愛するNPCが現実化したら勝手にギスギスし始めた挙句バカ重い責任が生えてきた話   作:フォン・デ・ペギラパギラ

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43話:イート・ザ・リッチ

 その要の一言で、それは始まった。

 

 最初に気づいたのは、足元だった。

 

 石畳の隙間から。

 壁の亀裂から。

 天井の影の、そのさらに奥から。

 

 黒い霧が――じわり、と。

 

 地の底から滲み出るように。

 音もなく、匂いもなく、ただ静かに染み出してくる。

 

 まるで、水が布に染みこんでいくようでもあった。

 

 誰も声を上げなかった。

 

 最初は、そういうものかと思った。

 豪奢な演出のひとつか。

 あるいは、舞台を盛り上げるための魔術の類か。

 

 だが――霧は止まらなかった。

 

 みるみるうちにくるぶしが消えた。

 膝すら、ぼうっと滲んでくる。

 

 それに気づいた者が、隣の者の腕をつかんだ。

 言葉ではなく、指先の力で問いを伝えた。

 もちろん答えは返ってこない。

 

 やがて。

 

 やがて高級な夜会会場だったその場所は、濃い黒に呑み込まれた。

 

 床がなくなった。

 壁がなくなった。

 

 どこへ向かえば出口なのか――霧が、方向という概念ごと奪っていった。

 

 ステージの光だけが薄っすらと輪郭を残している。

 燭台の炎が弱く、橙色の光をぼんやりと滲ませている。

 

 ――ごぉん。ごぉん。

 

 セラがまだ床ごとデゴールを殴っている。その音と振動だけがこだまする。

 

 その一定のリズムが、まるで世界の終焉を告げる鐘の音のようで、やけに悍ましい。

 

 その音と音の合間で。

 

 誰かが息を呑む音がした。

 誰かが隣の者の袖を掴む布擦れの音がした。

 目線だけが、ぎこちなく行き来した。

 

 声を出すことが、なぜかひどく怖かった。

 

 ――そこに、やっと別の音がした。

 

 かちゃかちゃ、と。

 

 おもちゃ箱をひっくり返したような、軽くて、乾いた音。

 子供部屋で聞くなら愛らしいはずの音色が、この暗闇の中では、どこか骨を削る音のような不快さを帯びていた。

 

 霧の中から、それは現れた。

 

 はじめは輪郭だけ。

 次第に、形になっていく。

 

 丸い。

 大きな、丸いかたち。

 

 全身がモノクロで塗り潰されているかのように、白黒以外の色がない。

 

 それは大きなキャンディー。

 しかし、正面にぽっかりと穴が開いていた。

 

 ――口、だ。

 

 三日月状に大きく裂け、その端から端まで、ずらりと細い牙が並んでいる。

 一本一本が等間隔で、等しい長さで、等しく鋭い。

 

 目はない。

 腕も足もない。

 ふわふわと浮いて、ゆっくりと漂ってくる。

 

 別方向から、また別の何かが近づいてきた。

 

 歪な頭身の、縫い目のほつれたモノクロの熊のぬいぐるみ。

 

 頭が体の倍はある。

 腕が膝まで届くほど長く、ひょろひょろと垂れ下がっている。

 足は逆関節で、踏み出すたびに本来ありえない方向へ折れ曲がる。

 表情は刺繍の笑顔で、固定されたまま。

 

 のしのし、のしのし。

 

 その足が床を踏むたびに“ぎゅっ”という、ぬいぐるみを握りしめるような音がしている。

 冗談のような音だった。

 

 異形。

 

 言葉にするならそれしかない。

 悪夢の中から歩み出てきたような存在が、霧の中を、ゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる。

 

 ――誰かが悲鳴を上げた。

 

 それが引き金だった。

 

 叫びが、一斉に弾けた。

 椅子が倒れる。

 食器が割れる。

 人が人を押しのけて走る。

 

 出口へ。

 とにかく出口へ。

 

 だが、出口がわからない。

 

 霧が方向を奪っていた。

 壁がどこかも、扉がどこかも、もうわからない。

 

 走る方向も、逃げる方向も、全部が霧の中に溶けている。

 逃げれば逃げるほど、深みにはまる。

 

 混乱と阿鼻叫喚。

 

