愛するNPCが現実化したら勝手にギスギスし始めた挙句バカ重い責任が生えてきた話   作:フォン・デ・ペギラパギラ

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44話:末路

 貴族街の道は、静かだった。

 

 石畳が続く。

 敷かれているのは、市場や商業地区のそれとは違う。

 

 目地まで丁寧に整えられ、馬車の轍でさえ傷ひとつ付けられないような、誇示のための石畳だ。

 汚れもなく、綺麗に手入れされている。

 

 通りの両側には、石造りの基礎に嵌め込まれた重厚な木造の塀が等間隔に並んでいる。

 

 節のない白木。

 人工的に過ぎる整然さ。

 

 財力を、ただそのまま形にしたような街並みだった。

 

 今の時刻、この通りを歩く者はいない。

 夜警の足音ひとつ聞こえない。

 繁華街の笑い声も、ここまでは届かない。

 

 塀の向こうに窓明かりはある。

 しかしどれも遠く閉じていて、この夜の寒さとは無関係に輝いている。

 

 ――その静謐の中を、みずぼらしい立ち姿がゆっくりと歩いた。

 

 ことり、ことりと。

 弱々しく。

 引きずるように。

 

 デゴールだ。

 

 背が曲がっている。

 足を引きずっている。

 煌びやかな街並みの傍ら、煤けた抜け殻の立ち姿。

 

 足元の感触がひどく遠い。

 

 足が地面を踏んでいることは分かる。

 無傷なのに、鈍い痛みを感じる。

 体の節々が無理やり嵌め込まれたかのように悲鳴を上げている。

 

 ――ただ、理解できないのは、自分が生きているということだった。

 

 デゴールは、別邸の門の前までたどり着いた。

 己の拠点として親から与えられた邸宅だ。

 城壁に寄り添うように建てられた石造りの構え。

 この街で長年栄えてきた証。

 

 どれほど屈辱にまみれた夜であっても、この門を潜れば。

 使用人が、灯りが。

 いつもの夜が帰ってくるはずだった。

 

 拳を上げる。

 ドアノッカーを叩く。

 

 返事がない。

 

 三度、叩く。

 沈黙だけが帰ってくる。

 

(使用人め、こんなときに眠り込んでいる……)

 

 舌打ちとともに手を伸ばすと、少し押しただけで門がひとりでに動いた。

 掛け金が外れている。

 押すと、軋みもせずに開く。

 

 ……嫌な感覚が、背筋を駆け上がる。

 

 それでも入った。他に行く場所がなかった。

 

 中庭の砂利を踏む音がやけに大きく聞こえる。

 振り返っても、門番はいない。

 犬の気配もない。

 

 玄関扉を引くと、こちらも鍵がかかっていなかった。

 

 きい、と。

 僅かな軋みを上げて開く。

 

 目前には、暗闇。

 

 屋敷の中は、穴が開いたように暗かった。

 

 廊下の常夜灯も、厨房から漏れる翌朝の準備の明かりも、全部、何もかも――落ちていた。

 窓から差し込む月光だけが床に白い線を引いている。

 

「誰か、いるか」

 

 少し声が震えていた。

 廊下の奥まで吸い込まれ、石壁に反響して戻ってくるだけ。

 

 そのまま進んだ。

 ゆっくりと歩く。

 

 見慣れた邸宅の風景だというのに、音も光も無いだけで、なぜこれほど違和感があるのか。

 

 使用人の控室も。

 厨房も。

 女を詰めている部屋も。

 

 一つ一つ、静かに扉を開け確認するも、中は暗闇を宿すのみ。

 

 廊下を歩く。

 カーテンの隙間から、月光がゆらりと差し込む。

 

 ぴたりと、足が止まった。

 

 何かが、いる。

 

 廊下の奥。

 薄闇の向こうに、人影がある。

 カーテンが揺れ、月光がひらりと掛かって――影が、浮き出た。

 

 最初は使用人かと思った。

 あるいは護衛の残りか、と。

 

 しかし何かが違う。

 

 影は動かない。

 声を上げない。

 ただそこに、直立したまま立っている。

 

