天土楔の憂鬱な教職日誌   作:金属粘性生命体

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殺人事件、所謂因縁
停滞前線、あるいは地理室の憂鬱


 

 雄英体育祭という非日常の熱狂が去り、季節は初夏へと向かう準備を始めていた。

 窓から差し込む日差しは穏やかだが、1年A組の教室には、気だるげな空気と、チョークが黒板を叩く乾燥した音だけが支配している。

 一時間目、地理。

 担当教師、天土(あまつち)(クサビ)

 彼は教卓に片肘をつき、もう片方の手で特売の緑茶(二リットル)のボトルを弄びながら、死んだ魚のような目で生徒たちを見渡した。

 

「いいか。教科書の二三ページを開け。今日は都市災害における市街地戦闘と、路地裏の危険性について話す」

 

 楔の声は平坦で、抑揚がない。

 生徒たちの多くは、先日の指名発表やコードネーム決定の興奮を引きずっており、この地味な座学に集中しきれていない様子だ。

 上鳴(かみなり)電気(でんき)が欠伸を噛み殺し、芦戸(あしど)三奈(みな)がペン回しに興じている。

 だが、楔はそれを叱責することなく、淡々と黒板に都市部の密集地帯を示す地図を描き始めた。その線は定規を使ったかのように正確で、無駄がない。

 

「ヒーロー活動において、地形の把握は生存率に直結する。特に日本の都市部は、無秩序な開発によって生まれた迷路のような路地裏が血管のように張り巡らされている。お前らが大好きな派手な個性は、ここでは命取りになると思え」

 

 楔の言葉に、最前列の爆豪(ばくごう)勝己(かつき)がピクリと眉を動かした。

 彼は不服そうに頬杖をつき、鋭い視線を教師に向ける。

 

「あァ? 狭いなら広げりゃいいだけだろ。邪魔な壁は吹き飛ばす。それが一番早ぇ」

「爆豪。お前は解体業者になりたいのか? それともテロリストか?」

 

 楔はチョークを置き、爆豪を見下ろした。

 その瞳には、教育者としての厳しさと、現場を知るプロの冷徹さが混在している。

 

「密集地帯での爆破は、建物の倒壊、粉塵爆発、そして避難経路の遮断を引き起こす。さらに言えば、路地裏というのは視界が悪い。敵が角の向こうで待ち伏せしていても気づかない。お前が壁を吹き飛ばしている間に、ナイフを持った敵に懐に入られれば、その自慢の掌が光る前に頸動脈を切られて終わりだ」

 

 教室が静まり返る。

 爆豪が言葉に詰まり、舌打ちをして視線を逸らす。楔は特売茶を一口啜り、言葉を継いだ。

 

「広いスタジアムでの一対一とは訳が違う。これからお前らが行く現場は、不衛生で、狭苦しく、逃げ場のない泥沼だ。そこで一番強いのは、火力が高い奴じゃない。地形を味方につけ、状況を冷静に判断できる奴だ。以上、ここテストに出すぞ」

 

 生徒たちが慌ててノートを取り始める。

 緑谷(みどりや)出久(いずく)は、猛烈な勢いで楔の言葉を書き留めていた。彼のノートには、楔が語った「閉所戦闘のリスク」や「死角の管理」といった項目がびっしりと埋まっている。

 楔はその様子を横目で見ながら、心の中で溜息をついた。

 真面目なのはいいことだが、知識を詰め込みすぎて動きが鈍るのも考えものだ。特に、これから彼が向かう職場は、考えるよりも先に身体を動かすことを強いる場所なのだから。

 チャイムが鳴る。

 楔は教科書を閉じ、逃げるように教室を出ようとした。

 

「あの、天土先生!」

 

 呼び止める声があった。

 麗日(うららか)お茶子(ちゃこ)だ。彼女は小走りで教卓に駆け寄ると、真剣な眼差しで楔を見上げた。

 