 しかし幸運にも出入口に近かった者たちは、扉へと殺到していく。

 我先にと肩をぶつけ、押しのけ合いながら。

 

 足がもつれた者が崩れ落ち、踏みにじられながらも手を伸ばす。

 

 しかし。

 

 ――そこに、それが立っていた。

 

 人の形。

 しかし、人ではない。

 

 全身がモノクロでべったりと塗り潰したような色。

 

 マネキンに似た輪郭。

 関節も、筋肉も、皮膚の質感も、何一つない。

 のっぺりと、つるりとした表面が、燭台の灯りをひどく不自然な角度で反射している。

 

 指の先が、床に届くほど腕が長い。

 足もまた不自然なほど長く細く、関節が逆に折れているように見えた。

 

 殺到していた者たちが、一歩手前で足を止めた。

 

 走ることを、脚が忘れた。

 叫ぶことを、喉が忘れた。

 

 ――全員が、理解した。

 通れない、と。

 

 誰かが後ずさった。

 石畳の隙間に踵を引っかけ、転んだ。

 起き上がれず、そのまま這いずるように来た方向へ逃げようとする。

 

 その背中の先にも、霧があった。

 どこにも、行けない。

 

 ――頭上から、気配がした。

 

 何かに気づいた男が、ゆっくりと顔を上げる。

 

 声が出なかった。

 

 夜会会場の高い天井に。

 いつの間にか、黒い蜘蛛の糸が無数に張り巡らされていた。

 

 そしてその中心に、影。

 

 巨大だった。

 人の丈の、何倍もある――蜘蛛。

 

 八本の脚が糸の上でぴたりと止まり、腹部が静かに上下している――もし、呼吸と呼べるなら。

 

 しかしそれだけではなかった。

 蜘蛛の顔の部分に、()()があった。

 

 目が異様に大きい。

 人の顔の比率を完全に無視した、まんまるの目が二つ。

 

 カートゥーンの画面から切り抜いてきたような、平板で単純な目が、この暗がりの中でぎょろりと動いた。

 

 にこり、と。

 笑っていた。

 

 笑ったまま、動かず、こちらを見ている。

 

 何もしてこない。

 

 悲鳴を上げようとした者の口から音が出なかった。

 空気だけが、喉から漏れた。

 

 ――そして。

 

 霧が動いた。

 

 足元を漂っていた黒が、中央のステージへと引き寄せられていく。

 散っていた粒子が、流れを作り、渦を成す。

 

 まるで水が排水口に吸い込まれていくように。

 黒が、一点へと集まっていく。

 

 ゆっくりと。

 何かを、形作ろうとしている。

 

 びゅう、と。

 

 つむじ風が鳴った。

 霧が一気に収縮し、渦の密度が急上昇する。

 黒の奥に輪郭が生まれ始めた。

 

 肩が。

 首が。

 顔が。

 

 ――それは少女の形をしていた。

 

 宙に浮いている。

 

 漆黒の長い髪が、四方へ逆巻いていた。

 重力などないかのように髪の一本一本が生き物のように蠢いている。

 

 黒のロングコートが、波打つように広がる。

 サイズが合わないそれは、肩が落ち、袖が余り、裾がはためく。

 

 その端から、黒い粒子がほつれるように零れ落ちて、霧の中へと溶けていく。

 

 コートの下には白いブラウス。

 その白と、肌の境界が判然としない。

 青白い、というよりも、血の気という概念が最初から存在しないような、人形めいた肌の白さ。

 

 銀灰色の瞳の奥でざらざらとノイズのような光が粒子状に走る。

 小さな素足が、空中に投げ出される。

 

 静寂。

 

 逃げようとしていた者も、泣き叫んでいた者も、誰もが動きを止めていた。

 

 息を吸う音すら場違いに思えた。

 

 少女が口を開く。

 平坦な声が、霧に満ちた空間へ滑らかに広がった。

 

F()ractal E()R()adicator M()k.4()、起動しました」

 

 感情の抑揚がない。

 しかし、明瞭だった。

 この霧の中で、この静寂の中で、その声だけが異様なほどクリアに全員の鼓膜に届く。

 

 一拍。

 

 少女が、自分の頬に人差し指を当てた。

 ぐ、と押す。

 口角を引き上げる。

 

