天土楔の憂鬱な教職日誌   作:金属粘性生命体

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波紋、あるいは深淵の回想

 

 

 放課後の1年A組の教室を支配していたのは、かつてないほど重苦しく、それでいてどこか熱に浮かされたような奇妙な静寂だった。

 USJ襲撃事件から数日が経過し、表向きの平穏は戻りつつある。だが、あの日、死の淵を覗き込んだ少年少女たちの網膜には、既存のヒーロー観を根底から覆す二つの背中が焼き付いて離れなかった。

 一つは、平和の象徴が見せた、限界を超えた圧倒的な黄金の光。

 そしてもう一つは、自分たちを子供扱いし、日常の向こう側へと淡々と追い遣った、あのやる気のない地理教師の冷徹な影だ。

 

 緑谷(みどりや)出久(いずく)は、自身のノートに新しいページを割き、震える手でその男の解析を書き留めていた。

 ヒーロー名、アーセナル。

 普段の授業では、ボサボサの頭を掻きながら特売の煎餅を齧り、地理の教科書を音読するだけの、失礼ながら地味で枯れたおじさんとしか思えない人物だ。

 だが、あの日、彼が広場で見せた個性の真価は、緑谷が知るどのプロヒーローのカタログスペックをも凌駕する、底知れない暴力の集合体だった。

 

「天土先生の、あの個性。土細工(アース・クラフト)は、ただの土いじりなんてレベルじゃなかった」

「ああ。あんなの、地形そのものが意志を持って牙を剥いてるみたいだったぜ」

 

 切島(きりしま)鋭児郎(えいじろう)が、当時の光景を思い出したのか、自身の腕を硬化させながら小さく身震いした。

 彼らが見たのは、大地から湧き上がった、数千、数万という鋼鉄の武具の奔流だ。

 剣、槍、斧、ハンマー。それだけではない。現代的な銃火器や、およそ土からできているとは思えない複雑な機構を持つ乗り物までが、あくびを噛み殺すような男の視線一つで生成され、空間を隙間なく埋め尽くしていた。

 それは防御ですらあった。

 巨大な盾や鋼の逆茂木を生成し、生徒たちの周囲を完璧な要塞へと変貌させ、近づくヴィランを物理的な物量のみで粉砕していく様は、まさに戦略級と呼ぶに相応しいものだった。

 

「チッ、うぜぇ。あんなの、最初から全部隠してたってことだろ。生徒をナメてんのかよ」

 

 爆豪(ばくごう)勝己(かつき)が、窓の外を見つめたまま、絞り出すような声で吐き捨てた。

 彼のプライドは、あの日、決定的に打ち砕かれていた。

 自分たちが手も足も出なかった黒い怪物を、天土(あまつち)(クサビ)は一度も自らの身体に掠らせることなく、事務作業でもこなすような顔で完封してみせたからだ。

 その実力差以上に爆豪を苛立たせたのは、あの男が本気を出すことにすら大した情熱を感じさせていなかったことだった。

 圧倒的な力を行使しながら、男の頭の中にあったのは残業代や煎餅のストックといった、あまりに卑俗で日常的な事柄だけだったのではないか。

 その事実が、強さを渇望する爆豪にとって、最大の侮辱として機能していた。

 

「轟。お前は、天土先生から何か言われたのか」

 

 切島の問いに、(とどろき)焦凍(しょうと)が静かに顔を上げた。

 彼はあの日、撤退の直前に楔とすれ違った際の一瞬の出来事を反芻していた。

 言葉はなかった。

 だが、あの男は轟の姿を見た瞬間、ほんの僅かに眉を動かし、彼の「左側」を一瞥したのだ。その瞳には、同情とも軽蔑とも違う、全てを見透かすような冷徹な光が宿っていた。

 

「……いや。あの日、先生は何も言わずに俺の横を通り過ぎただけだ。だが、その時に感じた視線は、父が放つ炎よりも遥かに重く、冷たかった」

 

 轟は自らの左手を見つめた。

 天土楔という男が、なぜ自分にあのような目を向けたのか。なぜ自分の抱える歪な熱に気づいたような素振りを見せたのか。今の彼には知る由もない。

 ただ、あのやる気のない教師が放っていた「在り方」そのものが、言葉以上の重圧となって彼の内側に棘のように突き刺さっていた。

 あれは、自分が封じている力など、彼にとっては取るに足らない「子供の遊び」だと断じられたような、そんな底知れない感覚だった。

 