「職場体験のことで、少し相談が……」

「進路指導なら相澤に聞け。俺は今から職員室で煎餅の在庫管理をしなきゃならん」

「そ、そんなこと言わずに! 私、ガンヘッドさんの事務所から指名を頂いたんですけど、天土先生から見てどう思いますか? 先生、格闘戦も強いって聞いたんで」

 

 ガンヘッド。武闘派のプロヒーローだ。

 麗日の無重力という個性は、サポートや救助には向いているが、対人戦闘における決定打に欠ける。彼女は体育祭での爆豪戦を経て、自らの弱点を克服しようとしているのだろう。

 楔は足を止め、面倒そうに頭を掻いた。

 

「ガンヘッドか。あいつの格闘術は実戦的だ。個性を主軸にするのではなく、あくまで個性を体術の補助として使うスタイルは、お前には合っているかもしれん」

「本当ですか!」

「ただし、あいつのトレーニングは地獄だぞ。可愛い女子高生扱いなんて期待するな。爪が割れ、髪が泥にまみれる覚悟があるなら行け」

「はい! ありがとうございます!」

 

 麗日が明るく礼をして去っていく。

 その背中を見送りながら、楔は独り言ちた。

 

「泥にまみれる覚悟、か。平和なもんだ」

 

 彼は廊下を歩き出し、職員室へと向かった。

 すれ違う生徒たちが、彼を見て道を譲る。体育祭での解説や、USJでの噂が広まっているのか、以前のような地味な地理教師を見る目ではなく、どこか畏怖を含んだ視線が多い。

 有名になるのは商売上がったりだ。彼は目立たず、騒がず、定時で帰ってスーパーの半額惣菜を漁る生活を愛しているのだから。

 

 職員室に入ると、そこには意外な先客がいた。

 八木(やぎ)俊典(としのり)――オールマイトだ。彼は自身のデスクで、何やら分厚い封筒と格闘している。その背中からは、隠しきれない不安と、奇妙な高揚感が漂っていた。

 

「何をしている、八木。ラブレターの整理か」

「おや、天土くん。違うさ、緑谷少年の職場体験の手続きだよ。彼には、私の恩師の元へ行ってもらうことになってね」

 

 楔は自分のデスクに座り、引き出しから煎餅の袋を取り出しながら、眉をひそめた。

 

「恩師? ああ、あの爺さんか」

「知っているのかい? グラントリノを」

「現役時代に一度だけ、現場で一緒になったことがある。あの人の機動力は、ジェット機というよりは跳弾だ。制御不能の弾丸みたいな動きをする。緑谷の奴、生きて帰って来れるのか?」

 

 楔の言葉に、八木が顔を青ざめさせ、ガタガタと震え出した。

 

「わ、私も学生時代は、彼に随分と可愛がられたものさ。思い出しただけで古傷が」

「お前が震えるほどの指導か。緑谷も不憫だな」

 

 楔はバリと煎餅を噛み砕いた。

 だが、それは緑谷にとって必要な試練だ。彼が持つ「ワン・フォー・オール」という巨大すぎる力。それを制御し、自分のものにするためには、理論ではなく感覚で身体に叩き込む荒療治が必要なのだろう。

 楔は、自身の専門外である育成の領域には口を出さない。彼ができるのは、彼らが帰ってきた時に、その足場が崩れていないように学校を守ることだけだ。

 

 数日後。

 職場体験への出発の日。

 主要駅のホームには、コスチュームケースを手にした1年A組の生徒たちが集まっていた。彼らはそれぞれの行き先へ向かうため、期待と不安を胸に列車を待っている。

 引率の相澤が生徒たちに注意点を伝えている横で、楔は柱の陰に立ち、キオスクで買ったスポーツ新聞を読んでいた。

 だが、その視線は紙面ではなく、一人の生徒の背中に固定されていた。

 飯田(いいだ)天哉(てんや)

 彼は東京へ向かうはずの列ではなく、保須市方面へ向かう列に並んでいる。その表情は硬く、他の生徒との会話にも上の空だ。

 

「天土先生」

 

 声をかけられた。

 (とどろき)焦凍(しょうと)だ。彼は少し迷ったような表情で、楔の前に立った。

 