 無理やり作られた笑みを可愛らしく浮かべた。

 

「ようこそ。とってもかわいい世界で、閉じました」

 

 そして絶望へ落とす。

 

「――もう退避不可能です」

 

 その言葉が落ちるより先に、すでに始まっていた。

 

 霧の中からそれらが現れた。

 

 最初に目に入ったのは、その大きさだった。

 

 直径二メートルを超える丸く、白く、ずっしりとした塊。

 

 陶器のように見えた。艶やかな白の曲面。

 釉薬(ゆうやく)の光沢が、霧の中でも鈍くぬめりと光っている。

 

 それは巨大な頭部だった。

 顔が描かれているから、そう思う。

 

 絵付けの赤ちゃんの顔。

 ふっくらと盛り上がった、柔らかそうな頬。

 くりくりとした、つぶらな瞳。

 ちいさく結ばれた、何も知らなそうな口。

 

 愛らしかった。

 

 だからこそ。

 

 ――その顔の下部から細長い腕が生えていることが、余計に悍ましかった。

 

 数えられない。

 頭頂部の亀裂からも、顎の下からも、こめかみの辺りからも、無数に細い腕が生えていた。

 

 腕の先には、ちいさな手がついている。

 そのひとつひとつが、別々の意思で動いていた。

 

 わしゃわしゃ、と。

 何かを掴もうとして、空気を探るように、ひっきりなしに蠢いている。

 

 観客席で、呆然と立ち尽くしていた男がいた。

 

 絵付けの瞳と目が合った。

 

 描かれた動かない目が、ただこちらを向いている。

 

 その瞬間。

 足に、触れるものがあった。

 

「あ、え……?」

 

 見下ろした。

 小さな手が、足首を掴んでいた。

 

 子供の手のように細い。

 しかし、締め付ける力は尋常ではなかった。

 

 男は引っ張った。

 離れなかった。

 

 もう一度引っ張った。

 もう一本の手が、ふくらはぎに絡みついた。

 

 振り払おうとした。

 振り払えない。

 

 陶器の口が、ぱかっ、と開いた。

 その口の奥は、暗くて、深くて、底が見えない。

 

 腕たちが、一斉に男へと伸びた。

 

 肩を。

 脇を。

 背中を。

 持ち上げる。

 

 そこでやっと、男の意識が追いついた。

 

「――う、うわあああああああッ!!」

 

 叫んだ。

 本物の、恐怖の叫びが、声帯を引き裂くように出た。

 

 しかし腕は止まらない。

 

 ずるり。

 ずるり、と。

 

 無数の小さな手が、男をゆっくりと丁寧に、着実に、口の中へと押し込んでいく。

 まるで、大切なものをしまうように。

 

 男は叫び続けた。

 最後の一瞬まで。

 指先が口の縁に引っかかり、それでも引き込まれながら。

 

 ぱくん。

 

 口が閉まった。

 

 コミカルな音だった。

 

 ――悲鳴が連鎖する。

 

 逃げる者が転んだ。

 重なり合う足の中で、背中を革靴に踏まれた。

 

 痛みで顔を歪めながら、それでも立とうとした。

 立とうとした瞬間、誰かの膝が脇腹にぶつかり、また倒れた。

 

 這いずりながら、横を見た。

 

「やめて、やめて、やめてェェェエエ――ッ!!」

 

 いかにも高級そうな衣服に身を包んだ、太った貴婦人が、抱きかかえられていた。

 歪な熊のぬいぐるみに。

 

 ぬいぐるみの体の倍はある頭が、ゆっくりと傾いた。

 縫い目の口が、顔の上半分に向かって拡張していく。

 縫い付けていた糸が、ぷつ、ぷつ、ぷつ、と。

 一本ずつほどけていく。

 

 貴婦人は懸命に叫び続けた。

 

「やめ――」

 

 ばくん。

 

 声が途切れた。

 上半身が、消えた。

 

 腰より下が宙にあった。

 一瞬だけ、重力を忘れたように静止して。

 それから音もなく床に落ちた。

 

「……あ、……あ」

 

 横たわっていた男の、頭の中が白くなった。

 

 脚が動かなかった。

 腰が、床に縫い付けられたように動かなかった。

 そのとき。

 

 そこに。

 

「――ごはんできたよ」

 

 声がした。

 