 彼らにとっての天土楔は、もはや地味な教師ではなかった。

 相澤先生やマイク先生が、今なお頭の上がらない元担任としての威厳。

 生徒の命を救うため、自らの牙を剥くことを躊躇わない、戦略級の実力者。

 だが、その正体があまりに日常の皮膜に隠れすぎているがゆえに、彼らはどう接していいか測りかねていた。

 

 その時、廊下の向こうから聞き慣れた音が響いた。

 乾燥した、煎餅を咀嚼する独特の破砕音が、静かな廊下に反響する。

 教室の扉が、何の遠慮もなく滑るように開け放たれた。

 

「あー、まだいたのかお前ら。掃除当番ならさっさと終わらせろ。電気が勿体ないだろ」

 

 現れたのは、いつも通りヨレヨレのジャージにボサボサの頭、片手に特売の緑茶を下げた、天土楔だった。

 彼は生徒たちの畏怖を孕んだ視線に気づくと、露骨に不快そうな顔を隠そうともせず、煎餅の袋を懐にねじ込んだ。

 

「天土先生。あの、USJの時のこと、お礼を」

「礼なら相澤に言え。俺はただ、あいつの代わりに残業させられただけだ。給料に見合わん仕事だったよ、全く」

 

 楔は緑谷の言葉を、面倒そうに手の甲で追い払った。

 その仕草には、教育者としての情熱も、ヒーローとしての矜持も感じられない。

 だが、生徒たちはあの日、彼のジャージの裾が血一つ被らず、暴風に揺れるだけで一歩も退かなかった光景を知っている。

 どんなにやる気がないと言い張っても、その足元が常に、生徒たちが立っている大地を確実に掌握し続けていることを、彼らは肌で感じていた。

 

「天土先生。先生は、俺たちがどれだけやれば、あの日みたいに戦えるようになるんですか」

 

 爆豪の問いは、彼にしては珍しく、切実な響きを含んでいた。

 楔は足を止め、死んだ魚のような目で爆豪を見やった。

 しばらくの間、沈黙が流れる。

 楔は懐から再び煎餅を取り出すと、それを豪快に噛み砕き、冷淡に言い放った。

 

「俺みたいに戦う必要はない。というか、真似するな。俺の戦い方は、生き残るためだけに最適化された、夢も希望もない清掃作業だ」

「清掃、作業?」

「そうだ。ガキが憧れるようなもんじゃない。お前らはせいぜい、情熱だの根性だの、その青臭いもんを大事にしてろ。俺みたいな枯れ方をするのは、二十年早い」

 

 それだけ言い残すと、楔は一度も振り返ることなく、廊下の奥へと消えていった。

 残された生徒たちの間には、先ほどとは異なる質の静寂が流れていた。

 夢も希望もない、生存のための最適化。

 あの凄まじい武具の森を、男は清掃と切り捨てた。

 そこには、彼がかつて失ったもの、白雲(しらくも)(おぼろ)という教え子を守れなかった過去への、拭い去れない教訓が塗り込められていることを、彼らはまだ知らない。

 

「あの人、やっぱり変だ。でも」

「ああ。少なくとも、あの人が学校にいる限り、俺たちは地盤から守られてる。そんな気がするな」

 

 切島の言葉に、緑谷は深く頷いた。

 平和の象徴という名の光が届かない場所で、大地に根を張り、日常という名の境界線を冷酷に守り続ける、不真面目な教育者。

 彼らににとっての天土楔は、憧れるにはあまりにドライで、軽んじるにはあまりに巨大な大人という名の壁として、その心に深く打ち込まれた。

 

 窓の外では、完全に夜が訪れていた。

 雄英高校の敷地、その広大な土地の全てを自らの武器庫として掌握しながら、男は今日も、明日の授業の出欠確認という名の、果てしなく面倒な仕事に思いを馳せていた。

 

「……湿気てんな、この煎餅。やっぱり、特売品はこれだから困る」

 

 教育者としての義務。

 それは、生徒たちの明日に、今日という傷跡を極力残さないこと。

 天土(あまつち)(クサビ)の、長すぎる残業の波紋は、生徒たちの心の中で静かに、しかし確実に広がり続けていた。

 

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