 目が慣れてくる。

 ぼんやりと輪郭が浮かび上がる。

 

 小さい。

 子供のような。

 白っぽい服を着た。

 

 そして――その影は、こちらをまっすぐに見ていた。

 

 暗がりの中で。

 無言で。

 不自然なまでに、微動だにせず。

 

 まるで最初から、そこにいたかのように。

 

「――ッ!」

 

 喉から声が勝手に溢れた。

 

 悲鳴だったかもしれない。

 言葉だったかもしれない。

 

 とにかく何かが耐えきれず飛び出し、体が向きを変えて、気付けば走っていた。

 

 夜の石畳を駆けて、駆けて。

 路地を折れ。

 

 ――遠く離れて、はじめて息をついた。

 

 肩で息をしながら振り返る。

 大量の贅肉を支える膝が痛む。

 

 別邸の門は、もうとっくに暗がりの向こうに溶けている。

 

 追ってくる気配は、ない。

 

 全身が震えていた。

 

(なんだ、あれは)

 

 分からないまま。

 足は勝手に、唯一知っている逃げ道へと向かっていた。

 

 足が止まらなかった。

 走っているのか歩いているのか、もはや判別もつかない。

 石畳を踏む感触だけが靴底を通じてかすかに届いてくる。

 

 貴族街の夜は静かだった。

 異様なほど、静まり返っている。

 

 等間隔に並んだ灯りが、通りを短く照らしては、また暗がりを挟む。

 白木の塀が、その繰り返しの中をひたすら続いていく。

 

 デゴールは歩いた。

 

 暗がりに入る前に、振り返る。

 誰もいない。

 

 また振り返る。

 誰もいない。

 

 しきりに確認しても、そこには誰もいるはずがない。

 それでも背中の一点が、じりじりと焼けるように熱い。

 脂汗が噴き出て、シャツをびしょりと濡らしていく。

 

(実家へ行けばいい)

 

 考えるよりも先に、足が動いていた。

 

 デゴール家の本邸はこの通りの突き当たりにある。

 幼少の頃から何十年と踏んだ道を、今夜は初めて急いた。

 

 やがて、見慣れた構えが暗がりの中に浮かんだ。

 

 別邸よりも大きく、重厚な石造りの門。

 代々の当主が積み上げた権威が、そのまま壁の厚さになったような構えだ。

 門燈に火が入っている。

 使用人がいる証拠だった。

 

 デゴールは拳で門扉を叩いた。

 

「開けろ。デゴールだ」

 

 声が、かすれていた。

 体中の痛みのせいではない。

 言葉を出すことへの、根拠のない怯えのせいだった。

 

 中でざわめく気配。

 複数の声が、低く、短く、交わされている。

 

 しかし扉は開かない。

 

「開けろ!」

 

 また叩く。

 拳が痛んだが、気にもならなかった。

 

 背後を振り返る。

 ――通りに、誰もいない。

 灯りと、照らされた石畳だけが静かに並んでいる。

 

 いない。

 誰もいない。

 そのはずだ。

 

 しかし。

 足元から這い上がってくるような感触が、止まない。

 

 ぎい、と。

 

 やっと扉が細く開いた。

 

 顔が覗く。

 長年、この屋敷に仕える老いた使用人だった。

 

 ――その顔が、青ざめた。

 

 単なる青白さではない。

 血の気が落ちた、という表現では足りない。

 怖気で固まったという顔だった。

 

「俺だ。入れろ」

 

 当然の言葉を、当然の口調で告げるデゴール。

 

 使用人の目がわずかに揺れる。

 

「……少々お待ちを」

「はっ……? ま、待つだと……?」

 

 それだけ言って、ばたん、と扉が閉まった。

 鍵がかかる音が暗がりに響く。

 

 デゴールはまた扉を叩いた。

 叩き続けた。

 声を上げた。

 

 その間、何度も後ろを振り返った。

 

 誰もいない。

 灯りだけが並んでいる。

 通りは静かで、風も吹いていない。

 

 何度も。

 何度も、何度も。

 それを繰り返した。

 

 ――やがて扉が、また開いた。

 