 上から。

 

 不自然な音程だった。

 人の声なのに声帯を通っていないような、ノイズが混じった声。

 

 男は、見上げた。

 

 それは操り人形のように、天井からぶら下がっていた。

 女性の上半身だけが、逆さに。

 

 顔は優しかった。

 穏やかに目を細めた、母親のような顔。

 頬が丸く、眉が柔らかく、口元には微笑みが刻まれていた。

 

 しかし。

 

 腕が、十二本あった。

 

 それぞれが、別の動きをしていた。

 

 右の一本は、包丁を持っていた。

 左の一本は、針と糸で何かを縫っていた。

 また別の一本は、ゆったりと宙を撫でていた。

 また別の一本は、かごに何かを丁寧に並べていた。

 

 残りの腕は――こちらへ向かって伸びていた。

 

 ゆっくりと、男の顔の高さまで天井から降りてくる。

 顔を覗き込む。

 

「……ごはん、食べた?」

 

 優しく、微笑んだ。

 

「う、うわああああ!! やめろ、くるなァァ――!!」

 

 叫んだ瞬間、腕が男を包んだ。

 

 細い。

 信じられないほど細いのに、一本一本が鉄のように動かない。

 

 そして男をやさしく捕まえると、そっと持ち上げた。

 天井に、ゆっくりと連れ去っていく。

 

 男の叫びだけが、天井の上まで伸びていく。

 ばたばたと虫のように暴れながら、無数の腕に包まれ、上方に攫われていく。

 尾を引いて、薄くなって。

 やがてそれも天井を覆う霧の中に呑まれていった。

 

 一人ずつ。

 丁寧に。

 確実に。

 

 跡形もなく消えていく。

 

 ――その、会場の端。

 

 騎士団が座する一角だけが、奇妙な静けさの島を作っていた。

 

 霧は同じように満ちている。

 頭上では人面蜘蛛が笑い続けている。

 異形の足音と、悲鳴と、何かが消えていく音が四方から絶えない。

 

 しかしその一角だけは。

 誰も、何も、近づかなかった。

 

 ライナスは前を向いていた。

 視線は正面の霧に固定したまま微動だにしない。

 顎を引き、背筋を伸ばし、膝の上に置いた両拳を静かに強く握りしめている。

 

 壮絶、という言葉しか出てこない顔だった。

 

 その隣に、幾人かの少女が並んでいた。

 

 直立不動。

 

 クーとクルルは、音も、動きも、呼吸すら制御したかのように静止していた。

 

 じろり、と。

 赫と蒼の二対の瞳が霧の中に光っている。

 

 その光は冷たく、睥睨し、観察している。

 

 ――霧の中から、影が這いずってきた。

 

 ライナスは目だけで、それを見た。

 

 ……覚えがある。

 

 この“晩餐会”の支配人だった。

 

 上等な礼服は皺くちゃになり、膝と肘が石畳で汚れていた。

 オールバックに固めていた髪が、汗で崩れ、額に張り付いている。

 白い手袋の指先が剥がれかけている。

 

 這いずるたびに額の汗が石畳に落ちている。

 

 ライナスの足に、縋りついた。

 

「助けろ……! 助けろ! 命令だ!!」

 

 声はひび割れている。

 “命令”という言葉だけが、かろうじて権威を取り繕おうとしていた。

 

 ライナスは、ゆっくりと前を向く。できるだけ見ないように。

 

「……ここは王国の法律が適用されない区域です」

 

 平坦な声だった。

 しかし注意して聞けばわかった。

 声が、微かに揺れている。

 

 顎の筋肉が、ひくひくと痙攣していた。

 奥歯を噛みしめているのがライナスの頬の形を見れば分かった。

 

「我々は、動けません」

 

 支配人が叫んだ。

 わなわなと、唇が怒りに揺れている。

 

「ふ、ふざけるなァ――! お前たちに給金をやっているのは誰だと――」

「あなたたちがッ!!」

 

 ライナスが、初めて支配人を見下ろした。

 その目が、血涙でも流すかのように血走っていた。

 額から顎まで汗が伝っている。

 

 その声は、怒りと恐怖と何かもっと複雑なものが混ざり、鋭く場に響いた。

 

「――あなたたちが、そうしたのでしょう!? 金と、欲望のために。人殺しを許容するためにッ!!」

 

