天土楔の憂鬱な教職日誌   作:金属粘性生命体

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残り火、あるいは拭えぬ師の背中

 

 

 雄英高校の救急病棟は、夜の帳が降りると共に、外界の喧騒を一切拒絶するような静寂に包まれていた。

 無機質な白に統一された病室内。窓の外で揺れる木々の影が、街灯の光に引き延ばされて壁を這っている。

 全身を包帯で固定され、ベッドに沈んでいる相澤(あいざわ)消太(しょうた)は、天井の僅かな染みを見つめながら、途切れがちな思考を整理していた。

 

 視界の端に映る自身の右腕は、感覚が麻痺し、ただの重りとしてそこにある。

 脳無という名の怪物に徹底的に磨り潰された肉体。その痛みさえも、強力な鎮痛剤の作用で遠い世界の出来事のように感じられた。

 だが、瞼を閉じれば鮮明に蘇るのは、自分を死の淵から救い上げた「大人の背中」だ。

 

「……あの人は、本当に変わらない」

 

 喉の奥から漏れた掠れた独り言は、静寂に吸い込まれて消えた。

 天土(あまつち)(クサビ)

 自分やプレゼント・マイク、そして――白雲(しらくも)(おぼろ)がまだ雄英の生徒だった頃。

 その三人の担任として、不真面目な顔を崩さずに教卓に立っていた男。

 当時から、彼は「残業嫌い」を公言し、隙あらば煎餅を齧りながら、やる気のなさを全身から撒き散らしていた。

 生徒だった相澤たちからすれば、その枯れた姿は英雄とは程遠く、時として不信感さえ抱かせるものだったのだ。

 

 だが、相澤は知っている。

 そのやる気のなさという仮面の裏側に、どれほど凄惨な「強さ」が隠されているかを。

 そして、その強さが誰よりも深い傷から生まれていることを。

 

 意識の深奥で、相澤は十数年前の記憶のページを捲る。

 それは、彼の人生において最も暗く、冷たい雨の日の記憶だ。

 白雲朧の死。

 当時、崩落する瓦礫の下で冷たくなっていく親友の遺体を前に、相澤はただ絶望に打ちひしがれ、自らの無力さを呪うことしかできなかった。

 マイクもまた、叫びを枯らすほどに泣き崩れていた。

 

 その時、現場に現れたのは、いつも通りの不機嫌そうなジャージ姿の楔だった。

 彼は泣きじゃくる教え子たちを叱咤することもなく、ただ無言で崩落した地形の前に立った。

 大地に手を置くことすらなく、視線だけで周囲の瓦礫を再構築し、親友を埋めた絶望の残骸を、一本の巨大な鋼の杭へと作り替えてみせたのだ。

 

 その時の楔の瞳を、相澤は忘れたことがない。

 今の彼が見せる「枯れた雰囲気」とは対極にある、冷徹極まる冬の海のような眼差し。

 責任と葛藤を押し殺し、ただ淡々と「仕事」として現状を処理しようとする、恐ろしいまでのプロ意識。

 楔は、白雲を救えなかった自分たちの担任であることを悔やんでいるようにも、あるいはその教訓を二度と繰り返さぬと己に誓っているようにも見えた。

 事実、彼はその事件を精神的に乗り越え、今の指導に活かしているのだと、大人になった今の相澤には理解できる。

 

(……あの時、先生は俺たちに言った。……『生きるのが仕事だ』、とな)

 

 その言葉通り、楔の戦い方は徹底して生存に特化している。

 USJでの一件もそうだ。

 相澤は脳無に組み伏せられ、死を覚悟した瞬間に、大地が波打つのを見た。

 現れたのは、相澤の周囲だけを正確に保護し、怪物の踏み込みを物理的に弾き飛ばす、無数の鉄槍の森。

 あくびをしながら、まるで散歩でもするかのように戦場に介入し、地形そのものを武器庫に変えて見せた師の姿。

 

 生徒たちは、楔の個性を「地味な土いじり」だと思っている節がある。

 だが、相澤から見れば、あれは「戦略級」の脅威だ。

 出力の強弱ではない。大地という広大なリソースを、思考の速度で最適な「武器」へと変換し続ける、研ぎ澄まされた洗練さ。

 あの日、脳無という名の、オールマイトに匹敵するパワーを持つ怪物に対して、楔は一撃も掠らせることなく、ただの事務作業のように完封してみせた。

 その圧倒的な実力差を、相澤は包帯の中で今一度噛み締める。

 

「……相澤、起きてるか?」

 

 扉が開く微かな音と共に、聞き慣れた声が響いた。

 入ってきたのは、相澤と同じく楔の教え子であり、今は同僚となったプレゼント・マイク(マイク)だった。

 いつもの派手なコスチュームではなく、私服のジャケットに身を包んでいる。

 その表情は珍しく神妙で、楔という「大先輩」に対する敬畏の念が、その立ち振る舞いに滲み出ていた。

 

