愛するNPCが現実化したら勝手にギスギスし始めた挙句バカ重い責任が生えてきた話 作:フォン・デ・ペギラパギラ
商業地区の石畳は、昼の光の中でも独特の翳りを帯びていた。
馬車の車輪に削られた溝。
靴底が磨り減らした石の角。
何十年分もの往来が、地面に刻まれている。
その路地の先に、店はある。
目立たない。
看板は年季が入って文字が薄れかけている。
それでも丁寧に手入れされた痕跡が残っていた。
木枠の扉は古い。
だが蝶番がしっかり手入れされていて、押しても、ぎいとも鳴らずに開く。
思いがけない再訪に感慨深い面持ちで、要はその扉をくぐった。
からん、と。
軽快な鈴の音が、宙に溶ける。
――中へ入った瞬間、空気が変わった。
蜜蝋と、乾いた木の香り。
くすぶる薬草の匂いが、その奥に微かに混じる。
棚には、布地が几帳面に畳まれ。
金具類が種類ごとに仕分けられ。
陶器の器が行儀よく並んでいた。
雑然としているようで、確実な秩序がある。
要はわずかに目を細めた。
場所全体が落ち着いている。
ここで商いをする人間の気性が、空気に染みついているようだった。
使い込まれた棚板の傷一つひとつが、長年の仕事の証のように見える。
――奥から足音が近づいてくる。
現れたのは、恰幅の良い男だった。
五十代前半。
白い毛の混じった眉。
愛想のいい顔立ち。
しかし眼光だけは、長年の商いが研いだ鋭さを失っていない。
ルーベンだ。
少しくたびれた男が、深く身を折った。
「カナメ様、わざわざのお越しを……」
「いえ、こちらこそお邪魔します。お時間を取って頂きすみません」
お辞儀を交わし合う。
新進気鋭な組織の代表というのに、やけに腰が低い要。
ルーベンは驚いたようにぱちぱちと目を瞬かせたが、すぐに気を取り直した。
すっと、手を前に示す。
「奥の部屋へどうぞ」
「はい」
促されるまま、要とツァンは後に続いた。
――ふと気づいて、要は振り返った。
「どうしたの? 行こうよ」
呼びかけた先に立っていたのは、セラフィエル。
クリームベージュの長髪が、店内の柔らかな光を含んで揺れている。
外套に包まれた体躯。
白い天使の羽が、無意識にゆるりと動いた。
セラはお腹の前でちょこんと両手を重ねて、行儀よく立ったままじっと動かない。
どこか上の空だった。
陳列棚をぼんやりと眺めているような、見ていないような。
要の声に、ハッと我に返るセラ。
柔らかく微笑んで言った。
「あの……わたし、ここで待ってるね?」
「え、いいけど。……どうしたの?」
きょとんと問いかける要に、セラは軽くガッツポーズをしてみせた。
「素敵なお店で、もうちょっと見てたいなって! 大丈夫です、ちゃんとしてますから!」
頬をぷくっと膨らませ、おどけるように笑う。
「……そう?」
要は苦笑して、それ以上は追わなかった。
――セラの笑みの奥に何かが揺れていることに、要は気づかない。
「宝主よ、どうなされたのじゃ?」
奥の小さな扉から、先に行っていたツァンが顔を覗かせる。
「ごめん、今行く」
要は応えて、奥へと消えていった。
扉が、ぱたりと閉まる。
静かになった。
セラは、その扉をしばらく見つめた。
ツァンは当然のように寄り添っていた。
自分が傍にいるよりもずっと自然に見えて――なんとなく、悔しかった。
言葉にはならない感情が、胸の奥でくすむ。
日当たりのいい窓から午後の光が斜めに差し込んで、埃がゆっくりと揺れている。
ぼおっと。
半眼で、無表情に。
綺麗に陳列された商品を見て回る。
しかし、きっと商品のことなど何も見えていなかった。
そのとき。
奥の、要が入ったものとは別の小さな勝手口が開いた。
「……あ、いらっしゃいませ」
セラが顔を上げると、そこに一人の娘が立っていた。
年の頃は十八ほどか。
癖のある明るい茶色の髪が、肩の下でゆるやかに揺れている。
父親似の目元。
日差しを浴びて育った健康的な肌。
輪郭の柔らかさは、まだ少女の面影を残していた。
(……ああ)
セラは反射的に。
ルーベンが娘を心配する理由が、一目でわかった。
セラは軽く会釈をする。
「えと、こんにちは。わたし、打ち合わせを待ってるだけで……」
「お付き添いでいらっしゃったんですね!」
エプロンを手で押さえながら、少し急ぎ足でセラに歩み寄った。
目が大きい。
