保須市の夜は、唐突な破滅によって塗り替えられた。
繁華街の喧騒は悲鳴へと変わり、ネオンの明滅は燃え盛る炎の赤に飲み込まれている。
爆発音と建物が崩落する振動が、絶え間なくアスファルトを揺らしていた。
街を蹂躙しているのは、理性を剥奪された異形の怪物たち、脳無。
逃げ惑う群衆。
必死に応戦するプロヒーローたち。
だが、脳無の圧倒的な膂力と再生能力の前に、戦線は崩壊寸前だった。
特に、駅前広場で暴れる黒い肌の巨体は、駆けつけたヒーローを紙屑のように薙ぎ払い、自動車を玩具のように投げ飛ばしている。
「くそっ、なんだコイツは! 打撃が通じないぞ!」
「市民の避難が先だ! 奴を市街地から引き剥がせ!」
ヒーローたちの怒号が飛び交う。
だが、怪物は止まらない。その虚ろな瞳が、逃げ遅れた女性を捉え、丸太のような腕を振り上げた瞬間。
夜気を切り裂く鋭利な風切り音と共に、怪物の身体が真横に吹き飛んだ。
物理的な衝撃ではない。
それは、アスファルトの地面から突如として隆起した、巨大な鋼鉄の杭による刺突だった。
道路そのものが槍となり、脳無の脇腹を貫き、そのまま後方のビル壁面へと縫い付けたのだ。
「……市街地で暴れるな。清掃が面倒だろうが」
燃え盛る炎の照り返しの中、一人の男がポケットに手を突っ込んだまま歩いてくる。
ヨレヨレのジャージに、防刃仕様のロングコートを羽織ったその姿。
彼は縫い付けられた脳無を一瞥もしないまま、呆然とするヒーローたちに視線を向けた。
「おい、そこのプロ連中。避難誘導はどうした。民間人がまだ残っているぞ」
「あ、あなたは雄英の……! なぜここに!?」
「ただの通りすがりだ。と言いたいところだが、虫の居所が悪くてな」
楔は嘘をついた。
通りすがりではない。彼は胸騒ぎに従い、夕方の列車でこの街に来ていたのだ。
そして、その予感は最悪の形で的中した。
壁に縫い付けられた脳無が、咆哮と共に杭をへし折り、再生を始める。
知性のない獣。痛みを知らない生体兵器。
楔はため息をつき、懐から愛用の特売茶を取り出した。キャップを開け、一口含む。
その動作は、戦場とは思えないほど緩慢で、日常的だった。
「……再生持ちか。USJの時と同じタイプだな。だが、ショック吸収がないだけマシか」
脳無が楔に向かって突進してくる。
その速度は自動車をも凌ぐ。
だが、楔は動かない。
彼が右足を軽く地面に踏み鳴らした瞬間、彼を中心とした半径五十メートルの道路が一斉に波打った。
アスファルトの成分が瞬時に分解、再構築され、無数の銃口となって脳無を取り囲む。
「蜂の巣にしてやる。ミンチになるまで踊ってろ」
楔の指先が指揮者のように振られる。
地面から生えた数十門の重機関銃が、一斉に火を噴いた。
乾いた破砕音の連鎖。
毎分三千発の金属暴風が、脳無の肉体を削り取っていく。
再生する端から吹き飛ばし、前進する運動エネルギーを物理的な弾幕で相殺する。
それは戦闘ではない。一方的な処理作業だ。
周囲のヒーローたちが息を呑む中、楔は冷徹に弾道をコントロールし、周囲の建物への被害を最小限に抑えつつ、怪物を肉塊へと変えていく。
「……しぶといな」
楔は舌打ちをした。
脳無は肉体の半分を吹き飛ばされながらも、なおも楔に手を伸ばそうとしている。
楔は弾幕を維持したまま、左手を地面にかざした。
今度は、より重く、硬質な質量が生成される。
対戦車用徹甲弾。
それを射出するための、長大な砲身を持つライフルが彼の手元に出現する。
「消し飛べ」
引き金が引かれる。
轟音。
脳無の上半身が消滅した。
再生核ごと粉砕された怪物は、糸が切れた人形のように崩れ落ち、動かなくなる。