 数分の間だっただろう。

 しかしデゴールには、数時間にも思えた。

 

 今度は使用人ではなかった。

 

 初老の男が立っていた。

 デゴールよりも頭ひとつ高く、体格も細い。

 

 いつもより老けて見えた。

 いや――数年分を一度に老いたような、酷くやつれた顔をしていた。

 

「父上」

 

 デゴールは一歩踏み出した。

 

「入れてくれ、父上。助けてくれ――」

 

 父親の顔が、はっきり歪んだ。

 

 怒りではなかった。

 悲嘆でも、驚愕でもなかった。

 もっとねじれた何かだった。

 

「……お前か」

 

 低い声が漏れた。

 

「お前のせいで……何が起こったか、分かるか」

「な、何が……」

 

 デゴールの声が、震える。

 

「何が起こったというのですか。私は生きています、助けてくれれば――」

「――何故生きている!?」

 

 父親の声が、裏返った。

 

 その言葉に。

 衝撃より先に、信じられないという拒否反応が出た。

 

 呆然と、デゴールは立ち尽くす。

 

「生きて……戻って……。そうか、お前は」

 

 ぽつぽつと、父親は切れ切れに何かを呟いている。

 やがて何かが繋がったような顔をした。

 

 しかしデゴールには、その意味が分からなかった。

 

「……父上?」

 

 そう呼ぶと。

 

 父親の目が何かに気づいたように、デゴールを通り過ぎた。

 

 肩越しに。

 背後の暗がりを。

 じっと見つめた。

 

 その目から、すべての色が消えた。

 

 デゴールはつられて振り返る。

 

 誰もいない。

 石畳が続いている。

 灯りが並んでいる。

 通りは静かで、何もいない。

 

 それなのに。

 父親の顔から、血の気がすとんと落ちていた。

 

「し、知らない」

 

 掠れた声。

 

「私は知らない……」

 

 父親の目が血走っている。

 

「……お前は、誰だっ」

 

 脈絡がなかった。

 デゴールには意味が分からなかった。

 

 半開きの口をゆっくりと閉じて、もう一度言った。

 

「父上。……私ですよ、デゴールです」

 

 父親の唇が、震えた。

 

 ――どん。

 

 扉が叩きつけられるように閉まった。

 がちゃり、がちゃり、と。

 鍵の音が落ちる。次々と。

 

 一つ。

 二つ。

 いくつもの鍵が、閉められていく。

 

「父上ェ!!」

 

 デゴールは叩いた。

 

「父上! 私です! 私です……ッ!! ――開けてください!」

 

 扉の厚さを透かして、くぐもった声が届いた。

 

「うちには……関係ない」

 

 不可思議な声色だった。

 

 デゴールへ告げている声ではなかった。

 まるで、扉の向こうの誰かを説得するように。

 自分自身に言い聞かせるように。

 

 デゴールは扉の前に立ち尽くした。

 

 じんじんと痛む手も気にならない。

 何が起きているのか、分からなかった。

 

 ただ分かったのは。

 父親の目が――自分の背後を、確かに見ていたという事実。

 

 振り返る。

 誰もいない。

 灯りが並んでいる。

 

 夜の貴族街は、相変わらず穏やかで静かだった。

 

「――っ!」

 

 ぶるりと震えが足から伝う。

 弛んだ頬が小刻みに揺れた。

 

 考えるより先に、足が動いていた。

 とにかく立ち止まっていられない。

 

 頭の中で何かが弾けるように言っている。

 

 ――モルガン総業だ。

 

 奴らがいる。

 奴らは強大だ。

 これまで何度も便宜を図り合ってきた。

 金を流した。情報を買った。盾にもなってもらった。

 

 走る。

 

 貴族街から、遠ざかった。

 少し人通りのある繁華街も、川に掛かった石橋も、商業地区のがらんとした夜の露店街も。

 まっすぐに貫いて走る。

 

 冷たい風が頬を叩く。

 体力は尽きている。でも走れる。

 

 どうして走れるのかも、気にならなかった。

 

 ――何故なら、通り過ぎる人の目が。

 自分の後ろを見ていたから。

 

