スタジアムの空気は、熱狂から一種の殺伐としたものへと変質していた。
フィールドで行われているのは、第一回戦の最終カード、
無重力という、触れれば勝ちの個性を持つ麗日に対し、爆豪は一切の隙を見せず、接近を許さない徹底的な爆撃を繰り返していた。
麗日が低い姿勢で突っ込む。爆豪が反応し、その華奢な身体を爆風で吹き飛ばす。その光景があまりに一方的で、かつ残酷に見えたのだろう。観客席の一部から、ブーイングに似た声が上がり始めた。
「おいおい、可哀想だろ! 女の子相手に本気かよ!」
「とっとと場外に出してやれよ!」
無責任な野次がスタジアムを包む。実況席の
彼は手元のマイクスイッチが入っていないことを確認してから、吐き捨てるように呟いた。
「目が腐ってるな。どいつもこいつも」
楔の視線の先では、爆豪が荒い息を吐きながら、微塵も油断していない構えを取っていた。
観客には、彼が弱者をいたぶっているように見えるかもしれない。だが、戦場を知る楔の目には全く逆の事実が映っていた。
爆豪は恐れているのだ。麗日お茶子という対戦相手が持つ、一撃必殺の可能性と、何度吹き飛ばされても折れない眼光を。
だからこそ、彼は手を抜かない。相手を対等な脅威、排除すべき敵として認識しているからこそ、最大火力を維持し続けている。
「相澤。お前が言いたいことは分かるが、俺が言う」
楔はマイクのスイッチを乱暴に入れた。
スピーカーを通し、冷え切った低音が会場の野次を切り裂く。
「おい、そこのプロヒーロー連中。野次を飛ばしてる暇があるなら帰れ」
会場が静まり返る。楔はモニターに映る爆豪の表情を指差し、淡々と続けた。
「ここまで上がってきた相手に、手加減や油断をするのがヒーローの嗜みだとでも思っているのか。相手の強さを認め、万が一の敗北すら警戒して全力で叩く。これ以上の敬意がどこにある」
その言葉は、爆豪の戦い方を肯定するだけでなく、麗日という挑戦者の格を保証するものだった。
直後、麗日が仕掛けていた流星群が降り注ぐ。爆豪が全方位への最大出力爆破でそれを迎撃し、決着がついた。
勝者、爆豪勝己。
倒れた麗日への称賛と、勝った爆豪への複雑な拍手が響く中、楔は静かにマイクを切った。
「嫌な役回りだ。だが、これで次の試合のハードルは上がったな」
楔は視線をフィールドの整備班へと向けた。
次は、第二回戦の第一試合。
事実上の決勝戦とも言えるカードだ。
楔はジャージのポケットから、予備の耳栓を取り出した。そして、隣に座る
「相澤。次の試合、俺は実況席を降りる」
「どういうことですか」
「ここじゃ遠すぎる。万が一、ガキどもが暴走した時、ここからじゃ間に合わん」
楔は立ち上がり、逃げるように、あるいは戦場へ赴くように解説席を後にした。
彼が向かったのは、フィールドを囲むコンクリート壁の最前列、審判の
薄暗い通路を抜け、太陽が照りつけるフィールドサイドへ出ると、そこにはコンクリートの柱に腰掛けた
彼は楔の姿を認めると、その四角い瞳を僅かに丸くした。
「天土先生? 解説席にいたはずでは」
「席替えだ。上は空気が悪くてな。それに、ここなら喫煙所代わりの休憩もできる」
楔は特売茶のボトルを揺らしてみせたが、その目は笑っていなかった。
セメントスはプロだ。楔がただのサボりで最前列に来るような男ではないことを悟り、表情を引き締めた。
「次の試合、何か懸念でも?」
「不発弾と起爆剤がぶつかるんだ。火花だけじゃ済まんぞ」
「緑谷くんと轟くんですか。確かに、今の彼らは不安定ですが」
「石山先生。あんたの壁は頑丈だが、あくまで物理的な衝撃への防御だろ。もし、熱量そのものが壁を溶かすレベルだったらどうする」
「まさか。彼らはまだ一年生ですよ」
「そのまさかが起きるのが雄英だ。俺がここに来たのは、あんたの壁が破られた時の保険だと思ってくれ」
楔はコンクリートの壁に手を当て、指先から微弱な振動を流して地盤の硬度を確認した。
彼の直感が、サイレンのように警鐘を鳴らしていた。
轟という歪な器と、緑谷という規格外の力。二つが接触すれば、それは試合ではなく、災害になる。
試合開始のホイッスルは、導火線に火を点ける音に等しかった。
開始早々、轟が放った巨大な氷塊。緑谷はそれを、指一本を犠牲にしたデコピンの風圧だけで粉砕した。
衝撃波がスタジアムを揺らし、冷たい霧が視界を遮る。
フィールドの最前列で、楔は壁越しの振動を感知していた。
ひどい揺れだ。緑谷は攻撃のたびに自らの指をへし折り、轟は氷結の反動で体温を低下させていく。
消耗戦。だが、その中身は物理的な殴り合いを超えた、魂の削り合いだった。
「いつまで逃げているんだ、轟」
楔は、氷の陰から攻撃を続ける轟を見つめ、独り言ちた。
轟の動きは鈍り始めている。自身の冷気によって身体機能が低下し、反応速度が落ちているのだ。
解決策は簡単だ。左側の炎を使い、体温を調整すればいい。だが、彼はそれを頑なに拒否し、凍えていく身体を憎悪だけで動かしている。