楔は生成した武器を砂へと還元し、コートの襟を直した。
「……さて。雑魚掃除は終わりだ」
彼は周囲を見渡した。
街は混乱の極みにある。他にも複数の脳無が暴れているようだ。
だが、楔の目的はそれだけではない。
彼は近くにいた、特徴的なヘルメットを被ったヒーローを見つけ、歩み寄った。
ノーマルヒーロー、マニュアル。
マニュアルは、消火活動と避難誘導に追われ、疲労困憊の様子だった。
「おい、マニュアル。……俺の生徒はどうした」
楔の低い声に、マニュアルがビクリと肩を震わせた。
彼は楔の顔を見ると、顔面を蒼白にして唇を震わせた。
「アーセナル……。そ、それが、飯田くんが……現場から離れてしまって……」
「離れた? この緊急時にか」
「パトロール中に突然走り出して……制止も聞かずに路地裏の方へ……」
その言葉を聞いた瞬間、楔の瞳から感情が消えた。
代わりに宿ったのは、絶対零度の殺気だ。
マニュアルが思わず後ずさるほどのプレッシャーが、楔の全身から立ち上る。
「……あの大馬鹿野郎が」
楔は吐き捨てた。
やはりだ。
飯田は最初から、研修などする気はなかった。
この街に潜む兄の仇、ステインを探し出し、復讐することだけを考えていたのだ。
そして今、脳無騒ぎという混乱に乗じて、彼は単独で死地へ飛び込んだ。
「場所は。……あいつが消えたのはどの方角だ」
「え、えっと、あっちの、昭和通りから路地に入ったあたりで……」
マニュアルが指差した方向は、人気のない暗がりが続く旧市街エリアだ。
ヒーロー殺しが獲物を狩るには絶好の狩り場。
楔はマニュアルに背を向けた。
「これ以上の被害拡大を防ぐため、お前らはここで脳無を抑えろ。……俺は馬鹿な迷子を連れ戻してくる」
「ま、待ってくれ! あそこは入り組んでいて……」
楔は返事をしなかった。
彼は地面に手を触れた。
アスファルトが波打ち、彼の足元で複雑な機構を組み上げる。
エンジン、タイヤ、フレーム。
数秒の後、そこには無骨で荒々しいフォルムの、軍用バイクのような二輪車が鎮座していた。
『
楔はそれに跨り、アクセルを回した。
マフラーから土煙を吐き出し、エンジンが猛獣のような咆哮を上げる。
「……間に合えよ、委員長。……俺が生徒の葬式に出るのは、もう御免なんだ」
楔はクラッチを繋いだ。
バイクが弾丸のように加速する。
彼は路地裏の狭い道を、壁面を走る勢いで駆け抜けていく。
その脳裏に浮かぶのは、かつて守れなかった教え子、
二つの映像が重なる。
それを振り払うように、楔はさらに速度を上げた。
保須の闇の奥深く。
袋小路となった路地裏では、既に絶望的な戦いが始まっていた。
地面に伏すプロヒーロー、ネイティブ。
肩を突き刺され、動けなくなった飯田天哉。
そして、その眼前に立つ、赤黒い布を纏った死神、ステイン。
「偽物は……粛清する」
ステインの刃が、飯田の喉元に向けられる。
飯田の目から涙が溢れる。恐怖ではない。何もできなかった自分への、そして兄の仇を討てなかった無念の涙だ。
刃が振り下ろされようとしたその時。
路地の入り口から、緑色の稲妻を纏った少年が飛び込んできた。
緑谷出久。
彼は渾身のパンチをステインに叩き込み、距離を取る。
「飯田くん! 助けに来たよ!」
「緑谷くん……! なんで……」
役者は揃いつつある。
だが、ステインの実力は、未熟な学生二人で太刀打ちできるものではない。
血の匂いが充満する路地裏に、更なる介入者――戦略級の教師が到着するまで、あと数分。
その数分が、彼らにとって永遠にも等しい地獄の時間となることを、まだ誰も知らない。
遠くでバイクの排気音が響いている。
それは地獄の底から響く、救済の鐘の音か、あるいは審判のラッパか。