 スラムの外縁が近づく。

 

 石畳が途切れ、砂利まじりの踏み固めた地面に変わる。

 灯りの間隔が広くなる。

 建物が低くなり、壁が薄くなり、どこからか生活の匂いが滲んでくる。

 

 ここまでくれば分かる者には分かる場所だ。

 この先の路地の奥、正式な地図には乗っていない道が、網の目のように広がっている。

 

 デゴールは、その入り口に立った。

 

 路地の両側から、木造の建物が覆い被さるように迫り出している。

 上を見れば、屋根と屋根の隙間が細く空いているだけで、夜空がわずかに覗く。

 

 そこに、男が立っていた。

 

 顔は知っている。

 何度か顔を合わせた、このテリトリーの境界を任されている男だ。

 体格がよく、無口で、愛想もない。

 

 しかし今まで一度もデゴールを止めたことはなかった。

 

 男の目が、捉えた。

 

 笑みではなかった。

 怒りでもなかった。

 値踏みでも、警戒でもなかった。

 

 ただ――色が、すこんと抜けた。

 

 顔から、感情の全部が、す、と引いていく。

 その奥に残ったのは、わずかな感情だけ。

 

 嫌悪と恐怖だった。

 

 デゴールのことが、ではない。

 もっと別の何かへの恐怖が、その眼になみなみと湛えられている。

 

「来るな」

 

 低い声だった。

 命令でも、脅しでもない。

 

 それは懇願に近かった。

 

「……私だ」

 

 デゴールは言った。

 

「分かるだろう、いつも――」

 

 踏み出した。

 その瞬間だった。

 

 衝撃が腹に来た。

 

 蹴りだった。

 防ぐ間もない。

 体が横へ流れ、砂利の上に転がった。

 

 受け身も取れず、掌と膝を地面に打ちつけた。

 じゃり、という土の音と、じくりとした痛みが同時に来た。

 

 咳。

 息が、しばらく戻らない。

 

「なっ、なぜだ……」

 

 声が出た。

 自分でも驚くほど、かすれていた。

 

「なぜ……私が何をした」

 

 地面に手をついたまま、顔だけを上げる。

 

 男は、路地の入り口に立っていた。

 こちらを見ていない。

 見ているのは――デゴールの後ろだった。

 

 デゴールを蹴り飛ばした後だというのに、その顔は己が蹴られたかのように青かった。

 

「……おまえ」

 

 男の声が、ぼそりと落ちた。

 

「――気づいてないのかよ」

 

 世界が、ふっ、と遠のいた。

 

「ずっと、後ろにいるんだよ……」

 

 一語一語が、遅かった。

 まるで確かめるように。

 あるいは、言いながら自分自身も信じられないように。

 

「おまえの後ろに、ずっと」

 

 デゴールの体が、固まった。

 

 立ち上がろうとしていた手が、止まった。

 膝が砂利に沈んだまま動かない。

 

 来た道が、頭の中で辿った。

 

 別邸から実家まで。

 貴族街の石畳。

 等間隔の灯り。

 何度も振り返った、あの暗がり。

 

 実家の扉の前。

 叩き続けた、あの時間。

 父親の目が自分を通り過ぎて、背後の何かを見ていた、あの視線。

 

 繁華街。

 橋。

 商業地区。

 スラムの外縁。

 

 最初から、ずっと。

 

 デゴールは、今度は振り返れなかった。

 

 首が動かなかった。

 体の芯から拒んでいた。

 

 振り返れば、何かがある。

 その何かと目が合う。

 

 砂利の上に片膝をついたまま、ただ、前を向いていた。

 

「こ、これ以上、入るな。……俺は確かに言ったぞ」

 

 男は声を震わせながら後ずさった。

 路地の奥へ、猛獣から距離を取るように、少しずつ引いていく。

 夜警の職務さえ置き去りにして。

 

 やがて十分に離れてから、背を向けて一目散に走り出す。

 暗がりの中に、溶けるように消えていった。

 

 夜だけが、残った。

 

 数分。

 いや、数十分、そこに跪いていた。

 