「なんだ。お前は親父の事務所に行くんじゃなかったのか」

「ああ。一度、自分の目で確かめてくる。ナンバー2の何が、あそこまで親父を突き動かしているのか。それに、先生が言った『土壌に合わない肥料』という言葉の意味も」

 

 楔は新聞を畳み、轟を見上げた。

 体育祭の時とは違う、憑き物が落ちたような、しかし新たな決意を秘めた瞳。少なくとも、自滅的な危うさは消えている。

 

「俺は地理の話をしただけだ。深読みするな。だが、肥料の種類を変えるだけで、腐りかけた根が蘇ることもある。行ってこい」

「ありがとうございます」

 

 轟が一礼して去っていく。

 入れ替わるように、出発のアナウンスが流れた。

 飯田が、誰とも目を合わせずに列車に乗り込もうとする。

 楔はため息をつき、手元の新聞をゴミ箱に放り込んだ。

 教師として、止めるべきか。だが、今の飯田に正論をぶつけたところで、彼の耳には届かないだろう。復讐という熱病は、一度罹れば燃え尽きるまで治らない。

 楔は歩き出し、飯田の背後に近づいた。そして、すれ違いざまに、彼の肩を軽く叩いた。

 

「天土先生……」

「土産はいらんぞ。その代わり、生きて帰ってこい。委員長不在じゃ、ホームルームが締まらんのでな」

 

 それだけ言い残し、楔は足早に去っていった。

 飯田はその背中を数秒見つめていたが、やがて深く一礼し、列車へと乗り込んだ。

 扉が閉まる。生徒たちを乗せた列車が、それぞれの運命へと走り出す。

 ホームに残された楔は、ポケットから携帯端末を取り出した。画面には、最近のヴィラン出現データが表示されている。

 保須市。

 ヒーロー殺しステインの出没が噂される街。

 

「行っちまったか」

 

 楔は空を見上げた。

 これで賽は投げられた。あとは彼らが現場で何を学び、どう生き残るかだ。

 彼自身もまた、教師としての日常に戻らなければならない。だが、その胸中には拭い去れない不安が澱のように溜まっていた。

 

       *

 

 それからの数日間、雄英高校は静寂に包まれていた。

 1年生が不在の校舎は広く感じる。

 楔はいつも通り地理準備室で、特売の煎餅を齧りながら書類仕事に追われていた。

 だが、その手は時折止まり、視線は無意識のうちに壁の時計や、ニュースサイトへと向けられていた。

 

「……平和だな」

 

 窓の外、グラウンドでは他の学年が体育の授業を行っている。

 平和だ。あまりに平和すぎて、逆に不気味なほどだ。

 飯田からの連絡はない。緑谷や轟からもだ。

 便りがないのは無事な証拠と言うが、今回の場合は違う。彼らが直面しているのは、連絡すら許さない過酷な現場か、あるいは自ら連絡を絶ち、闇へと潜り込んでいるかのどちらかだ。

 

「湿気てんな、この煎餅」

 

 楔は食べかけの煎餅を袋に戻した。

 胸騒ぎがする。

 長年、戦場と日常の境界線を歩いてきた彼の勘が、遠く離れた街で何かが弾けようとしているのを告げている。

 保須市。

 かつて栄えたその街は今、路地裏に悪意を孕み、未熟なヒーローたちを飲み込もうと口を開けている。

 

「……準備だけはしておくか」

 

 楔は引き出しから、自身のヒーローコスチュームである「防刃仕様のロングコート」と、特殊な形状の「手袋」を取り出した。

 教師としての時間は終わりが近い。

 もし、生徒たちが限界を超えて助けを求めた時、即座に駆けつけられるように。あるいは、最悪の報告を受けた時に、すぐに動けるように。

 天土(あまつち)(クサビ)は、誰もいない準備室で、静かに牙を研ぎ始めていた。

 嵐の前の静寂。

 その静けさが破られるのは、もう間もなくのことだった。

 

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