天土楔の憂鬱な教職日誌   作:金属粘性生命体

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粛清の代償、あるいは泥塗れの隠蔽工作

 

 

 保須総合病院の待合室は、消毒液の冷たい臭いと、行き場のない沈黙に支配されていた。

 窓の外では夜が明けようとしており、群青色の空が白み始めているが、この街が負った傷跡は朝の光ごときでは癒やされそうにない。

 救急車のサイレンは止み、代わりにパトカーの巡回する音が、遠い潮騒のように断続的に響いている。

 

 天土(あまつち)(クサビ)は、待合室の硬いプラスチックベンチに深く沈み込んでいた。

 防刃コートは埃と煤で汚れ、彼自身もまた、長時間の「残業」による疲労をその身に纏っている。

 手元には、自動販売機で購入した温かいお茶のペットボトル。だが、蓋を開ける気力さえ湧かないのか、彼はただボトルを弄びながら、白い天井の染みを無心で眺めていた。

 

「……終わったか、取調べは」

 

 通路の奥から、小柄な老人が歩いてくるのを認め、楔は視線だけを動かした。

 グラントリノ(酉野空彦)

 かつての英雄の師であり、今回の一件で緑谷(みどりや)出久(いずく)を連れ回していた古強者だ。

 老人は杖をつきながら、しかし年齢を感じさせない足取りで楔の隣に腰を下ろした。

 

「ああ。緑谷の奴、散々絞られて青くなっとるわ。……しかし、お前さんが来てくれなんだら、ワシらが到着する頃には手遅れだったかもしれん。礼を言うぞ、アーセナル」

「……礼には及びませんよ、御大。俺はただ、自分の担任クラスから葬式を出すのが嫌だっただけです。……それに、ステインの確保はあんたやエンデヴァーの手柄だ。俺の名前は報告書から消しておいてください」

 

 楔は淡々と返した。

 彼が望むのは名声ではない。平穏な日常と、これ以上の面倒事の回避だ。

 ステインを制圧したのが一介の教師であるという事実は、世間的にも警察的にも都合が悪い。

 グラントリノは面白そうに髭を揺らし、フンと鼻を鳴らした。

 

「相変わらず欲のない男だ。……だが、そうも言ってられんぞ。警察署長がお見えだ」

 

 自動ドアが開き、数人の護衛を連れた大柄な男が入ってくる。

 犬の顔をした異形の警官。保須警察署長、面構(つらがまえ)犬嗣(けんじ)だ。

 その表情は厳めしく、法を司る番人としての威厳に満ちている。

 楔は億劫そうに腰を上げ、軽く会釈をした。

 

「……わざわざ署長直々にお越しとは。保須の警察は暇なんですか」

「皮肉はよせ、天土くん。……今回の件、事態は深刻だワン」

 

 署長は語尾に独特の癖を残しながらも、その目は笑っていなかった。

 彼は処置室から出てきた緑谷、飯田(いいだ)天哉(てんや)(とどろき)焦凍(しょうと)の三人が揃うのを待ち、彼らの前に立った。

 さらに、彼らの保護者代わりであるグラントリノ、マニュアル、そして楔がその後ろに控える。

 

「君たちがヒーロー殺しステインを捕らえたことは、事実として称賛に値する。……だが」

 

 署長の声が低くなる。

 

「未資格者の個性使用は、法により厳しく制限されている。いかなる理由があろうとも、プロの指示なき戦闘行為、およびヴィランへの傷害は、重大な法規違反だ。……本来であれば、君たち、そして監督責任者であるプロヒーローたちも、厳しい処罰を免れないワン」

 

 その言葉に、生徒たちの顔色が蒼白になる。

 特に飯田は、自分の復讐心が招いた結果が、友人や恩師たちまで巻き込む事態になったことに、唇を噛み締めて俯いた。

 轟が一歩前に出る。その瞳には、納得できないという反発の色が宿っていた。

 

