天土楔の憂鬱な教職日誌   作:金属粘性生命体

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閑話、所謂つかの間の休息
深淵からの追想、あるいは計算外の不純物


 

 

 湿った闇が支配する、場末のバー。

 そこには、USJという名の華やかな舞台を台無しにされた敗北者たちの、重苦しい空気が淀んでいた。カウンターの奥では、黒い霧のような男――黒霧(くろぎり)が、自らの霧状の身体を弄りながら、無機質な沈黙を守っている。その横では、ボロボロのジャージを着た青年が、狂ったように自らの首筋を激しく掻き毟っていた。

 

「……ありえない。あんなの、設定が狂ってる。……聞いてない、あんな中ボスがいるなんて」

 

 死柄木(しがらき)(とむら)の指先が、自身の首の皮膚を無惨に引き裂く。血が滲み、肉が剥き出しになっても、彼はその不快な動作を止めようとはしなかった。彼の脳裏に焼き付いているのは、平和の象徴による圧倒的な暴力ではない。その傍らで、あくびを噛み殺すような顔をしながら、自分たちの退路を無数の鉄杭で物理的に削り取っていった、あの地理教師の姿だ。

 

「脳無を完封した。……あいつ、一度も掠らせなかったんだぞ? こっちの動きを全部読んで、先回りして、大地から武器を……あんなの、ただの土いじりじゃない。……あいつは、あいつだけは、攻略本に載ってない『バグ』だ」

 

 死柄木の声には、隠しきれない畏怖が混じっていた。彼はその手に触れるもの全てを崩壊させる力を持ち、常に万物を定義する側……プレイヤーであると自負していた。だが、あのUSJの広場で相対した時、彼は初めて、自分が巨大な兵器廠の一部に組み込まれた歯車に過ぎないという錯覚に陥った。視線一つで広場全域を自らの武器庫へと変え、数千の槍や剣で空間を塗り潰したあの男。天土(あまつち)(クサビ)という存在は、死柄木にとってのヒーローという記号を根底から破壊する、冷徹なまでのシステムそのものだった。

 

「……(とむら)。落ち着きなさい」

 

 バーの奥に置かれた大型のモニターから、歪な機械音の向こう側に潜む、底知れない威厳を湛えた声が発せられた。死柄木の指が止まる。彼は救いを求める子供のような瞳で、その黒い画面を見つめた。

 

「先生……。……先生も、あいつを知ってるのか? あのチート野郎を」

 

「……天土楔、か。懐かしい名前を聞いた。……まだ生きていたのだね、あの『清掃員』は」

 

 画面の向こう側、生命維持装置の規則的な駆動音に紛れて、声の主――オール・フォー・ワンは、自身の記憶の深淵へと意識を潜り込ませた。それは、彼がまだ平和の象徴にその顔を潰されるよりも前のこと。

 

(……あの日の、あの男の目は、今でも皮膚の裏側に焼き付いている)

 

 当時、オール・フォー・ワンにとって、天土楔というヒーローは奪う価値すら見出せない、単なる道端の石塊に過ぎなかった。だが、その石塊を排除しようとした瞬間、彼は初めて、計算という概念が通用しない不純物に遭遇したのだ。

 

 自らが放つ、空間を断ち切るほどの破壊の奔流。それを、その男は一度として回避しなかった。

 地面に手を突くことすらなく、視線だけで大地から鋼鉄の連璧を隆起させ、あらゆる全方位的攻撃を物理的に遮断した。それどころか、足元の大地全てを瞬時に無数の槍の穂先へと変え、絶対的な支配者であるはずの自らが踏み込む隙間さえも、残酷なまでに塗り潰してみせたのだ。

 

(……私を『巨悪』として恐れるでもなく、正義を振りかざすでもない。……ただ、長すぎる残業に文句を言い、明日の食卓の献立を案じるような、あまりに卑俗で、あまりに強固な『日常の目』をしていた)

 

 オール・フォー・ワンは、自身の掌を僅かに握り込んだ。あの時、自分の指先がその男の喉元に届こうとした刹那、地中から噴き出した数千の鋼鉄のワイヤーが、文字通り彼の自由を奪った。物理的な質量による拘束。それは、どんな超常の力よりも冷徹に、彼の動きを規定した。

