喧騒が去った後のUSJには、耳が痛くなるほどの重苦しい静寂が降り積もっていた。
天井の巨大な穴から差し込む午後の陽光が、白く舞い上がる細かな土煙を神聖なもののように照らし出している。だが、その光が照らし出す地上は、粉砕されたコンクリートと、文字通り鉄の森と化した無数の武具が埋め尽くす、凄惨な様相を呈していた。
彼が軽く指先を動かし、意識を大地へと沈ませると、広場を埋め尽くしていた数千の槍や剣、そして死柄木たちを縫い止めていた巨大な杭が、意思を持った生き物のように大地へと沈み込んでいく。それらは元の素材である土壌や鉄分へと還元され、あたかも最初から存在しなかったかのように姿を消した。残されたのは、物理的な破壊の爪痕が刻まれた、無惨な平地だけだ。
楔は、ジャージのポケットの中で指先を遊ばせながら、小さく息を吐いた。
身体的には一箇所の擦り傷もなく、呼吸すら乱れていない。だが、精神的な疲労は確かな重さを持って彼の肩にのしかかっていた。彼にとっての「仕事」は、単に敵を排除することではない。生徒という未熟な魂を、欠けることなく日常という名の檻へ連れ戻すことだ。その責務の重さは、どれほどの実力を有していても軽減されることはない。
視界の端で、オールマイト……
楔はあえてそこへは駆け寄らず、ただ自分のジャージが彼の痩せ細った肩を覆っていることを確認するに留めた。今の彼に必要なのは、賞賛でも同情でもなく、その正体を秘匿するための僅かな時間と、戦士としての静かな休息だ。
「天土先生……」
「……あんた、何なんだよ。あの脳無ってやつに、一発も掠らせねぇなんて……」
震える声が、楔の意識を現実へと引き戻した。
振り返ると、そこには
「……怪我はないな。なら、さっさと入り口へ戻れ。ここはもう、お前たちの居場所じゃない」
楔はあえて突き放すような口調を選んだ。
教育者として、彼らに特別な言葉をかけるべき瞬間なのかもしれない。だが、今の彼らに必要なのは、自分たちが「子供」の領域に戻ったことを自覚させることだ。大人の凄惨な仕事場に、これ以上彼らを留めておくわけにはいかない。緑谷は何かを言いかけ、その唇を震わせたが、楔の冷徹なまでに平穏な瞳を見て、言葉を飲み込んだ。
「地理の教師だ。……お前らが覚えるべきは、今日の恐怖じゃなく、明日提出の課題の内容だ」
楔は爆豪の視線を正面から受け止め、僅かに目を細めた。
強すぎる力に当てられ、自分の立ち位置を見失いかける危うさ。それを正すのもまた、大人の役目だ。爆豪の瞳に宿る苛立ちと困惑を無視し、楔はただ一人の教師として、揺るぎない日常という境界線を引いてみせた。
警察の車両がドームの外に集結し、赤と青の警告灯が入り口付近を明滅させ始める。
救急隊が担架を手に、広場へと駆け込んできた。楔は彼らに道を譲り、自身は再び噴水の縁へと戻る。重傷を負った
(……消太。随分と派手にやられたもんだな。俺の授業で、回避の基礎は叩き込んだはずだが……。まぁ、相手が悪かったか)
それは冷酷さゆえではない。
教え子を失うという痛みを誰よりも知っているからこそ、楔は「生き残った」という事実のみを肯定する。生きて担架に乗っている。それだけで、今日の相澤は満点だ。彼の中に渦巻く憤怒や葛藤を押し殺し、楔はただ一人の観測者として戦場の終わりを見つめ続けた。
USJの出口付近で、根津校長が警察の責任者と話し合っているのが見えた。
楔は、面倒な報告書の作成を想像し、今度こそ深いため息をついた。地理の授業の一環としての護衛という名目では、今回の圧倒的な物量の個性の使用回数は到底説明がつかない。かつて自身が封印した実力の片鱗を、こうも鮮明に見せてしまったことへの後悔が、僅かに胸を掠める。根津からの過度な期待がさらに重くなるのは火を見るより明らかだった。
(……やれやれ、これだから現場は嫌なんだ。余計な注目を浴びれば、また特売の煎餅を買いに行くのも一苦労になる)
彼が自らの内側に秘めた、大地という名の兵器廠。その深奥にアクセスすることは、彼にとって平和な日常の喪失を意味する。楔は静かにジャージの袖を捲り、荒れた広場に残る微かな個性の残滓を、自らの内側へと引き戻していった。
夕刻、雄英高校の救急病棟。