 このまま動かなければ、きっと何も起きない。そうとでも言うかのように。

 

 でも、限界だった。

 

 デゴールは、ゆっくりと振り返る。

 ぎりぎりと。

 首だけを。少しずつ。

 

 路地の出口だ。

 街灯の光が届かない。

 建物の影が重なり合い、昼でも暗いはずの場所が、夜にはただの闇になっている。

 

 その闇の中に、立っていた。

 

 小さな輪郭。

 オフホワイトの、ふわふわとしたフリルの裾。

 ラッパ状の長い袖口が、両手を完全に隠している。

 

 頭上に浮かぶ、虹色の輪っか。

 背中の、小さくデフォルメされた羽。

 

 セプトミリエル。

 

 まるでお菓子の家から抜け出てきたような、甘い印象の少女が――ただ、そこにいた。

 

 いつからいたのか。

 

 いや。

 デゴールは理解した。

 ――思い出したと言ってもいい。

 

 最初からだ。

 最初から、ずっと――この少女が後ろにいた。

 

 デゴールの喉が、鳴った。

 

 少女は震えていた。

 

 ふるふると、小さな肩が揺れていた。

 萌え袖の端を、両手でぎゅっと握りしめている。

 怯えた小動物のような仕草。

 守ってほしいと訴えるような、か細い佇まい。

 

 しかし目だけが、違った。

 

 虹色の瞳が、デゴールを見ていた。

 

 怒りでも憐れみでもない。

 憎んでいるわけでも、楽しんでいるわけでもない。

 

 ただ――観ている。

 

 昆虫を指先でつまみ上げたまま見下ろすかのように。

 あるいは瓶の中の水が揺れるのを、ガラス越しに眺めるように。

 

 その目で、ずっと。

 

「……想定以上の行動はしなかったか」

 

 少女が一歩踏み出した。

 

 音がしなかった。

 靴底が地面を踏んでいるはずなのに、砂利が一粒も揺れない。

 

 デゴールは下がれなかった。

 座り込んだまま、地面に縫い止められる。

 

 少女が近づいてくる。

 ゆっくりと。

 

 そして、ゆっくりと屈んだ。

 デゴールの顔の高さに、虹色の瞳が合わせられる。

 

 間近で見ると、その瞳の奥に細い波紋が広がっているのが見えた。

 光を受けると揺れる、水面のような文様。

 しかしその揺れは感情ではなく――データの処理のように、規則的だった。

 

 デゴールは、やっと思い出す。

 信じようとしていなかった事実を。

 

 屋敷の奥で目が合った。

 

 父親の目越しに映って、目が合った。

 川の水面に映って、目が合った。

 商店のガラスに反射して、目が合った。

 男の恐怖の眼差しに映って、目が合った。

 

 今、正面から――目が、合った。

 

 そう、本当は。

 ずっと気付いていた。

 

 目の前の何者かと、ずっと目が合っていたことに。

 

 ミリエルの表情が、びたりと固まった。

 

 怯え顔という可愛らしい形のまま、静止画のように止まる。

 輪郭が虹色に揺れ、ぶれる。

 

「――だが、興味深い」

 

 声が、二重に重なった。

 

 表にあるのは、たどたどしい幼い少女の声。

 しかしその下に別の声が重なっている。

 広い空間の底から響いてくるような、波長の長い声。

 人の喉が出せる音ではない、何かの共鳴。

 

「それが(なれ)の、“恐怖”か」

 

 観察者の声だった。

 結論を記録する、乾いた声。

 

 じりり、と。

 少女の像が、更にずれる。

 

「主様は……(なれ)に、怒ったようだった」

 

 少女の表情は動かない。口さえ閉じたまま、声だけがどこからともなく響く。

 

 その一言には、乾いた興味と、そして己の主への敬愛が複雑に混ざっていた。

 

「だから(なれ)の感情は……(われ)が取り込むに値しないのだろう、と――思っていた」

 

 二重音声の不協和音が、空気を歪める。

 

「だが――少し面白かったぞ」

 

 声が、わずかに変わった。

 虹色の瞳が瞬きもせず、一切動かずにデゴールを捉えている。

 