 戦いというよりは、清掃。

 天土楔という男にとって、オール・フォー・ワンとの死闘は、故障した重機を解体するような、ただの面倒な後始末に過ぎなかったのだ。

 

「先生……?」

 

「……(とむら)。あの男を侮ってはいけない。……彼は、オールマイトのように光を掲げる者ではない。……ただ、自分たちの日常を汚されることを何よりも嫌い、そのために地形そのものを屠殺場へと変えることを躊躇わない男だ」

 

 オール・フォー・ワンの記憶の中で、若き日の天土楔が放った最後の一閃が蘇る。大地から引き抜かれた、柄も鍔もない無骨な鋼の刃。それが、当時の支配者の頬を僅かに掠めた時、男は吐き捨てるように言った。

 

「……早く帰らせてくれよ。……特売の煎餅が売り切れる」

 

 その言葉に、戦士としての誇りは微塵もなかった。だが、そのやる気のなさこそが、彼の個性の精度を極限まで研ぎ澄ませていた。感情に左右されず、ただ「最短時間で仕事を終わらせる」という一点において、天土楔の武具生成は、物理法則を超越した絶対的な論理として戦場に君臨する。

 

「……天土楔。……あいつは、平和の象徴の後ろを歩む者ではない。……あいつは、あいつ自身が武器庫そのものなのだ」

 

 オール・フォー・ワンは、自らの指先を微かに動かした。あの時、もし自分が深追いしていれば、あるいはその場で命を落としていたのは自分の方だったかもしれない。それほどの戦略級の脅威を、雄英は地理教師という安穏とした地位に隠し持っている。

 

「……(とむら)。次に対峙する時は、必ず距離を保ちなさい。……あいつの大地に、不用意に足を踏み入れてはいけない。……そこは、あいつが支配する処刑場なのだから」

 

 モニターの光が消える。バーに残されたのは、先生の警告を咀嚼し、さらなる苛立ちと、歪な興味を深めていく死柄木の気配だけだった。

 

「……処刑場。……へぇ、面白い。……ならその処刑場ごと、俺が崩してあげるよ、先生」

 

 死柄木は、自らの頬を指でなぞった。血が乾いた跡。あの日、USJで感じた鋼の冷たさが、今も消えない。地理教師、天土楔。平和の象徴を殺すためのシナリオにおいて、最も排除すべきバグの名前を、死柄木はその歪んだ記憶に深く、深く刻み込んだ。

 

 一方、その頃の楔は。雄英高校の宿舎で、半額で手に入れた大袋の煎餅をバリバリと咀嚼しながら、録画しておいた深夜アニメを眺めていた。あの日、自分が深淵の支配者と刃を交えたことなど、彼はとうの昔に忘却の彼方へと追い遣っている。

 

「……湿気てんな、この煎餅。……やっぱり、特売品はこれだから困る」

 

 彼にとって、悪の支配者との邂逅も、USJでの死闘も、煎餅の湿気以上に案ずるべきことではない。大地という名の静かな武器庫を内側に秘めながら、男はただ、明日の授業の出欠確認という名の、果てしなく面倒な仕事に思いを馳せていた。

 

 楔という男の評価は、敵側においてのみ、真実の形を成していく。彼がただの教師であろうとすればするほど、その内側に潜む戦略級の牙は、鋭利に、そして冷酷に研ぎ澄まされていくのだ。死柄木が次に彼と相対する時、それはもはやゲームではなく、一方的な清掃の場となる。その予感を抱えながら、悪意の芽は着実に、USJの土壌から吸い上げた屈辱を糧に成長を続けていた。

 

 夜の帳が降りた雄英の廊下。楔はふと、窓の外に広がる広大な敷地を見つめる。大地は沈黙しているが、彼の意識が触れれば、それは瞬時にして世界を貫く剣の山へと変わる。

 

「……明日は、一時間目からか。……雨でも降れば、自習にできるんだがな」

 

 世界を揺るがす力を持ちながら、男の願いはどこまでも卑近だった。だが、その卑近な日常こそが、彼がかつて失いかけ、そして今も守り続けている唯一の戦利品なのであった。平和の象徴が守る光の陰で、枯れたおじさんは今日も、明日という名の退屈な戦場へと、重い腰を上げる準備をしていた。

 

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