消毒液の特有の匂いが鼻を突く廊下で、楔は一人、冷たい壁に寄りかかっていた。
ジャージの肩にかかった八木の血痕が、乾いて白くなっている。病室の中からは、リカバリーガールの小言と、意識を取り戻したばかりの相澤の掠れた声が聞こえてくる。
「……天土先生は」
「外にいるぜ。……相変わらず、煎餅食いながら特売の茶を飲んでるよ。お前を助けたのは自分じゃない、オールマイトだ、なんて言い張ってな」
「……あの人は、昔からそうだ。……絶対に、自分の手柄を認めようとしない」
相澤の声に答えるのは、プレゼント・マイクの神妙な響きだった。
かつて、自分の担任として、命を懸けることの無意味さと、生存することの崇高さを教えてくれた唯一の大人の背中。今回の事件で、自分はまた彼に救われてしまった。その悔しさと、それ以上の安堵が、包帯に包まれた相澤の胸を去来していた。
楔は廊下でそのやり取りを聞き流しながら、懐から一枚の煎餅を取り出した。
乾燥した独特の割れる音が、静かな廊下に響く。咀嚼し、嚥下する。その作業的な行為だけが、彼を戦場から日常へと繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。自分がかつて教え、導いた生徒たちが、今や立派なプロとして命を懸けている。その事実に、誇らしさよりも先に、言いようのない重苦しさを覚えるのは、彼が「大人」として戦場の残酷さを知りすぎているせいだろう。
ふと、廊下の向こうから足音が近づいてきた。現れたのは、八木俊典だった。
既に活動限界を迎え、枯れ木のように痩せ細った姿。彼は楔の隣に並んで立ち、長い沈黙の後、小さく口を開いた。
「……すまなかった、天土くん。……君に、あんな真似までさせて」
「仕事をしただけだ。……それより、自分の身体を心配しろ。もう限界なんだろう?」
楔は八木を見ようともせず、残りの煎餅を口に放り込んだ。八木は自嘲気味に笑い、壁に背を預けた。
「……君がいてくれなければ、私は今日、平和の象徴として死んでいたかもしれない。……君の言う通りだ、私は少し、理想を語りすぎた」
「理想で腹は膨らまん。こんな大立ち回りをさせられる身にもなってほしいもんだ」
楔は、冷めた緑茶をペットボトルから煽り、ようやく八木の方を向いた。
その瞳には、先ほどの戦闘時の冷酷さは微塵もなかった。あるのは、自分より年上の、しかし危うい生き方しかできない馬鹿を案じるような、疲弊した大人の眼差しだけだ。過去、一瞬だけ楔は彼を恨んだこともあった。だが、今の楔にその感情はない。あるのは、同じ時代を戦う者としての、言葉にならない共感だけだった。
「……明日から、また地理の授業がある。……生徒たちの目が、これまで通りであることを祈るばかりだ」
「……それは、難しいかもしれないな。……君が今日見せたのは、あまりに巨大な背中だったから」
八木の言葉に、楔は鼻で笑って応えた。
巨大な背中。そんなものは、自分には似合わない。彼はただ、残業代の出ない過重労働に文句を言い、特売の茶と煎餅があれば満足する、枯れた男でいたいだけなのだから。生徒たちに希望を与えるのはオールマイトの仕事であり、自分はその希望が折れないように、足元の土台を補強するだけでいい。白雲を失ったあの日から、楔の教育方針は揺らいでいない。
窓の外では、夜の帳が降りようとしていた。
雄英という名の学び舎に、再び静かな夜が訪れる。だが、楔は知っていた。今日の事件は、終わりではなく、始まりに過ぎないことを。死柄木弔という悪意の苗床に、今日の恐怖と敗北という名の肥料が与えられた。次に芽吹くのは、より歪で、より凶悪な災厄になるだろう。
(……面倒だな。……本当に、教職なんて柄じゃないんだ、俺は)
楔は、飲み干したペットボトルをゴミ箱へと放り込んだ。
放物線を描いて吸い込まれていくプラスチックの音を聞きながら、彼は重い腰を上げ、帰路に就く準備を始めた。明日の授業の予習もしなければならない。ヒーローとしての戦場よりも、教卓という名の戦場の方が、今の彼にとっては遥かに骨の折れる仕事なのだから。
教育者としての義務。
それは、生徒たちの明日に、今日という傷跡を極力残さないこと。