(なれ)が怖がるたびに、波が立つ……。(われ)はそれを、ずっと……観ていた」

 

 デゴールの唇が開いた。

 

「た、助け――」

 

 声が出なかった。

 いや正確には、声は出た。

 

 しかし自分の耳に届く前に――世界が歪んで、切り離された。

 

 ミリエルの輪郭が、更にぶれていく。

 

 ぶれた、という言葉では足りない。

 

 光学的に、存在そのものの解像度が落ちるような歪み。

 輪郭の線が増え、ずれ、色相が剥がれるように、どんどんと滲んでいく。

 

 デフォルメされた背中の小さな羽が歪んで、増殖しながら空間に溶けていく――。

 

 一枚でも。

 二枚でもなかった。

 

 羽の数を数えようとした瞬間、視野の端が焼け切れるような感覚があって、デゴールの脳がその情報の処理を静かに拒んだ。

 

 路地の全体が。

 この一帯の建物が。

 夜空が。

 世界の縁が。

 

 羽の影の中に、飲み込まれた。

 

 光だと思う。分からない。

 人間が知覚できる周波数の、遥か外側から降り注ぐ名前のない輝き。

 

 ミリエルの像の背後に――()()()()()がいる。

 

 説明できない。

 見ようとしても見えない。

 

 太陽を見続けた後に網膜へ焼き付くあの感覚に似ているようで、しかしそれよりも深く、静かで、ずっと巨大だった。

 

 そしてミリエルの目の色は、もう虹色ではなかった。

 

 色などない。

 いや――ありすぎるのか。

 

 全ての波長が重なって白に潰れたような。

 全てが打ち消し合って空白に還ったような。

 

 ただ、穴が空いていた。

 瞳という器官の形をした、穴が。

 底を見ようとすると、見ている自分の方が吸い込まれるような。

 

 名状できない。

 立体感さえ失った目の前の何かは、もう少女ではなかった。

 

 少女という概念を参照して作られた、別の何かだった。

 

「しかし――飽きた」

 

 それだけが天上から落とされる。

 

「消えるがよい」

 

 夜中の冷蔵庫のような、低い重低音が地の底から鳴り始めた。

 振動が来た。音が強くなる。

 

 世界の周波数が一瞬だけ、デゴールという存在に合わせて――逆に置換される。

 

 デゴールの輪郭が、内側から崩れていく。

 ミリエルと同じように、ぶれて、三原色に分かれて空気に滲んでいく。

 解像度が落ちていく。

 

 何かをパクパクと叫んでいる。

 でも、音が切り取られたかのように何も聞こえない。

 

 ゆっくりと、モザイクが散るように。

 

 塵も残らず、消えた。

 

 路地に、静寂が戻る。

 

 気付くと、普段のミリエルがその場に立っていた。

 

 萌え袖を、両手でぎゅっと握りしめた。

 肩が、ふるふると震え始めた。

 眉尻が下がった。

 虹色の瞳が、涙で潤んだ。

 

 背を丸め、小さく縮こまる。

 先ほどの狂った像が嘘のように、いつもの――少女の形が、戻っていた。

 

 誰もいない路地に声が落ちた。

 庇護を掻き立てる、幼い震えた声。

 

「……主様が怒ったから、消したよ?」

 

 二重音声など、なかったかのように。

 

「ミリは……ちゃんと、できた?」

 

 こてんと首を傾げた。

 夜風が一度だけ路地を抜けて、フリルの裾を揺らす。

 虹色の瞳が、暗がりの中で細い波紋を広げ続けた。

 

 まるで幼子が親に宿題を見せるように――虚空に承認を求めている。

 

 あたかもその虚空に誰かがいるように振る舞う姿は、異様ながら自然で、まるでどこかで撮影した映像を切り取って、この場で再生しているようだった。

 

 少女は、しばらくそこに立っていた。

 

 だが。

 それから間もなく――路地の暗がりに、じわりと溶けて、消えていった。




表現し難い存在というのを文で表現しようとすると案の定無理だった。
また実力が上がった後にリライトしたい……。
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