雄英高校の屋上は、
ここには書類の山もない。校長の長い説教もない。あるのは心地よい風と、コンクリートの硬く冷たい感触だけだ。午後の授業が空きコマであることをいいことに、楔は貯水タンクの影で惰眠を貪っていた。ジャージを枕にし、顔には読みかけの週刊誌を被せる。完璧な布陣だ。
だが、平和とは常に脆いものである。
「――先生ェェェェ!! ここにいたんスかァァァ!!」
鼓膜を直接殴打されたような衝撃に、被せていた週刊誌が吹き飛んでいく。楔は顔をしかめ、のっそりと上半身を起こした。
「……うるさい。音量調節機能が壊れてるならリカバリーガールの所へ行け、山田」
「酷い! 俺は愛を込めて呼びかけたんスよ!?」
「愛の重さがデシベル単位なんだよお前は」
目の前に立っていたのは、逆立てた金髪にサングラス、そして口元にスピーカーのような
そして、その背後から二人の少年が顔を出す。いつも眠そうな目を擦っている
「天土先生、サボりですか? 感心しませんね」
相澤がジト目で指摘する。お前には言われたくない、と楔は思ったが、口には出さない。
「サボりじゃない。……屋上の耐久劣化を目視で点検していたんだ」
「寝てただけだろ」
「で、何の用だ。俺は今、忙しいんだが」
「嘘つけ! 暇なら俺たちの組手、見てくださいよ! 新技開発したんスよ!」
白雲が身を乗り出してくる。彼の背後には、
「……他の先生に頼め。生活指導の先生とか暇そうだぞ」
「あの先生、説教長いから嫌なんスよ! それに他の先生は会議中だし」
「俺も会議中だ。夢の中でな」
「そこをなんとか! 購買の高級コーヒー牛乳奢るから!」
「……カフェオレな」
「交渉成立!」
◇
結局、楔はコーヒー牛乳一本で買収され、第3演習場へと連行された。
コンクリートで舗装された市街地エリア。楔はあくびを噛み殺しながら、適当な瓦礫の上に腰を下ろす。
「ほら、さっさと始めろ。俺は見てるだけだからな」
「へいへい。んじゃ、いくぜショータ、白雲!」
「おう!」
「……手加減なしだぞ」
三人が散開し、合図と共に山田が大きく息を吸い込んだ。
「イェーアアア!!」
強烈な指向性音波が空間を震わせる。だが、その音波は敵(仮想ヴィラン役のロボット)ではなく、なぜか見学していた楔の方へと飛んできた。
否、流れ弾ではない。完全に狙っている。
「……おい」
楔は眉一つ動かさず、座っていた瓦礫に指先で触れた。
瞬間、足元のコンクリートが変質する。
無機質な地面が瞬時に組み替わり、分厚い「鋼鉄の塔盾」となって音波を遮断した。
ガガガガッ! と激しい金属音が響き、衝撃が拡散される。土そのものではない。完全に精製された金属の輝きだ。
「ははは! やっぱ防がれた! 先生、実は俺たちの相手してくれる気満々でしょ!」
「……コーヒー牛乳の分は働けってか。ガキ共が」
白雲が雲に乗って上空から回り込み、相澤が捕縛布を構えて死角から迫る。どうやら最初から、この教師を演習に参加させるつもりだったらしい。ナメられたものだ。
だが、悪くない連携だ。山田が広範囲攻撃で動きを制限し、白雲が機動力を確保し、相澤が個性を消して無力化する。プロ顔負けの合理的判断。
――だからこそ、楔は少しだけ意地悪をしたくなった。
「調子に乗るなよ、ヒヨッコ共」
楔の目が、すっと細められる。その瞬間、演習場の空気が変わった。
楔を中心に、半径五十メートルの地面から、無数の「剣」が生え出した。
切っ先を天に向けた鋭利な刃の森。それは土ではなく、鋼の輝きを放つ本物の凶器だ。
「チッ……!」
相澤が慌ててバックステップで回避するが、着地した場所からも即座に金属の棘が突き出す。
休む暇を与えない。殺意はないが、避けなければ確実に骨が折れる速度と硬度だ。
「ちょ、先生!? 大人げない!! 本物の鉄じゃんか!」
「実戦で敵が手加減してくれるとでも思ったか? ほら、山田。叫んでる暇があったら足元を見ろ」
「ギャアアア!! 俺の新品のブーツが!!」
山田の足元で地面が弾け、獣を捕らえるための「トラバサミ」のような金属製の拘束具が出現し、彼の足首をガッチリと挟み込んだ。
土を操作しているのではない。地面そのものを、知識にある「道具」へと変換したのだ。
「山田、捕まれ!」
「サンキュー白雲!」
間一髪、白雲が山田を回収し、空へと退避する。空中にいれば、地面からの攻撃は届かない。正しい判断だ。
だが、甘い。
「空なら安全だと?」
楔はポケットに手を突っ込んだまま、空を見上げる。
地面から生成された数本の「鋼鉄の槍」が、重力を無視して浮き上がり――ミサイルのように射出された。
「げえっ! 追尾機能付き!?」
「避けるなよ。当ててやるから」
「矛盾してるっスよ先生!!」
空中で悲鳴を上げて逃げ回る二人。その隙を突いて、懐に潜り込んだ影があった。