 それはただの叫びではなかった。

 ずっと堪えていたものが、決壊した音だった。

 

 何名かの騎士の部下たちも歯を食いしばっていた。

 霧を覆う足元を、一点に睨んでいる。

 

 誰も動かない。

 動けない。

 動くつもりなど、毛頭ない。

 

 そのライナスの背後で。

 

 クーが。

 クルルが。

 ツァンが。

 

 じっとりと、ライナスの選択を見ていた。

 一切動かず細い目を向けて。

 

 何かを値踏みするように。

 何かを確かめるように。

 

 裏切れば。

 

 余計なことを喋れば。

 

 ついでのように、消されるだろう。この場で次々と消えていっている、丸々と肥えた豚たちのように。

 

「私も……っ。命が、惜しいのです」

 

 声が絞り出された。

 壮絶な覚悟を孕んだ表情の後ろに、なおも冷たい少女たちの眼光が三対刺さる。

 

「今これをご覧になっても……分かりませんかッ!?」

 

 支配人の口がぽかんと開いた。

 頼みの綱が音もなく千切れた、という表情だった。

 

 その背後に、気配。

 

 ライナスが先に気づいた。

 

 唾を飲んだ。

 喉が鳴った。

 

 霧の中で、何かが輪郭をはっきりさせていく。

 大きい。

 それだけは最初から分かった。

 大きくて、低くて、ゆっくり近づいてくる。

 

 ――巨大な蜘蛛だった。

 

 八本の脚が石畳を踏むたびに、ぺたぺたと湿った音がした。

 脚の先が人間の手になっていた。

 

 手のひらが開いて、閉じて、また開く。

 顔の部分がこちらを向いた。

 

 にこり。

 首を傾げた。

 

 支配人が、気配に気づいて振り返る。

 足が掴まれた。

 

「や……やめ……! 誰か……! 助けええぇぇぇぇ――」

 

 声が遠ざかっていく。

 

 皮肉にも、この“晩餐会”で見世物にした無数の犠牲者たちが上げる最期の悲鳴と、よく似ていた。

 

 石畳を引きずられる音が続いた。

 衣服が石に擦れる音。

 爪が石畳を引っ掻く音。

 それらが少しずつ、少しずつ遠くなる。

 

 やがて。

 霧が、全部を呑んだ。

 

 沈黙。

 

 ライナスはまた足元の霧を睨みつけた。

 

 肩が揺れていた。

 息が上がっていた。

 汗が、額から顎へ、顎から首へと、糸を引いて流れ落ちていく。

 

 部下たちも同じだった。

 一切動けない。

 

 誰も、支配人がいた方向を見なかった。

 

 そこへ、のんびりとした声が降ってきた。

 

「大丈夫じゃよ」

 

 ツァンだった。

 

 その声には緊張の欠片もない。

 あまりにも場違いなほどに、穏やかだった。

 

「ちゃんと説明したろうに。この霧の一粒一粒がフェルマよ」

 

 からりと、笑う。

 

 細く白い指先で口元を隠す。

 その仕草は優雅で、まるで茶会の席で冗談を言うかのようだった。

 

「なのましん、と言ったかえ……? まあ、判別して喰っておる。おんしらには手を出さぬよ」

 

 ライナスは答えなかった。

 

 部下たちも答えなかった。

 

 足元の霧を、ただ睨んでいた。

 今しがた聞いたばかりの言葉が、頭の中でうまく意味を結ばなかった。

 

「しかしフェルマめ。……遊びおって」

 

 ツァンは頬に手を当て、眉を下げている。

 洩れたその声に険はない。まるで子供の遊びを窘めるように溜息交じりの言葉だった。

 

 クルルが赫い視線を会場に這わしたまま、声だけで言った。

 

「主のオーダーらしい」

「おや、そうかえ」

 

 少し意外そうにツァンが言った。

 しかし、そのあとすぐに腑に落ちたように目を細めた。

 

「なるほど。()()、かえ?」

 

 くすり、と笑った。

 

 

 ***

 

 

 ステージに残ったのは、四つだけだった。

 

 要。

 セラ。

 石畳に倒れ意識のないデゴール。

 そして――霧。

 

 その霧が、するすると集まってきた。

 要の横で再び少女の輪郭を結ぶ。

 