「ああ。……マイク、お前も来たのか」

「様子を見にな。……さっき、廊下で天土先生とすれ違ったぜ。……相変わらず、煎餅のカスをジャージに付けたまま、『お前がサボるから俺の授業が増える』って文句垂れてやがった」

 

 マイクの言葉に、相澤は包帯の下で僅かに口角を上げた。

 マイク自身、学生時代に楔からガッツリと絞られた経験があり、今でも彼には少し苦手意識を持っている。

 だが、その不器用な厳しさが、今の自分たちのヒーローとしての矜持を形作っていることを、彼もまた理解しているはずだ。

 

「あの人は、そうやって敢えて嫌われようとしている節がある。……生徒たちにもそうだ。……緑谷たちの前で、わざとやる気のないフリをして見せたのも、あの日、彼らが抱いた過剰な興奮を冷ますためだろう」

「……全くだ。……あの人、オールマイトに自分のジャージを被せてさっさと帰っちまうんだもんな。……手柄なんてこれっぽっちも興味ねーってか。……教育者として、出来すぎてて逆に怖ぇよ」

 

 マイクは、病室の椅子に乱暴に腰を下ろした。

 二人の心に共通して浮かんでいるのは、楔が背負っている「責任感」の深さだ。

 白雲を失ったあの日から、楔は生徒の命に対して、誰よりも重い責任を感じ続けている。

 それを決して表には出さず、あくまで「めんどくさい仕事」として処理することで、自らの感情に蓋をしているのだ。

 

 相澤は、包帯に包まれた手を僅かに動かし、楔の個性を思い描く。

 『土細工(アース・クラフト)』。

 無骨で、荒々しく、しかしどこまでも確実な、生存のための武具たち。

 自分たちは、未だにあの人の守備範囲から一歩も外に出られていないのではないか。

 地理教師という、学校のあらゆる土地を把握する立場に就いていることさえ、根津校長が彼を「雄英最強の防衛戦力」として期待している証拠のように思えた。

 

「……俺は、あの人のようにはなれない」

 

 相澤の呟きに、マイクは黙って頷いた。

 オールマイトのような輝かしい光でもなく、エンデヴァーのような激しい炎でもない。

 ただ、大地に根を張り、日常を壊そうとする全ての不純物を無表情で削り取る、枯れたおじさんの背中。

 その背中に追いつこうとして、自分たちはこれまでヒーローとして走り続けてきた。

 

「マイク。……あの日、USJで楔先生が見せた個性の規模……あれは、地形そのものを変えていた」

「ああ、知ってるぜ。……学校一帯の地盤、全部あの人の武器庫だ。……校長が『別ベクトルのオールマイト』って呼ぶのも納得だよな」

 

 楔は普段、やる気のない地理教師として、生徒たちからは「地味で不審な大人」として見られている。

 だが、有事の際に彼が見せる「一騎当千」の実力。

 それこそが、雄英高校がヴィランの襲撃を受けながらも、致命的な崩壊を免れている最大の理由であることを、教師陣だけが共有している。

 

 病室の窓の外。夜風が通り抜ける音だけが響く。

 相澤は目を閉じ、再び楔のジャージ姿を思い浮かべた。

 次に学校へ戻った時、あの人はまた「残業は嫌だ」と嘯きながら、自分に面倒な雑務を押し付けてくるのだろう。

 だが、その何気ない、面倒くさい日常が、どれほど多くの「大人の代償」によって支えられているのかを、相澤は知っている。

 

「……早く戻らないとな。……あの人に、これ以上残業をさせるわけにはいかない」

 

 

 相澤の声には、ヒーローとしての覚悟と、師に対する不器用な敬意が混ざり合っていた。

 楔という名の巨大な楔が、大地に深く打ち込まれている限り、雄英の地盤は揺らがない。

 包帯に包まれた一人のプロヒーローは、自らの不甲斐なさを噛み締めながら、夜の静寂の中で、再び師が守った日常へと手を伸ばした。

 

 その頃。

 当の天土楔は、教師寮の一室で、特売で手に入れた二リットルの緑茶をペットボトルから煽り、ため息をついていた。

 机の上には、明日の一時間目、1年A組の地理の授業で使う予定のプリントが散乱している。

 

「……相澤の奴、いつまで入院するんだ?……おかげで俺が、ガキどもの顔を拝む回数が増えちまうじゃないか」

 

 楔はボリボリと頭を掻き、面倒そうにプリントの束を纏めた。

 彼の脳裏には、相澤の怪我の具合や、緑谷たちの精神状態、そして何より、白雲の墓前に供えるための、新しい煎餅のストックのことなどが、無秩序に、しかし確かな重みを持って並んでいた。

 

 枯れたおじさんは、重い腰を上げ、部屋の灯りを消した。

 大地は沈黙しているが、彼の意志一つで、明日もその「土」は、生徒たちが走るための強固な土台へと変わるのだ。

 平和な日常を守るための、長すぎる残業。

 天土(あまつち)(クサビ)の夜は、煎餅の乾いた音と共に、静かに更けていった。

 

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