相澤消太だ。
彼は囮に使われたことを理解した上で、最短距離を走っていた。その赤い瞳が、楔を捉える。
個性、抹消。視界に入れた者の個性を消す、強力無比な個性。
楔が展開しようとしていた新たな武器の生成が強制的に停止する。
「捕まえた」
相澤が操る捕縛布が、楔の体を捉えようと躍りかかる。
個性を消された楔は、ただのジャージ姿の中年だ。いくらプロヒーローとはいえ、武器を作れなくなった状態で接近戦に持ち込まれれば勝機はある――相澤はそう確信していた。
しかし。
楔は動じなかった。個性が消えた感覚を認識した瞬間、彼はポケットから手を出し、足元の砂を無造作に蹴り上げた。
「!?」
相澤の視界が、茶色い土煙で覆われる。
物理的な目隠し。当然、視線が切れれば抹消の効果は切れる。
「――っ、くそ!」
相澤は即座に目をこすり、再び視界を確保しようとする。だが、その一瞬の遅れが致命的だった。土煙を突き破り、楔の拳が眼前に迫る。
個性ではない。純粋な身体能力による踏み込みだ。
相澤は反射的に捕縛布でガードするが、重い衝撃に吹き飛ばされる。体勢を立て直そうと着地した瞬間、カチリ、と足元で硬質な音がした。
「がっ……!?」
足元のコンクリートが弾け飛ぶ。
爆発ではない。あらかじめ地面の一部を変換して仕込んであった「圧縮バネのギミック」が作動したのだ。
個性を消される前に、既に罠は設置されていた。
跳ね上がった鉄板が相澤の顎を打ち抜く。その隙に、楔の背後から巨大な「鋼鉄の掌」が出現し、空中の二人ごと三人まとめて薙ぎ払った。
「「「ぐわあああああ!!」」」
三人は仲良く瓦礫の山へと転がっていった。生成された金属の武器たちは、役目を終えるとサラサラと土に戻り、ただの砂山となって彼らを埋もれさせる。
「……いったぁ……」
「信じらんねぇ……個性消したのに、なんで反撃できるんだよ……」
泥だらけになった相澤が、悔しそうに呻く。その頭上から、楔の呆れたような声が降ってくる。
「お前の個性は強力だ。だが、頼りすぎだ」
「頼りすぎ……?」
「個性を消せば相手は動揺する。隙ができる。……そう思い込んでるだろ」
楔は相澤の前にしゃがみ込み、その額を指で軽く弾いた。
「世の中にはな、個性が消えたくらいじゃ眉一つ動かさない手合いもいる。視界を塞がれたらどうする? 個性を使わない純粋な暴力で来られたら? 設置済みのトラップだったら?」
「……っ」
「『消せば勝てる』じゃなくて、『消した後どう無力化するか』まで考えろ。……ま、学生にしちゃ上出来だがな」
厳しい指摘。だが、そこには確かな期待が込められていた。
相澤は額をさすりながら、不貞腐れたように、しかし力強く頷いた。
「……勉強になります」
「素直でよろしい」
楔は立ち上がり、空になったコーヒー牛乳のパックをゴミ箱に放り投げる。
圧倒的な実力差。だが、三人の目に絶望の色はなかった。むしろ、悔しさと共に、強い憧れの光が宿っている。
「やっぱ強えなぁ、天土先生は」
白雲が大の字に寝転がりながら笑う。
「当たり前だ。俺がお前らくらいの頃は、もっと死に物狂いで訓練してたんだよ」
「へえ、先生にも熱血な時代があったんスね」
「……過去形にするな」
楔は彼らを見下ろした。
才能はある。相澤の判断力、山田の火力、白雲の機動力とサポート。バランスは完璧だ。
だが、だからこそ危うい。彼らは「三人でいること」に慣れすぎている。
「お前らは強いよ。だが、慢心するな」
いつになく真剣な声色に、三人が顔を上げる。
「三人揃えば無敵、なんて思うなよ。ヒーローの現場は常に万全じゃない。一人が欠けた時、誰かが孤立した時、それでも立てるようにしておけ」
それは、教師としての助言であり、予感でもあった。
この眩しすぎる青春が、いつか影に飲まれてしまうのではないかという、漠然とした不安。
「大丈夫だって先生!」
白雲が起き上がり、ニカっと笑ってサムズアップする。
「俺たちはずっと三人一緒だからな! 誰かがピンチなら俺が助けるし、俺がピンチならショータと山田が助けてくれる!」
「……そうだな」
その屈託のない笑顔に、楔は言葉を飲み込んだ。
水を差すのは野暮だと思ったからだ。あるいは、そうであってほしいと、彼自身も願っていたからかもしれない。
「ま、今日のところは及第点をやるよ。……ジュース一本分くらいは楽しめた」
「マジ!? じゃあ次は焼肉奢ってくださいよ!」
「調子に乗るな。帰るぞ、ホームルームの時間だ」
背を向けて歩き出す楔。その背中を追いかけて、三人が騒がしく駆け寄ってくる。
夕焼けが、彼らの影を長く伸ばしていた。
三つの影と、それを見守る一つの影。
それが永遠に続けばいいと、心のどこかで思いながら、天土楔は目を細めた。
嵐が来るのは、まだ少し先の話だ。