「――完全捕食、完了です」

 

 フェルマが、ふよふよと浮きながら、こてんと首を傾けた。

 

「来客四十八名。会場スタッフ九十三名。この会場および建物すべての部屋の、全員を処理しました」

 

 要は頷いた。

 そして静かに微笑む。

 

 それから、何気なく手を伸ばした。

 フェルマの頭をそっと撫でる。

 

 その瞬間。

 

 撫でた箇所から、ざわり、と輪郭が波立った。

 

「あ……あ……」

 

 銀の目がチカチカと明滅する。

 ノイズのような光の粒子が、瞳の奥で乱れ走った。

 

「マスターの、接触……我々、バラバラに……」

 

 全身の表面が揺れ始めた。

 髪が。

 コートの端が。

 肌の輪郭そのものが、さざ波のように。

 

「頭部以外の我々が……逆巻いて……ああ……」

「ああ、ごめんごめん」

 

 要は薄く笑いながら手を引いた。

 

「また今度ね」

 

 フェルマは自分の頭を小さな両手で押さえたまま、ざわめきを抑えるようにびたりと硬直した。

 

 ――その傍らで。

 

 セラが、倒れたデゴールに光を当てていた。

 

 静かな手つきで。

 治癒の光が、砕けた肉を、潰れた骨を、丁寧に戻していく。

 

 ひとつ息をついてから、セラが口を開いた。

 

「……あなた」

 

 要を呼ぶ声は、さっきまでとは別人のように静かだった。

 華のある、いつもの声。

 

「この人は、手筈通りに?」

「うん」

 

 セラの光が、ゆっくりと消えていく。

 

 六枚の翼がゆっくりと畳まれていき、やがて一対に戻った。

 

 デゴールは気を失ったまま。

 しかし確かに生きて石畳に横たわっていた。

 胸が、静かに上下している。

 

 要がセラの肩を、軽く叩いた。

 

「お疲れさま」

 

 セラの目尻が、ぽっと赤くなった。

 何も言わなかった。

 ただ前を向いたまま、小さく微笑んで頷いた。

 

 二人が並んで歩き出す。

 フェルマが、ふらふらと覚束ない様子で後ろを浮いて付いてくる。

 よほど衝撃だったのか、小さな両手で頭を押さえたまま。

 

 出口。

 

 その手前で、要は足を止めた。

 

 一度だけ、振り返る。

 

 会場は不自然なまでに生の感触を残している。

 

 倒れていないテーブルには食事がまだ湯気を立てている。

 切りかけのパンが、皿の上にある。

 杯には酒が残っている。

 椅子は、誰かが席を立ったまま、中途半端に引かれている。

 

 キャンドルの炎だけが、相変わらず揺れている。

 

 ついさっきまで誰かがここにいた。

 余人が見れば必ずそう思うだろう。

 

「……報いを」

 

 要が呟いた。

 

 小さな声だった。

 かつてここで死んでいった、名前も知らない誰かへの、手向けのように響く。

 

 その時。

 

 使用人の通用口と思わしきドアが、勢いよく開いた。

 

「それっぽい資料いっぱい見つけたよー!」

 

 イナが飛びだした。

 

 淡いプラチナブロンドのショートカット。

 素肌さえ透けるほど薄い、真っ白なワンピース。

 ぱちぱち、と静電気の音が鳴っている。

 

 その背後。

 書類を抱えたエイシム職員たちがぞろぞろと続く。

 

 イナだけがこの場の空気を一切読まずに、ぶんぶんと要に手を振っていた。

 

 要は小さく息をついて、振り返った。

 

 がらんどうになった客席に向けて、声を上げる。

 

「じゃあ帰ろっか、みんな。騎士の皆さん」

 

 声がよく響いた。

 空っぽになった会場に、要の声だけが満ちた。

 

「はい!」

 

 無邪気な返事が返ってきた。

 

 クーの声だった。

 クルルとツァンも、それに続く。

 

 ライナスは。

 何度も、首を縦に振っていた。

 壊れた機械のように、繰り返した。

 

 小さく、誰にも聞こえない音で笑う。

 

「……はは」

 

 声が掠れていた。

 正気と狂気の縁で、何とか踏みとどまるように。

 

「生きている、ははは」

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