どこかまだあどけない。
小鹿みたい、とセラは思った。
「ルーベンの娘で、ソフィエと申します。……わあ、真っ白な羽! 天使さんみたい……!」
「え? ……えへへ、どうも」
セラの口元が、思わずほどける。
(ホントに天使なんだけどな……)
その内心を打ち明けるわけにはいかない。
セラは口を噤んだ。
「翼人さんなんですね! 本日はどちらから?」
――はきはきしていて感じが良い。
セラは、どうせすることもないし、と腹をくくり、ゆっくりと口を開いた。
お互いのことを確かめるように、少しずつ、言葉を渡し合っていった。
***
ふんわりとした時間が、店の中に漂っている。
少女二人の話し声が、埃の揺れる光の中に溶けていた。
「セラさん、その羽……触ってもいいですか?」
ソフィエが遠慮がちに手を伸ばしかけたまま、止まった。
聞いてから伸ばすべきだったと気づいた顔だ。
「え、いいよ。……でも、そんなに綺麗?」
セラは少し首を傾ける。
自分の翼をちらりと振り返るが、よく見えなくてまた前を向いた。
「綺麗ですよ! うわ、本当に柔らかい……」
ソフィエの指先が白い羽の縁をそっとなぞる。
その感触に目を丸くして、今度は両手でふわりと包むように触れた。
甘い、お菓子のような香りがあふれた。
「いい匂い。羽根布団より柔らかいかも……」
ぽつりと呟いてから、はっとして顔を上げる。
「ごめんなさい、変な例えで。……うちのお父さん、翼人の方と一度だけお取引したことがあって。羽一枚でも高値で売れるんです」
「え……そうなの?」
セラの眉が、ぴくりと動く。
「あ、売ってほしいとかじゃないですよ! ただの豆知識で……すみません、また変なこと言って」
慌てて手を引っ込める。
眉を落として、申し訳なさそうにセラを見上げた。
年若いというのに、商いの話に心底夢中のようだった。
「ふふ、大丈夫だよ」
セラは小さく笑った。
怒るとか、気分を害するとか――そういう気持ちはちっとも湧かなかった。
ただ、なんとなく可笑しかった。
――この子は、悪意のある言い方というものを知らないのかもしれない。
まっすぐで。
嘘をついていなくて。
口より先に顔に出る。
(なんか……楽だな)
セラは、じんわりとそう思う。
エイシムにいれば誰かの視線がある。
仕事の場では、ずっと何かを試されている。
気を抜けば失敗する。
隙を見せてはいけない。
そんな感覚が、ここにはなかった。
ただの、店の一角。
傾いた午後の光。
知らない女の子と、羽の話。
ほんの少しだけ、セラは素に近い顔をしていた。
「……一枚あげよっか」
冗談めかして、言ってみた。
「えっ」
ソフィエが目を白黒させる。
「ほんとにいいんですか……!? あ、でも、抜いたら痛くないですか……?」
真剣に心配している顔に、セラは吹き出しそうになった。
――しばらくの間、二人は他愛もない話に興じた。
翼人の羽の相場。
父親が昔こっそり仕入れた異国の香辛料が、全部売れ残った話。
エイシムでの要の活躍。
ソフィエが笑うと、セラも釣られて笑った。
気を張らなくていい時間。
窓から差し込む午後の光が、二人の間でゆっくりと動いていた。
ひと息ついたところで、ソフィエがふと言った。
あどけない笑みのままで。
「じゃあセラさんは、カナメさんのことが大好きなんだね」
「……え」
セラの時間が、一瞬止まった。
「え!? その、そうだけど……でも」
言葉が途切れる。
頬に熱が上がるのが、自分でわかった。
視線が彷徨い、やがてふらりと地面に落ちた。
「……いっつも迷惑ばかりで」
ぽつり、と洩らす。
「わたし、きっとあの人に失望されてるわ……」
笑みを作ろうとした。
しかし……作れなかった。自嘲さえ、浮かべられない。
言葉にしてみて、初めてその重さに気がついた。
「そんなことないよ!」
ソフィエが身を乗り出す。
断言できる根拠なんてないのに、一切迷わなかった。
「頑張り屋さんだって、きっと伝わってます!」
「……そうかな」
セラは小さく返した。
口元だけ、かすかに笑っている。
――でも、胸の奥では別の声がしていた。
(頑張ってるからって……)
外交の場で、倒れ込んだ。
装置を壊した。
あの時のツァンの目を、ラズの目を、覚えている。
(結果が伴わなければ、同じことでしょう?)