そんな轟に対し、緑谷が叫んだ。腫れ上がった右手を握りしめ、ボロボロになりながら、それでも相手の深層へ踏み込もうとする叫び。
「君の! 力じゃないか!!」
その言葉が、凍りついた少年の時間を溶かした。
楔の目には、轟の周囲の空気が揺らぐのが見えた。
過去の記憶。母の言葉。父への憎悪。それら全てが、緑谷の一撃によって砕かれ、内側から溢れ出した原初の熱。
轟の左半身から、猛烈な炎が噴き上がった。
スタジアム内の気温が一気に上昇し、先ほどまでの冷気が熱風へと変わる。氷が溶け、水蒸気爆発に近い膨張が起きる。
「使いやがったか」
楔は舌打ちをした。
それは安堵ではない。恐怖でもない。管理責任者としての、最大級の警戒だ。
冷え切った空気が、急激に熱せられればどうなるか。膨張した空気は行き場を失い、爆発的な衝撃波となって周囲を破壊する。ましてや、緑谷もまた、残った力を振り絞って全力の一撃を放とうとしている。
衝突すれば、スタジアムが吹き飛ぶ。観客席への被害は免れない。
「石山先生ッ!!」
楔の鋭い声に、セメントスが即座に反応した。
彼が地面に手をつき、フィールドのコンクリートを隆起させ、巨大な防壁を数枚重ねて展開する。
だが、楔の演算は弾き出した。
足りない。
あの二人のエネルギー量は、コンクリートの壁程度では相殺しきれない。衝撃は壁を突き破り、破片となって観客席に降り注ぐだろう。
「仕方ない、サービス残業だ」
楔の瞳が、僅かに冷たく光った。
個性『
彼がイメージしたのは、壁ではない。爆風と衝撃を物理的に偏向させ、受け流すための装甲だ。
セメントスが作り出した壁のさらに外側、観客席との境界線にある地面から、黒光りする鋼鉄の板が数千枚、一斉に飛び出した。
それは魚の鱗のように重なり合い、巨大なドーム状の「反応装甲《リアクティブ・アーマー》」を形成する。
戦車の装甲にも使われる複合素材を、大地の成分から瞬時に精製し、再構築したのだ。
その動作に、焦りはない。あくびを噛み殺すような手つきで、彼は数万人の命を守る盾を完成させた。
直後。
緑谷の拳と轟の膨張熱が衝突した。
視界が白に染まる。
音すら置き去りにする衝撃波が、フィールド中央で炸裂した。
セメントスの壁が紙細工のように粉砕される。爆風は猛獣のように暴れ狂い、観客席へと牙を剥く。
だが、その牙は、楔が展開した黒鉄の鱗によって、いとも容易く弾かれた。
金属が軋む音すらしない。完璧な角度で配置された装甲板は、熱と衝撃を空へと逃がし、観客には微風程度の余波しか与えなかった。
隣でセメントスが唖然とする気配がする。
土を操るとは聞いていたが、ここまでの強度と精度、そして展開速度を持つとは予想していなかったのだろう。
「天土先生……今のは」
「ただの地盤補強だ。あんたの壁が頑丈で助かったよ、石山先生」
楔は、ポケットから出した煎餅をバリと齧った。
その顔に疲労の色はない。脳無を無傷で完封した男にとって、生徒の放つ全力など、少し風が強い日の窓閉め作業と大差ない。
やがて、白い光が収束し、土煙が晴れていく。
スタジアムは半壊していた。
しかし、観客席は無傷だった。最前列の客たちは、目の前に現れた謎の黒い装甲板に守られ、何が起きたのか理解できずに呆然としている。
フィールドの中央には、二人の少年が倒れていた。
一人は壁に叩きつけられ、意識を失っている緑谷出久。
もう一人は、場内に踏み止まったものの、力を使い果たして膝をつく轟焦凍。
「勝者、轟くん!」
ミッドナイトの声が、静寂を破る。
その瞬間、楔は展開していた数千枚の装甲板を、砂のように崩壊させて大地へと還した。
証拠隠滅。
観客たちが我に返る頃には、そこには最初から何もなかったかのように、ただの荒れた地面だけが残されていた。
「ったく。派手に散らかしやがって」
楔はジャージの埃を払った。
遠くの観客席で、エンデヴァーが仁王立ちしているのが見えた。
その表情は、息子が炎を使ったことへの歓喜に歪んでいるようにも見えた。
楔はそれを横目で見ながら、誰にも聞こえない声で毒づいた。
「喜ぶのはまだ早いぞ、三流親父。あいつが炎を使ったのは、お前のためじゃない。緑谷という、馬鹿な友人のためだ」
轟の顔には、迷いが晴れたような、しかしまだ戸惑いを残したような複雑な色が浮かんでいる。
その表情は、以前のような冷たい能面ではなかった。火傷痕のある左側も含めて、一人の人間としての体温を取り戻している。
楔は重い腰を上げ、よろめきながら通路へと向かった。
緑谷は重傷だ。すぐにリカバリーガールの元へ運ばれるだろう。轟もまた、精神的なケアが必要になる。
祭りはまだ続くが、楔の中での体育祭は、この瞬間に終わったようなものだった。
「残業代、たっぷり請求してやるからな。根津校長」
コンクリートの隙間から、名もなき雑草が風に揺れている。
彼が守った大地の上で、少年たちの物語は、新たな熱を帯びて続いていく。