「ええ、ありがとうございます」

 

 要は影の中微笑んだ。

 そして、小さく呟く。

 

「……もういいよ」

 

 その一声で、嘘のように外が明るくなった。

 

 日差しが差し込んで、商人たちの目が白く霞む。

 

 背後に立っていた職員たちが、音もなく刃をしまう。

 揃った姿勢のまま壁際まで後退し、無言で立ち尽くした。

 

 窓の下の大通りには、何事もなかったように人が行き交っていた。

 笑い声が聞こえる。

 呼び込みの声が届く。

 

 信じがたいほど、普通の午後だった。

 

 商人たちは深く息を吸った。

 海面から浮上したように、肺の底まで空気を引き込んだ。

 

 しかし――次の瞬間、その目に別の光が灯る。

 

 こぞって口をつく。

 

「何をされたのか全く分かりませんでしたぞ……!」

「いやはや、噂はかねがね聞いておりましたが、これほどとは……!」

 

 さっきまで死にそうな顔をしていた男たちが、今は目を爛々と輝かせていた。

 瞳の形が、金になっているように見える。

 

 この場に座る彼らの商魂は何よりも貪欲。

 恐怖などとうに吹き飛んで、既に未来有望な()()()として要を見ているようだった。

 

 その業の深さに、ライナスは呆れと驚愕を混ざった顔で商人たちを見渡している。

 

 要も苦笑するしかなかった。

 

「もう鳴らしてもよいのか……?」

 

 そう呟きながら、オズウェルはベルを鳴らす。

 

 チリン、という音。

 

 バタンとけたたましく音を立てて勝手口が開いた。

 先ほどの使用人が、肩で息をしながら飛び込んでくる。

 

 少し衣服が乱れている。

 

 その後ろから、幼い見た目の職員がゆったりと続いた。

 

「あの……、大丈夫ですか……! 一体なにが……」

「用意を命じていた会食はどうなっとる」

 

 オズウェルが低く、静かに遮った。

 

「……は? ええと、それは……」

「会食を、準備させておったろう」

 

 言い聞かせるように繰り返す。

 

 使用人は一瞬、困惑した顔をした。

 しかしそれも瞬きほどの間だった――オズウェルの意向をすぐさま汲み取り、引き締まったベテランの風貌に戻る。

 

「は、はっ……只今食材の配達が遅れておりまして。誠に恐縮ですが、少々お時間いただくかと……」

「急げ」

「申し訳ありません、直ちに」

 

 使用人は職務に強引に現実に引き戻された。

 優雅に一礼し、早足に扉の向こうへ消えていく。

 

 オズウェルが、にこやかに要へと向き直る。

 

「大変申し訳ございません、ご来訪に合わせ歓談会をば、と準備させたのですが……どうやら手違いがあったようです」

 

 でまかせだろうな、と流石の要でも気付いた。

 しかし精一杯の建前をわざわざ崩す必要もない。

 

「度重なる無礼……どうかご寛恕くだされ」

 

 その笑みは老成した商人のもの。

 阿っているのとは違う。

 交渉力と商いへの誇りが自然に滲む。

 

 さっきの態度がまるで夢のようだった。

 武力に屈したのではなく、場を読み直して最善手を選んだ。

 それだけのことを、この老人は瞬時にやった。

 

 要も少し息を呑む。

 

「さあさあ、ぜひお座り下さい総帥殿。我々と、そして栄光あるエイシム殿のこれからについてお話しましょう」

 

 要はオズウェルの顔を正面から見た。

 さっきと同じ目をしている人間だ、と思った。

 

 変わったのは、態度だけだ。

 

「……はい、よろしくお願いします」

 

 この老人は油断ならない。

 要は、それを胸の底に静かに刻んだ。




初期から読んでくださっている方は少し混乱されるかもしれません。
実は1章でミリエルが一度登場し、少しだけやり取りするシーンがありました。
(当初は1章のうちに全員登場させたいという意図がありました)
ただテンポの悪化を招いていると判断しその部分は現在削除しています。
そのため、改めて本格的な登場としてはここが初めてとなります。申し訳ありません……。
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