「……あの場で何もしなければ、ネイティブさんも飯田も殺されていました。……結果オーライでは済まされないにしても、人が死ぬのを指を咥えて見ていろと言うんですか」

「轟」

 

 楔が短く名を呼び、轟を制した。

 楔は署長の前に進み出ると、ポケットに手を突っ込んだまま、冷徹な視線を犬の顔に向けた。

 

「……署長。正論は結構ですが、現場は会議室じゃない。……彼らが動かなければ、確実に二名のプロヒーローと一名の学生が死亡していました。……法を守って死体が増えるのと、法を破って命が助かるの。警察としての優先順位はどちらですか」

 

 挑発的な言葉。

 マニュアルが慌てて楔を止めようとするが、署長は静かに首を振った。

 

「……だからこそだ。……これはあくまで、公としての建前の話だワン」

 

 署長は表情を崩し、少しだけ困ったような、それでいて人間味のある顔を見せた。

 

「この事件をありのまま公表すれば、彼らは法に照らして処罰され、その将来に傷がつく。……だが、もしこの一件を、現場に駆けつけたエンデヴァーたちが解決したこととするならば」

 

 隠蔽。

 あるいは、大人の都合による改竄。

 ステインの火傷痕や拘束痕から、炎や氷、そして楔の武器生成による攻撃があったことは明白だ。

 だが、それを全て「エンデヴァーの炎」によるものとして処理すれば、生徒たちの違反行為は「避難中の自己防衛」程度に留められ、不問に付される。

 その代わり、彼らが命がけで得た勝利の栄誉は、全てエンデヴァーのものとなる。

 

「……君たちの功績は闇に葬られることになる。……だが、君たちの未来は守られる。……どちらを選ぶかは、君たち次第だワン」

 

 究極の二択。

 名誉ある処罰か、不名誉な隠蔽か。

 生徒たちは顔を見合わせた。

 迷う余地などなかった。彼らが戦ったのは名声のためではない。友を、そして人々を守るためだ。

 

「……お願いします。……僕たちのことより、全てを丸く収めていただけるなら」

 

 飯田が深々と頭を下げた。

 緑谷と轟もそれに続く。

 署長は満足そうに頷き、そして一転して姿勢を正すと、生徒たちに向かって深く敬礼をした。

 

「……君たちの勇気に、一人の人間として感謝する。……ありがとう」

 

 その敬礼は、法の番人としてではなく、この街を守る大人としての最大の敬意だった。

 楔はその様子を見届け、ようやく肩の力を抜いた。

 泥を被るのは大人の仕事だ。子供たちが綺麗なままでいられるなら、嘘の報告書の一枚や二枚、いくらでも書いてやる。

 

「……さて。説教はこれで終わりですか、署長」

 

 楔は署長に背を向け、生徒たちの方へ向き直った。

 彼の目は、先ほどまでの穏やかなものから、教育者としての厳しい光に戻っていた。

 

「……よかったな、お前ら。首の皮一枚で繋がったぞ」

 

 楔は飯田の前に立ち、その左腕に巻かれた包帯を指差した。

 

「……腕の具合はどうだ」

「……神経まで損傷しているそうです。……後遺症が残るかもしれないと」

 

 飯田の声は震えていた。

 左腕の痺れ。それは一生、彼が背負うことになる戒めの痛みだ。

 楔は表情を変えず、淡々と告げた。

 

「……いい薬だ。その痛みを忘れるな。……兄の仇を討てなかった無念も、自分の未熟さが招いた結果も、全てその腕に刻んでおけ。……それが、お前がこれから『インゲニウム』を名乗るための資格になる」

 

 慰めではない。

 事実を突きつけ、それを糧にしろという、最も厳しい激励。

 飯田は涙を拭い、力強く頷いた。

 

「……はい! 肝に銘じます!」

 

 次に、楔は緑谷と轟を見た。

 二人は比較的軽傷だが、それでも全身打撲と切り傷だらけだ。

 