要が困ったように笑っていた顔も覚えている。
フォローされるたびに、少しだけ胸が痛かった。
頑張っている、は言い訳だ。
頑張った結果が全てだ。
それでも。
(……でも、大好きなのは、本当)
その感情だけは否定できなかった。
どんなに情けない自分でも、そこだけは揺るがなかった。
セラは視線をそっと落とし、床をぼんやりと眺めた。
――そのとき。
重い足音が、複数。
石畳を踏む音が、規則的に、急かすように近づいてくる。
ばらばらと。
ずかずかと。
そして――ばん、と。
乱暴に扉が開いた。
入ってきたのは――醜く肥えた男だった。
二十代の頃合いのはずだ。
しかし顔の輪郭は脂肪でたるみ、目が細く埋もれている。
笑うでもなく、ただ周りの肉に押し潰され、緩んだ目。
纏う外套は刺繍が過剰で、色が三色以上混ざっている。
紫と金と深紅。
選んだ人間の『高価なものを全部着た』という意志だけが伝わってくる。
仕立てだけは良い。
しかしどう見ても、品がない。
歩くたびに贅肉が揺れ、床板が軋んでいる。
続いて護衛が四人、店内へ荒々しく入ってくる。
揃いの装備。
揃いの無表情。
雇われた者の、感情を殺した目。
――ソフィエの顔から、血の気が引いた。
来たことがある。
何度も。
この場から立ち去りたいと、ソフィエの脳が警鐘を鳴らす。
しかし店のこと、父親のことを思うと、足が動かなかった。
「おお、いたいた」
男の声が、店内に満ちた。
入った瞬間にソフィエを見つけ、顔の筋肉を緩める。
嬉しさではなく、どこか持ち物を確認したときの顔だった。
「今日も愛らしいじゃないか」
開いた唇の内側に、唾液の糸が走った。
口の端に昼食の残りかすが白く乾いている。
ソフィエは黙って一歩下がる。
背中が棚にぶつかった。
「デゴールさま……」
声が出た。かろうじて。
男――デゴールは意に介さない。
気にするという発想がない歩き方で、ソフィエへとずんずん近づいていく。
頬肉が、腹肉が、贅肉のすべてが弛んで揺れていた。
体臭が、先に届く。
饐えた匂いが気流に乗って伝わる。
汗と脂と香水が混ざった、腐ったような匂い。
「お前の父親にも話があってね」
鼻から漏れるような声が、甘ったるく響く。
自分の立ち位置を微塵も疑わない。
世界は自分を歓迎していると、生まれたときから信じて疑わない者の声だった。
「いるかい?」
骨付きハムのようにぶよぶよした腕が、ソフィエの頬へ伸びた。
指の一本一本が冗談のように太い。
脂ぎった光沢がそのまま、ソフィエの顎をねっとりと撫でた。
「……父は、ただいま来客対応中でございまして」
ソフィエは目を伏せたまま、震える声で答えた。
逃げ場を探す目線を、必死に隠す。
「来客?」
デゴールが眉を上げた。
そうして、初めてセラに気づいた。
あるいは、今まで視界に入っていなかったのかもしれない。
じっとりとした小さく細い眼が、セラを捉えた。
ぶひい