「緑谷、轟。……お前らもだ。許可なき戦闘、および現場への独断侵入。……学校に戻ったら、反省文用紙を束で用意しておくから覚悟しておけ。文字数無制限だ」

「ええっ!?」

「……望むところだ。……書くべきことは山ほどある」

 

 緑谷が悲鳴を上げ、轟が真面目腐った顔で答える。

 そのやり取りを見て、楔はようやく口元を僅かに緩めた。

 生きて帰ってきた。

 それだけで十分だ。教育とは、生きていてこそ意味を成すのだから。

 

       *

 

 翌日。

 ニュースは「ヒーロー殺し逮捕」の話題で持ちきりだった。

 報道によれば、エンデヴァーを中心としたプロヒーローたちが、保須市で暴れる脳無を鎮圧し、さらに路地裏でステインを発見、確保したとなっている。

 生徒たちの名前は一切出ていない。

 楔の名前もだ。

 

 だが、その裏で、もう一つの「情報」がネットの海を駆け巡っていた。

 ステインが確保される直前、何者かによって撮影された動画。

 そこには、血にまみれながらも、偽物のヒーロー社会を糾弾し、本物(オールマイト)のみが自分を殺せると叫ぶステインの鬼気迫る姿が映っていた。

 そのカリスマ性。歪んだ信念。

 それは瞬く間に拡散され、社会に不満を持つ者たちの心に火を点け始めていた。

 

 帰りの新幹線の中。

 楔は窓側の席で、タブレット端末に流れるその動画を見ていた。

 隣の席では、全身包帯だらけの飯田が疲れ果てて眠っている。

 

「……厄介な遺言を残しやがって」

 

 楔は画面を消し、窓の外を流れる景色を眺めた。

 ステインは捕まった。だが、彼の思想というウイルスは、既にばら撒かれてしまった。

 これに呼応して、闇に潜む悪意たちが一斉に動き出すだろう。

 死柄木(しがらき)(とむら)率いるヴィラン連合。彼らはこの「ステインの意志」を利用し、勢力を拡大するに違いない。

 

「……忙しくなるな」

 

 楔は懐から、すっかり粉々になってしまった煎餅の欠片を取り出し、口に運んだ。

 塩気が足りない。

 これからの戦いは、今までのような突発的な襲撃ではなく、組織化された悪意との戦争になる。

 生徒たちは今回の経験で強くなった。

 だが、敵もまた進化する。

 

 楔は、眠る飯田の顔を一瞥した。

 その寝顔は、憑き物が落ちたように穏やかだ。

 だが、その左手は無意識のうちに強く握りしめられている。

 彼らはもう、ただ守られるだけの子供ではない。

 痛みを知り、挫折を知り、それでも泥の中を歩くことを選んだ、ヒーローの卵たちだ。

 

「……少しは頼もしくなったか。……だが、まだまだ青い」

 

 楔はシートを倒し、目を閉じた。

 学校に戻れば、また退屈な授業と、膨大な量の報告書作成が待っている。

 根津校長への言い訳、相澤への報告、そして保護者への対応。

 考えるだけで胃が痛くなるような業務の山。

 だが、不思議と気分は悪くなかった。

 少なくとも、彼が守るべき「席」は、一つも空くことなく埋まるのだから。

 

 新幹線がトンネルに入る。

 車内が一瞬の闇に包まれ、窓ガラスに楔の疲れた顔が反射する。

 その顔は、英雄のそれではなく、ただの心配性な教師の顔をしていた。

 トンネルを抜ければ、そこにはいつもの日常が待っているはずだ。

 だが、その日常が、嵐の前の静けさであることを、天土(あまつち)(クサビ)は誰よりも鋭敏に感じ取っていた。

 期末テスト。林間合宿。

 次なる試練の足音が、レールの継ぎ目を刻む音に紛れて、静かに近づいてきていた。

 

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